2012/03/08 - 2012/03/12
305位(同エリア1223件中)
prinprinさん
- prinprinさんTOP
- 旅行記82冊
- クチコミ126件
- Q&A回答40件
- 265,588アクセス
- フォロワー31人
出かけてくるのが遅かったので、
入館するのは【旧門司三井倶楽部】だけと決めていたのに、
ふぐ提灯に釣られて【旧大阪商船】に入ってしまったので、
アインシュタインの部屋が閉まるまでもう時間がありません。
郷土の歴史に興味を持った私は、あれやこれや調べ、旅行記はほとんど
私の備忘録と化しています。歴史好きの方は読んでみて下さい。
――――――――――――――――――――――――
その1、「アインシュタインの来日」
アインシュタインは1879年ドイツ生まれのユダヤ人。
改造社(出版社)の招待で来日したアインシュタイン(43歳)は、再婚した妻を連れ、1922年(大正12年)10月8日マルセイユを日本郵船「北野丸」で出港。
11月17日、神戸港に到着後、43日間日本に滞在しています。
日本到着の1週間前にノーベル物理学賞が発表され、その知らせを船上で受けていました。
ニュースは日本にも伝えられおり、「凱旋帰国のようだ」とか「命の危険を感じた」と言われるほど群衆が集まり、各地で熱烈な歓迎をうけました。
一般講演は、東京2回・仙台・名古屋・京都・大阪・神戸・福岡の計8回、
東大での専門家向け学術講義は、1時間半×6日行われ、
大学訪問・歓迎会・慰労会の他、講演の合間を縫って各地を観光し、能や歌舞伎も観賞しています。
12月23日、門司三井倶楽部に宿泊。
24日、福岡市で一般講演、慰労会の後、旅館に宿泊。
25日、九大理工学部訪問、博多見物。門司に移動して、門司YMCAのクリスマスパーティーに参加し、ヴァイオリンでアヴェ・マリアを演奏。
26日に離日の予定でしたが、船舶の都合で滞在が3日延びたため、
27日、関門海峡や下関市を見物し、
28日の送別会で、謡曲・義太夫・長唄・どじょうすくい等の返礼に、ヴァイオリンを3曲演奏。
12月29日、門司港より日本郵船「榛名丸」で出航。
来日の約10年後(1933年)、
政権を獲ったナチスのユダヤ人迫害が激しくなった為、アメリカへ移住。
1936年、妻死去。
1940年、アメリカ国籍を取得しています。
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩 スターフライヤー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
【旧大阪商船】を出て、
海側から、アインシュタインの部屋のある【旧門司三井倶楽部】へ向かいます。 -
道から、【関門連絡船のりば】が見えました。
門司港駅のすぐ海側です。
門司港桟橋(右)と、発券所(左)
唐戸桟橋は、しものせき水族館や旧英国領事館の近くだから、JR下関駅から行くより近いみたい。
門司港〜巌流島〜下関〜門司港の、「トライアングルパス」が、おもしろそうです。 -
国の重要文化財【旧門司三井倶楽部】
この山小屋風の建物に、アインシュタイン博士夫妻が宿泊した部屋が、当時の状態のまま保存されています。
門司三井倶楽部は、木造スレート葺、2階建て。
外壁は、(木や柱や梁など)骨組みを見せるハーフティンバー様式です。
大正10年(1921)三井物産の迎賓館&社交倶楽部として建てられ、
昭和24年、門鉄会館(国鉄社員の宿泊施設)となって、
38年間使われました。
昭和62年、旧国鉄の分割・民営化の時、整理対象になって国鉄精算事業団の所有となり、
平成2年、北九州市に無償譲渡されて、移築されました。
裏に隣接する日本家屋(管理人住宅)も、同時に移設されました。 -
アインシュタインは手紙好きで、有名になってからも1万通以上手紙をやり取りしたそうです。
2階に展示されている、アインシュタインから来た手紙を見たかったのですが、2階の公開は、終わっていました。ギリギリに入っても、ゆっくり見られなかったでしょうから、また来ます。(^_^;)
アインシュタインメモリアルルーム、大人100円。小・中学生50円
階段横の会議室?では、これから食事付きの会合が行われるようでした。 ここも雰囲気がありました。ロビーの奥は、お土産店です。 -
どうして私がアインシュタインにこだわるのか?
アインシュタインは、原子爆弾の開発に関わりがあったと聞いていました。
8月9日に長崎に投下された原爆の、第1標的は小倉だったんです。
小倉が曇っていて(前日の八幡大空襲の黒煙が残っていたらしい)目標地が目視できず、長崎へ向かったのです。 -
アインシュタインが舌を出している、有名な写真は、72歳の誕生日に、通信社のカメラマンに「笑ってください」と言われて危うく応えそうになってしまい、(人前ではめったに笑顔を見せなかったそうです)、とっさにそれを隠そうとした表情を撮ったものです。
その写真は、アインシュタイン本人もお気に入りで、9枚焼き増しを頼んで親しい人々に配ったり、ニューヨーク新聞写真家賞のグランプリを受賞し、切手にもなりました。
アインシュタインの、大きな鼻(ユダヤ人の特徴)・ボサボサの白髪頭に口髭という風貌は、「鉄腕アトム」のお茶の水博士以降、「名探偵コナン」の阿笠博士、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のブラウン博士など、多くの博士像のモデルになりました。 -
←旧門司三井倶楽部の向いが、【門司港】
その2、「アインシュタインと原子爆弾」
戦争当時アメリカには、たくさんのユダヤ人がナチスから逃れてきました。
1939年、「急がなければ、ナチスドイツが核爆弾を開発して、世界中の国々を破壊してしまうかもしれない」と懸念したシラード(ユダヤ人物理学者)は、アメリカ政府にドイツの核開発の危険性を訴えましたが、亡命者の意見は取り合ってもらえませんでした。
それで親しかった科学者の中で、最も知名度の高かったアインシュタイ(60歳、ユダヤ人)に、原子爆弾を作ることを勧める手紙に署名してもらい、ルーズベルト大統領に訴えました。
これが後には、米国・英国・カナダから1万人の物理学者を集めた「マンハッタン計画」につながり、原子爆弾は、ユダヤ人科学者達によって開発されました。
アインシュタインは手紙に署名したものの、過去の平和主義から機密を守れない可能性があるとして協力を求められず、海軍省兵器局の顧問になって、魚雷の起爆装置の改善をしています。 -
(つづき)
1945年7月、砂漠で世界初の核実験が成功した時には、ドイツはすでに無条件降伏(5月)しており、
シラードら原爆を開発したユダヤ人科学者達は、原爆の実践使用を反対していましたが、
ソ連の対日参戦より前に、原爆を日本に投下して、
(ヤルタ会談で、ソ連はドイツの降伏から3ヵ月以内に日本に参戦する
事を極秘に決めていた。日本の諜報部はこの密約を知って日本に
知らせたが、軍は握りつぶしたようだ。)
戦後、ソ連が欧州で台頭し、アジアに南下する事を阻止したかったトルーマン大統領は、核実験成功(原爆完成)の3週間後には、日本への原爆投下を強行しました。(他にも、莫大な原爆開発費用を正当化し、実践実験したかった。)
原爆投下後、アインシュタイン(66歳)は手紙に署名したことを生涯の最大の過ちとして、その後の人生を平和のために捧げました。 →76歳死去 -
【門司港駅】
明治22年(1889)まず門司港が開港。
明治24年(1891)待望の門司駅が建てられましたが、
大正3年(1914)200mほど港寄りに移し、現在の場所に建て替えられました。
今では九州で最も古い木造の駅舎で、1988年(昭和63年)鉄道の駅舎としては初めて国の重要文化財に指定されました。
イタリアのテルミニ駅をモデルにしたと言われる、ネオ・ルネッサンス様式の木造2階建で、左右の形が対照的なのが特徴です。
中央部に三角切妻、両翼に何層もの腰折屋根と屋根窓があります。
TV番組や映画で、よく登場しますよね。ほんの短いシーンでも、アッ門司港駅!ってすぐわかります。
暗くなる前に、もう1軒行きたいのでさっさと移動 -
【関門海峡ミュージアム】(海峡ドラマシップ)
海峡にまつわる歴史を、人形作りの名匠たちが再現した、3階の「海峡歴史回廊」 (私は大好き!)
関門海峡の航行をシミュレーション体験できる、4階の「リアルタイム関門海峡」
大正時代の街並みを再現した、1〜2階の「海峡レトロ通り」
年齢を問わず楽しめます。 -
海峡ドラマシップの向かいは、【旧大連航路上屋】なのですが、工事中なのかフェンスが張られていました。
外国航路があった頃、ここまでが陸地で、
海峡ドラマシップのある所は、1984年(昭和54年)から埋め立てが始まったそうです。
(フェンスに貼っていた説明板を読む時間が無かったので、デジカメで撮ってきてパソコンで拡大して読みました。) -
その3−1、フェンスに貼られていた「1号上屋のひとりごと」
ああ、やっと私の前に立ち止まってくださった。
ここが「旧大連航路待合室」だなんて、知る人も少なくなったからなあ。 昭和4年生まれだもの、私も年をとりましたよ。
でも玄関を見てごらん、アール・デコ様式でモダンでしょう?
半円形の旧監視室の上部の字は海側が「階上待合室」、山側が「階下旅具検査場」と右から書かれていて歴史を感じませんか?
モダンを好んだ当時流行の書体でね私の自慢なんだ。
そうそう二階のデッキは100mもあって、乗船する人々で賑わったものです。
門司港駅と同じように、「みかど食堂」や「特別待合室」もあったなあ。
門司港が大陸航路の玄関として一番輝いていたころだね。
岸壁には大型客船がずらりと接岸した様子はそりゃあ壮観だった。
乗客も国際色豊かで、ハイカラなモボやモガの姿が今も目に浮かぶようだよ。
見送りのテープがカーテンのようにたなびいて、皆さんにも見せたかったなあ。
けれど戦時下は辛かった。
ここからたくさんの兵隊や軍馬が出征していくのを見送りましたよ。
太平洋戦争の末期、米軍は重要な輸送基地である関門海峡に機雷を投下して港の機能を奪ったんだ。
機雷に触れて沈没した船のマストが林立して、海峡はまるで船の墓場のようだったよ。
機雷の掃海作業が完了して安全宣言が出たのが1949年(昭和24年)。
港は朝鮮戦争の軍需景気で復活したけれど、皮肉なものだね、私は米軍に接収されて1972年(昭和47年)に返還されるまでは、門司港の復興と当時の小学生の見学だけは慰めだった。
長い間ここに佇み、港の移り変わりを眺めて来たけれど、美しい夕焼けや潮流は昔のままだよ。
やはり関門海峡の眺めはいいねえ。
皆さんが楽しんでいらっしゃる姿を見ていると心が和みますよ。 ほっとしたくなったら、また門司港にいらっしゃい。 -
その3−2、「門司港西海岸物語」
明治時代、既に韓国の釜山、台湾の基隆、中国大陸の天津、大連航路が開設されていましたが、1921年(大正10年)欧州航路や中国の上海航路が開設され、国際港「ポート・モジ」の名前は世界に知られるようになりました。
昔日、渡航者は沖のブイに繋がれた本船に、連絡船で運ばれて乗船していましたが、1931年(昭和6年)に門司1〜7号岸壁が完成すると、大型船が接岸して直接乗船できるようになりました。
この年、日本郵船は13航路、大阪商船は19航路寄港するなど、門司港はまさに我が国の玄関口として、最も華やかな時代を迎えることになったのです。
戦時下には全国から集結した多くの兵士が、この岸壁から戦地に向かい、南の戦場だけでも輸送船約800艘、兵士約200万人といい、半数の兵士は再び祖国に戻ることはありませんでした。
戦後は、荷役の機械化、貨物のコンテナ化に併せて、
西日本初のコンテナターミナルを、門司・田野浦地区、続いて太刀浦地区に開設し、貿易拠点としての役割は譲ることになりました。 -
関門海峡を船以外で渡るには、4つの方法があります。
①関門橋(1970年、高速自動車国道)は、関門海峡の最も狭い所(600m)に架けられ、
←海峡ドラマシップ辺りから見た関門橋
海底には、
②関門国道トンネル(1958年、国道2号線と歩道)と、
③新関門トンネル(1974年、山陽新幹線)が通っています。
④関門鉄道トンネル(1942年、在来線の山陽本線)は、もっと左(小倉寄り)を通っています。 -
ホームに沿った道を通って、駅構内に戻って来ると、
-
「関門連絡船通路跡」
改札の海側に、階段で降りる地下道があって、
ここから連絡船に行けたようです。 -
連絡通路手前の壁には、「監視孔」が、 (@o@;)
戦争末期、軍の命令で設置された監視所跡です。
門司港は、外国航路寄港地の為、関門連絡船の通路は、戦時下の不審者を監視する絶好の場所でした。
監視孔は反対側にもあり、内部がわかりにくい構造で、横に入口を塞いだ跡があります。 -
その4、「関門連絡船の生涯」
本州と九州を結ぶ輸送機関として、明治34年5月に発足した関門連絡船は、およそ半世紀に渡ってその使命を果たした。
最盛期の昭和16年には、新鋭船を擁し、1日平均53往復して、年間約800万人(1日平均2万4千人)を輸送する活況を呈した。
しかし、昭和17年関門海底トンネルが開通、同19年にはトンネルが複線化され、さらに昭和33年の関門国道トンネルの開通により、同38年には利用客はわずか40万人に減少した。
これらの時代の流れと世の中の変遷により、関門連絡船はそれまでの本州と九州を結ぶ輸送の幹線動脈としての使命を失い、ついに昭和39年10月31日を最後に、その63年に渡る栄光の歴史を閉じた。
この通路は、当時、駅から桟橋までの100mを結んだものである。 -
連絡船通路の横に並行した道があり、スロープになっていましたから、こちらは荷物を運んだのかもしれません。
-
駅から出て、海側に回って見たら、コンクリートの壁で塞がれていましたが、出口は屋根がついたまま残っていました。
秋に修復工事をしたら、ここも残るかなぁ。 -
駅の「観光案内所」で訊いたら、やっぱり駅の横は、すぐ港だったそうです。
門司港駅に着いたら、まずここで情報収集するのが、オススメです。
「ガイドマップ」、「イベントガイド」、「グルメマップ―おいしい門司港」、どれも見やすいです。
9:00〜18:00(無休)
JR小倉駅にも観光案内所があったので、そこでも貰えるかもしれません。 -
「帰り水」
この水道(水飲處)は、駅が開設(大正3=1914年)された頃に設置されたもので、 以来、旅行者に門司のおいしい水を供給し続けています。
とくに、戦前の海外帰国者をはじめ、終戦後の復員や引揚の人達が、門司に上陸して安堵の思いで喉を潤したところから、誰言うとなく「帰り水」と呼ばれる様になりました。
奥の「洗面所」は、トイレではなく、本当に洗面所だけで、
「門司港繁栄期の昭和4年(1929)新設された物の一部」となっていました。 -
トイレの入り口に、「幸運の手水鉢」がありました。
大正3年の門司駅建設当時からあり、現在も鋳造時の形のままの姿を保っています。
戦時中の貴金属供出からも免れたことから、「幸運の手水鉢」と呼ばれています。 -
←(写真を撮っている私の)背中は、掲示板になっているのですが、
四苦八苦して、手水鉢を撮っていたら、おじいさんが話しかけてくれました。
「門司は、横浜みたいな大きな港やったけね、まだ、どこも上水が無いで井戸水やった時に、門司には上水があったんよ。
ここは、終点やけ、汽車から降りて来た人たちは、顔が真っ黒になっとって、みんな水道で顔を洗って、国鉄の連絡船に乗りよったんよ。
昔はここが門司駅で、関門トンネルができた時(昭和17年、大戦中)に、あっち(小倉寄り)に門司駅ができたけ、ここは門司港駅っちゅう名前になったんよ。
駅長室、そこにあるけ、ドア開けてごらん。りっぱな駅長室が、残っとぉよ。」 -
電気が赤々と灯ってる。
ひょっとしたら、現役の駅長室じゃないの?
中に、絵がかけてあるみたいだけど、古いガラスが曇っていて、よく見えない。
背伸びをしても、窓のサンが邪魔して、撮れないし、
無理よね〜
しばらく、カメラをかまえていたら、 -
駅事務室から、駅員さんが出てきました。
←私のカメラの邪魔にならないように、急いで通る駅員さん
「すいません、駅長室は見られるんですか?」
「ちょっと、待ってください。 訊いてきます。」
3分位したら、「どうぞ」って、
事務室の方から入れてくれました。 -
w(*゚o゚*)w 生きてるレトロだ!
-
駅長の頭上には、
寒山作 「稲村ケ崎での新田義貞」
昭和2年購入、価格620円
中国唐時代の寒山ナわけない。
明治時代の下村 「観」 山?
撮った写真をパソコンで拡大したら、絵の右下に「寒山」と名が入っていました。
別人ですね。 (良いような、悪いような) -
金庫の左に掛けてあるのは、
明治〜大正の、判任官制服(礼装用)。 -
デスクの右側は、応接コーナーになっていて、
-
奥の壁上の額には、歴代の駅長の名前が書いてありました。
-
振り返って、駅事務室への扉
駅員さんが、「駅舎の雨漏りがひどいので、一度取り壊してから再建する」と言っていました。
もう限界なんですねぇ。
昔の雰囲気が残るように再建されるといいですねぇ。 -
駅長室の横から、2階に上がる階段を上がると、「貴賓室」があります。
けっこう狭いです。
次の間(入口)の方が、広いです。
あれ?
さっき駅長室で、デスクの椅子に上着がかかってた?
駅長さん、仕事中だったのかもしれない。
出てくるとき、事務室で上着を着てない人を探して、頭下げないといけなかった。 (いつも判断が遅い!)
駅長さん、ありがとうございました。
おじいさんも、m(__)m おかげで見せてもらうことができました。 -
暗くなってきたので、帰りましょう。
3月初旬の18時半です。東京なら、とっくに真っ暗です。
改札を入った正面に、
1972年鉄道が日本に開通した100周年を記念して設置され、九州鉄道が開通した時の(鹿児島本線の)起点を表す「零哩(ゼロマイル)」標と、
2009年新設された「旅だちの鐘」と「幸福の泉」がありました。昭和まで出発の時には鐘を鳴らしたそうです。 -
今日は八幡から出かけます。
八幡製鉄所の高炉(溶鉱炉)がきれいになったらしいので行ってみます。
八幡東区「帆柱山」
山頂から見ると、洞海湾に赤い若戸大橋がかかり、工場の煙突から「7色の煙」が出ているのが、見えたものです。 (大気汚染の原因です)
製鉄所では鉄を冷やすのに大量の水が必要なので、帆柱山の麓には、製鉄所に水を供給する「河内(カワチ)貯水池」があり、 (水力発電のダムと違って、高低差が無く)、
湖では白鳥が泳ぎ、緑で囲まれた一帯なので、よく遠足で行きました。 -
東田博物館ゾーン案内図
この一帯は、八幡製鉄の工場でした。
現在は、スペースワールド、JRスペースワールド駅ができ、
いのちのたび博物館、環境ミュージアム、北九州イノベーションギャラリー、
東田第1高炉史跡広場、イオン八幡東ショッピングセンターなどになって、広々しています。 -
【いのちのたび博物館】
幼稚園の子供たちが、遠足に来ていました。 -
【いのちのたび博物館】 こちらが正面?
なんだかおもしろそうです。
駐車場に幼稚園バスがたくさん停まっていたので、今日は何かあるのでしょう。 -
【高田第一高炉史跡広場】
向こうに見える螺旋の高架橋は、都市高速道路。
八幡製鐵所の創業を記念して、創業以来、11月18日前後の3日間、八幡では「起業祭」という大きな祭りが行われていました。
北九州市立(八幡製鉄のある八幡区と戸畑区だけ?)の小学校は、11月18日はお休みでした。
八幡製鉄所が公開されるので、工場見学に行くと、
広大な敷地は、雑草の上までも、サビ色の粉塵に覆われていました。
大きな(圧延?)工場の中では、赤い鉄材が、大きな音をさせて行ったり来たりして延ばされ(鉄道線路?)、
高炉(地元では溶鉱炉と呼んでいました)の中に、真っ赤に溶けた鉄が見えました。 -
【高田第一高炉史跡広場】入口
その5、「八幡製鉄所の歴史」
近代化の遅れていた日本は、明治維新以後、「富国強兵」「殖産興業」を合言葉に強い国造りを目指しました。
明治27年(1894)に起こった日清戦争は、翌年何とか勝利終結したものの、あらゆる産業の基礎的な素材となる鉄を自国で生産する必要性を痛感させられた政府は、
明治30年(1897)産炭地を背後に控えた福岡県遠賀郡八幡村に官営製鉄所を建設することにしました。
当時、本格的な製鉄技術を持たなかった日本は、ドイツから技術者を招き、言葉の壁等による幾多の困難を乗り越えながら、4年間に渡る難工事の末、ようやく日本初の(原料から製品までを一カ所で製造する)銑鋼一貫製鉄所を完成させました。
1900年には、伊藤博文総理も建設中の東田第1高炉を視察しています。 -
(つづき)
高田第一高炉は、「官営製鉄所」で、最初に建設された
溶鉱炉 (明治34年(1901)火入れ、高さ30m、公称能力日産160トン) で、当時は東洋一の規模を誇りました。
その後、東田地区、(隣接の埋立て地)洞岡(クキオカ)地区に相次いで高炉が建設され、コークス炉、分塊、圧延などたくさんの工場が完成し、国内最大の威容を誇る製鉄所は、日本の近代化を支えてきました。
戦争中、各地の製鉄所が空襲を受け、戦後、国内で稼働できた高炉は全国37基中、八幡の3基だけで、「八幡の鉄」は戦後の復興に大きな役割を果たしました。
高田第一高炉は、創業以後10回にわたり改修工事が行われ、
現在見ることができる高炉は、昭和37年(1962)、それまでの高炉を大型化して、(高炉の中に圧力をかけて銑鉄を取り出す)わが国初の高圧高炉として建設された第10次改修高炉 (高さ70m、公称能力日産900トン) であり、
今日の超高圧高炉の先駆けとなる、産業技術史からみても画期的な高炉でした。
最盛期の昭和40年代前半には、八幡地区6基、戸畑地区4基、計10基の高炉が稼動し、粗鋼生産は年900万トンに上りました。
戦後は戸畑地区が埋立てられ、高炉や主力工場は戸畑地区に移転され、東田第一高炉は、昭和47年(1972)の吹き卸しでその役割を終えました。 -
中央が、「高炉」(溶鉱炉)と、
原料や燃料を高炉の上まで運ぶ「傾斜塔」。
高炉の裏に、「除塵器」があります。
炉頂に掲げられる「1901」は、東田第一高炉に火入れが行われた明治34年を示しています。
タンクのような3基は「熱風炉」、
右端は「煙突」です。 -
鉄鋼ができるまで
1.「熱風炉」
正面は「ガスバーナー弁口」、上が「熱風弁口」。
熱風炉は、1つの高炉で3基ぐらいを一組として造られ、
ガスを燃やす部屋と、(耐火れんがを積み上げて)熱を蓄える部屋からできています。
1つの熱風炉にガスを通して燃やし、中の耐火れんがを温めている間に、あらかじめ温めておいた他の熱風炉に空気を送り、暑い風(1200℃)にしてから高炉に送ります。
→この操作を一定時間ごとに切り替えて、絶え間なく熱い風を送ることにより、高炉で24時間鉄を作る事ができました。
( 高炉の火を消さないため、工場勤務は3交代制でした。) -
1.「熱風炉」と、「高炉」(溶鉱炉)
熱風炉の「熱風弁口」と、正面の灰色のパイプ(断面)をつないで、高炉に熱風を送るようです。 -
1.「高炉」(溶鉱炉)
高炉の中は、とても高い温度になる為、内側には熱に強い耐火れんがが張りつめられています。
直径4m位しかありませんでした。
高炉の中には、鉄鉱石などの原料と、燃料のコークス(蒸し焼きされた石炭)が、交互に入れられます。
そこに、熱風炉からの1200℃の熱風を、高炉下から吹き付けて、コークスを燃やし、原料を溶かして、銑鉄(センテツ、鉄鉱石を還元して得られる鉄)ができます。 -
1.「高炉」 内部
-
1.「高炉」鉄皮
1962〜72年に操業していた高炉の外側。
昔は、(炉が壊れないように)たくさんの鉄の帯が巻かれていましたが、
(家庭で使う圧力鍋のように、高炉の中に高い圧力をかけて、より高い温度にして、たくさんの鉄を作る為に)
厚い鉄板で高炉を覆い、炉の中に高圧力をかけても壊れないようにしました。
このような高圧高炉は、日本では昭和37年(1962)、この東田第一高炉で初めて取り入れられ、
これが今日の超高圧高炉の先駆けとなり、産業技術史からみても画期的な高炉でした。
高炉を取り巻くのは熱風炉からの「熱風環状管」です。 -
「鉄を作る原料」
鉄を作るには、鉄鉱石、石炭、石灰石の3種類の原料が必要です。
原料を無駄なく使う為、粉になった鉄鉱石は石灰石の粉と混ぜて焼き固め、粒を大きくしてから使います。これを焼結鉱といいます。
また、石炭を蒸し焼きにしてコークスにし、鉄を作る燃料として使います。
これらの原料から鉄1000kg(1トン)作るには、
鉄鉱石1600kg、石炭(コークス)500kg、石灰石20kg、その他の原料80kg、合計2200kgが必要です。 -
2.「出銑」
1400℃になる銑鉄(センテツ)を、出銑口から取り出すところ。
出銑作業に携わる作業員は、防護服(耐火服)を着て作業します。
人形がリアルなのは、現在のアルミ製耐火服を着ているせい? -
2.「出銑」
高炉から流れ出た銑鉄は、床に作られた溝(鋳床)を流れて行きます。
銑鉄と同時にできる副産物の鉱滓(スラグ)は、比重の違いを利用して分別され、別の口から取り出されます。
このスラグで、昨日行った門司赤煉瓦プレイスの鉱滓(コウサイ)レンガを作ったわけです。 -
昭和5年、国会議事堂の建設に使用された八幡の鋼材
-
昭和42年、ニューヨークのワールドトレードセンターの建設に使用された八幡の特殊鋼材。
「9.11」の現場ですよねぇ。 -
圧延工採用試験風景のさし絵
当時の圧延の現場は重労働であったため、圧延工の入社試験は、重さ13貫(約49kg)の鉄の棒を両手に持ち、30mを2往復させる、体力テストのような事が行われていました。
高校の先生が、「俺が子供の頃は、
『わるさ(悪戯・非行)ばっかりしよったら、せいてっしょ(八幡製鉄所)に働きに行かせる(就職させる)ぞ。』
っち、怒られよった。」 と言っていました。 -
その6.「宿老」は、もともと戦国時代の武士階級のひとつで、長老格に与えられた特別職の名前でした。
八幡製鐵所がまだ官営だった大正9年(1920)、同年のストライキをきっかけに、技能と人格に優れた職工長を終身雇用する「宿老」という独自の制度ができました。 (つまり死ぬまで社宅に住み給料がもらえるベテラン工員でした。)
「宿老」は職工の最高の地位で、1946年まで全部で7人誕生しましたが、その第1号が田中熊吉という人でした。
同氏は、ドイツに派遣されて高炉技術を学び、ストライキの時には「溶鉱炉の火を消すな」と陣頭指揮しました。
宿老は、コンピューター化などで認定しないことになり、
田中熊吉は、最後まで生き残った宿老でもありました。(1972年、99歳で死去)
直木賞作家、佐木隆三(北九州市出身、若いころ八幡製鉄所の社員だった)が平成16年に発表した「宿老・田中熊吉伝 鉄に挑んだ男の生涯」に描かれています。 -
「生産量の移り変わり」
終戦が近づくにつれ、生産量が落ちているのは、原料が入らなかったんでしょうね。
戦争中が最も生産したんだろうと私は思っていたのですが、戦後の高度成長期の方が、何倍も生産したんですね。 -
平成9年、保存整備中の高田第一高炉
約9年半操業され、昭和47年(1972)に廃止された東田第一高炉(第10次改修)は、30年近く静態保存されていましたが、老朽化で撤去することが決まった為、
北九州市が買い取って、平成8年に市指定文化財(史跡)に指定して保存整備し、
平成11年「東田第一高炉史跡広場」になりました。
現在、 八幡製鐵所は戸畑地区に高炉が1基あるのみで、八幡地区からは高炉の火が消えてしまいました。 -
3.銑鉄の運搬をした「トーピード・カー」
昭和5年、戸畑と八幡の間に専用鉄道が敷設され、
戸畑で取り出された銑鉄を、鍋台車で「転炉」がある八幡へ運んでいました。
反対に、八幡から戸畑へは、スラグ(廃滓)や建設残土などを運びました。
魚雷(TORPEDO)と形が似ていることからトーピード・カー(日本語では混銑車)と呼ばれる貨車は、
中は2000℃以上の高温に耐える耐火れんがが張られ、
溶けた銑鉄を積んだまま、リン・硫黄などの不純物を取り除く熔銑予備処理を行いました。
(トーピードカーは東田では使われていませんでした。)
展示されている電気機関車(製造元は、芝浦製作所と汽車製造)は、専用鉄道が完成した当初から実際に走っていたものです。 (黄色い機関車、写ってない!) -
4.「転炉」
転炉の炉体を傾け、とっくり型のクチン部分から、
高炉から運ばれてきた銑鉄と、くず鉄や生石灰などを入れて、酸素を吹き付け、
銑鉄に含まれる不要な炭素分などを燃やして取り除きます。
こうして、銑鉄から、レールや自動車部品などいろいろな使用目的に適した、粘りのある強い鋼鉄になります。 -
4.「転炉」
昭和32年(1957)製の転炉
「転炉」と言う名前は2つの意味があります。
ひとつは、炉をくるっと回転させることで鋼鉄を流し出す仕組みである事。
もう1つは、転炉の英語名CONVERTER(転換する者)から付けられました。(銑鉄から鋼鉄に転換する。) -
明治34年(1901)2月5日、火入れ式の記念写真
同年11月18日、伏見宮・農商務相・国会議員ら来賓800人を招いた盛大な作業開始式が行われました。
その中には、文豪・森鷗外もいました。 -
「官営製鉄所」開業当時、森鷗外は小倉に住んでいました。
(陸軍医学部の先輩を医学雑誌で批判し、小説を次々に発表して文名があがった為に、左遷されたと言われている。)
【森鷗外旧居】 小倉北区鍛冶町
小倉のメインストリート、平和通りと旧電車通り(勝山通り)から、少しだけ入った所にあります。
JR小倉駅からでも、徒歩7分位です。
明治32年(1899)、森鴎外(37歳)は、陸軍第12師団軍医部長として小倉に赴任し、2年10ヶ月間住んでいました。
鷗外は27歳で結婚したものの、翌年離婚。
(女性関係の操行がかんばしくなかった。)
一人息子を、実母に預け、単身で小倉に着任しました。
(目的を達するためには手段を選ばない、恐るべき母親だった。) -
この家で、始めの1年半を過ごしました。
(お手伝いさんを2人雇っていました。)
今ではビルに囲まれているものの、
当時は、糸車の音が聞こえる静かな所だったそうです。
明治33年(1900)12月に転居した京町の家は、小倉駅・南西屋外のエスカレーターの下に石碑が立っているだけです。
当時の小倉駅は、小倉城の近く(現在の西小倉駅)にありました。
1901年11月18日、八幡製鐵所作業開始式に参列。
1902年 1月 4日、東京で再婚しています。
(鷗外40歳、志げ子22歳再婚)
同年 3月26日、東京へ転任 -
「鷗外が書斎に使用した座敷」
まだ新しいこの家は、柱や天井にベンガラが塗られていて、時代のある家のように思えて、鷗外は大そう気に入ったそうです。
鷗外は軍務のかたわら、翻訳、小倉・北部九州の史跡を訪ね、講義・講演会、地元紙への寄稿など、多忙で充実した毎日をおくりました。
明治35年(1902)3月、東京に帰任する時は、見送りが1000人を超えました。(小倉に、2年9ヵ月間) -
「裏庭」
現在の敷地は、鷗外が住んだ頃の半分ほどに狭くなっていますが、
昔は、裏庭も広く、馬小屋と馬蹄さんの家があって、
鴎外は、馬で師団司令部に通っていました。 -
トラットリア「プリマヴェーラ」
井筒屋デパートと小倉城の間にある、紫川に面した明るいイタリアンレストランです。
週末だったので、30分位待たされました。 -
パスタランチをいただきました。
スープ・美食家サラダ・パスタ料理・デザート・飲み物で、1570円。
美味しかったです。 (*^_^*) -
紫川の小倉城側に、テントが並んでいました。
右側の3つのビルは、
映画館、朝日新聞(西部本社)、NHK、北九州芸術劇場、ゼンリン地図の資料館(本社)なども入った複合ショッピングセンター「リバーウォーク北九州」 -
紫川を渡って、小倉城に向かうと、
先ほど見えたテントは、かわいい雑貨の店がたくさん -
【小倉城】
小倉城の天守閣の木立の中に、
鷗外が通った第12師団司令部の正門が残っています。 -
【小倉城】天守閣
天守閣は江戸時代(1837年)火事で焼失していますので、鷗外が住んでいた当時はありませんでした。
昭和34年(1959)RC構造で再建された天守閣です。
小倉城HP→ http://www.kid.ne.jp/kokurajou/html/index.html
平成2年(1990)改装されています。 -
【小倉城】
大正時代の大砲と弾丸 -
【小倉城庭園】(小笠原会館)
小倉城の城主・小笠原氏の別邸であった下屋敷跡(大名屋敷)を、1998年に復元した、大名の庭園です。
←無料エリアから見た小倉城庭園
書院の広縁から庭全体を見渡すことができます。
池を巡りながら景観が楽しめる「池泉回遊式」庭園で、
池面が周囲よりかなり低い「のぞき池」になっています。
庭園の中で、アニメやゲームの“コスプレ”の撮影会をしていました。
忍者の格好はわかるけど、ここでアニメのふん装は〜?
小倉城庭園→ http://www2.kid.ne.jp/teien/ -
【小倉城庭園】
典型的な江戸時代の武家の書院を再現しています。
ガイドのお嬢さんが広縁にいて、一人でも丁寧に説明してくれます。
右奥の一段高くなった所が、書きものをした書斎です。
迎賓館のように使われ、殿様は隣のお城から駕籠で来たそうです。 -
【小倉城庭園】
池に張り出した広縁から撮った、小倉城
日当たりも良く、お昼寝したい気分でした。 -
【小倉城庭園】
展示ゾーンでは、「TOTO」の食器を展示していました。
TOTO(東洋陶器)は、1917年衛生陶器の製造を目的に創業されたものの、まだ下水設備が普及してなくて、キャッシュフローの為に(1970年まで)食器を作っていたようです。
「TOTO」の本社は、小倉にあるんですよ。 -
【小倉城庭園】展示ゾーン
日本陶器(1904)を創業した、大倉孫兵衛・和親、親子が、ノリタケ(1916)、大倉陶園(1919)も、TOTO(1917)だけでなく、INAX(1924)も創業したようです。 -
3月12日(月) 帰京
小倉駅バスセンターから、北九州空港行ノンストップバスに乗ろうとしたのですが、乗り遅れてしまいました。
(同じバス停とはいえ、乗り継ぎ時間1分というのは、無謀でした。)
なので、JR日豊本線で小波瀬(オバセ)駅まで行き、路線バスで空港に向かうことになりました。
←JR小波瀬駅、寂し〜! -
2006年にできた新しい北九州空港は、北九州市の南端に、橋でつながった人工島。
大きくなるのは良いけれど、前より遠くなってしまった。
いくら24時間発着できても、
LCCスカイマークは1日1往復。0:35に羽田についても困る。
22:25に北九州に着いたら、家に着くのは0時頃。
スターフライヤー5:30発なんて、朝何時に起きるのよ。
国際線は、週3便ソウル行ができたらしいが、続くかどうか?
福岡空港はイイナ。LCCスカイマークはたくさんあるし、LCCピーチができて、大阪経由で札幌千歳にも格安で行ける。
今度は、スカイマークで、福岡空港を使ってみようかな。(ちょっと遠い) -
まだ、10:45だけど、昼ごはん。
空港2階の「筑豊ラーメン山小屋」で、ラーメン580円。
←昭和むかしラーメン750円。(娘に卵もう半分取られた)
久留米ラーメン(コッテリしすぎ)や、一風堂(東京でも食べられる。家畜じゃないんだから板で区切るな)は、ありますが、私は空港で食べます。
小倉のショッピングエリアは、かえって、豚骨じゃないラーメン店の方がおいしいです。(中華そば藤王や、井筒屋新館の耕治) -
展望デッキに足湯があるようです。(大人100円、小学生50円)
←床に道案内 -
スターフライヤー、SFJ 80便、北九州11:35発
-
お土産リスト (全部のお土産屋を廻ったので、美味しい物がかなり集まりました。)
うに飯の素、お手軽です。
漬けあみ、空港で初めて見ました。春しか無い、ご飯の伴。(夫の大好物です。) このままでは塩辛いので、日本酒を少し加えます。
フグの刺身とフグ皮の湯引き。(冷凍だけど、お土産だからしょうがない。)有料で保冷袋があります。
長崎ラーメン、買ってみました。さっぱりして美味しかったです。
揚子江の豚まん、玉ねぎがたくさん入って、安くて美味しいんですよ。
フグの一夜干し風。
かば田の辛子明太子、切れ子(薄皮が破れた物で、2割位安い)。味は同じだけど中まで漬け汁が浸みるので、少し辛いです。
豚骨ラーメン、かさばらない袋入り。(味は、どれでも大して変わりません。) -
お土産、買い過ぎ?
ゆず入りかるかん。(私の好物)
八女茶(ヤメチャ)のチョコレート菓子。
地酒 無法松(ムホウマツ)。
あまおう苺の焼き菓子。
明太えびせんべい、ばらまき用。
長いのに、最後まで見ていただいて、ありがとうございました。 (^^♪
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- ムロろ~んさん 2012/04/02 20:59:08
- 初めましてこんばんは
- prinprin様
初めましてこんばんは、ムロろ〜んと申します。
この度はマレーシア旅行記に投票をして下さいましてありがとうございます。
宗教の違う者同士がお互いに尊重し合う精神を持っているとガイドさんが説明をして下さり、とっても感銘を受けた旅行でした。
prinprinさんの旅行記も北九州旅行記も拝見させて頂きました。
昨年の4月にスターフライヤーで門司港周辺を旅したので、懐かしく拝見しました。門司駅は本当に素通りしただけでしたので、駅の構内や特に駅長室をこのように拝見することができたので、初めて知りました。本当に昔からの建物を大切に使っているのですね。
今後も旅行記を書いて参りますので、何卒よろしくお願い致します。
ムロろ〜ん
- prinprinさん からの返信 2012/04/03 15:24:22
- RE: 初めましてこんばんは
- ムロろ〜んさん、こんにちわ
エアアジアX、気になっていたのですが、クアラルンプールって何があるんだろうと思っていました。(まだ東南アジアに行ったことがありません。)
ムロろ〜んさんの下関の旅行記に行った時に、エアアジアの旅行記があるのに気付いて、訪問しました。
丸2日観光して帰って来れるなら、気楽に行けそうですね。
ムロろ〜んさんの旅行記、情報が満載で、宗教の話とか楽しかったので、マレーシア全巻読みました。
投票し忘れたのもあるので、ごめんなさい。
クララルンプール行きが実現したら、利用させていただきたいと思います。
貧しい国って、インフラとか治安とか、自分で観光できるか不安ですよね。
現地の旅行会社に日本語ガイドを依頼することができるんですね。
「歩き方」か何かに申込先が出ているのでしょうか?
冬に暑い国に行くと帰って風邪をひきそうで行った事が無いのですが、空港まで着ていたコートやセーターは、どうするのですか?
カーテン付きのシャワーって使いにくいですよね。
私はカーテンを閉めると、濡れたカーテンが手体に触って不快なので、カーテンを使いません。
最近は、プラスチックの仕切りが多いような気がしますが、みなさんどうなさっているんでしょうね。
では、また。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2012北九州 帰省の旅
2
83