2012/04/15 - 2012/04/15
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横浜臨海公園さん
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大中寺(だいちゅうじ)は正式には澤田山大中寺(さわださん だいちゅうじ)と称する京都臨済宗妙心寺派に属する興津清見寺末寺に列なる名刹である。
創建は、京都天龍寺を創建した夢想疎石(むそう そせき)(建治元年(1275年)〜観應2年(1351年)10月20日)に拠り執行され、時期は鎌倉期末期から南北朝最初期頃と推定されるが、該寺は應永年間(1396〜1428年)に兵火、度重なる大火、及び、宝永4年(1707年)12月16〜31日に発生した富士山大爆発に拠り被災し、諸該資料類が殆んどが烏有に帰した為に具体的時期に就いては特定困難とされる。
また、夢想國師は造園築庭でも著名であり、現存するものでは、
京都天龍寺(世界遺産 国指定特別名勝)
京都西芳寺(世界遺産 国指定特別名勝)
鎌倉瑞泉寺(国指定名勝)
岐阜多治見永保寺(国指定名勝)
等々が存在し、大中寺でも夢想國師作庭園が江戸中期まで存在した事は、当時の絵図の拠り明らかである。
大中寺は、應永年間(1394〜1428年)に兵火の為に焼討され一時衰退を余儀無くされたが、太原雪舟(たいげん せっしゅう)(明應5年(1496年)〜弘治元年(1555年)11月23日)に依り再興された。
太原雪舟は、戦国大名たる今川義元(いまがわ よしもと)(永正16年(1519年)〜永禄3年(1560年)6月12日)の軍師としても著名な存在だが、大中寺再興は、今川一族に拠る駿河國東部一帯支配強化の一環と安定の為に必要不可欠だったと推定される。
江戸期に入り、徳川将軍家の篤信を受け、第3代将軍 徳川家光(とくがわ いえみつ)(慶長9年(1604年)8月12日〜慶安4年(1651年)6月8日)より寺領11石7斗が安堵され幕末に至る。
寛政年間(1789〜1801年)に、当時の澤門住持は本尊の不動明王を新刻したが、禅宗寺として不動明王の存在は異例だが、大中寺開建以前に同地に存在したとされる真言宗寺との関連が存在するものと思われる。
また、度重なる災害の為に荒廃した境内復旧にあたり、前庭に所在した心字池を本堂後部に移設し、新たに心字池を中心に庭園を作造し24景と命名した。
明治期に至り世は廃仏毀釈の嵐の中、明治25年(1892年)3月10日に伊豆國三島に別邸を構えていた小松宮彰仁(こまつのみや あきひと)親王(弘化3年(1846年)2月11日〜明治36年(1903年)2月26日)が宮内省供奏官を従え騎乗で訪寺されたが、小松宮は帰京後、大中寺の素晴らしさを宮中内で話題にしたらしい。
明治26年(1893年)7月15日に沼津島郷地区に御用邸が造営竣工した。
此れに拠り、沼津御用邸滞在中の皇族方訪寺が発生する様になる。
大正天皇(たいしょう てんのう)(明治12年(1879年)8月31日〜大正15年(1926年)12月26日)は、皇太子嘉仁親王時代に大中寺に計6回、公式行啓されている。
即ち、
明治30年(1897年)3月13日
明治31年(1898年)1月2日
明治36年(1903年)2月15日
同年2月22日 錦雲間御休憩
明治37年(1904年)1月15日
同年1月28日
である。
皇太子嘉仁親王殿下は、少年時代から健脚で在った事から人里離れた山野を駆け巡る事を好み、明治31年1月2日に愛鷹山遊猟の帰途、大中寺に立ち寄られた際、一寸したハプニングが有った。
勢子達が境内での禁を破り、こっそり焚火をして暖を摂っている所に忍び入り、
「殿下の狩猟の腕はどうかね?」
と聞き、
問い掛けたのが、まさか皇太子殿下とは夢にも思わぬ勢子達は、
「そうさな、鉄砲の腕は良くないが足だけは滅法強い様だな」
と答えていた最中に、慌てて駆け付けた侍従が、溢れ出んばかりの笑いをかみ殺しながら、
「足だけは誉められたぞ」
と言われ、
まさかの雲上人から声を掛けられと知った勢子達は、無礼打ちにでもされるのかと慌て恐れおののき地べたに平伏してしまったが、皇太子嘉仁親王はニコニコとされ、侍従に菓子を持たせ勢子達に与えたと云う。
要は、皇太子嘉仁親王は、まごう事無きやんごと無き御方であるにも拘らず、一般庶民とも分け隔て無く親しく話をされる事を好んでいた。
昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)1月7日)は、皇孫、及び、皇太子時代、沼津御用邸滞在中に大中寺に対し、計5回行啓されている。
即ち、
明治42年(1909年)2月16日、及び、同年3月3日
明治43年(1910年)2月6日、及び、2月23日
大正9年(1920年)1月18日
である。
概ね、通常パターンでは、御用邸玄関を13時30分に出発され大中寺に14時到着、暫し休憩滞在された後、16時に復路還啓されている。
明治期の4回の行啓では、弟宮たる、秩父宮やす仁親王(ちちぶのみや やすひと しんのう)(明治35年(1902年)6月25日〜昭和28年(1953年)1月4日)、及び、高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひと しんのう)(明治38年(1905年)1月3日〜昭和62年(1987年)2月3日)が同行し儀装馬車で大中寺に向われた。
此れに対し、大正9年(1920年)1月18日の大中寺行啓では、御探梅が目的とされ、皇太子裕仁親王も18才となり乗馬も巧みな事から、中央に皇太子を配し本多主事、甘露寺侍従、小川陸軍武官、壬生海軍武官、侍医、御学友を伴い前後騎乗隊形式だった。
裕仁親王は、多分に父親譲りで茶目っ気な性格を有した様である。
明治43年(1910年)2月23日に大中寺を行啓の際は、弟宮2名を連れ、警備厳重な大中寺境内から隙をつき垣根越しに寺外に抜け出し、皇孫殿下行方不明を知り、事態の重大性から侍従や寺衆が顔面蒼白になりながら境内を捜索を尻目に、近くの野原で鬼ごっこなどしながら時間を過ごし、侍従に発見されるや弟宮の手を引き一目散に逃げ決して捕まる事は無かった。
地元農民達も、見掛けぬ都会の子供が遊んでいる程度の認識しか無く適当に相手をしていたが、後で此れが皇孫殿下達と知り腰を抜かさんばかりに驚愕した由。
昭和天皇は、昭和21年(1946年)6月18日に、前年昭和20年(1945年)7月17日未明の大空襲で市内全域が焼野原になった沼津市を行幸された。
御召列車御料車から降車された昭和天皇は、1日早く到着され沼津駅に来られていた香淳皇后と沼津御用邸滞在中の貞明皇太后が駅頭に於いて三陛下が会同の際に、それ迄、物音一つ無き寂莫の駅前広場に居合せた大群衆の一角から、突然高らかに、
「天皇陛下萬歳」
の声と共に、その場に居合せた全員の萬歳三唱が起き、
更に、誰からとも無く、国歌 君が代の大合唱になった。
時節柄、市民、警備の警察官、県市職員、鉄道職員、皆々誰彼男女構わず大合唱に斉しつつ大粒の涙を流していた。
大手町で焼け残った沼津警察署屋上望楼に於いて、当時の沼津市長から沼津市に於ける空襲被害と復興状態や現状説明を受けていた最中、
突然、昭和天皇は勝亦沼津市長に対し、
「ところで、大中寺は、あのあたりか」
と御下問が有った。
突然の質問に勝亦市長は位置が判らず返答に窮し、うろたえていると、大中寺の所在地を知る市職員が市長に耳打ちし、それを受け市長が昭和天皇に奉答すると、
昭和天皇は、ひと言、
「嗚呼、実に懐かしい」
と発言され、感慨深げな表情をされながら侍従に促される迄、何時までも大中寺方向を眺めていたそうである。
恐らく、昭和天皇は灰塵の街を通し緑に被われた愛鷹山麓所在の大中寺方向を眺めつつ、昭和天皇にとって遙かに楽しかった幼少期の日々を想い出していたのであろう。
後に、昭和58年(1983年)12月26日に第55代衆議院副議長に就任した社会党衆議院議員 勝間田清一(かつまた せいいち)(明治41年(1908年)2月11日〜平成元年(1989年)12月14日)は宮中認証式出席の際に、昭和天皇から
「大中寺の梅はどうしているか」
との御下問を受け、勝間田は予想すらせぬ質問を受け動揺を隠せなかった。
大中寺境内には、大正天皇の七言絶句、貞明皇太后歌碑、昭憲皇太后碑等々が散在し、野趣溢れる野遊びが楽しめる。
表紙写真は大中寺庭園 恩香園
大中寺(だいちゅうじ)
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
東海道本線沼津駅南口 富士急シティバス中沢田停留所降車 徒歩1分
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- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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根方街道(ねかた かいどう)
現 県道三島富士線
沼津御用邸開設に伴う皇族方の大中寺行啓の為に、馬車走行に於いて、狭隘、且つ、劣悪な従来道代替として明治41年(1908年)10月竣工。
沼津市中沢田389−1
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大中寺
山門口
大楠と桜
外観
沼津市中沢田457
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大中寺
山門
入口
大楠
沼津市中沢田457
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大中寺
山門
入口
大楠
沼津市中沢田457
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大中寺
山門
普済閣
沼津市中沢田457
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大中寺
山門
普済閣
正面全景
天保12年(1841年)建築
大中寺現存最古の建造物。
沼津市中沢田457
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大中寺
山門
普済閣
木造瓦葺
入母屋造
二重鐘楼門様式
沼津市中沢田457
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大中寺
山門
普済閣
鐘楼慈恩鐘階段入口
沼津市中沢田457
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大中寺
山門
普済閣
裏側
沼津市中沢田457
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大中寺
山門
普済閣
裏側
沼津市中沢田457
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大中寺
沼津市中沢田457
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大中寺
沼津市中沢田457
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大中寺
宝珠庵(ほうじゅあん)
本尊たる不動明王像安置施設。
平成元年(1989年)建築。
沼津市中沢田457
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大中寺
不動明王
本尊全景
沼津市中沢田457
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大中寺
不動明王
該寺は禅宗にも拘らず不動明王を本尊とする稀有例。
沼津市中沢田457
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大中寺
沼津市中沢田457
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大中寺
沼津市中沢田457
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大中寺
玄猷門(げんゆうもん)
閉止状態
沼津市中沢田457
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大中寺
玄猷門
開門状態
庭園 恩香園への入口。
沼津市中沢田457
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大中寺
玄猷門
裏側
恩香園への石畳。
沼津市中沢田457
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大中寺
恩香園
沼津市中沢田457
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大中寺
恩香殿
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
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大中寺
恩香園
大正天皇 七言絶句ノ碑
歴代天皇は國文和歌を得意とし漢文漢詩を得意とする帝は、弘文、嵯峨、醍醐、村上、後水尾、及び、光格諸天皇とされるが、大正天皇(たいしょう てんのう)(明治12年(1879年)8月31日〜大正15年(1926年)12月25日)は漢詩漢文の風韻を好んだ数少ない1人。
陽明学者、且つ、思想家で、大東亜戦争終戦時の玉音放送の原文作成に携わり、戦後内閣総理大臣の指南役でもあった安岡正篤(やすおか まさひろ)(明治31年(1898年)2月13日〜昭和58年(1983年)12月13日)翁は、大正天皇の漢試作能力について、前述諸天皇に勝るとも劣らぬ存在だったと絶賛していた。
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
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大中寺
恩香殿
明治42年(1909年)5月に御座所専用建築物として建設、同年12月竣工。
木造平屋建 高床式 入母屋瓦葺建築
恩香殿の命名は三島中洲。
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
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大中寺
通玄橋(つうげんきょう)
恩香殿への連絡橋
太鼓回廊廊下
平成12年(2000年)4月28日 国有形文化財建築物指定
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
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大中寺
通玄橋
沼津市中沢田457
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大中寺
恩香殿
恩香殿は皇室専用御座所として大正末期まで関係者以外の立入が厳禁されていた。
平成12年(2000年)4月28日 国有形文化財建築指定。
沼津市中沢田457
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大中寺
貞明皇太后御手植梅樹
昭和21年(1946年)11月21日に貞明皇太后が大中寺行啓の際に、植樹された梅樹と記念碑。
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
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大中寺
鳳鳴林(おうきゅうりん)
良質な竹林として、筍の産地として知られるが一般人は入手不可。
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
東海道本線沼津駅南口 富士急シティバス中沢田停留所降車 徒歩1分
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大中寺
鳳鳴林の碑(おうきゅうりん の ひ)
大眉師 命名
昭憲皇太后(しょうけん こうたいごう)(嘉永2年(1849年)5月9日〜大正3年(1914年)4月19日)が、境内庭園に於いて筍堀をされた際に、普段力仕事に無縁な大正天皇生母の権典持 柳原愛子(やなぎはら なるこ)(安政6年(1856年)6月26日〜昭和18年(1943年)10月16日)や女官達が、筍を掘り出す為に顔を赤くし息を弾ませている姿を見て、通常は無表情で知られた昭憲皇后が思わず大笑いされた故事に因み命名された。
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
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大中寺
鳳鳴林
手前に筍が姿を覗かせかけている。
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
東海道本線沼津駅南口 富士急シティバス中沢田停留所降車 徒歩1分
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大中寺
鳳鳴林
竹林と熊笹
沼津市中沢田457
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大中寺
羅亭(らてい)
園内東屋
該東屋は、皇太子嘉仁親王行啓を記念し、明治30年(1897年)4月建築。
壁、及び、天井に蔦が張り巡らされ、明治36年(1903年)皇太子妃節子(さだこ)(明治17年(1883年)6月25日〜昭和26年(1951年)5月10日)妃殿下が該壁蔦を観賞された事から、明治44年(1911年)8月に東宮待講 三島中洲(みしま ちゅうしゅう)(文政13年(1831年)1月22日〜大正8年(1919年)5月19日)が 羅亭と命名。
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
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大中寺
羅亭
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
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大中寺
羅亭
背後は恩香殿
庭園と一体化している。
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
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大中寺
扁額
沼津市中沢田457
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大中寺
園内東屋
沼津市中沢田457
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大中寺
恩香園
沼津市中沢田457
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大中寺
瑞龍泉(ずいりゅうせん)
愛鷹山(あしたかやま)湧水の引水で元来は推量豊富とされ、該寺周辺に生活用水として送水したが、昭和39年(1964年)10月1日に東海道新幹線開通後は推量が激減し現在に至る。
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
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大中寺
瑞龍泉
心字池への流れ。
沼津市中沢田457
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大中寺
三島中洲 遊魂之碑
明治45年(1912年)建立。
三島中洲(みしま ちゅうしゅう)(文政13年(1831年)1月22日〜大正8年(1919年)5月19日)は、大正天皇の漢詩漢文学の師。
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
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大中寺
大正天皇
七言絶句
石碑
大正天皇は漢詩漢文を得意とした歴代天皇では少数派たる存在。
沼津市中沢田457
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大中寺
恩香園
梅林
沼津市中沢田457
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大中寺
恩香園
梅園
以前は空を覆う程の密林だったが、狩野川台風(かのがわ たいふう)(昭和33年(1958年)9月27日)の襲来で多くの倒木を生じ、現在は植樹当時の痕跡を僅かに留める。
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
東海道本線沼津駅南口 富士急シティバス中沢田停留所降車 徒歩1分
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大中寺
竜潜梅ノ碑
後に、大正天皇(たいしょう てんのう)に即位された皇太子嘉仁(よしひと)親王(明治12年(1879年8月31日〜大正15年(1926年)12月25日)は、沼津御用邸滞在中たる明治37年(1904年)1月15日に大中寺を行啓され、園内逍遥の際に早梅、及び、千両金を各々1本手折れにされ持ち帰った。
該梅樹を 手折ノ梅 と称し、後に、竜潜梅と称した。
石碑は該史を記念し建立された物。
因みに、竜潜とは皇太子の別称。
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
東海道本線沼津駅南口 富士急シティバス中沢田停留所降車 徒歩1分
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大中寺
恩香園
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
東海道本線沼津駅南口 富士急シティバス中沢田停留所降車 徒歩1分
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大中寺
恩香園
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
東海道本線沼津駅南口 富士急シティバス中沢田停留所降車 徒歩1分
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大中寺
恩香殿
猫が「闖入者が来たわい」とでも言いたげに見ていた。
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
東海道本線沼津駅南口 富士急シティバス中沢田停留所降車 徒歩1分
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大中寺
恩香殿
以前であれば、寂寞の内の世界であったと推定されるが、現状は東海道新幹線電車通過音が鳴響き、暫し現実の世界に引戻される。
沼津市中沢田457
?: 055−921−1086
東海道本線沼津駅南口 富士急シティバス中沢田停留所降車 徒歩1分
http://www.daichuji.com/
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この旅行記へのコメント (9)
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- ももねねここさん 2012/06/08 17:48:26
- 姿勢を正して拝見しました。
- 横浜臨海公園さん、こんにちは。
浅草の旅行記に訪問いただいてありがとうございます。
横浜臨海公園さんに票をいただくなんて・・恐縮してしまいます。幼稚な旅行記で申し訳ないです。
大中寺のすばらしい旅行記、拝見させていただきました。
皇室に関するエピソードなどもあって楽しく読む事が出来ました。
学生時代の歴史の先生をちょっと思い出し感傷的になってしまいましたが・・・(大好きな先生だったので)
昭憲皇后の筍堀のエピソードがありましたが、正室と側室の方々との壁みたいなものはなかったのでしょうか?お子様に恵まれなかった皇后にとって大正天皇のご生母、柳原愛子様に対する気持ちってどんなものなのか考えると同じ女性としては複雑です。
明治天皇は4〜5人の側室がいらしたみたいだし・・・今の時代なら大騒ぎですね。
横浜臨海公園さんの旅行記を拝見する時は毎回姿勢がよくなります。
また勉強させてもらいます。
ももねねここ
- 横浜臨海公園さん からの返信 2012/06/08 19:46:57
- 拝復
- ももねねここさま、こんばんは。
拝見し赤面するメッセージを賜りまして深謝しております。
誠に有難うございました。
> 昭憲皇后の筍堀のエピソードがありましたが、正室と側室の方々との壁みたいなものはなかったのでしょうか?お子様に恵まれなかった皇后にとって大正天皇のご生母、柳原愛子様に対する気持ちってどんなものなのか考えると同じ女性としては複雑です。
> 明治天皇は4〜5人の側室がいらしたみたいだし・・・今の時代なら大騒ぎですね。
→実は、昭憲皇后は一度懐妊をされましたが、お付の女官に裳裾を踏まれ転倒した事が原因で流産された一件は意外と知られていない史実がございます。
それでも、嘉仁親王の事は我が子の様に可愛がり、その為に、嘉仁親王も16歳になるまで、自身は皇后の子だと信じて疑わず、実は、柳原愛子が実母だと打ち明けられても20代半ばになるまで信じられなかったそうです。
実母の柳原愛子は長命で、大東亜戦争中にお亡くなりになりましたが、大正天皇の実母と言う事で、死去と同時に当時の女性として破格の従1位を授与されました。
然し、昭憲皇后としては生涯に亘り心中複雑なわだかたまりが拭い去れなかったかも知れません。
現在次回作成中の旅行記では、大正天皇の実像に迫る内容の物を予定しております。
横浜臨海公園
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- TaxNaXさん 2012/05/13 23:44:28
- 興味深い内容で、楽しく拝見させて頂きました
- 横浜臨海公園さん
今晩は。
苔の生し具合の素敵な大中寺の旅行記、楽しませて頂きました。
皇室の事は余り詳しくないのですが、背景を知って見ると一層趣深く感じました。
大変勉強になりました。
TaxNaX
- 横浜臨海公園さん からの返信 2012/05/14 19:56:12
- 拝復
- TaxNaXさま、こんばんは。
メッセージと旅行記に投票を賜りまして誠に有難うございました。
大中寺は寺院としては大規模な所ではございませんが、寺内の庭園は見応えもあり、束縛された皇室の方々の生活の中で、ひと時の安息の場だったのではないかと思いました。
実は、現在作成中の旅行記で皇室の内部事情に達する内容を準備中です。
愚作ですがご期待の程をお願い申します。
横浜臨海公園
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- ムロろ~んさん 2012/04/28 17:59:02
- エピソード話から色々と興味あって読んでしまいました。
- 横浜臨海公園様
ムロろ〜んです。旅行記で大変お世話になっております。
沼津の大中寺の旅行記を拝見しました。
大正天皇と昭和天皇の幼少時代のエピソードを読んで、興味を持ちました。皇族の方のことなどは知りませんでしたので、一緒に地元の子どもたちと遊ぶなんてかわいいですよね。昭和天皇が沼津にいらした時もその当時の光景が忘れられなかったのでしょうね。
山門などは戦争中には大事に至らなかったのでしょうか?造りがしっかりしてそうに見えます。
ムロろ〜ん
- 横浜臨海公園さん からの返信 2012/04/28 23:58:35
- 拝復
- ムロろ〜んさま、こんばんは。
旅行記に投票とコメントを賜りまして誠に有難うございました。
> 沼津の大中寺の旅行記を拝見しました。
> 大正天皇と昭和天皇の幼少時代のエピソードを読んで、興味を持ちました。皇族の方のことなどは知りませんでしたので、一緒に地元の子どもたちと遊ぶなんてかわいいですよね。昭和天皇が沼津にいらした時もその当時の光景が忘れられなかったのでしょうね。
→仰せのとおり、昭和天皇は晩年に至るまで沼津の思い出を忘れておらず、昭和62年(1987年)2月に高松宮さまが重態になられる直前に病床を見舞われた昭和天皇は、暫し、大中寺の話で盛り上がっておられていたそうです。
そう言えば、明日4月29日は昭和天皇の誕生日でしたね。
> 山門などは戦争中には大事に至らなかったのでしょうか?造りがしっかりしてそうに見えます。
→大正3年(1914年)、及び、大正15年(1926年)の沼津大火、昭和20年(1945年)7月の沼津大空襲で付近一帯は奇跡的に焼け残った為に、現在では沼津市内に於ける貴重な歴史的建築物となっております。
横浜臨海公園
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- hizuk927さん 2012/04/27 12:38:09
- その土地の歴史や文化を知ると景色が変わって見えますねr。
- 初めまして、hizuk927と申します。旅行記への投票ありがとうございました。
いくつか旅行記を拝見させて頂きましたが、その土地の歴史や文化が詳しく記されていて大変勉強になりました。私も旅行好きですが、横浜海浜公園さんの様に訪問地の歴史や文化を深く知れば、もっと景色が変わって見えるんじゃないかと感じました。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2012/04/27 16:51:33
- 拝復
- uk927さま、こんにちは。
小生こそ、はじめまして。
メッセージを賜りまして誠に有難うございました。
過分にすぎる評価を賜りまして恐縮しております。
小生の場合、気まぐれ的な旅行記作成は好まず、資料収集をはじめ1年以上かかる場合も珍しくありません。
兎に角、我が国の歴史は伝承ばかりで史実に基づく手続きがなされておらず、一方的な酷い内容も多いのが実情でございます。
昨今では、各方面図書館滔々から該当旅行記のプリントアウトと冊子化承認了承を賜る事も珍しくなくなりました。
uk927さまは越中富山の御出身と推察致しました。
富山市は大東亜戦争中の大空襲被害では全国第3位の焼失被害を生じた為に、歴史的建造物が少なく、なかなか市中に出掛ける機会がないのが残念です。
今後とも宜敷くお願い申します。
先ずは御礼とご挨拶まで。
横浜臨海公園
- hizuk927さん からの返信 2012/04/29 08:57:58
- RE: その土地の歴史や文化を知ると景色が変わって見えますね。
- ご返信、ありがとうございます!
図書館に行かれて資料収集されていらっしゃるんですね。しかも、1年以上かけては凄いです!確かに横浜臨海公園さんが仰る様に歴史の一片だけを論じているものや、伝承での記述が多い様に感じます。
ご推察の通り、富山出身です。
富山の旅行記は一般的な観光地ではなく、地元の人しか行かない様な場所を書こうと思っています。横浜臨海公園さんも機会がありましたら、是非、富山を訪れてみてくださいね。
hizuk927
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