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高崎線(たかさきせん)は東日本旅客鉄道保有の大宮-高崎間74.7キロの幹線扱の路線である。<br /><br /><br />明治期に於いて高崎線の最大建設目的は東京対東北地方、及び、蝦夷地たる北海道との連絡鉄道線建設であり、此の区間開通の為に民間企業たる日本鐵道會社が開通させた。<br /><br />熊谷-本庄間 明治16年(1883年)10月21日開通<br />本庄-新町間 同年          12月27日開通<br />新町-高崎間 明治17年(1884年)5月1日仮開業、6月25日正式開業<br /><br />仮開業から正式開業まで時間が経過したのは、当初の計画では5月1日に明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月30日)の行幸を仰ぎ高崎に於いて開通式典を開催する予定だった。<br />然るに、該日直前に群馬事件が発覚し開通式典は同月5日に延期された。<br />群馬事件(ぐんま じけん)とは、明治政府実施政策に対し、主として批判的不平士族階級を中心に、全国各地に於いて国会設置を中心に自由民権運動展開の為に自由党を結成したが、概ね、此れら連中に基幹となるべき政治思想など存在する筈も無く、酒を飲み悲憤慷慨するのが関の山だった一部過激派が生活困窮農民達を唆し、上野-高崎間全通記念式典に参列予定の政府高官達が、途中、本庄駅で昼食の為に小休憩する事を知り、此れを襲撃し全員殺害後、勢いに乗じ、陸軍高崎鎮台分営を乗っ取り、沼田城址に於いて天下に大号令を告知すると云う、極めて杜撰で子供騙しな単純極まり無い成り行き任せの粗雑な内容故に、事前に計画内容全部が警察に完全漏洩状態であり、首謀者は全員捕縛起訴され裁判に於いて実刑判決を受け服役したが、獄死者以外は全員恩赦で出獄した。<br />同時期に北関東で発生した秩父事件(ちちぶ じけん)、筑波加波山事件(つくば かばやま じけん)と共に、事前謀議も無い陋劣連中が起こした事件である。<br /><br />因みに、同月5日に延期された開通式典は明治天皇風邪罹病に拠り再延期され翌月25日に開催された。<br /><br /><br />日本鐵道は当初は本庄付近に於いて利根川を渡河し玉村経由で高崎に建設計画を予定していた。<br />然るに、玉村は日光例幣使街道沿だった為に鉄道開業を基因とする宿泊客減少を懸念し、一貫して鉄道敷設に対し反対に終始した為に、再検討の結果、現在の新町経由に決定した。<br />新町では事前に鉄道開通に伴う効果を認識し、株式募集、及び、土地買収に極めて協力的で中には自主的に地所献納を申し出る者すら存在した為に会社は現在線に決定した。<br /><br /><br />我が国に於ける明治初~中期に於ける大河川への架橋技術は揺籃期に在り、坂東太郎と称する利根川(とねがわ)渡河は川幅が狭まる中流域に求めたのは当時の情勢から賢明ながら已む無き処置だったと解される。<br /><br />建設工事は荒川(あらかわ)流域たる埼玉県川口に起点を求め、荒川、及び、利根川を挟み込む形態で建設が着工されたが、建設に要する資材は荒川河口から和船で川口まで運搬したが、当時の河川航行用は小型の和舟しか存在せず、当然ながら和舟での重量物輸送には困難が伴い、事実、小型機とは申せ重量を有する蒸気機関車輸送中に舟がバランスを崩し機関車が河中に転覆し引揚に苦労させられるなどの事故も発生している。<br /><br />即ち、高崎線建設で工事困難と想定されたのは、荒川、神流川(かんらがわ)、烏川(からすがわ)への架橋であった。<br /><br />事実、烏川橋梁は正式開業直後の明治17年(1884年)9月15日に暴風雨が原因で橋桁が流失した為に、同月23日より烏川両岸に仮駅を設置し川舟で渡船連絡を余儀無くされている。<br />同年10月14日仮復旧工事が完了し列車運転が可能となったが、翌明治18年(1885年)7月1日に今度は降雨出水が原因で再度橋梁が破損し、同月14日より前回同様、両岸への仮駅設置と渡船連絡で対処し同年8月4日に復旧した。<br />その後も、明治40年(1907年)5月6日に橋梁被害が生じ、その都度、烏川橋梁は厄介者扱いされたが、明治43年(1910年)8月の大暴風災害で該橋梁は橋脚共々倒壊落橋した事から、監督官庁たる鐵道院は該橋梁を仮復旧させたが、継続使用を断念し、新橋梁建設を決定し、該新橋梁完成後は修理に補修を重ねながら複線化後は下り線専用として使用され新架橋完成後は橋桁や橋脚は撤去されたが、現在でも上り列車上流側に両岸の橋台が残存し実見可能である。<br /><br /><br />東北、及び、蝦夷方面への連絡線建設に就いては、高崎線沿線での分岐は遠距離を有し甚だ迂回となる事から、日本鐵道では再検討の上、最終的に埼玉縣北足立郡大宮村氷川神社所在地付近に於いて分岐し栗橋付近に於いて利根川渡河に変更決定された。<br /><br /><br />大正後期に於ける我が国輸出産業筆頭品は生糸だったが、生糸産地に於ける生糸主要生産地たる信越本線、及び、両毛線発貨物の滞貨が顕著の原因は、高崎線が全線単線でロート状形態となる結果が貨物輸送を困難招来せしめ、輸送力を逼迫要因の打開策として、当時の高崎商工会議所会頭 山田昌吉(やまだ しょうきち)(明治9年(1876年)~昭和19年(1944年))が、鐵道大臣 元田 肇(もとだ はじめ)(安政5年(1858年)2月28日~昭和13年(1938年)10月1日)に対し、大正10年(1921年)4月11日附建議文書を交付し、高崎線全線複線化を提議した。<br /><br />途中、関東大震災(かんとう だいしんさい)(大正12年(1923年)9月1日)発生で工事着工に齟齬を招来したが、上越線、及び、八高線全通を控え鐵道省は複線化に着手し、昭和2年(1927年)8月9日に加茂宮(現 宮原)-上尾間を皮切りに、<br />昭和2年(1927年)10月15日 上尾-桶川間<br />           11月20日 大宮-加茂宮(現 宮原)間<br />昭和3年(1928年)2月1日 桶川-北本宿(現 北本)間<br />            3月30日 鴻巣-吹上間<br />            5月1日 倉賀野-高崎間<br />            6月1日 北本宿(現 北本)-鴻巣間<br />            8月1日 吹上-熊谷間<br />           12月26日 深谷-岡部間<br />昭和4年(1929年)5月1日 熊谷-篭原(現 籠原)間<br />            8月6日 本庄-神保原間<br />昭和5年(1930年)5月16日 神保原-新町間<br />            6月12日 岡部-本庄間<br />            10月16日 新町-倉賀野間<br />烏川橋梁増設を以って複線化が完成したが閉塞保安方法に於いて自動閉塞式を採用せず、他線中古品たる双信閉塞器を流用した為に、1停車場間に閉塞区間が1本列車しか運転出来ず、大東亜戦争末期には北海道から本州への石炭輸送太平洋側海上輸送が敵潜水艦攻撃の対象となった事から、政府は日本海側輸送に切換、新潟港に於いて鉄道貨車に積替輸送とした為に高崎線輸送量が激増し飽和状態が現出した。<br /><br /><br />昭和6年(1931年)9月21日11時19分に埼玉県大里郡寄居町を震源とする西埼玉自身(にしさいたま じしん)発生に拠り、高崎線は熊谷-高崎間に於いて被害が生じ、特に該地震が浅度直下型地震だった為に各駅本屋は震災被害を受け、当時の東京鐵道局上野運輸保線事務所は、取敢えず、昭和9年(1934年)になり大修繕を余儀無くされた。<br /><br /><br />高崎線は全線、昭和17年(1942年)9月10日まで東京鐵道局上野運輸保線事務所管轄下に在ったが、同年3月1日附に於いて東京鐵道局宇都宮運輸保線事務所高崎支所が昇格独立し高崎運輸保線事務所が設置され篭原(現 籠原)-深谷間に境界点を設定し該以北は高崎管轄に変更されたが、更に、同年9月11日より高崎運輸保線事務所は高崎管理部と改称された。<br /><br />戦後、昭和24年(1949年)6月1日附を以って、日本国有鉄道が成立以降、鉄道管理局制度が導入され、此の結果、東京鉄道管理局、及び、高崎鉄道管理局が成立し、翌昭和25年(1950年)8月1日附を以って、局境界点が篭原(現 籠原)-深谷間から大宮-宮原間に変更され現在に至る。<br />然し、戦時下とは在ったとは申せ、8年間のブランクは現在に至るも大きく禍し、一例にすれば、深谷駅以北の停車場に於いて15両編成停車可能なホーム存在駅が高崎駅以外存在しないのは、戦時中に東京鐵道局上野管理部が深谷駅以南に於いて施工した諸設備拡大工事が大きく作用し、現在に至るも強く反映していると言って過言では無い。<br /><br /><br />大東亜戦争後、運輸省鉄道総局は既電化区間たる高崎-長岡間に加え輸送円滑をはかる為に、高崎線全線も電化させるべく昭和22年(1947年)1月に工事着工の計画を進行させていたが、戦後間も無い頃故に準備に手間取り、その間、翌昭和23年(1948年)4月に連合軍総司令部(GHQ)の中止命令に拠り、電化工事は中断せざるを得なくなった。<br />此の為に、既に苦心して準備された資機材一式は、東海道本線沼津-静岡-浜松間、及び、常磐線松戸-取手間電化工事用に転用された。<br />高崎線電化は昭和26年(1951年)6月12日に再開され、翌昭和27年(1952年)3月14日に建築限界測定試験列車が運転され、全区間ほぼ問題無い事が確認された事から同年同月20日に公式試運転が実施され、同年4月1日より電気機関車牽引に依り列車が運転された。<br /><br /><br />表紙の写真は、<br />高崎線新町-高崎開通時の烏川橋梁(からすがわ きょうりょう)高崎方橋台跡群。<br />手前 初代~2代石積単線用橋台<br />中央 3代煉瓦積複線用橋台<br />奥 昭和5年(1930年)架橋現用橋梁

高崎線歴史的痕跡探訪記 ~深谷-高崎間編 明治頌歌~

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2012/01/15 - 2012/01/15

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

高崎線(たかさきせん)は東日本旅客鉄道保有の大宮-高崎間74.7キロの幹線扱の路線である。


明治期に於いて高崎線の最大建設目的は東京対東北地方、及び、蝦夷地たる北海道との連絡鉄道線建設であり、此の区間開通の為に民間企業たる日本鐵道會社が開通させた。

熊谷-本庄間 明治16年(1883年)10月21日開通
本庄-新町間 同年          12月27日開通
新町-高崎間 明治17年(1884年)5月1日仮開業、6月25日正式開業

仮開業から正式開業まで時間が経過したのは、当初の計画では5月1日に明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月30日)の行幸を仰ぎ高崎に於いて開通式典を開催する予定だった。
然るに、該日直前に群馬事件が発覚し開通式典は同月5日に延期された。
群馬事件(ぐんま じけん)とは、明治政府実施政策に対し、主として批判的不平士族階級を中心に、全国各地に於いて国会設置を中心に自由民権運動展開の為に自由党を結成したが、概ね、此れら連中に基幹となるべき政治思想など存在する筈も無く、酒を飲み悲憤慷慨するのが関の山だった一部過激派が生活困窮農民達を唆し、上野-高崎間全通記念式典に参列予定の政府高官達が、途中、本庄駅で昼食の為に小休憩する事を知り、此れを襲撃し全員殺害後、勢いに乗じ、陸軍高崎鎮台分営を乗っ取り、沼田城址に於いて天下に大号令を告知すると云う、極めて杜撰で子供騙しな単純極まり無い成り行き任せの粗雑な内容故に、事前に計画内容全部が警察に完全漏洩状態であり、首謀者は全員捕縛起訴され裁判に於いて実刑判決を受け服役したが、獄死者以外は全員恩赦で出獄した。
同時期に北関東で発生した秩父事件(ちちぶ じけん)、筑波加波山事件(つくば かばやま じけん)と共に、事前謀議も無い陋劣連中が起こした事件である。

因みに、同月5日に延期された開通式典は明治天皇風邪罹病に拠り再延期され翌月25日に開催された。


日本鐵道は当初は本庄付近に於いて利根川を渡河し玉村経由で高崎に建設計画を予定していた。
然るに、玉村は日光例幣使街道沿だった為に鉄道開業を基因とする宿泊客減少を懸念し、一貫して鉄道敷設に対し反対に終始した為に、再検討の結果、現在の新町経由に決定した。
新町では事前に鉄道開通に伴う効果を認識し、株式募集、及び、土地買収に極めて協力的で中には自主的に地所献納を申し出る者すら存在した為に会社は現在線に決定した。


我が国に於ける明治初~中期に於ける大河川への架橋技術は揺籃期に在り、坂東太郎と称する利根川(とねがわ)渡河は川幅が狭まる中流域に求めたのは当時の情勢から賢明ながら已む無き処置だったと解される。

建設工事は荒川(あらかわ)流域たる埼玉県川口に起点を求め、荒川、及び、利根川を挟み込む形態で建設が着工されたが、建設に要する資材は荒川河口から和船で川口まで運搬したが、当時の河川航行用は小型の和舟しか存在せず、当然ながら和舟での重量物輸送には困難が伴い、事実、小型機とは申せ重量を有する蒸気機関車輸送中に舟がバランスを崩し機関車が河中に転覆し引揚に苦労させられるなどの事故も発生している。

即ち、高崎線建設で工事困難と想定されたのは、荒川、神流川(かんらがわ)、烏川(からすがわ)への架橋であった。

事実、烏川橋梁は正式開業直後の明治17年(1884年)9月15日に暴風雨が原因で橋桁が流失した為に、同月23日より烏川両岸に仮駅を設置し川舟で渡船連絡を余儀無くされている。
同年10月14日仮復旧工事が完了し列車運転が可能となったが、翌明治18年(1885年)7月1日に今度は降雨出水が原因で再度橋梁が破損し、同月14日より前回同様、両岸への仮駅設置と渡船連絡で対処し同年8月4日に復旧した。
その後も、明治40年(1907年)5月6日に橋梁被害が生じ、その都度、烏川橋梁は厄介者扱いされたが、明治43年(1910年)8月の大暴風災害で該橋梁は橋脚共々倒壊落橋した事から、監督官庁たる鐵道院は該橋梁を仮復旧させたが、継続使用を断念し、新橋梁建設を決定し、該新橋梁完成後は修理に補修を重ねながら複線化後は下り線専用として使用され新架橋完成後は橋桁や橋脚は撤去されたが、現在でも上り列車上流側に両岸の橋台が残存し実見可能である。


東北、及び、蝦夷方面への連絡線建設に就いては、高崎線沿線での分岐は遠距離を有し甚だ迂回となる事から、日本鐵道では再検討の上、最終的に埼玉縣北足立郡大宮村氷川神社所在地付近に於いて分岐し栗橋付近に於いて利根川渡河に変更決定された。


大正後期に於ける我が国輸出産業筆頭品は生糸だったが、生糸産地に於ける生糸主要生産地たる信越本線、及び、両毛線発貨物の滞貨が顕著の原因は、高崎線が全線単線でロート状形態となる結果が貨物輸送を困難招来せしめ、輸送力を逼迫要因の打開策として、当時の高崎商工会議所会頭 山田昌吉(やまだ しょうきち)(明治9年(1876年)~昭和19年(1944年))が、鐵道大臣 元田 肇(もとだ はじめ)(安政5年(1858年)2月28日~昭和13年(1938年)10月1日)に対し、大正10年(1921年)4月11日附建議文書を交付し、高崎線全線複線化を提議した。

途中、関東大震災(かんとう だいしんさい)(大正12年(1923年)9月1日)発生で工事着工に齟齬を招来したが、上越線、及び、八高線全通を控え鐵道省は複線化に着手し、昭和2年(1927年)8月9日に加茂宮(現 宮原)-上尾間を皮切りに、
昭和2年(1927年)10月15日 上尾-桶川間
           11月20日 大宮-加茂宮(現 宮原)間
昭和3年(1928年)2月1日 桶川-北本宿(現 北本)間
            3月30日 鴻巣-吹上間
            5月1日 倉賀野-高崎間
            6月1日 北本宿(現 北本)-鴻巣間
            8月1日 吹上-熊谷間
           12月26日 深谷-岡部間
昭和4年(1929年)5月1日 熊谷-篭原(現 籠原)間
            8月6日 本庄-神保原間
昭和5年(1930年)5月16日 神保原-新町間
            6月12日 岡部-本庄間
            10月16日 新町-倉賀野間
烏川橋梁増設を以って複線化が完成したが閉塞保安方法に於いて自動閉塞式を採用せず、他線中古品たる双信閉塞器を流用した為に、1停車場間に閉塞区間が1本列車しか運転出来ず、大東亜戦争末期には北海道から本州への石炭輸送太平洋側海上輸送が敵潜水艦攻撃の対象となった事から、政府は日本海側輸送に切換、新潟港に於いて鉄道貨車に積替輸送とした為に高崎線輸送量が激増し飽和状態が現出した。


昭和6年(1931年)9月21日11時19分に埼玉県大里郡寄居町を震源とする西埼玉自身(にしさいたま じしん)発生に拠り、高崎線は熊谷-高崎間に於いて被害が生じ、特に該地震が浅度直下型地震だった為に各駅本屋は震災被害を受け、当時の東京鐵道局上野運輸保線事務所は、取敢えず、昭和9年(1934年)になり大修繕を余儀無くされた。


高崎線は全線、昭和17年(1942年)9月10日まで東京鐵道局上野運輸保線事務所管轄下に在ったが、同年3月1日附に於いて東京鐵道局宇都宮運輸保線事務所高崎支所が昇格独立し高崎運輸保線事務所が設置され篭原(現 籠原)-深谷間に境界点を設定し該以北は高崎管轄に変更されたが、更に、同年9月11日より高崎運輸保線事務所は高崎管理部と改称された。

戦後、昭和24年(1949年)6月1日附を以って、日本国有鉄道が成立以降、鉄道管理局制度が導入され、此の結果、東京鉄道管理局、及び、高崎鉄道管理局が成立し、翌昭和25年(1950年)8月1日附を以って、局境界点が篭原(現 籠原)-深谷間から大宮-宮原間に変更され現在に至る。
然し、戦時下とは在ったとは申せ、8年間のブランクは現在に至るも大きく禍し、一例にすれば、深谷駅以北の停車場に於いて15両編成停車可能なホーム存在駅が高崎駅以外存在しないのは、戦時中に東京鐵道局上野管理部が深谷駅以南に於いて施工した諸設備拡大工事が大きく作用し、現在に至るも強く反映していると言って過言では無い。


大東亜戦争後、運輸省鉄道総局は既電化区間たる高崎-長岡間に加え輸送円滑をはかる為に、高崎線全線も電化させるべく昭和22年(1947年)1月に工事着工の計画を進行させていたが、戦後間も無い頃故に準備に手間取り、その間、翌昭和23年(1948年)4月に連合軍総司令部(GHQ)の中止命令に拠り、電化工事は中断せざるを得なくなった。
此の為に、既に苦心して準備された資機材一式は、東海道本線沼津-静岡-浜松間、及び、常磐線松戸-取手間電化工事用に転用された。
高崎線電化は昭和26年(1951年)6月12日に再開され、翌昭和27年(1952年)3月14日に建築限界測定試験列車が運転され、全区間ほぼ問題無い事が確認された事から同年同月20日に公式試運転が実施され、同年4月1日より電気機関車牽引に依り列車が運転された。


表紙の写真は、
高崎線新町-高崎開通時の烏川橋梁(からすがわ きょうりょう)高崎方橋台跡群。
手前 初代~2代石積単線用橋台
中央 3代煉瓦積複線用橋台
奥 昭和5年(1930年)架橋現用橋梁

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 深谷(ふかや)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、熊谷-本庄間開通の明治16年(1883年)10月21日開業。<br />該駅をして全国に名を知らしめたのは、明治21年(1888年)操業開始の日本煉瓦製造完成品発送地である。<br />即ち、該製品は当初は利根川を利用し和舟を以って東京方面に輸送していたが、川舟では輸送量に限界が生じ滞貨の為に工場操業を停止する事態に陥り、此れを打開の為に貨物を直通させるべく、明治28年(1895年)5月に日本煉瓦製造上敷面工場まで4.2km間に専用鉄道を敷設し貨車を直通運転させ、更に、同年10月1日より牛力牽引に代り蒸気機関車牽引となり、それまで販路は東京横浜近辺に限定されたものが全国販売へと拡大させる転機となった。<br />昭和6年(1931年)9月21日11時19分に寄居付近を震源とする西埼玉地震発生被害に拠り初代駅本屋が損傷した事から、昭和9年(1934年)2月3日附で第2代目駅本屋に改築された。<br />高崎線大宮-高崎間は昭和27年(1952年)4月1日に全線電化されたが、該工事中たる昭和26年(1951年)9月24日に該駅出札で32万円盗難事件が発生した。<br />電化工事に伴うゴタゴタで工事関係者の出入りが盛んだった事から犯人を特定出来ず該事件は時効を迎え迷宮入りとなった。<br />第2代目駅本屋は深谷市民に親しまれた存在だったが、老朽化の為に改築される事になり、現駅本屋は平成8年(1996年)8月に竣工したが、嘗て深谷の街が煉瓦製造地たる事を証明するが如く、該駅本屋は橋上様式ながら東京駅竣工当時の建築をモティーフにしたものである。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1350

    深谷(ふかや)駅



    駅本屋
    該駅は、熊谷-本庄間開通の明治16年(1883年)10月21日開業。
    該駅をして全国に名を知らしめたのは、明治21年(1888年)操業開始の日本煉瓦製造完成品発送地である。
    即ち、該製品は当初は利根川を利用し和舟を以って東京方面に輸送していたが、川舟では輸送量に限界が生じ滞貨の為に工場操業を停止する事態に陥り、此れを打開の為に貨物を直通させるべく、明治28年(1895年)5月に日本煉瓦製造上敷面工場まで4.2km間に専用鉄道を敷設し貨車を直通運転させ、更に、同年10月1日より牛力牽引に代り蒸気機関車牽引となり、それまで販路は東京横浜近辺に限定されたものが全国販売へと拡大させる転機となった。
    昭和6年(1931年)9月21日11時19分に寄居付近を震源とする西埼玉地震発生被害に拠り初代駅本屋が損傷した事から、昭和9年(1934年)2月3日附で第2代目駅本屋に改築された。
    高崎線大宮-高崎間は昭和27年(1952年)4月1日に全線電化されたが、該工事中たる昭和26年(1951年)9月24日に該駅出札で32万円盗難事件が発生した。
    電化工事に伴うゴタゴタで工事関係者の出入りが盛んだった事から犯人を特定出来ず該事件は時効を迎え迷宮入りとなった。
    第2代目駅本屋は深谷市民に親しまれた存在だったが、老朽化の為に改築される事になり、現駅本屋は平成8年(1996年)8月に竣工したが、嘗て深谷の街が煉瓦製造地たる事を証明するが如く、該駅本屋は橋上様式ながら東京駅竣工当時の建築をモティーフにしたものである。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1350

  • 深谷駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅本屋は、煉瓦生産地だった史実に因み、東京駅完成当時をモデルに設計されたが、現実に東京駅復元作業が完了し両者を比較すると似て非なる感は否めず。

    深谷駅



    駅本屋
    該駅本屋は、煉瓦生産地だった史実に因み、東京駅完成当時をモデルに設計されたが、現実に東京駅復元作業が完了し両者を比較すると似て非なる感は否めず。

  • 深谷駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />側壁は石積様式。

    深谷駅



    第2番ホーム
    側壁は石積様式。

  • 岡部駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />明治42年(1909年)12月25日竣工<br />該線内で、新町駅と共に開業当初の駅本屋が現存。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=356

    岡部駅



    駅本屋
    明治42年(1909年)12月25日竣工
    該線内で、新町駅と共に開業当初の駅本屋が現存。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=356

    新町駅

    新町駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 岡部駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />裏側

    岡部駅



    駅本屋
    裏側

  • 岡部駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />裏側

    岡部駅



    駅本屋
    裏側

  • 岡部駅<br /><br /><br /><br />ホーム、及び、跨線橋

    岡部駅



    ホーム、及び、跨線橋

  • 岡部駅<br /><br /><br /><br />駅跨線橋

    岡部駅



    駅跨線橋

  • 岡部駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋支柱古軌条<br />G.H.H.1926<br />(独ギュースヒュッテ社 1926年製造 鐵道省発注品)

    岡部駅



    ホーム上屋支柱古軌条
    G.H.H.1926
    (独ギュースヒュッテ社 1926年製造 鐵道省発注品)

  • 岡部駅<br /><br /><br /><br />構内<br />

    岡部駅



    構内

  • 岡部駅<br /><br /><br /><br />ホーム上屋支柱古軌条

    岡部駅



    ホーム上屋支柱古軌条

  • 岡部駅<br /><br /><br /><br />該駅は、該沿線で数少ない貨物取扱を実施。<br />根岸線根岸駅発該駅JX日鉱日石エネルギー宛タンク車、及び、関東分岐器取扱が現存。

    岡部駅



    該駅は、該沿線で数少ない貨物取扱を実施。
    根岸線根岸駅発該駅JX日鉱日石エネルギー宛タンク車、及び、関東分岐器取扱が現存。

  • 岡部駅<br /><br /><br /><br />関東分岐器(株)岡部工場<br /><br />深谷市岡1515<br />高崎線岡部駅 徒歩3分

    岡部駅



    関東分岐器(株)岡部工場

    深谷市岡1515
    高崎線岡部駅 徒歩3分

  • 岡部駅<br /><br /><br /><br />関東分岐(株)岡部工場<br />分岐器(ポイント)製造企業<br />日本車輌製造東京支店蕨工場閉鎖と共に、該所に於いて製造していた分岐器製造部門を吸収拡大。<br /><br />深谷市岡1616<br />高崎線岡部駅 徒歩3分

    岡部駅



    関東分岐(株)岡部工場
    分岐器(ポイント)製造企業
    日本車輌製造東京支店蕨工場閉鎖と共に、該所に於いて製造していた分岐器製造部門を吸収拡大。

    深谷市岡1616
    高崎線岡部駅 徒歩3分

  • 岡部駅<br /><br /><br /><br />JX日鉱日石エネルギー(株)岡部油槽所<br />該駅対根岸線根岸駅間に於ける石油類貨物輸送は関東地区に於ける重要貨物取扱輸送品。<br /><br />深谷市岡1566−2<br />高崎線岡部駅 徒歩7分

    岡部駅



    JX日鉱日石エネルギー(株)岡部油槽所
    該駅対根岸線根岸駅間に於ける石油類貨物輸送は関東地区に於ける重要貨物取扱輸送品。

    深谷市岡1566−2
    高崎線岡部駅 徒歩7分

  • 岡部駅<br /><br /><br /><br />構内<br />全景

    岡部駅



    構内
    全景

  • 岡部駅<br /><br /><br /><br />東西連絡通路<br />該駅橋上化の暁には該連絡橋が活用予定。

    岡部駅



    東西連絡通路
    該駅橋上化の暁には該連絡橋が活用予定。

  • 岡部駅<br /><br /><br /><br />駅前通<br /><br />深谷市岡2661−8<br />高崎線岡部駅 徒歩15秒

    岡部駅



    駅前通

    深谷市岡2661−8
    高崎線岡部駅 徒歩15秒

  • 岡部-本庄間<br /><br /><br /><br />山川村踏切(やまかわむら ふみきり)<br />該踏切から岡部駅構内俯瞰<br /><br />深谷市岡2100<br />高崎線岡部駅 徒歩7分

    岡部-本庄間



    山川村踏切(やまかわむら ふみきり)
    該踏切から岡部駅構内俯瞰

    深谷市岡2100
    高崎線岡部駅 徒歩7分

  • 岡部-本庄間<br /><br /><br /><br />六部ヶ池(むべがいけ)架道橋<br /><br />深谷市岡部町榛沢271<br />高崎線岡部駅 徒歩50分

    岡部-本庄間



    六部ヶ池(むべがいけ)架道橋

    深谷市岡部町榛沢271
    高崎線岡部駅 徒歩50分

  • 岡部-本庄間<br /><br /><br /><br />六部ヶ池架道橋<br />手前橋台が開業当時建築物。<br />奥は複線化時建築。<br /><br />深谷市榛沢271<br />高崎線岡部駅 徒歩50分

    岡部-本庄間



    六部ヶ池架道橋
    手前橋台が開業当時建築物。
    奥は複線化時建築。

    深谷市榛沢271
    高崎線岡部駅 徒歩50分

  • 岡部-本庄間<br /><br /><br /><br />六部ヶ池架道橋<br /><br />深谷市岡部町榛沢271<br />高崎線岡部駅 徒歩50分

    岡部-本庄間



    六部ヶ池架道橋

    深谷市岡部町榛沢271
    高崎線岡部駅 徒歩50分

  • 岡部-本庄間<br /><br /><br /><br />身馴川橋梁(みなれがわ きょうりょう)<br /><br />本庄市西五十子無番地<br />高崎線岡部駅 徒歩60分

    岡部-本庄間



    身馴川橋梁(みなれがわ きょうりょう)

    本庄市西五十子無番地
    高崎線岡部駅 徒歩60分

  • 岡部-本庄間<br /><br /><br /><br />身馴川橋梁<br />手前側煉瓦積橋台が開業時建築。<br /><br />本庄市西五十子無番地<br />高崎線岡部駅 徒歩60分

    岡部-本庄間



    身馴川橋梁
    手前側煉瓦積橋台が開業時建築。

    本庄市西五十子無番地
    高崎線岡部駅 徒歩60分

  • 岡部-本庄間<br /><br /><br /><br />身馴川橋梁<br /><br />本庄市西五十子無番地<br />高崎線岡部駅 徒歩60分

    岡部-本庄間



    身馴川橋梁

    本庄市西五十子無番地
    高崎線岡部駅 徒歩60分

  • 本庄(ほんじょう)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />明治16年(1883年)10月21日に熊谷-新町間延長時に深谷駅と共に開業。<br />その後、昭和4年(1929年)8月6日に本庄-神保原間、及び、翌昭和5年(1930年)6月12日に岡部-本庄間が複線化される。<br />駅本屋は、大正2年(1913年)に第2代目に改築後、昭和62年(1987年)2月20日に現駅本屋に再改築されると共に橋上駅舎化され、同時に南口開設。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1408

    本庄(ほんじょう)駅



    駅本屋
    明治16年(1883年)10月21日に熊谷-新町間延長時に深谷駅と共に開業。
    その後、昭和4年(1929年)8月6日に本庄-神保原間、及び、翌昭和5年(1930年)6月12日に岡部-本庄間が複線化される。
    駅本屋は、大正2年(1913年)に第2代目に改築後、昭和62年(1987年)2月20日に現駅本屋に再改築されると共に橋上駅舎化され、同時に南口開設。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1408

  • 本庄駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />北口<br />本庄カルタ碑

    本庄駅



    駅本屋
    北口
    本庄カルタ碑

  • 本庄駅<br /><br /><br /><br />南口<br />昭和62年(1987年)2月20日、民営分割直前に橋上化と共に開設。

    本庄駅



    南口
    昭和62年(1987年)2月20日、民営分割直前に橋上化と共に開設。

  • 本庄駅<br /><br /><br /><br />南口<br />連絡階段<br />左階段部はエスカレーター用スペース。<br />橋上化以来25年経過するもエスカレーター未設置。<br />地元住民にとって大迷惑な日々。

    本庄駅



    南口
    連絡階段
    左階段部はエスカレーター用スペース。
    橋上化以来25年経過するもエスカレーター未設置。
    地元住民にとって大迷惑な日々。

  • 神保原(じんぼはら)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />明治30年(1897年)11月27日開業<br />但し、開業当時は現位置より大宮方1.6K地点設置。<br />明治40年(1907年)11月1日現位置移転。<br />駅本屋は現位置移転時建築物。<br />昭和9年(1934年)大修理。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=880

    神保原(じんぼはら)駅



    駅本屋
    明治30年(1897年)11月27日開業
    但し、開業当時は現位置より大宮方1.6K地点設置。
    明治40年(1907年)11月1日現位置移転。
    駅本屋は現位置移転時建築物。
    昭和9年(1934年)大修理。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=880

  • 神保原駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />改札口付近<br />該駅は出札窓口廃止。<br />然も、本年2月29日を以って指定券発売端末機をも撤去した為に、該駅では自駅以外発の近距離乗車券類以外の発売不可となる。

    神保原駅



    駅本屋
    改札口付近
    該駅は出札窓口廃止。
    然も、本年2月29日を以って指定券発売端末機をも撤去した為に、該駅では自駅以外発の近距離乗車券類以外の発売不可となる。

  • 神保原駅<br /><br /><br /><br />構内<br />ホーム側壁石積。

    神保原駅



    構内
    ホーム側壁石積。

  • 神保原駅<br /><br /><br /><br />駅前<br />裏寂れた心象拭えず。

    神保原駅



    駅前
    裏寂れた心象拭えず。

  • 神保原-新町間<br /><br /><br /><br />高崎方<br />神保原駅構内<br />俯瞰<br /><br />児玉郡上里町神保原285<br />高崎線神保原駅 徒歩3分

    神保原-新町間



    高崎方
    神保原駅構内
    俯瞰

    児玉郡上里町神保原285
    高崎線神保原駅 徒歩3分

  • 神保原-新町間<br /><br /><br /><br />高崎方<br />神保原駅構内<br />俯瞰<br /><br />児玉郡上里町神保原285<br />高崎線神保原駅 徒歩3分

    神保原-新町間



    高崎方
    神保原駅構内
    俯瞰

    児玉郡上里町神保原285
    高崎線神保原駅 徒歩3分

  • 神保原-新町間<br /><br /><br /><br />新神流川橋梁<br />旧橋梁側交換の為に元線とは前方が屈曲線を描く。<br /><br />児玉郡上里町勅使河原1864−1<br />高崎線神保原駅 徒歩30分

    神保原-新町間



    新神流川橋梁
    旧橋梁側交換の為に元線とは前方が屈曲線を描く。

    児玉郡上里町勅使河原1864−1
    高崎線神保原駅 徒歩30分

  • 神保原-新町間<br /><br /><br /><br />旧神流川橋梁<br />取付線跡<br />旧該橋梁は明治16年(1883年)12月27日単線開通時の橋梁に加え、昭和5年(1930年)5月16日複線化時の増線橋梁が存在したが、昭和16年(1941年)7月22日襲来の台風被害で神流川河身が高崎方に編向した事が原因で橋脚に無理が発生した事と、明治16年架橋橋梁の老朽化が著しく、昭和33年(1958年)10月9日〜同年12月23日に列車運行を継続しながら一部橋桁を交換し橋脚強化工事を実施したが、その後の老朽化に歯止めが掛けられず、昭和60年(1985年)10月3日に現 新神流川橋梁使用開始と同時に旧橋梁は廃止された。<br />その後、河川護岸工事施行の為に、旧橋梁橋台、及び、橋脚を撤去、現存せず。<br /><br />児玉郡上里町勅使河原1864−1<br />高崎線神保原駅 徒歩30分

    神保原-新町間



    旧神流川橋梁
    取付線跡
    旧該橋梁は明治16年(1883年)12月27日単線開通時の橋梁に加え、昭和5年(1930年)5月16日複線化時の増線橋梁が存在したが、昭和16年(1941年)7月22日襲来の台風被害で神流川河身が高崎方に編向した事が原因で橋脚に無理が発生した事と、明治16年架橋橋梁の老朽化が著しく、昭和33年(1958年)10月9日〜同年12月23日に列車運行を継続しながら一部橋桁を交換し橋脚強化工事を実施したが、その後の老朽化に歯止めが掛けられず、昭和60年(1985年)10月3日に現 新神流川橋梁使用開始と同時に旧橋梁は廃止された。
    その後、河川護岸工事施行の為に、旧橋梁橋台、及び、橋脚を撤去、現存せず。

    児玉郡上里町勅使河原1864−1
    高崎線神保原駅 徒歩30分

  • 神保原-新町間<br /><br /><br /><br />新神流川橋梁<br />大宮方から俯瞰<br /><br />児玉郡上里町勅使河原1864−1<br />高崎線神保原駅 徒歩30分

    神保原-新町間



    新神流川橋梁
    大宮方から俯瞰

    児玉郡上里町勅使河原1864−1
    高崎線神保原駅 徒歩30分

  • 神保原-新町間<br /><br /><br /><br />新神流川橋梁<br />全景<br />第2代目橋梁<br />昭和60年(1985年)10月3日使用開始。<br /><br />児玉郡上里町勅使河原1864−1<br />高崎線神保原駅 徒歩30分

    神保原-新町間



    新神流川橋梁
    全景
    第2代目橋梁
    昭和60年(1985年)10月3日使用開始。

    児玉郡上里町勅使河原1864−1
    高崎線神保原駅 徒歩30分

  • 神保原-新町間<br /><br /><br /><br />大宮方<br />新町駅構内<br />俯瞰

    神保原-新町間



    大宮方
    新町駅構内
    俯瞰

    新町駅

    新町駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 新町(しんまち)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />明治16年(1883年)12月27日開業<br />昭和9年(1934年)10月大改修<br />朝鮮動乱(ちょうせん どうらん)(昭和25年(1950年)6月21日〜昭和28年(1953年)7月21日)勃発後、連合軍への戦車供給輸送の為に該駅に補助R・T・O設置(昭和26年(1951年)9月10日〜昭和27年(1952年)3月7日)。<br />駅本屋は開業当時の建築。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=882

    新町(しんまち)駅



    駅本屋
    明治16年(1883年)12月27日開業
    昭和9年(1934年)10月大改修
    朝鮮動乱(ちょうせん どうらん)(昭和25年(1950年)6月21日〜昭和28年(1953年)7月21日)勃発後、連合軍への戦車供給輸送の為に該駅に補助R・T・O設置(昭和26年(1951年)9月10日〜昭和27年(1952年)3月7日)。
    駅本屋は開業当時の建築。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=882

    新町駅

    新町駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 新町駅<br /><br /><br /><br />ホーム煉瓦積側壁<br />下部明治17年(1884年)開業時設置<br />上部明治後期打上積

    新町駅



    ホーム煉瓦積側壁
    下部明治17年(1884年)開業時設置
    上部明治後期打上積

    新町駅

    新町駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 新町駅<br /><br /><br /><br />危険物保管小屋<br />正面<br />日本鐵道時代の建築物。

    新町駅



    危険物保管小屋
    正面
    日本鐵道時代の建築物。

    新町駅

    新町駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 新町駅<br /><br /><br /><br />危険物保管小屋<br />全景<br />建築当時は室内燈油保管取扱庫<br />大正14年(1925年)までに旅客車輌に対する車軸発電機と蓄電器搭載がほぼ完了し車内に電燈が設備されたが、それ以前は屋根から油燈を差込み車内照明としていた時代は、主要駅に油取扱の為の危険品扱倉庫が設置されていた。

    新町駅



    危険物保管小屋
    全景
    建築当時は室内燈油保管取扱庫
    大正14年(1925年)までに旅客車輌に対する車軸発電機と蓄電器搭載がほぼ完了し車内に電燈が設備されたが、それ以前は屋根から油燈を差込み車内照明としていた時代は、主要駅に油取扱の為の危険品扱倉庫が設置されていた。

    新町駅

    新町駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 新町駅<br /><br /><br /><br />危険物保管小屋<br />日本鐵道独自の建築の特徴を濃厚に残す上部が円状曲線構造。

    新町駅



    危険物保管小屋
    日本鐵道独自の建築の特徴を濃厚に残す上部が円状曲線構造。

    新町駅

    新町駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 新町駅<br /><br /><br /><br />危険物保管小屋<br />側面全景<br />日本鐵道時代建築の危険物保管小屋の多くは解体されたが、首都圏近郊で、東北本線氏家駅、矢板駅、及び、野崎駅に現存。

    新町駅



    危険物保管小屋
    側面全景
    日本鐵道時代建築の危険物保管小屋の多くは解体されたが、首都圏近郊で、東北本線氏家駅、矢板駅、及び、野崎駅に現存。

    新町駅

    新町駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 新町駅<br /><br /><br /><br />危険物保管小屋<br />側面<br />英國積様式<br />焼過煉瓦使用に拠る装飾様式。

    新町駅



    危険物保管小屋
    側面
    英國積様式
    焼過煉瓦使用に拠る装飾様式。

    新町駅

    新町駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 新町駅<br /><br /><br />危険物保管小屋<br />財産標<br />該財産標に明治43年(1910年)と表示に就いて、該建築物は構造上から見て、明らかに明治10年代後半から明治30年代前半に於ける日本鐵道時代建築物で、故に該財産標記は明らかに誤りである。<br />日本鐵道は明治39年(1906年)11月1日附を以って政府に買収後、帝國鐵道庁時代に買収物件に対し、明治41年(1908年)12月5日附で成立した鐵道院は、動産、及び、不動産の再確認調査を実施した処、該建築物が国有資産台帳管理登録精査の際に未登記が判明した。<br />該年に登録追加記載が原因と推定される。

    新町駅


    危険物保管小屋
    財産標
    該財産標に明治43年(1910年)と表示に就いて、該建築物は構造上から見て、明らかに明治10年代後半から明治30年代前半に於ける日本鐵道時代建築物で、故に該財産標記は明らかに誤りである。
    日本鐵道は明治39年(1906年)11月1日附を以って政府に買収後、帝國鐵道庁時代に買収物件に対し、明治41年(1908年)12月5日附で成立した鐵道院は、動産、及び、不動産の再確認調査を実施した処、該建築物が国有資産台帳管理登録精査の際に未登記が判明した。
    該年に登録追加記載が原因と推定される。

    新町駅

    新町駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 新町駅<br /><br /><br />跨線橋<br />支柱使用古軌条

    新町駅


    跨線橋
    支柱使用古軌条

    新町駅

    新町駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 新町駅<br /><br /><br /><br />新町駅開業後、全国各地に○○新町、□□新町と附称される駅名はバス停も含有すれば膨大な数になるであろうと推定される。<br />高崎線新町駅は元祖の存在として君臨したが、早くも、明治43年(1910年)6月24日に危機が訪れた。<br />即ち、鐵道院は群馬縣多野郡役所を経由し、鉄道が全国に敷設された事で新町の名称が全国各地で使用されており、全部変更を要すると考えられるが、変更希望とする名称に就いて照会を受けた。<br />然るに、町長名を以って同月26日に公文書を以って断固反対見解たるを返答した。<br /><br />鐵道停車場驛名ニ関スル件<br />首題ノ件本月弐拾四日附収第弐六九七號ヲ以テ御照会ニ相成リ候ニ付、左ノ通リ答申仕候。<br />当新町ハ中仙道ノ要路ニシテ古来上野ノ咽喉且枢要地也、為ニ鐵道ノ開通ハ最モ古ク、過ル明治壱拾六年以来新町ノ名称ヲ伝昌シ、従テ蚕種業商業上ノ歴史ヲ有シ、蚕種販売ノ関係ハ全国ニ及ヒ、又商業上ニアリテハ横濱開港以来錦糸ノ名声伝リ候次第ニシテ、今日新町ナル固有名詞ヲ変更スルトキハ少ナカラス影響ヲ生シ本町ノ発展ニ一大打撃ニモ有之候、然ニ其後開通セル線路に舒同驛名モ有之候由ナルモ、是等ハ大驛トハ察セラレス候ニ付、他驛ノ名称御変更被成下候様願度、当驛ハ此如キ旧キ歴史モ有之、且他ニ適当ノ名称無之候間、町民一般ノ希望ニモ有之候間、従前ノ如ク新町ナル驛名ヲ持続相成様、御詮議ノ上御取計相成度、此段及陳情候也<br />明治四拾参年六月弐拾六日<br />            新町長<br />            多野郡長殿<br /><br />該回答に対し同月28日に再度、多野郡長から適当なる名称無しと回答したが、随意に名称変更の可能性有りとの指摘をし再考すべきとの意見書を提出したが、新町側が強硬に反対した為に鐵道院は篤と了解し駅名改称案は廃案になった。

    新町駅



    新町駅開業後、全国各地に○○新町、□□新町と附称される駅名はバス停も含有すれば膨大な数になるであろうと推定される。
    高崎線新町駅は元祖の存在として君臨したが、早くも、明治43年(1910年)6月24日に危機が訪れた。
    即ち、鐵道院は群馬縣多野郡役所を経由し、鉄道が全国に敷設された事で新町の名称が全国各地で使用されており、全部変更を要すると考えられるが、変更希望とする名称に就いて照会を受けた。
    然るに、町長名を以って同月26日に公文書を以って断固反対見解たるを返答した。

    鐵道停車場驛名ニ関スル件
    首題ノ件本月弐拾四日附収第弐六九七號ヲ以テ御照会ニ相成リ候ニ付、左ノ通リ答申仕候。
    当新町ハ中仙道ノ要路ニシテ古来上野ノ咽喉且枢要地也、為ニ鐵道ノ開通ハ最モ古ク、過ル明治壱拾六年以来新町ノ名称ヲ伝昌シ、従テ蚕種業商業上ノ歴史ヲ有シ、蚕種販売ノ関係ハ全国ニ及ヒ、又商業上ニアリテハ横濱開港以来錦糸ノ名声伝リ候次第ニシテ、今日新町ナル固有名詞ヲ変更スルトキハ少ナカラス影響ヲ生シ本町ノ発展ニ一大打撃ニモ有之候、然ニ其後開通セル線路に舒同驛名モ有之候由ナルモ、是等ハ大驛トハ察セラレス候ニ付、他驛ノ名称御変更被成下候様願度、当驛ハ此如キ旧キ歴史モ有之、且他ニ適当ノ名称無之候間、町民一般ノ希望ニモ有之候間、従前ノ如ク新町ナル驛名ヲ持続相成様、御詮議ノ上御取計相成度、此段及陳情候也
    明治四拾参年六月弐拾六日
                新町長
                多野郡長殿

    該回答に対し同月28日に再度、多野郡長から適当なる名称無しと回答したが、随意に名称変更の可能性有りとの指摘をし再考すべきとの意見書を提出したが、新町側が強硬に反対した為に鐵道院は篤と了解し駅名改称案は廃案になった。

    新町駅

    新町駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 新町駅<br /><br /><br />駅前広場<br />昭和32年(1957年)1月に町区画整理事業整備で竣工。

    新町駅


    駅前広場
    昭和32年(1957年)1月に町区画整理事業整備で竣工。

    新町駅

    新町駅危険物保管倉庫〔鉄道産業資産〕 by 横浜臨海公園さん
  • 新町-北藤岡間<br /><br /><br /><br />七曲踏切(ななまがり ふみきり)<br />高崎方から新町駅構内を俯瞰<br /><br />高崎市新町2267−10<br />高崎線新町駅 徒歩3分

    新町-北藤岡間



    七曲踏切(ななまがり ふみきり)
    高崎方から新町駅構内を俯瞰

    高崎市新町2267−10
    高崎線新町駅 徒歩3分

  • 新町-北藤岡間<br /><br /><br /><br />元温井川橋梁(もとぬくいがわ きょうりょう)<br />煉瓦積橋台<br />元本線側<br /><br />藤岡市岡之郷2336<br />高崎線新町駅 徒歩12分

    新町-北藤岡間



    元温井川橋梁(もとぬくいがわ きょうりょう)
    煉瓦積橋台
    元本線側

    藤岡市岡之郷2336
    高崎線新町駅 徒歩12分

  • 新町-北藤岡間<br /><br /><br /><br />温井川橋梁(ぬくいがわ きょうりょう)<br /><br />藤岡市立石962−2<br />高崎線新町駅 徒歩14分

    新町-北藤岡間



    温井川橋梁(ぬくいがわ きょうりょう)

    藤岡市立石962−2
    高崎線新町駅 徒歩14分

  • 新町-北藤岡間<br /><br /><br /><br />温井川橋梁<br /><br />藤岡市立石962−2<br />高崎線新町駅 徒歩14分

    新町-北藤岡間



    温井川橋梁

    藤岡市立石962−2
    高崎線新町駅 徒歩14分

  • 新町-北藤岡間<br /><br /><br /><br />高崎線<br />左手ホームは八高線北藤岡駅<br /><br />藤岡市立石758<br />八高線北藤岡駅 徒歩3分

    新町-北藤岡間



    高崎線
    左手ホームは八高線北藤岡駅

    藤岡市立石758
    八高線北藤岡駅 徒歩3分

    北藤岡駅

  • 北藤岡(きたふじおか)駅<br /><br /><br /><br />北藤岡駅は昭和5年(1930年)10月15日に高崎線上に当時の八高北線建設工事列車運転分岐の為に臨時設置された小野仮信号所が嚆矢。<br />翌昭和6年(1931年)7月1日に八高北線小野-児玉間が開通した際に「仮」が取れ小野信号所に昇格。<br />八高北線は昭和9年(1934年)10月6日に小川町-寄居間開通で全通し晴れて八高線と命名。<br />戦後、昭和36年(1961年)2月21日に旅客営業開始と共に北藤岡駅に名称変更格上。<br /><br />藤岡市立石566<br />八高線北藤岡駅 徒歩1分<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=584

    北藤岡(きたふじおか)駅



    北藤岡駅は昭和5年(1930年)10月15日に高崎線上に当時の八高北線建設工事列車運転分岐の為に臨時設置された小野仮信号所が嚆矢。
    翌昭和6年(1931年)7月1日に八高北線小野-児玉間が開通した際に「仮」が取れ小野信号所に昇格。
    八高北線は昭和9年(1934年)10月6日に小川町-寄居間開通で全通し晴れて八高線と命名。
    戦後、昭和36年(1961年)2月21日に旅客営業開始と共に北藤岡駅に名称変更格上。

    藤岡市立石566
    八高線北藤岡駅 徒歩1分
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=584

    北藤岡駅

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />高崎線八高線分岐点<br />奥は北藤岡駅<br />左手は高崎線<br /><br />藤岡市立石559<br />八高線北藤岡駅 徒歩1分<br /><br />

    北藤岡-倉賀野間



    高崎線八高線分岐点
    奥は北藤岡駅
    左手は高崎線

    藤岡市立石559
    八高線北藤岡駅 徒歩1分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />第二拾弐踏切(だいにじゅうに ふみきり)<br /><br />藤岡市立石559<br />八高線北藤岡駅 徒歩1分

    北藤岡-倉賀野間



    第二拾弐踏切(だいにじゅうに ふみきり)

    藤岡市立石559
    八高線北藤岡駅 徒歩1分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />第二拾弐踏切<br />元来線路敷設時に該地に地名が存在しなかった為に数字表記となった。<br />北海道では多数存在するが本州、殊に、関東では稀有の例。<br /><br />藤岡市立石566<br />八高線北藤岡駅 徒歩1分

    北藤岡-倉賀野間



    第二拾弐踏切
    元来線路敷設時に該地に地名が存在しなかった為に数字表記となった。
    北海道では多数存在するが本州、殊に、関東では稀有の例。

    藤岡市立石566
    八高線北藤岡駅 徒歩1分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />高崎線八高線分岐点<br />右から<br />高崎線上り線<br />高崎線下り線<br />八高線<br /><br />藤岡市立石566<br />八高線北藤岡駅 徒歩1分

    北藤岡-倉賀野間



    高崎線八高線分岐点
    右から
    高崎線上り線
    高崎線下り線
    八高線

    藤岡市立石566
    八高線北藤岡駅 徒歩1分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />旧 小野信号所跡<br />昭和5年(1930年)7月1日に該地点に八高北線建設列車分岐の為に小野仮信号所設置が嚆矢。<br />開設当時は新町駅長が管轄。<br />中線は高度成長期に高崎線列車本数が激増した際に八高線上り列車退避の為に昭和47年(1972年)7月1日設置。<br /><br />藤岡市立石566<br />八高線北藤岡駅 徒歩1分

    北藤岡-倉賀野間



    旧 小野信号所跡
    昭和5年(1930年)7月1日に該地点に八高北線建設列車分岐の為に小野仮信号所設置が嚆矢。
    開設当時は新町駅長が管轄。
    中線は高度成長期に高崎線列車本数が激増した際に八高線上り列車退避の為に昭和47年(1972年)7月1日設置。

    藤岡市立石566
    八高線北藤岡駅 徒歩1分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />旧 小野信号所跡<br />新駅設置予定地<br />計画案では中線撤去の上、島式ホームを設置計画予定。<br />然し、新駅までの取付道路設置余地が無く、且つ、駅設置に関して建設費全額地元負担が条件たる状態で現状は白紙状態。<br /><br />藤岡市立石523<br />八高線北藤岡駅 徒歩6分

    北藤岡-倉賀野間



    旧 小野信号所跡
    新駅設置予定地
    計画案では中線撤去の上、島式ホームを設置計画予定。
    然し、新駅までの取付道路設置余地が無く、且つ、駅設置に関して建設費全額地元負担が条件たる状態で現状は白紙状態。

    藤岡市立石523
    八高線北藤岡駅 徒歩6分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />清水堀橋梁(しみずぼり きょうりょう)<br />下流側<br />複線化の際に増線。<br />現在は上り線専用橋。<br /><br />藤岡市森新田<br />八高線北藤岡駅 徒歩8分

    北藤岡-倉賀野間



    清水堀橋梁(しみずぼり きょうりょう)
    下流側
    複線化の際に増線。
    現在は上り線専用橋。

    藤岡市森新田
    八高線北藤岡駅 徒歩8分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />清水堀橋梁<br />製造銘板<br />横河橋梁 昭和4年製造<br />E40形式<br />鐵道省<br /><br />藤岡市森新田<br />八高線北藤岡駅 徒歩8分

    北藤岡-倉賀野間



    清水堀橋梁
    製造銘板
    横河橋梁 昭和4年製造
    E40形式
    鐵道省

    藤岡市森新田
    八高線北藤岡駅 徒歩8分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />旧清水堀橋梁<br />上流側<br /><br />藤岡市森新田<br />八高線北藤岡駅 徒歩8分

    北藤岡-倉賀野間



    旧清水堀橋梁
    上流側

    藤岡市森新田
    八高線北藤岡駅 徒歩8分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />旧清水堀橋梁森<br />下流側<br /><br />藤岡市森新田<br />八高線北藤岡駅 徒歩8分

    北藤岡-倉賀野間



    旧清水堀橋梁森
    下流側

    藤岡市森新田
    八高線北藤岡駅 徒歩8分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />旧清水堀橋梁<br />製造銘板<br />川崎造船所兵庫工場<br />明治四拾四年五月製造<br />KAWASAKI DOGKYARD CO.LTD.<br />HIOGO BRANGH WORKS.<br />KOBE,JAPAN.<br /><br />川崎造船所兵庫工場は現在も川崎重工兵庫工場として健在。<br /><br />藤岡市森新田<br />八高線北藤岡駅 徒歩8分

    北藤岡-倉賀野間



    旧清水堀橋梁
    製造銘板
    川崎造船所兵庫工場
    明治四拾四年五月製造
    KAWASAKI DOGKYARD CO.LTD.
    HIOGO BRANGH WORKS.
    KOBE,JAPAN.

    川崎造船所兵庫工場は現在も川崎重工兵庫工場として健在。

    藤岡市森新田
    八高線北藤岡駅 徒歩8分

  • 北藤岡−倉賀野間<br /><br /><br /><br />旧烏川橋梁<br />大宮方橋台全景<br /><br />高崎市阿久津町無番地<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス森新田入口停留所降車 徒歩6分

    北藤岡−倉賀野間



    旧烏川橋梁
    大宮方橋台全景

    高崎市阿久津町無番地
    高崎線高崎駅西口 群馬バス森新田入口停留所降車 徒歩6分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />旧烏川橋梁<br />大宮方橋台横<br />新町-高崎間は、明治17年(1884年)6月25日開業に先立ち同年5月1日に仮開業した。<br />然るに、開業当初は烏川橋梁取扱に関係者は泣かされたらしく、開業早々同年9月15日には暴風雨に依り橋梁が損壊流失し、同月23日より烏川両岸に烏川駅を設置し渡船連絡し同年10月14日に仮開通との記述が見られる。<br />そして、翌明治18年(1885年)7月1日に降雨出水が原因で再度橋梁が破損し同月14日より「両岸ニテ停車シ旅客ヲ移動セシム」との記述が登場する。<br />同年8月4日に「橋梁仮落成セシヲ以テ定刻ニ復ス」とあり橋梁完成直後以降の災難に対する困惑が見て取れる。<br />また、国有化後の明治43年(1910年)8月10日にも暴風雨が原因で再度橋桁が落橋し同年9月19日に復旧した記録が存在する。<br /><br />高崎市阿久津町無番地<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス森新田入口停留所降車 徒歩6分<br />

    北藤岡-倉賀野間



    旧烏川橋梁
    大宮方橋台横
    新町-高崎間は、明治17年(1884年)6月25日開業に先立ち同年5月1日に仮開業した。
    然るに、開業当初は烏川橋梁取扱に関係者は泣かされたらしく、開業早々同年9月15日には暴風雨に依り橋梁が損壊流失し、同月23日より烏川両岸に烏川駅を設置し渡船連絡し同年10月14日に仮開通との記述が見られる。
    そして、翌明治18年(1885年)7月1日に降雨出水が原因で再度橋梁が破損し同月14日より「両岸ニテ停車シ旅客ヲ移動セシム」との記述が登場する。
    同年8月4日に「橋梁仮落成セシヲ以テ定刻ニ復ス」とあり橋梁完成直後以降の災難に対する困惑が見て取れる。
    また、国有化後の明治43年(1910年)8月10日にも暴風雨が原因で再度橋桁が落橋し同年9月19日に復旧した記録が存在する。

    高崎市阿久津町無番地
    高崎線高崎駅西口 群馬バス森新田入口停留所降車 徒歩6分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />旧烏川橋梁<br />大宮方橋台<br />前面<br />昭和5年(1930年)10月16日複線化以降は下り線専用<br /><br />高崎市阿久津町無番地<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス森新田入口停留所降車 徒歩6分

    北藤岡-倉賀野間



    旧烏川橋梁
    大宮方橋台
    前面
    昭和5年(1930年)10月16日複線化以降は下り線専用

    高崎市阿久津町無番地
    高崎線高崎駅西口 群馬バス森新田入口停留所降車 徒歩6分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />烏川橋梁<br />ガーター橋桁部分<br /><br />高崎市阿久津町無番地<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス森新田入口停留所降車 徒歩6分

    北藤岡-倉賀野間



    烏川橋梁
    ガーター橋桁部分

    高崎市阿久津町無番地
    高崎線高崎駅西口 群馬バス森新田入口停留所降車 徒歩6分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />烏川橋梁<br />ガーター橋桁<br />上流側<br />橋桁の仔細を見ると架線柱は追加資材たる事が判る。<br />因みに、該区間電化は昭和27年(1952年)4月1日。<br /><br />高崎市阿久津町無番地<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス森新田入口停留所降車 徒歩6分<br />

    北藤岡-倉賀野間



    烏川橋梁
    ガーター橋桁
    上流側
    橋桁の仔細を見ると架線柱は追加資材たる事が判る。
    因みに、該区間電化は昭和27年(1952年)4月1日。

    高崎市阿久津町無番地
    高崎線高崎駅西口 群馬バス森新田入口停留所降車 徒歩6分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />烏川橋梁<br />製造銘板<br />横河橋梁 昭和5年製造<br />E40形式<br />鐵道省<br /><br />高崎市阿久津町無番地<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス森新田入口停留所降車 徒歩6分

    北藤岡-倉賀野間



    烏川橋梁
    製造銘板
    横河橋梁 昭和5年製造
    E40形式
    鐵道省

    高崎市阿久津町無番地
    高崎線高崎駅西口 群馬バス森新田入口停留所降車 徒歩6分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />烏川橋梁(からすがわ きょうりょう)<br />上り線専用<br /><br />高崎市阿久津町無番地<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス森新田入口停留所降車 徒歩5分

    北藤岡-倉賀野間



    烏川橋梁(からすがわ きょうりょう)
    上り線専用

    高崎市阿久津町無番地
    高崎線高崎駅西口 群馬バス森新田入口停留所降車 徒歩5分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />烏川橋梁<br />奥に見える鉄橋は新烏川橋梁。<br /><br />高崎市阿久津町無番地<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス岩鼻停留所降車 徒歩3分

    北藤岡-倉賀野間



    烏川橋梁
    奥に見える鉄橋は新烏川橋梁。

    高崎市阿久津町無番地
    高崎線高崎駅西口 群馬バス岩鼻停留所降車 徒歩3分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />烏川橋梁<br /><br />高崎市阿久津町無番地<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス岩鼻停留所降車 徒歩3分

    北藤岡-倉賀野間



    烏川橋梁

    高崎市阿久津町無番地
    高崎線高崎駅西口 群馬バス岩鼻停留所降車 徒歩3分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />烏川橋梁<br /><br />高崎市阿久津町無番地<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス岩鼻停留所降車 徒歩3分

    北藤岡-倉賀野間



    烏川橋梁

    高崎市阿久津町無番地
    高崎線高崎駅西口 群馬バス岩鼻停留所降車 徒歩3分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />烏川橋梁<br />昭和5年(1930年)10月16日竣工、使用開始。<br />単純下路ワーレントラス橋梁 47.1m プレートガーター18m×5連。<br /><br />高崎市倉賀野町3409<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス岩鼻停留所降車 徒歩25分

    北藤岡-倉賀野間



    烏川橋梁
    昭和5年(1930年)10月16日竣工、使用開始。
    単純下路ワーレントラス橋梁 47.1m プレートガーター18m×5連。

    高崎市倉賀野町3409
    高崎線高崎駅西口 群馬バス岩鼻停留所降車 徒歩25分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />烏川橋梁<br />通過列車は八高線気動車。<br /><br />高崎市倉賀野町3409<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス岩鼻停留所降車 徒歩25分

    北藤岡-倉賀野間



    烏川橋梁
    通過列車は八高線気動車。

    高崎市倉賀野町3409
    高崎線高崎駅西口 群馬バス岩鼻停留所降車 徒歩25分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br />烏川橋梁<br />高崎方橋台<br /><br />高崎市倉賀野町3390<br />高崎線倉賀野駅 三條電気前停留所降車 徒歩17分

    北藤岡-倉賀野間


    烏川橋梁
    高崎方橋台

    高崎市倉賀野町3390
    高崎線倉賀野駅 三條電気前停留所降車 徒歩17分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />3代烏川橋梁橋台<br />高崎方<br />全景<br />初代烏川橋梁は、日本鐵道技師 河野大瑞が設計担当し架橋着工したが、期限日たる明治17年(1884年)5月日の上野-高崎間開通に間に合わず、取敢えず、橋脚、及び、橋桁は欅材を使用し開業日迄に仮開通させ、完成を待ち同年同月6月25日に竣工させた。<br />然るに、該橋梁は、竣工直後の同年9月15日に暴風雨の為に橋脚が損傷し列車運行が不可能になった事から該橋梁両岸に仮乗降場を設置し、旅客は川舟で渡船連絡を余儀無くされた。<br />同年10月14日に仮復旧工事が完了し列車運転が再開されたが、翌明治18年(1885年)7月1日に、工部省鐵道作業局長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日〜明治43年(1910年)8月2日)一行乗車の列車通過直後に、大音響と共に橋桁、橋脚共に崩落し、同年同月14日より再度前回同様の方法で渡船連絡とし同年8月4日に復旧した。<br />然し、明治40年(1907年)5月6日に再度、橋梁障害が発生し、調査の結果、此のままでは危険と判定された為に帝國鐵道庁は該橋梁を修理し使用したが明治43年(1910年)8月10日の関東大水害で損傷落橋し為に鐵道院は該橋梁完全復旧を断念し、明治45年(1912年)架橋したのが3代目橋梁である。<br /><br />高崎市倉賀野町3390<br />高崎線倉賀野駅 三條電気前停留所降車 徒歩17分

    北藤岡-倉賀野間



    3代烏川橋梁橋台
    高崎方
    全景
    初代烏川橋梁は、日本鐵道技師 河野大瑞が設計担当し架橋着工したが、期限日たる明治17年(1884年)5月日の上野-高崎間開通に間に合わず、取敢えず、橋脚、及び、橋桁は欅材を使用し開業日迄に仮開通させ、完成を待ち同年同月6月25日に竣工させた。
    然るに、該橋梁は、竣工直後の同年9月15日に暴風雨の為に橋脚が損傷し列車運行が不可能になった事から該橋梁両岸に仮乗降場を設置し、旅客は川舟で渡船連絡を余儀無くされた。
    同年10月14日に仮復旧工事が完了し列車運転が再開されたが、翌明治18年(1885年)7月1日に、工部省鐵道作業局長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日〜明治43年(1910年)8月2日)一行乗車の列車通過直後に、大音響と共に橋桁、橋脚共に崩落し、同年同月14日より再度前回同様の方法で渡船連絡とし同年8月4日に復旧した。
    然し、明治40年(1907年)5月6日に再度、橋梁障害が発生し、調査の結果、此のままでは危険と判定された為に帝國鐵道庁は該橋梁を修理し使用したが明治43年(1910年)8月10日の関東大水害で損傷落橋し為に鐵道院は該橋梁完全復旧を断念し、明治45年(1912年)架橋したのが3代目橋梁である。

    高崎市倉賀野町3390
    高崎線倉賀野駅 三條電気前停留所降車 徒歩17分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />3代烏川橋梁橋台<br />高崎方<br />該橋梁は、米ブリッジ社製で明治44年(1911年)に製造された、下路ピン結合プラットトラス橋で総延長469m1連、及び、此れを補完するプレートガーター橋梁18m5連から成立していた。<br />老朽化の為に、昭和28年(1953年)にアイバーを修理交換したが、老朽化がさらに進行した事から、昭和48年(1973年)に新烏川橋梁が成立した為に新烏側橋梁竣工を以って昭和48年(1973年)に廃橋になり橋脚橋桁共々撤去されたが、両岸の橋台が現存。<br /><br />高崎市倉賀野町3390<br />高崎線倉賀野駅 三條電気前停留所降車 徒歩17分

    北藤岡-倉賀野間



    3代烏川橋梁橋台
    高崎方
    該橋梁は、米ブリッジ社製で明治44年(1911年)に製造された、下路ピン結合プラットトラス橋で総延長469m1連、及び、此れを補完するプレートガーター橋梁18m5連から成立していた。
    老朽化の為に、昭和28年(1953年)にアイバーを修理交換したが、老朽化がさらに進行した事から、昭和48年(1973年)に新烏川橋梁が成立した為に新烏側橋梁竣工を以って昭和48年(1973年)に廃橋になり橋脚橋桁共々撤去されたが、両岸の橋台が現存。

    高崎市倉賀野町3390
    高崎線倉賀野駅 三條電気前停留所降車 徒歩17分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />3代烏川橋梁橋台<br />高崎方<br />該橋梁完成時に将来の輸送量増強を見越し橋台は複線構造用として竣工したが、昭和5年(1930年)10月16日使用開始された現上り線用橋梁は該橋台を使用せず単線用トラス橋として設置。<br />手前 明治17年(1884年)5月1日〜明治45年(1912年)橋台(石積)<br />煉瓦 明治45年(1912年)架橋。<br />奥 昭和5年(1930年)複線化時架橋(現用)<br /><br />高崎市倉賀野町3390<br />高崎線倉賀野駅 三條電気前停留所降車 徒歩17分

    北藤岡-倉賀野間



    3代烏川橋梁橋台
    高崎方
    該橋梁完成時に将来の輸送量増強を見越し橋台は複線構造用として竣工したが、昭和5年(1930年)10月16日使用開始された現上り線用橋梁は該橋台を使用せず単線用トラス橋として設置。
    手前 明治17年(1884年)5月1日〜明治45年(1912年)橋台(石積)
    煉瓦 明治45年(1912年)架橋。
    奥 昭和5年(1930年)複線化時架橋(現用)

    高崎市倉賀野町3390
    高崎線倉賀野駅 三條電気前停留所降車 徒歩17分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />烏川橋梁橋台<br />高崎方<br /><br />高崎市倉賀野町3390<br />高崎線倉賀野駅 三條電気前停留所降車 徒歩17分

    北藤岡-倉賀野間



    烏川橋梁橋台
    高崎方

    高崎市倉賀野町3390
    高崎線倉賀野駅 三條電気前停留所降車 徒歩17分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />新烏川橋梁<br />全景<br />昭和48年(1973年)架替に拠り登場。<br />通過列車は湘南新宿ライン231系電車。<br /><br />高崎市倉賀野町3431<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス岩鼻停留所降車 徒歩6分

    北藤岡-倉賀野間



    新烏川橋梁
    全景
    昭和48年(1973年)架替に拠り登場。
    通過列車は湘南新宿ライン231系電車。

    高崎市倉賀野町3431
    高崎線高崎駅西口 群馬バス岩鼻停留所降車 徒歩6分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />現上り線<br />路盤跡は旧下り線<br /><br />高崎市倉賀野町3535<br />高崎線倉賀野駅 群馬バス三條電気前停留所 徒歩3分

    北藤岡-倉賀野間



    現上り線
    路盤跡は旧下り線

    高崎市倉賀野町3535
    高崎線倉賀野駅 群馬バス三條電気前停留所 徒歩3分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />上り線<br />左側空き路盤は撤去された旧下り線跡。<br /><br />高崎市倉賀野町2950<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス三條機械前停留所降車 徒歩2分

    北藤岡-倉賀野間



    上り線
    左側空き路盤は撤去された旧下り線跡。

    高崎市倉賀野町2950
    高崎線高崎駅西口 群馬バス三條機械前停留所降車 徒歩2分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />高崎線上下線合流地点<br /><br />高崎市倉賀野町3100<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス倉賀野下町停留所 徒歩5分

    北藤岡-倉賀野間



    高崎線上下線合流地点

    高崎市倉賀野町3100
    高崎線高崎駅西口 群馬バス倉賀野下町停留所 徒歩5分

  • 北藤岡-倉賀野間<br /><br /><br /><br />倉賀野駅構内<br />大宮方<br />全景<br /><br />高崎市倉賀野町1873−2<br />高崎線倉賀野駅 徒歩7分

    北藤岡-倉賀野間



    倉賀野駅構内
    大宮方
    全景

    高崎市倉賀野町1873−2
    高崎線倉賀野駅 徒歩7分

  • 倉賀野(くらがの)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />明治27年(1894年)5月11日開業<br />橋上駅様式<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=629

    倉賀野(くらがの)駅



    駅本屋
    明治27年(1894年)5月11日開業
    橋上駅様式
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=629

  • 倉賀野-高崎間<br /><br /><br /><br />高崎操車場(たかさき そうしゃじょう)<br />日本貨物鉄道所属<br /><br />高崎市下之城1002<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス佐野小学校入口停留所降車 徒歩5分<br /><br />

    倉賀野-高崎間



    高崎操車場(たかさき そうしゃじょう)
    日本貨物鉄道所属

    高崎市下之城1002
    高崎線高崎駅西口 群馬バス佐野小学校入口停留所降車 徒歩5分

  • 倉賀野-高崎間<br /><br /><br /><br />客貨混合列車セルロイド爆発事故現場<br />セルロイドと云ふ物質はニトロセルロース、及び、樟脳を練合せた物で、古くは写真映画フィルム材、玩具原材料として活用され便利な存在だったが、反面、引火性が強い為に現在では特定危険物第5類危険物に指定され、一般人が入手する事も無くなり、法律上、明治33年(1900年)3月14日附 内務省第65号法令 鉄道営業規則第30条に拠り、許可を得る事無く、鉄道車輌内は勿論、鉄道用地内に持込む事も禁止され、違反すれば刑法上に於ける罰則規定も存在する。<br />高崎線国有化後たる明治40年(1907年)5月6日18時40分頃、倉賀野-高崎間走行中の上野発高崎行客貨混合第511列車車内に於いて、乗客が網棚から吊下していたセルロイド用材が床上落下、自身の咥え煙草の火に着火した為に該木造車輌が瞬時にして爆発炎上し、即死14名、重軽傷者18名(後1名死亡)と云う重大事故が発生した。<br />此れは該事故車輌がボギー車では無く旧様式の非貫通型単車で、且つ、座席構造が鉄道開業創世記当時の英国式多扉様式の縦座席であり、旅客乗車後は転落防止の為に鉄道職員が外部から扉施錠する為に火災発生と同時に外部への脱出が不可能な構造だった事が惨劇を大きくした。<br />当時の報告書に、<br />「本列車運転中ニ前ヨリ14両目3等車ハ瞬時爆発シ車体上部悉ク粉砕飛セリ」<br />と天井が吹っ飛んだ瞬間描写を記載している。<br />且つ、明治時代の鉄道重大事故では、明治32年(1899年)10月7日夕刻に、現在の東北本線矢板-野崎間の箒川橋梁上で発生した列車脱線転落事故に於ける旅客死者20名、重軽傷者45名に次ぐ存在である。<br />因みに、同様の事故は昭和12年(1937年)12月27日16時47分頃、鹿児島本線上戸畑-小倉間走行中の門司行旅客普通第12列車車内で、下車準備に追われた乗客が自身が運搬中の玩具製造用に購入したセルロイド用材に誤って自身の咥え煙草が落下着火爆発し、該乗客中、死者9名、重軽傷者36名を出す惨事が発生したが、要するに、該2件事故は当時の下等旅客利用者のマナーの悪さ、並びに、一般人の民度の低さが事故の伏線に在ったと言って過言では無い。<br /><br />高崎市下之城町64<br />高崎線高崎駅 群馬バス佐野小学校入口停留所降車 徒歩3分

    倉賀野-高崎間



    客貨混合列車セルロイド爆発事故現場
    セルロイドと云ふ物質はニトロセルロース、及び、樟脳を練合せた物で、古くは写真映画フィルム材、玩具原材料として活用され便利な存在だったが、反面、引火性が強い為に現在では特定危険物第5類危険物に指定され、一般人が入手する事も無くなり、法律上、明治33年(1900年)3月14日附 内務省第65号法令 鉄道営業規則第30条に拠り、許可を得る事無く、鉄道車輌内は勿論、鉄道用地内に持込む事も禁止され、違反すれば刑法上に於ける罰則規定も存在する。
    高崎線国有化後たる明治40年(1907年)5月6日18時40分頃、倉賀野-高崎間走行中の上野発高崎行客貨混合第511列車車内に於いて、乗客が網棚から吊下していたセルロイド用材が床上落下、自身の咥え煙草の火に着火した為に該木造車輌が瞬時にして爆発炎上し、即死14名、重軽傷者18名(後1名死亡)と云う重大事故が発生した。
    此れは該事故車輌がボギー車では無く旧様式の非貫通型単車で、且つ、座席構造が鉄道開業創世記当時の英国式多扉様式の縦座席であり、旅客乗車後は転落防止の為に鉄道職員が外部から扉施錠する為に火災発生と同時に外部への脱出が不可能な構造だった事が惨劇を大きくした。
    当時の報告書に、
    「本列車運転中ニ前ヨリ14両目3等車ハ瞬時爆発シ車体上部悉ク粉砕飛セリ」
    と天井が吹っ飛んだ瞬間描写を記載している。
    且つ、明治時代の鉄道重大事故では、明治32年(1899年)10月7日夕刻に、現在の東北本線矢板-野崎間の箒川橋梁上で発生した列車脱線転落事故に於ける旅客死者20名、重軽傷者45名に次ぐ存在である。
    因みに、同様の事故は昭和12年(1937年)12月27日16時47分頃、鹿児島本線上戸畑-小倉間走行中の門司行旅客普通第12列車車内で、下車準備に追われた乗客が自身が運搬中の玩具製造用に購入したセルロイド用材に誤って自身の咥え煙草が落下着火爆発し、該乗客中、死者9名、重軽傷者36名を出す惨事が発生したが、要するに、該2件事故は当時の下等旅客利用者のマナーの悪さ、並びに、一般人の民度の低さが事故の伏線に在ったと言って過言では無い。

    高崎市下之城町64
    高崎線高崎駅 群馬バス佐野小学校入口停留所降車 徒歩3分

  • 倉賀野-高崎間<br /><br /><br /><br />客貨混合列車セルロイド爆発事故現場<br />尚、該高崎線列車爆発事故は地元でも忘却され、更に、東日本旅客鉄道大宮鉄道博物館保存歴史資料室に記録すら存在無き事から敢えて茲に記載した次第である。<br /><br />高崎市下之城町64<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス佐野小学校入口停留所降車 徒歩3分

    倉賀野-高崎間



    客貨混合列車セルロイド爆発事故現場
    尚、該高崎線列車爆発事故は地元でも忘却され、更に、東日本旅客鉄道大宮鉄道博物館保存歴史資料室に記録すら存在無き事から敢えて茲に記載した次第である。

    高崎市下之城町64
    高崎線高崎駅西口 群馬バス佐野小学校入口停留所降車 徒歩3分

  • 倉賀野-高崎間<br /><br /><br /><br />高崎機関区(たかさき きかんく)<br />正門<br /><br />高崎市下和田町5−5<br />高崎線高崎駅 群馬バス新後閑郵便局停留所降車 徒歩4分

    倉賀野-高崎間



    高崎機関区(たかさき きかんく)
    正門

    高崎市下和田町5−5
    高崎線高崎駅 群馬バス新後閑郵便局停留所降車 徒歩4分

  • 倉賀野-高崎間<br /><br /><br /><br />高崎機関区<br />昭和18年(1943年)10月1日附で、当時の高崎機関区高崎操車場支区として開設。<br />現在は日本貨物鉄道所属<br /><br />高崎市下和田町5−25<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス新後閑郵便局前停留所降車 徒歩6分

    倉賀野-高崎間



    高崎機関区
    昭和18年(1943年)10月1日附で、当時の高崎機関区高崎操車場支区として開設。
    現在は日本貨物鉄道所属

    高崎市下和田町5−25
    高崎線高崎駅西口 群馬バス新後閑郵便局前停留所降車 徒歩6分

  • 倉賀野-高崎間<br /><br /><br /><br />高崎機関区<br />該区は、大東亜戦争苛烈に付、太平洋上に於ける我が国輸送用船舶補充の為に近海航路用船舶転用に拠り、北海道対本州輸送を海上船舶から鉄道輸送移行の為に鉄道輸送増強を以って設置。<br />該機関区庁舎は、昭和45年(1970年)5月竣工。<br /><br />高崎市下和田町5−25<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス新後閑郵便局停留所降車 徒歩6分

    倉賀野-高崎間



    高崎機関区
    該区は、大東亜戦争苛烈に付、太平洋上に於ける我が国輸送用船舶補充の為に近海航路用船舶転用に拠り、北海道対本州輸送を海上船舶から鉄道輸送移行の為に鉄道輸送増強を以って設置。
    該機関区庁舎は、昭和45年(1970年)5月竣工。

    高崎市下和田町5−25
    高崎線高崎駅西口 群馬バス新後閑郵便局停留所降車 徒歩6分

  • 倉賀野-高崎間<br /><br /><br /><br />高崎機関区<br />昭和20年(1945年)2月1日附で高崎第2機関区として独立。<br />戦後は、昭和22年(1947年)4月1日に高崎-水上間電化の為にEF13型電気機関車14両が配置されたのを皮切りに、昭和27年(1952年)4月1日附で蒸気機関車配置が無くなり電気機関車専用配置区となる。<br />昭和62年(1987年)2月1日附で、従来の高崎第1機関区は高崎運転所、高崎第2機関区は高崎機関区に名称変更され、同年4月1日に民営分割時に、高崎機関区は日本貨物鉄道所属となり今日に至る。<br />尚、該機関区内に存在する転車台は、旧東海道本線山北機関区に於いて使用されていた1台で、昭和9年(1934年)12月1日に現在の熱海経由の路線が新東海道本線となり、御殿場線に支線格下の後、昭和18年(1943年)に単線化直前に山北機関区から撤去移設転用されたものである。<br /><br />高崎市下和田町5−25<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス新後閑郵便局前停留所降車 徒歩6分

    倉賀野-高崎間



    高崎機関区
    昭和20年(1945年)2月1日附で高崎第2機関区として独立。
    戦後は、昭和22年(1947年)4月1日に高崎-水上間電化の為にEF13型電気機関車14両が配置されたのを皮切りに、昭和27年(1952年)4月1日附で蒸気機関車配置が無くなり電気機関車専用配置区となる。
    昭和62年(1987年)2月1日附で、従来の高崎第1機関区は高崎運転所、高崎第2機関区は高崎機関区に名称変更され、同年4月1日に民営分割時に、高崎機関区は日本貨物鉄道所属となり今日に至る。
    尚、該機関区内に存在する転車台は、旧東海道本線山北機関区に於いて使用されていた1台で、昭和9年(1934年)12月1日に現在の熱海経由の路線が新東海道本線となり、御殿場線に支線格下の後、昭和18年(1943年)に単線化直前に山北機関区から撤去移設転用されたものである。

    高崎市下和田町5−25
    高崎線高崎駅西口 群馬バス新後閑郵便局前停留所降車 徒歩6分

  • 倉賀野-高崎間<br /><br /><br /><br />高崎機関区<br />旧蒸気機関車給水塔<br /><br />高崎市下和田町5−25<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス新後閑郵便局前停留所降車 徒歩4分

    倉賀野-高崎間



    高崎機関区
    旧蒸気機関車給水塔

    高崎市下和田町5−25
    高崎線高崎駅西口 群馬バス新後閑郵便局前停留所降車 徒歩4分

  • 倉賀野-高崎間<br /><br /><br /><br />高崎機関区<br />旧蒸気機関車給水塔<br />全景<br /><br />高崎市下和田町5−25<br />高崎線高崎駅西口 群馬バス新後閑郵便局前停留所降車 徒歩4分

    倉賀野-高崎間



    高崎機関区
    旧蒸気機関車給水塔
    全景

    高崎市下和田町5−25
    高崎線高崎駅西口 群馬バス新後閑郵便局前停留所降車 徒歩4分

  • 倉賀野-高崎間<br /><br /><br /><br />高崎車両センター(たかさき しゃりょう せんたー)<br />旧高崎運転所(高崎第1機関区)<br />正門<br />東日本旅客鉄道所属<br /><br />高崎市下和田町5−5<br />高崎線高崎駅東口 徒歩18分

    倉賀野-高崎間



    高崎車両センター(たかさき しゃりょう せんたー)
    旧高崎運転所(高崎第1機関区)
    正門
    東日本旅客鉄道所属

    高崎市下和田町5−5
    高崎線高崎駅東口 徒歩18分

  • 倉賀野-高崎間<br /><br /><br /><br />高崎車両センター<br />DD51型<br />該機は、JR東日本管内路線で御召列車牽引も行う。<br /><br />高崎市下和田町5−5<br />高崎線高崎駅東口 徒歩18分

    倉賀野-高崎間



    高崎車両センター
    DD51型
    該機は、JR東日本管内路線で御召列車牽引も行う。

    高崎市下和田町5−5
    高崎線高崎駅東口 徒歩18分

  • 倉賀野-高崎間<br /><br /><br /><br />高崎車両センター<br />明治17年(1884年)5月1日開設の高崎機関庫が嚆矢。<br /><br />高崎市下和田町5−5<br />高崎線高崎駅東口 徒歩18分

    倉賀野-高崎間



    高崎車両センター
    明治17年(1884年)5月1日開設の高崎機関庫が嚆矢。

    高崎市下和田町5−5
    高崎線高崎駅東口 徒歩18分

  • 倉賀野-高崎間<br /><br /><br /><br />高崎車両センター<br />全景<br />該車両センター庁舎は昭和46年(1971年)10月竣工。<br /><br />高崎市下和田町5−5<br />高崎線高崎駅東口 徒歩18分

    倉賀野-高崎間



    高崎車両センター
    全景
    該車両センター庁舎は昭和46年(1971年)10月竣工。

    高崎市下和田町5−5
    高崎線高崎駅東口 徒歩18分

  • 高崎(たかさき)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景<br />該駅は、日本鐵道新町-高崎間延長時の終点として明治17年(1884年)5月1日に開業した。<br />初代駅本屋は、明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1855年)11月3日〜明治45年(1912年)7月30日)が高崎延長時に行幸が決定した事から、明治17年(1884年)1月着工し、同年3月に竣工した。<br />該駅開業時は高崎町の外輪に存在し、<br />「多年干田ニ蛙鳴キ騒キシモ谷町ノ人家櫛比シ市内屈指ノ築業地トナル」<br />と称された。<br />該駅開業の為に、矢島八郎(やじま はちろう)(嘉永3年(1850年)12月30日〜大正10年(1921年)9月7日)は、自身の所有地を日本鐵道に寄進し、地元の人々は矢島の篤を讃え付近一帯を矢島町と命名しようとしたが、矢島が此れを固辞した為に、末広がりに因み、八島町と命名された経緯を有する。<br />明治天皇も臨席され開業式典が開催予定だった、直前に群馬事件(ぐんま じけん)発覚の為に、式典は同年同月5日に延期されたが、今度は天皇が発病の為に再延期となり、同年6月25日に開催された。<br />因みに、群馬事件とは、当時政府政策に批判的だった群馬自由党員が警察署を襲撃し、更に、式典当日に政府随員で宮内卿 伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日〜明治42年(1909年)10月26日)や宮内省御用掛 副島種臣(そえじま たねおみ)(文政11年(1828年)10月17日〜明治38年(1905年)1月31日)等々が本庄駅で休憩する情報を得て全員殺害に及ばんとし、着手前に警備当局に逮捕されたもので、該内情は至って事前に計画内容が全部外部に漏洩して杜撰極まる革命ごっこに過ぎぬものだった。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=934

    高崎(たかさき)駅



    駅本屋
    全景
    該駅は、日本鐵道新町-高崎間延長時の終点として明治17年(1884年)5月1日に開業した。
    初代駅本屋は、明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1855年)11月3日〜明治45年(1912年)7月30日)が高崎延長時に行幸が決定した事から、明治17年(1884年)1月着工し、同年3月に竣工した。
    該駅開業時は高崎町の外輪に存在し、
    「多年干田ニ蛙鳴キ騒キシモ谷町ノ人家櫛比シ市内屈指ノ築業地トナル」
    と称された。
    該駅開業の為に、矢島八郎(やじま はちろう)(嘉永3年(1850年)12月30日〜大正10年(1921年)9月7日)は、自身の所有地を日本鐵道に寄進し、地元の人々は矢島の篤を讃え付近一帯を矢島町と命名しようとしたが、矢島が此れを固辞した為に、末広がりに因み、八島町と命名された経緯を有する。
    明治天皇も臨席され開業式典が開催予定だった、直前に群馬事件(ぐんま じけん)発覚の為に、式典は同年同月5日に延期されたが、今度は天皇が発病の為に再延期となり、同年6月25日に開催された。
    因みに、群馬事件とは、当時政府政策に批判的だった群馬自由党員が警察署を襲撃し、更に、式典当日に政府随員で宮内卿 伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日〜明治42年(1909年)10月26日)や宮内省御用掛 副島種臣(そえじま たねおみ)(文政11年(1828年)10月17日〜明治38年(1905年)1月31日)等々が本庄駅で休憩する情報を得て全員殺害に及ばんとし、着手前に警備当局に逮捕されたもので、該内情は至って事前に計画内容が全部外部に漏洩して杜撰極まる革命ごっこに過ぎぬものだった。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=934

  • 高崎駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />近景<br />開業した明治17年(1884年)同年に旧高崎城内付近に帝國陸軍高崎歩兵第15連隊が設置された。<br />初代駅本屋は駅長室や貴賓室が存在しなかった為に不便さが避けられず、早くも、明治33年(1900年)6月に第2代目駅本屋に改築された。<br />然るに、両毛線、信越本線に加え、上越南線新前橋-渋川間開通が見込まれ、輸送量増加が避けられぬ状況が明白だった事から、該駅構内改良と共に、大正5年(1916年)に駅本屋改築が着工し、翌大正6年(1917年)7月15日に竣工した第3代目駅本屋は、同時期に建設され現存する東北本線白河駅駅本屋同様、ルネッサンス風構造で大東亜戦争中の空襲被害も受けず高崎市民にも親しまれた存在だったが、昭和57年(1982年)10月1日に上越新幹線開通が予定された事から解体を余儀無くされ、同年3月1日に竣工したのが現第4代目駅本屋である。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=934

    高崎駅



    駅本屋
    近景
    開業した明治17年(1884年)同年に旧高崎城内付近に帝國陸軍高崎歩兵第15連隊が設置された。
    初代駅本屋は駅長室や貴賓室が存在しなかった為に不便さが避けられず、早くも、明治33年(1900年)6月に第2代目駅本屋に改築された。
    然るに、両毛線、信越本線に加え、上越南線新前橋-渋川間開通が見込まれ、輸送量増加が避けられぬ状況が明白だった事から、該駅構内改良と共に、大正5年(1916年)に駅本屋改築が着工し、翌大正6年(1917年)7月15日に竣工した第3代目駅本屋は、同時期に建設され現存する東北本線白河駅駅本屋同様、ルネッサンス風構造で大東亜戦争中の空襲被害も受けず高崎市民にも親しまれた存在だったが、昭和57年(1982年)10月1日に上越新幹線開通が予定された事から解体を余儀無くされ、同年3月1日に竣工したのが現第4代目駅本屋である。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=934

    高崎駅

  • 高崎駅<br /><br /><br /><br />東口<br />全景<br />嘗て東口駅舎付近に存在した板紙製紙(現 高崎製紙)工場敷地を高崎市が買収し運輸省鉄道総局に寄贈した上で昭和21年(1946年)11月18日開設。<br />現在の駅舎は上越新幹線開通に伴い昭和57年(1982年)11月1日改築。

    高崎駅



    東口
    全景
    嘗て東口駅舎付近に存在した板紙製紙(現 高崎製紙)工場敷地を高崎市が買収し運輸省鉄道総局に寄贈した上で昭和21年(1946年)11月18日開設。
    現在の駅舎は上越新幹線開通に伴い昭和57年(1982年)11月1日改築。

    高崎駅

  • 高崎駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />該ホームは北陸新幹線開通後、在来線特急列車本数激減に拠り、旅客扱使用停止となり現在は留置線扱。<br />団体用183系特急用電車が停車中。<br />該手前跨線橋は、昭和9年(1934年)10月6日に八高線全通、及び、翌同年11月に陸軍特別大演習が北関東一帯で実施計画が存在した事から乗降利用者激増を予想し八高線全通日に竣工。

    高崎駅



    第1番ホーム
    該ホームは北陸新幹線開通後、在来線特急列車本数激減に拠り、旅客扱使用停止となり現在は留置線扱。
    団体用183系特急用電車が停車中。
    該手前跨線橋は、昭和9年(1934年)10月6日に八高線全通、及び、翌同年11月に陸軍特別大演習が北関東一帯で実施計画が存在した事から乗降利用者激増を予想し八高線全通日に竣工。

    高崎駅

  • 高崎駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム、及び、第2番ホーム(手前)<br />駅改良後は第1番ホームの旅客扱中止。

    高崎駅



    第1番ホーム、及び、第2番ホーム(手前)
    駅改良後は第1番ホームの旅客扱中止。

    高崎駅

  • 高崎駅<br /><br /><br /><br />手前から第2番ホーム、第3番ホーム<br />第3番ホームは昭和5年(1930年)5月23日増設。

    高崎駅



    手前から第2番ホーム、第3番ホーム
    第3番ホームは昭和5年(1930年)5月23日増設。

    高崎駅

  • 高崎駅<br /><br /><br /><br />東日本旅客鉄道上信電鉄社境分界点<br />手前側が東日本旅客鉄道側、向い側が上信電鉄側所有施。<br />以前は上信電鉄が貨物輸送の為に高崎駅構内第2番線から連絡線を通じ上信電鉄着発貨車の授受に使用された。<br />更に、昭和30年代後半まで、上野-下仁田間臨時直通準急電車運転の際にも使用。<br />現在は上信電鉄がイヴェント列車運転の為にJR東日本から客車借入搬入時に使用する程度。<br />架線も接続。

    高崎駅



    東日本旅客鉄道上信電鉄社境分界点
    手前側が東日本旅客鉄道側、向い側が上信電鉄側所有施。
    以前は上信電鉄が貨物輸送の為に高崎駅構内第2番線から連絡線を通じ上信電鉄着発貨車の授受に使用された。
    更に、昭和30年代後半まで、上野-下仁田間臨時直通準急電車運転の際にも使用。
    現在は上信電鉄がイヴェント列車運転の為にJR東日本から客車借入搬入時に使用する程度。
    架線も接続。

    高崎駅

  • 高崎駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />映画 ここに泉あり ロケ現場<br />昭和30年(1955年)2月11日に封切られた映画 ここに泉あり は、現在の群馬交響楽団(ぐんま こうきょうがくだん)がプロオーケストラ創生期の苦難を乗越え成功への流れをモデルに映画化された作品である。<br />監督 今井 正(いまい ただし)(明治45年(1912年)1月8日〜平成4年(1992年)11月22日)、脚本 水本洋子(みずもと ようこ)(明治43年(1910年)8月25日〜平成15年(2003年)4月8日)、音楽 團 伊久磨(だん いくま)(大正13年(1924年)4月7日〜平成13年(2001年)5月17日)が担当した、我が国の邦画史上、屈指の音楽映画とされる。<br />主演の 速水 明 役は、早くから岡田英次(おかだ えいじ)(大正9年(1920年)6月13日〜平成7年(1995年)9月14日)に内定していたが、相手役たる佐川かの子役は、当初、津島恵子(つしま けいこ)(大正15年(1926年)2月7日〜平成24年(2012年)8月1日)を予定していたが、津島本人のスケジュールの折り合いがつかず、代りに、乙羽信子(おとわ のぶこ)(大正13年(1924年)10月1日〜平成6年(1994年)12月22日)に変更されたが、完成した脚本が今井監督の採用とならず、脚本の書直しをした事から紆余曲折後、最終的に 岸 恵子(きし けいこ)(昭和7年(1932年)8月11日〜    )が起用された。

    高崎駅



    第2番ホーム
    映画 ここに泉あり ロケ現場
    昭和30年(1955年)2月11日に封切られた映画 ここに泉あり は、現在の群馬交響楽団(ぐんま こうきょうがくだん)がプロオーケストラ創生期の苦難を乗越え成功への流れをモデルに映画化された作品である。
    監督 今井 正(いまい ただし)(明治45年(1912年)1月8日〜平成4年(1992年)11月22日)、脚本 水本洋子(みずもと ようこ)(明治43年(1910年)8月25日〜平成15年(2003年)4月8日)、音楽 團 伊久磨(だん いくま)(大正13年(1924年)4月7日〜平成13年(2001年)5月17日)が担当した、我が国の邦画史上、屈指の音楽映画とされる。
    主演の 速水 明 役は、早くから岡田英次(おかだ えいじ)(大正9年(1920年)6月13日〜平成7年(1995年)9月14日)に内定していたが、相手役たる佐川かの子役は、当初、津島恵子(つしま けいこ)(大正15年(1926年)2月7日〜平成24年(2012年)8月1日)を予定していたが、津島本人のスケジュールの折り合いがつかず、代りに、乙羽信子(おとわ のぶこ)(大正13年(1924年)10月1日〜平成6年(1994年)12月22日)に変更されたが、完成した脚本が今井監督の採用とならず、脚本の書直しをした事から紆余曲折後、最終的に 岸 恵子(きし けいこ)(昭和7年(1932年)8月11日〜    )が起用された。

    高崎駅

  • 高崎駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />映画 ここに泉あり ロケ現場<br />群馬ロケは昭和29年(1954年)8月28日に開始された。<br />地方プロオーケストラ育成と言う夢と希望に胸膨らませ東京から高崎にやって来た速水は、オーケストラの実体が事前に聞かされていた内容と現実が余りに食違いかけ離れた事実を知り、失望し失意の中で帰京する為に超満員の上野行オンボロ列車に乗込み、正に列車が発車しかけた時に、小林桂樹(こばやし けいじゅ)(大正12年(9123年)11月23日〜平成22年(2010年)9月16日)扮するオーケストラマネジャー井田亀夫が、跨線橋を駆け降りホームを走りながら、動き出した列車に向かい、<br />「速水さん、速水明さんはいませんか! 急用です!」<br />と叫び、<br />井田の声に応じ、速水が走り出した列車からヴァイオリンや私物を投出し飛び降りるシーンは、スタントマンを使わず岡田本人が行ない、同年9月5日に当時の高崎駅第2ホーム第3番線、即ち、現在の4番線で、第21カットとして撮影されたものである。<br />井田がホームをかけながら、背景で駅職員のアナウンスが「たかさき〜、たかさき〜」と連呼するシーンは、該映画に於いて世に高崎の存在を印象知らしめた。<br />因みに、当時の国鉄高崎鉄道管理局は、此の映画撮影の為に、C50型97号テンダー式蒸気機関車1両、及び、大正後期製造で廃車寸前の17m級ナハ22000型木造客車4両を用意し、高崎駅構内や両毛線を走行させロケに協力した。<br />井田が駆け下りた跨線橋階段。<br />高崎駅関係撮影ロケでは、他に、<br />8月28日 高崎駅前 昭和24年晩秋 最後の移動教室演奏会の帰りのシーン 第12カット、及び、第13カット。<br />9月4日 高崎駅改札口 大太鼓を持参で改札を通過しようとして駅改札担当職員に乗車拒否されながら強行突破するシーン 第111カット。

    高崎駅



    第2番ホーム
    映画 ここに泉あり ロケ現場
    群馬ロケは昭和29年(1954年)8月28日に開始された。
    地方プロオーケストラ育成と言う夢と希望に胸膨らませ東京から高崎にやって来た速水は、オーケストラの実体が事前に聞かされていた内容と現実が余りに食違いかけ離れた事実を知り、失望し失意の中で帰京する為に超満員の上野行オンボロ列車に乗込み、正に列車が発車しかけた時に、小林桂樹(こばやし けいじゅ)(大正12年(9123年)11月23日〜平成22年(2010年)9月16日)扮するオーケストラマネジャー井田亀夫が、跨線橋を駆け降りホームを走りながら、動き出した列車に向かい、
    「速水さん、速水明さんはいませんか! 急用です!」
    と叫び、
    井田の声に応じ、速水が走り出した列車からヴァイオリンや私物を投出し飛び降りるシーンは、スタントマンを使わず岡田本人が行ない、同年9月5日に当時の高崎駅第2ホーム第3番線、即ち、現在の4番線で、第21カットとして撮影されたものである。
    井田がホームをかけながら、背景で駅職員のアナウンスが「たかさき〜、たかさき〜」と連呼するシーンは、該映画に於いて世に高崎の存在を印象知らしめた。
    因みに、当時の国鉄高崎鉄道管理局は、此の映画撮影の為に、C50型97号テンダー式蒸気機関車1両、及び、大正後期製造で廃車寸前の17m級ナハ22000型木造客車4両を用意し、高崎駅構内や両毛線を走行させロケに協力した。
    井田が駆け下りた跨線橋階段。
    高崎駅関係撮影ロケでは、他に、
    8月28日 高崎駅前 昭和24年晩秋 最後の移動教室演奏会の帰りのシーン 第12カット、及び、第13カット。
    9月4日 高崎駅改札口 大太鼓を持参で改札を通過しようとして駅改札担当職員に乗車拒否されながら強行突破するシーン 第111カット。

    高崎駅

  • 高崎駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム<br />映画 ここに泉あり ロケ現場<br />他主要出演者<br />加東大介(かとう だいすけ)(明治44年(1911年)2月18日〜昭和50年(1975年)7月31日)工藤〔大太鼓・ティンパニー・コントラバス〕<br />三井弘次(みつい こうじ)(明治43年(1910年)3月6日〜昭和54年(1979年)4月20日)丸屋〔トランペット〕<br />十朱久雄(とあけ ひさお)(明治41年(1908年)9月8日〜昭和60年(1985年)12月18日)河辺〔産婦人科医師・ヴィオラ〕<br />東野英治郎(とうの えいじろう)(明治40年(1907年)9月17日〜平成6年(1994年)9月8日)棟田〔元警察署長・オーケストラ経理担当〕<br />中村是好(なかむら これよし)(明治33年(1900年)12月6日〜平成元年(1989年)12月16日)中村〔ペンキ職人・チェロ〕<br />近衛敏明(このえ としあき)(明治44年(1911年)7月31日〜    )岡崎〔繊維問屋主人・クラリネット〕<br />伊澤一郎(いざわ いちろう)(明治45年(1912年)2月22日〜平成7年(1995年)5月14日)立石〔山田耕筰マネジャー〕<br />原 保美(はら やすみ)(大正4年(1915年)1月28日〜平成9年(1997年)11月19日)泉楽園患者代表<br />増田順二(ますだ じゅんじ)(大正4年(1915年)10月25日〜平成元年(1989年)5月25日)金子〔チェロ〕<br />多々良 純(たたら じゅん)(大正6年(1917年)8月4日〜平成18年(2006年)9月30日)チンドン屋<br />庄司永建(しょうじ えいけん)(大正12年(1923年)7月6日〜    )安藤〔チェロ〕<br />富田浩太郎(とみた こうたろう)(大正14年(1925年)1月20日〜平成16年(2004年)6月10日)巌〔チェロ〕<br />大滝秀次(おおたき ひでじ)(大正14年(1925年)6月6日〜平成24年(2012年)10月2日)岸辺〔ヴィオラ〕<br />清村耕次(きよむら こうじ)(大正14年(1925年)6月27日〜昭和41年(1966年)2月1日)幸二〔薬局店店員・フルート〕<br />椎原邦彦(しいばら くにひこ)(昭和7年(1932年)10月10日〜    )青井〔ヴィオラ〕<br />澤村貞子(さわむら さだこ)(明治41年(1908年)11月11日〜平成8年(1996年)8月16日)金子妻〔美容院経営〕<br />原 ひさ子(はら ひさこ)(明治42年(1909年)8月6日〜平成17年(2005年)12月4日)井田亀夫母<br />千石規子(せんごく のりこ)(大正11年(1922年)4月29日〜平成24年(2012年)12月27日)井田妻 清美<br />奈良岡朋子(ならおか ともこ)(昭和4年(1929年)12月1日〜    )看護師<br />草笛光子(くさぶえ みつこ)(昭和8年(1933年)10月22日〜    )小野冴子〔かの子同級生〕<br />特別出演<br />友田啓明(ともだ よしあき)(昭和14年(1939年)5月2日〜     )美智男〔ヴァイオリン〕<br />室井麻耶子(むろい まやこ)(大正10年(1921年)4月8日〜     )〔ピアニスト〕<br />柴田睦睦(しばた むつむ)(大正2年(1913年)3月30日〜昭和63年(1988年)2月19日)〔テノール〕<br />伊藤亘行(いとう のぶゆき)(大正10年(1921年)2月6日〜   )〔バリトン〕<br />柴田喜代子(しばた きよこ)(大正13年(1924年)12月6日〜平成17年(2005年)9月9日〔ソプラノ〕<br />川崎静子(かわさき しずこ)(大正8年(1919年)12月3日〜昭和57年(1982年)10月4日)〔アルト〕<br />山田耕筰(やまだ こうさく)(明治19年(1886年)6月6日〜昭和40年(1965年)12月29日)〔作曲家・指揮者〕

    高崎駅



    第2番ホーム
    映画 ここに泉あり ロケ現場
    他主要出演者
    加東大介(かとう だいすけ)(明治44年(1911年)2月18日〜昭和50年(1975年)7月31日)工藤〔大太鼓・ティンパニー・コントラバス〕
    三井弘次(みつい こうじ)(明治43年(1910年)3月6日〜昭和54年(1979年)4月20日)丸屋〔トランペット〕
    十朱久雄(とあけ ひさお)(明治41年(1908年)9月8日〜昭和60年(1985年)12月18日)河辺〔産婦人科医師・ヴィオラ〕
    東野英治郎(とうの えいじろう)(明治40年(1907年)9月17日〜平成6年(1994年)9月8日)棟田〔元警察署長・オーケストラ経理担当〕
    中村是好(なかむら これよし)(明治33年(1900年)12月6日〜平成元年(1989年)12月16日)中村〔ペンキ職人・チェロ〕
    近衛敏明(このえ としあき)(明治44年(1911年)7月31日〜    )岡崎〔繊維問屋主人・クラリネット〕
    伊澤一郎(いざわ いちろう)(明治45年(1912年)2月22日〜平成7年(1995年)5月14日)立石〔山田耕筰マネジャー〕
    原 保美(はら やすみ)(大正4年(1915年)1月28日〜平成9年(1997年)11月19日)泉楽園患者代表
    増田順二(ますだ じゅんじ)(大正4年(1915年)10月25日〜平成元年(1989年)5月25日)金子〔チェロ〕
    多々良 純(たたら じゅん)(大正6年(1917年)8月4日〜平成18年(2006年)9月30日)チンドン屋
    庄司永建(しょうじ えいけん)(大正12年(1923年)7月6日〜    )安藤〔チェロ〕
    富田浩太郎(とみた こうたろう)(大正14年(1925年)1月20日〜平成16年(2004年)6月10日)巌〔チェロ〕
    大滝秀次(おおたき ひでじ)(大正14年(1925年)6月6日〜平成24年(2012年)10月2日)岸辺〔ヴィオラ〕
    清村耕次(きよむら こうじ)(大正14年(1925年)6月27日〜昭和41年(1966年)2月1日)幸二〔薬局店店員・フルート〕
    椎原邦彦(しいばら くにひこ)(昭和7年(1932年)10月10日〜    )青井〔ヴィオラ〕
    澤村貞子(さわむら さだこ)(明治41年(1908年)11月11日〜平成8年(1996年)8月16日)金子妻〔美容院経営〕
    原 ひさ子(はら ひさこ)(明治42年(1909年)8月6日〜平成17年(2005年)12月4日)井田亀夫母
    千石規子(せんごく のりこ)(大正11年(1922年)4月29日〜平成24年(2012年)12月27日)井田妻 清美
    奈良岡朋子(ならおか ともこ)(昭和4年(1929年)12月1日〜    )看護師
    草笛光子(くさぶえ みつこ)(昭和8年(1933年)10月22日〜    )小野冴子〔かの子同級生〕
    特別出演
    友田啓明(ともだ よしあき)(昭和14年(1939年)5月2日〜     )美智男〔ヴァイオリン〕
    室井麻耶子(むろい まやこ)(大正10年(1921年)4月8日〜     )〔ピアニスト〕
    柴田睦睦(しばた むつむ)(大正2年(1913年)3月30日〜昭和63年(1988年)2月19日)〔テノール〕
    伊藤亘行(いとう のぶゆき)(大正10年(1921年)2月6日〜   )〔バリトン〕
    柴田喜代子(しばた きよこ)(大正13年(1924年)12月6日〜平成17年(2005年)9月9日〔ソプラノ〕
    川崎静子(かわさき しずこ)(大正8年(1919年)12月3日〜昭和57年(1982年)10月4日)〔アルト〕
    山田耕筰(やまだ こうさく)(明治19年(1886年)6月6日〜昭和40年(1965年)12月29日)〔作曲家・指揮者〕

    高崎駅

  • 高崎駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム上屋古軌条支柱<br /><br />30A 2606 IIIIIIII<br />(30キロ 皇紀2606年(昭和21年)8月八幡製鐵所製造)<br />支柱番号 第4号d<br /><br />第3番ホームは、上越線全通を前に列車増加を想定し昭和5年(1930年)5月23日開設。

    高崎駅



    第3番ホーム上屋古軌条支柱

    30A 2606 IIIIIIII
    (30キロ 皇紀2606年(昭和21年)8月八幡製鐵所製造)
    支柱番号 第4号d

    第3番ホームは、上越線全通を前に列車増加を想定し昭和5年(1930年)5月23日開設。

    高崎駅

  • 高崎駅<br /><br /><br /><br />第3番ホーム上屋古軌条支柱<br /><br />60 A 1910<br />(60ポンド 官設八幡製鐵所1910年(明治43年)製造)<br />支柱番号 第5号d

    高崎駅



    第3番ホーム上屋古軌条支柱

    60 A 1910
    (60ポンド 官設八幡製鐵所1910年(明治43年)製造)
    支柱番号 第5号d

    高崎駅

  • 高崎駅<br /><br /><br /><br />八島町(やじま まち)<br />命名の発端は元該地区所有者に因む。<br />矢島八郎(やじま はちろう)(嘉永3年(1850年)12月30日〜大正10年(1921年)9月7日は、現高崎市あら町の傳馬問屋長男として生を受ける。<br />その後、傳馬屋は明治期以降、他傳馬屋を統合し 遊龍軒(ゆうりょけん)の名称で代表となり高崎-東京間の郵便馬車等の運行に発展した。<br />然るに、日本鐵道會社が東京上野-高崎間の鉄道敷設を決定した事を知るや、将来の輸送は馬車から鉄道主体になる事を見抜き、殆どの者が鉄道建設に反対する内で、矢島のみ建設賛成し、更に、高崎停車場開業に伴い、自身が所有する下和田町内土地を日本鐵道に無償提供し協力した。<br />地元では土地提供者に因み停車場付近一帯を矢島町と命名しようとしたが矢島が固辞し、末広がりを意味する八島町に落着く。<br />明治25年(1893年)の第2回衆議院選挙に群馬県全権区から立候補し当選、憲政会に所属。<br />明治33年(1900年)月日に初代高崎市長に就任し高崎市に於ける上下水道整備や電気整備を施行し、更に、明治37年(1905年)の高崎大火復興整備後に於ける高崎市近代化に貢献。<br /><br />高崎市八島町70<br />高崎線高崎駅西口 徒歩2分

    高崎駅



    八島町(やじま まち)
    命名の発端は元該地区所有者に因む。
    矢島八郎(やじま はちろう)(嘉永3年(1850年)12月30日〜大正10年(1921年)9月7日は、現高崎市あら町の傳馬問屋長男として生を受ける。
    その後、傳馬屋は明治期以降、他傳馬屋を統合し 遊龍軒(ゆうりょけん)の名称で代表となり高崎-東京間の郵便馬車等の運行に発展した。
    然るに、日本鐵道會社が東京上野-高崎間の鉄道敷設を決定した事を知るや、将来の輸送は馬車から鉄道主体になる事を見抜き、殆どの者が鉄道建設に反対する内で、矢島のみ建設賛成し、更に、高崎停車場開業に伴い、自身が所有する下和田町内土地を日本鐵道に無償提供し協力した。
    地元では土地提供者に因み停車場付近一帯を矢島町と命名しようとしたが矢島が固辞し、末広がりを意味する八島町に落着く。
    明治25年(1893年)の第2回衆議院選挙に群馬県全権区から立候補し当選、憲政会に所属。
    明治33年(1900年)月日に初代高崎市長に就任し高崎市に於ける上下水道整備や電気整備を施行し、更に、明治37年(1905年)の高崎大火復興整備後に於ける高崎市近代化に貢献。

    高崎市八島町70
    高崎線高崎駅西口 徒歩2分

    高崎駅

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この旅行記へのコメント (31)

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  • ホンデューさん 2025/04/24 13:42:07
    初代烏川橋梁
    烏川橋梁を調べていたらこちらのHPに辿り着きました。
    表紙写真に初代石積み橋台とありますが、そこではなく現在の下り線橋台より10mほど上流にあったみたいです。新町側の初代石積み橋台は旧下り橋台の西側に斜めに突き出ていたようです。(台跡はゴルフ場開発で壊されたみたいです)
    公開されている太平洋戦時下の航空写真で大應慈天后宮前の初代単線路跡含め見て取れます。
    初代のものは烏川を斜めに長く渡るずいぶん無理をした鉄橋だったみたいですね。
  • わんぱく大将さん 2013/10/04 05:10:34
    もう一度
    横浜臨海公園さん

    今度の富岡製糸の旅行記には高崎、深谷、関西人の私には馴染みのあさい、地名がでてきましたが、おお、ここかと。特にレンガ建築のみ抜粋して再び、みせていただきました。

     大将

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/10/04 15:16:45
    拝復
    大将さま、こんいちは。


    りょこうきへの投票とコメントを賜りまして誠に有難うございました。

    関東は地震が多い事から煉瓦建築が少ない様に思われがちですが、建築の際に丁寧な工法で施工した所は関東大震災でもビクともしなかった所が殆どで、東京駅などは該最たる存在です。




    横浜臨海公園
  • しなつさん 2013/05/02 15:07:19
    武勇伝
    横浜臨海公園様から頂いたコメントを拝見して
    「高崎の旅行記に”奇跡の16分”の武勇伝が載っている!」と勘違いした私は早速この旅行記を探し出しました。

    あ〜〜、お恥ずかしい限りです。そのようなエピソードを本文として
    横浜臨海公園様がお書きになるわけがありませんでした。

    まだ、横浜臨海公園門下生としては日が浅い新米書生ですので大きなこころでお許し下さい。


    しかしながら、読み進んでいくうちに懐かしい女優の方々の名前が目に入ってきました。


    私がもともと旅好きになったきっかけは 本や映画の舞台になった場所を訪ねてみたいと思ったからです。

    乙羽信子・奈良岡朋子・草笛光子・・・尊敬する女優さんです。
    いつもは映画→ロケ地
    でしたが 今回は ロケ地→映画 です。

    横浜臨海公園様の旅行記を拝見してこの映画を見てみたくなりました。

    武勇伝を探していたはずが・・・すっかり横浜臨海公園ワールドに引き込まれておりました。

    今回も完敗です。(*^_^*)


    〜〜〜
    蛇足ですが、私の武勇伝のご披露を。。。

    在りし日に、大学合格を祝してクラスメートと大食いたこ焼きに挑戦しました。女60個・男80個です。私はくじで大当たり、代表して挑戦しました。

    私と彼はともに50個代で敗退しましたが、私は彼のようにトイレに駆け込むようなもったいない行為はしませんでした。

    え?食べきれなかったから五十歩百歩?

    そうかなあ〜(。・_・。)


    しなつ

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/05/02 15:49:27
    拝復
    http://4travel.jp/traveler/auf7590lothringen/album/10310744/しなつさま、こんにちは。


    早速メッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    小生の説明不足で混乱を招き誠に申し訳ございませんでした。

    該当旅行記は、
    http://4travel.jp/traveler/auf7590lothringen/album/10310744/
    でございます。
    >
    > 私がもともと旅好きになったきっかけは 本や映画の舞台になった場所を訪ねてみたいと思ったからです。
    >
    > 乙羽信子・奈良岡朋子・草笛光子・・・尊敬する女優さんです。
    > いつもは映画→ロケ地
    > でしたが 今回は ロケ地→映画 です。
    >
    > 横浜臨海公園様の旅行記を拝見してこの映画を見てみたくなりました。
    →映画「ここに泉あり」はDVD化されており、大きな図書館あたりでは設備されている所も多い様です。
    因みに、該映画に奈良岡朋子さんはチョイ役で、然も銀幕デビューでの出演ですが、映画の出演者として名前が出ておりません。
    看護婦役で、台詞も「院長先生、院長先生はおりませんか。急患です」と、一言二言だけですが、現在の奈良岡さんの、あの1度聞いたら忘れない低音の台詞回しからは想像も出来ぬキーの高い声で出演されていて、今の人が見たら驚かされる事と思います。




    横浜臨海公園

    しなつ

    しなつさん からの返信 2013/05/02 23:29:24
    ありがとうございます。(*^_^*)
    横浜臨海公園様

    ありがとうございます。

    該当旅行記を読ませていただきました。~♪ d(⌒o⌒)b♪~
    横浜臨海公園様の異なる一面を垣間見ておもわず笑顔になりました。


    > →映画「ここに泉あり」はDVD化されており、大きな図書館あたりでは設備されている所も多い様です。
    探してみます。

    > 因みに、該映画に奈良岡朋子さんはチョイ役で、然も銀幕デビューでの出演ですが、映画の出演者として名前が出ておりません。
    > 看護婦役で、台詞も「院長先生、院長先生はおりませんか。急患です」と、一言二言だけですが、現在の奈良岡さんの、あの1度聞いたら忘れない低音の台詞回しからは想像も出来ぬキーの高い声で出演されていて、今の人が見たら驚かされる事と思います。

    どんな声なんでしょう、すごく楽しみです。

    しなつ

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/05/03 15:52:16
    再拝復
    しなつさま、こんにちは。


    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申しございませんでいた。

    映画「ここに泉あり」は撮影が60年近く前と云う事もあり、登場人物が皆さん若い若い!
    先般亡くなられた大滝秀治さんも、この映画が銀幕デビューでしたが、髪の毛が未だふさふさです。
    ただ、声は亡くなる直前と、ほぼ同じです。



    横浜臨海公園

    しなつ

    しなつさん からの返信 2013/05/03 18:37:44
    あの声
    横浜臨海公園様

    こんにちは。


    > メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申しございませんでいた。


    いいえ、私が勝手に書き込んでいますにでお返事は気になさらないでください。


    > 映画「ここに泉あり」は撮影が60年近く前と云う事もあり、登場人物が皆さん若い若い!
    > 先般亡くなられた大滝秀治さんも、この映画が銀幕デビューでしたが、髪の毛が未だふさふさです。
    > ただ、声は亡くなる直前と、ほぼ同じです。


    そうなんですか(´∀`)
    あのハスキーな落ち着いた声でしかも髪がふさふさ???
    ますます観たくなりました。

    しなつ
  • chikuouさん 2012/09/18 15:33:15
    大阪の中央公会堂
     深谷駅の写真を拝見して、大阪の中之島にある中央公会堂を思い浮かべました。調べていませんが同じような時期ではないかと思います。
     それにしてもきれいな駅舎ですね。古くなったから壊すとかは無いのでしょうか。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/09/19 13:55:04
    拝復
    chikuouさま、メッセージを賜りまして誠に有難うございました。


    >  深谷駅の写真を拝見して、大阪の中之島にある中央公会堂を思い浮かべました。調べていませんが同じような時期ではないかと思います。
    →大阪中之島中央公会堂の竣工は大正7年(1918年)だったと記憶しております。
    それに対し、深谷駅改築は平成8年(1996年)で、特異な事が無い限り解体は無いと思います。



    横浜臨海公園

    chikuou

    chikuouさん からの返信 2012/09/20 20:49:10
    RE: 大阪の中央公会堂
     さっそく調べていただいてありがとうございました。深谷駅は平成8年ですか。それでは壊されることはありませんね。それにしても大変レトロなものを作ったものですね。
  • ムロろ~んさん 2012/09/02 17:19:28
    お久しぶりです。
    横浜臨海公園様

    ムロろ〜んです。この度は北海道旅行記に投票をして下さいましてありがとうございます。続きも書いておりますので今しばしお待ち下さい。

    私も高崎線に乗る機会があるのですが、熊谷辺りからはあまり乗る機会がありません。今でも岡部や神保原などの昔ながらの駅舎が残っているのは趣きがありますね。

    今でも本庄駅南口がまだエスカレーターなどが設置されていないのですか?あそこは大型ショッピングセンターがありますし、人の往来も多いので必要だと思います。

    神流川に掛かる橋もまた季節ごとに色んな風景を見せてくれるので、乗った時はつい車窓を見てしまいます。好きな光景の一つです。


    ムロろ〜ん(-人-)

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/09/08 06:23:11
    拝復
    ムロろ〜んさま、おはようございます。


    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなり誠に申し訳ございませんでした。

    です。この度は北海道旅行記に投票をして下さいましてありがとうございます。続きも書いておりますので今しばしお待ち下さい。
    →投稿される旅行記を楽しみにしております。
    >
    > 私も高崎線に乗る機会があるのですが、熊谷辺りからはあまり乗る機会がありません。今でも岡部や神保原などの昔ながらの駅舎が残っているのは趣きがありますね。
    →小生、専門ではございませんが、昭和初期に発生した北埼玉地震に就いて、浅層直下型地震として地震学会では研究が進んでいないように思えます。
    該地震の被害は広範囲で、岡部、及び、神保原両駅本屋は修復され使用されておりますが、当時の記録を見ると、家屋が土台から外れた様な状態に置かれた様子がうかがえます。

    > 今でも本庄駅南口がまだエスカレーターなどが設置されていないのですか?あそこは大型ショッピングセンターがありますし、人の往来も多いので必要だと思います。
    →南口は田畑が広がる農村風景でしたが、南口開設で急激に開発が進んでいる状況であるにも拘らず、JR東日本も本庄市もエスカレーター設置責任が無相手側が行うものとして静観状態を保ったままの状態です。
    地元住民にしてみれば呆れた視線で見ております。

    > 神流川に掛かる橋もまた季節ごとに色んな風景を見せてくれるので、乗った時はつい車窓を見てしまいます。好きな光景の一つです。
    →小生も、神流川鉄橋を超えると、やっと群馬県に来たなと心なしか浮き浮きとしてします。




    横浜臨海公園
  • にゃんこ姫さん 2012/08/07 22:40:28
    暑中お見舞い申し上げます
    横浜臨海公園さま、今晩は。
    いつもご来訪および、ご投票を賜りまして、
    ありがとうございます。

    高崎線は、以前は時々乗っておりましたが、
    もう何年も遠ざかっておりました。
    このたび旅行記を拝見して、懐かしく思い出されました。
    といっても、私が乗っていたころと駅の様子などは
    すっかり変わっていて、隔世の感があります。
    それと、途中の通過駅などは下車したこともなく、
    外観など、写真を拝見して、
    「あ〜、こんな駅だったのね。」
    と、あらためて感心したり・・・。
    深谷駅のデザインがきれいで、気に入りました。

    立秋を迎えたとはいえ、暑さは本番のようです。
    くれぐれも、お身体お大切にお過ごしくださいませ。

                にゃんこ姫

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/08/08 16:37:00
    拝復



    にゃんこ姫さま、こんにちは。


    ご存知とは思いますが、昨晩より、フォートラベルが機能改修とかで接続ができず返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。

    高崎線の旅行記で、本来であれば、(1)大宮-鴻巣間、(2)鴻巣-深谷間と発表すべき処、(3)深谷-高崎間を最初にしたのは、該旅行記で高崎駅項目に映画「ここに泉あり」のロケ状況などを挿入したかったのと、出演者の岸恵子さんが今月80才になられるので、合えて(3)の完成を急いだ次第でした。

    > 高崎線は、以前は時々乗っておりましたが、
    > もう何年も遠ざかっておりました。
    > このたび旅行記を拝見して、懐かしく思い出されました。
    > といっても、私が乗っていたころと駅の様子などは
    > すっかり変わっていて、隔世の感があります。
    →深谷以北では、岡部と神保原、及び、新町は客層共々、駅舎も変わっていないと思います。

    それにしても、旅人のくまさんさまがフォートラベル退会を決意されたそうです。
    小生の観点から見れば、海千山千の旅行記投稿の中で、旅人のくまさんさまの投稿される旅行記は上質だったので、たいへん残念に思っている次第です。



    横浜臨海公園
  • frau.himmelさん 2012/07/30 23:05:04
    渾身の作
    横浜臨海公園さま こんばんは。

    「高崎線歴史的痕跡探訪記」拝見させていただきました。
    私には窺い知れないほど時間をかけて詳しく調査された旅行記に、横浜臨海公園様の渾身の思いを感じました。
    こんな素晴らしい旅行記は簡単に出来るものではありません。横浜臨海公園様が寡作である理由がよく理解出来ます。

    私は残念ながら高崎線にはまだ乗ったことがありません。
    駅舎や橋梁、はては駅付属の建物やその他いろいろのものまで、歴史的背景、材料の年代、建築技法などあらゆる視点から調べつくされたこの旅行記は、もう学会論文ですね。

    正直言って私にはちょっと難しかった…。でも最後に「ここに泉あり」の映画の話が出てきますね。高崎交響楽団の話はよく知っています。あの話の映画化だったのですね。
    それに懐かしい昔の俳優さん、女優さんのお名前の数々。
    団伊久磨、岸恵子、岡田英次、津島恵子さんなどなど、さすがの私でも年代的にちょっと古い方々ですが、先日亡くなった母が好きだった俳優さんの名前が出てきて、つい涙がこぼれました。

    素晴らしい旅行記ありがとうございました。

    himmel

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/07/31 06:03:38
    拝復
    frau.himmelさま、おはようございます。


    過分なるお褒めのメッセージを賜りまして恐縮赤面しております。
    誠に有難うございました。

    此の旅行記は、高崎線の終点たる高崎駅で58年前に映画ロケが行われた事を記述している点で他旅行記と著しく異なっております。

    兎に角、映画関係の資料調達に2年。鉄道関係資料調達に2年半かかりました。

    > 私は残念ながら高崎線にはまだ乗ったことがありません。
    →純然たる通勤通学路線で見るべきものが少ないのが難点です。

    > 駅舎や橋梁、はては駅付属の建物やその他いろいろのものまで、歴史的背景、材料の年代、建築技法などあらゆる視点から調べつくされたこの旅行記は、もう学会論文ですね。
    →利用として兎角問題が多いウィキペディアと異なり、料活用でも利用可能な状態で作成しております。

    > 正直言って私にはちょっと難しかった…。でも最後に「ここに泉あり」の映画の話が出てきますね。高崎交響楽団の話はよく知っています。あの話の映画化だったのですね。
    > それに懐かしい昔の俳優さん、女優さんのお名前の数々。
    > 団伊久磨、岸恵子、岡田英次、津島恵子さんなどなど、さすがの私でも年代的にちょっと古い方々ですが、先日亡くなった母が好きだった俳優さんの名前が出てきて、つい涙がこぼれました。
    →該作品で、東野英治郎さんと小林桂樹さんは地元群馬県の俳優出身です。
    東野さんは初代水戸黄門でした。
    小林さんは、やや後に東宝の駅前3等重役シリーズで、上司に忠実な、ひょうひょうとした秘書役で、寧ろ当時は3枚目の印象が強い俳優だったと思います。
    晩年の老熟し渋み深い演技で知られた俳優を誰が想像したでしょうか。
    それに、岸恵子さんをはじめ、皆さん若いときは声のキーが高く、現在とはずいぶん異なります。
    奈良岡朋子さんなど現在では女優として大御所的存在ですが、該映画当時は新人で、その他大勢の扱いで映画の何処にも名前が出ておりません。
    出演者で物故者も多くなりましたが、58年前の高崎駅前や群馬県内で今は見られぬ風景も貴重なものです。
    数年前にDVDで復刻され収録時間お関係で一部カットされているシーンもありますが、充分堪能可能な作品です。



    横浜臨海公園

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/08/10 18:18:58
    再拝復
    frau.himmelさま、こんばんは。


    掲示板に返事を差し上げたその日に、女優の津島恵子さんも鬼籍に入ってしまいましたね。
    若い時は上流階級のお嬢様役、晩年は上品な婦人役が多い方でした。
    また、昭和20年代に活躍された女優がお亡くなりました。



    横浜臨海公園

    frau.himmel

    frau.himmelさん からの返信 2012/08/10 20:10:46
    津島恵子さん
    横浜臨海公園さま、こんばんは。

    > 掲示板に返事を差し上げたその日に、女優の津島恵子さんも鬼籍に入ってしまいましたね。

    私も同じことを考えながら津島恵子さんの訃報のニュースを見たものでした。

    > 若い時は上流階級のお嬢様役、晩年は上品な婦人役が多い方でした。
    > また、昭和20年代に活躍された女優がお亡くなりました。

    本当に上品でとても素敵な女優さんでしたね。
    母と同年代のあの時代の方が次々となくなられて、寂しくなります。

    himmel

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/08/11 13:21:39
    本日は岸恵子さんは80才の誕生日
    frau.himmelさま、こんにちは。


    メッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    旅行記を投稿した日が加東大介氏の命日。
    掲示板に投稿があった日が津島恵子さんがお亡くなりになった日。
    そして、今日は、岸恵子さんが80歳になられました。
    腐っても鯛。きれいな方ですね。
    よく自宅近くの横浜○○○商店街に買い物にお出でになられるそうです。
    小生も1度拝見したことがございましたが、あれで77歳とは、とても思えませんでした。

    ここに泉あり
    ご覧になられましたか?
    因みに、人吉の閉館になった映画館で過去最高の入場者があったのが新東宝製作の日露大戦争で、次いで、ここに泉ありだったそうですが、床が抜けるかと危惧するほど人が来たそうです。




    横浜臨海公園

    frau.himmel

    frau.himmelさん からの返信 2012/08/12 14:31:46
    RE: 本日は岸恵子さんは80才の誕生日
    横浜臨海公園さま、毎日暑いですねー。

    岸恵子さんが80歳?
    まだまだお若かくて、お美しいですね。
    昔は80歳といったらずいぶんお年寄りを想像しましたが、
    今は80歳はまだまだ海外旅行も出来る年代ですものね。

    > ここに泉あり
    > ご覧になられましたか?
    > 因みに、人吉の閉館になった映画館で過去最高の入場者があったのが新東宝製作の日露大戦争で、次いで、ここに泉ありだったそうですが、床が抜けるかと危惧するほど人が来たそうです。

    私が知らない人吉のこともよくご存知で、ビックリです…。
    残念ながら「ここに泉あり」は見ていません。
    あの映画が出来た当時は、私もまだ小学生(?)、
    その頃は学校で連れて行ってくれる映画以外は、確か禁止されている頃ではなかったかと…。

    映画を見れるようになってからは、日本映画より外国映画を好んでよく見ていました。

    でも、岸恵子さんも津島恵子さんも加東大介さんもよく知っています。
    映画で…というよりテレビでよく見ていた方達でした。

    himmel

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/08/13 12:33:00
    続 ここに泉あり
    frau.himmelさま、こんにちは。


    本日は職場から徒歩で国会図書館に来館しております。
    此処は都区内某図書館の如きホームレスの憩いの場になど成り得ず、殆どが研究目的での来館者ばかりなので、落ち着けます。

    > > ここに泉あり
    > > ご覧になられましたか?
    > > 因みに、人吉の閉館になった映画館で過去最高の入場者があったのが新東宝製作の日露大戦争で、次いで、ここに泉ありだったそうですが、床が抜けるかと危惧するほど人が来たそうです。
    >
    > 私が知らない人吉のこともよくご存知で、ビックリです…。
    > 残念ながら「ここに泉あり」は見ていません。
    > あの映画が出来た当時は、私もまだ小学生(?)、
    > その頃は学校で連れて行ってくれる映画以外は、確か禁止されている頃ではなかったかと…。
    →実は、当時の事で先般お亡くなりになられた球磨地区在住の歴史研究の方とお目にかかった際に、当時高校で生活指導をも担当しており、熊本市内での試写会で、映画は作品として素晴しい出来だったが、作品内に主役の岡田英次と岸恵子のキスシーンがあり生徒達には見せられぬと教育委員会からの通達で、熊本県では高校生以下の者は観賞禁止とされたとか。
    また、当時人吉市内の映画館で映画技師をされていたF氏は、あの映画は最初は皆笑ってみていたが、途中から、シーンと静まり返り、すすり泣きの声も聞こえ、映画終了後は大拍手だったそうです。

    > でも、岸恵子さんも津島恵子さんも加東大介さんもよく知っています。
    > 映画で…というよりテレビでよく見ていた方達でした。
    →加東大介氏は、いい俳優で市川雷蔵と共演した作品など、今見ても新鮮な内容でしたが若死にでしたね。
    それから、姉と共演した作品は該映画作品以外、何かありましたか?
    小生には記憶にないのですが!



    横浜臨海公園

    frau.himmel

    frau.himmelさん からの返信 2012/08/14 17:07:56
    RE: 続 ここに泉あり
    横浜臨海公園さま こんにちは

    今日も国会図書館に行ってらっしたのでしょうか。
    さて、「ここに泉あり」の掲示板シリーズ、ずいぶんロングランですね(笑)。

    > ……作品内に主役の岡田英次と岸恵子のキスシーンがあり生徒達には見せられぬと教育委員会からの通達で、熊本県では高校生以下の者は観賞禁止とされたとか。

    そういう経緯があったんですね。
    だから、私は見ていない(見せられていない)のかな…?(笑)
    今から考えると可愛いものです。

    > また、当時人吉市内の映画館で映画技師をされていたF氏は、あの映画は最初は皆笑ってみていたが、途中から、シーンと静まり返り、すすり泣きの声も聞こえ、映画終了後は大拍手だったそうです。

    そうですか。そうでないと、映画館の床が抜ける位の人は集まらないでしょうね。
    映画は見ていませんけど、高崎楽団のことは知っています。

    > それから、姉と共演した作品は該映画作品以外、何かありましたか?
    > 小生には記憶にないのですが!

    ちょっとここのところが意味がわからないのですが…。
    姉ってどなたですか?

    himmel

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/08/14 17:27:31
    続々 ここに泉あり
    frau.hemmelさま、こんにちは。


    度々メッセージを賜りまして深謝しております。

    > > ……作品内に主役の岡田英次と岸恵子のキスシーンがあり生徒達には見せられぬと教育委員会からの通達で、熊本県では高校生以下の者は観賞禁止とされたとか。
    →観賞禁止とされながら昭和30年(1955年)の春休みは親同伴で観に来ていた中高生が多かったとか!!

    > > また、当時人吉市内の映画館で映画技師をされていたF氏は、あの映画は最初は皆笑ってみていたが、途中から、シーンと静まり返り、すすり泣きの声も聞こえ、映画終了後は大拍手だったそうです。
    →小林桂樹氏演ずるマネージャーは何時も小脇に革鞄を抱え、そさくさとした表情で笑いをそそります。
    そう言えば、小林桂樹氏は東宝映画では海軍兵長の役で笑いを取った方ですが、ある時に映画「連合艦隊」でミッドウェー海戦直前の描写で艦隊参謀で中佐の役で出演したら、真面目な役で真面目な映画なのに会場内から笑い声が出て本人は参ったと思ったそうです。

    > > それから、姉と共演した作品は該映画作品以外、何かありましたか?
    > > 小生には記憶にないのですが!
    >
    > ちょっとここのところが意味がわからないのですが…。
    > 姉ってどなたですか?
    →加東大介氏の姉は沢村貞子さんです。
    ご存知ではありませんでしたか?
    では、2人の甥とは誰だかご存知ですか?



    横浜臨海公園

    frau.himmel

    frau.himmelさん からの返信 2012/08/14 18:00:42
    RE: 続々 ここに泉あり
    横浜臨海公園さま お返事ありがとうございます。

    今更のことではないですが、どんな分野においても本当に博識な方ですね。

    > →加東大介氏の姉は沢村貞子さんです。
    > ご存知ではありませんでしたか?
    > では、2人の甥とは誰だかご存知ですか?

    知っています、知っています。
    沢村貞子さんですね。甥は確か長門裕之さんと津川雅彦さん。
    もう長門さんもお亡くなりになられましたね。
    昭和の映画俳優さんがどんどん亡くなられる…。
    お盆だからか、なんだかとても寂しく思います。

    himmel

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/09/20 21:16:08
    続々々 ここに泉あり
    frau.himmelさま、こんばんは。


    今秋発売された週刊朝日末尾カラーグラビアページに、ここに泉ありで、山田耕筰氏の指揮の下でチャイコフスキーのピアノ協奏曲を演奏していた、室井麻耶子さんの記事が掲載されております。
    91歳にして現役とは驚きです。



    横浜臨海公園

    frau.himmel

    frau.himmelさん からの返信 2012/09/21 13:28:56
    RE: 続々々 ここに泉あり
    横浜臨海公園さま こんにちは。

    凄いですね。ここに泉ありの話題で掲示板も、続々・々・々・々と文字通り続きます。

    さて、室井麻耶子さんってピアニストの方、知りませんでした。
    どんな方かなーとさっき調べてみました。
    91歳で今も現役、しかも自分でブログも書いていらっして、その内容のポジティブなことに驚きました。
    しかも今もおきれいでいらっしゃる…。
    素晴らしい方です。

    その方が「ここに泉あり」で山田耕筰さんと一緒に実名で出ていらっしゃったのですね。
    その場面もネットで探すことが出来ました。
    あの当時からとても美しい方…。
    人間、人生に目的があり、ポジティブに生きていると、いつまでもふけないんだなーと思います。
    あの映画に出演していらっしゃる岸恵子さん、草笛光子さんだってそうですものね。

    チャイコフスキーのピアノ協奏曲、私の大好きな曲です。

    himmel

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/09/22 11:32:36
    続々々々 ここに泉あり
    frau.himmelさま、こんにちは。


    メッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    > さて、室井麻耶子さんってピアニストの方、知りませんでした。
    > どんな方かなーとさっき調べてみました。
    > 91歳で今も現役、しかも自分でブログも書いていらっして、その内容のポジティブなことに驚きました。
    > しかも今もおきれいでいらっしゃる…。
    > 素晴らしい方です。
    >
    > その方が「ここに泉あり」で山田耕筰さんと一緒に実名で出ていらっしゃったのですね。
    > その場面もネットで探すことが出来ました。
    > あの当時からとても美しい方…。
    →ここに泉ありに出演された翌々年にオーストリアに渡航され、以来25年間墺独で活躍された為に、我が国では、すっかり忘れられた存在になってしまっておりましたが、日本人留学生で室井さんに教わった方が多数おられた為に知る人ぞ知る女流ピアニストでした。
    ここに泉ありに出演される前に、昭和24年(1949年)公開の映画青い山脈で原節子さんが弾くピアノのオフレコを担当されていたそうですが、ご自身が姿を出しての演奏シーンは、ここに泉ありだけだそうです。




    横浜臨海公園
  • 義臣さん 2012/07/30 16:45:25
    ここに泉あり
    懐かしい 映画の題名で

    私自身は見た覚えはないのですが

    前橋で仕事のおりに諸先輩たちが

    興奮気味で語ってくれたことを覚えていますが

    是非 一度は見たいものです

    前橋 古墳 遺跡調査 と よく訪れるのですが

    ここ数年行っていませんが

    まして高崎駅は 乗り換えばかりで

                 義臣

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/07/30 17:24:34
    拝復
    義臣さま、こんにちは。


    旅行記にコメントを賜りまして誠に有難うございました。


    > 懐かしい 映画の題名で
    > 私自身は見た覚えはないのですが
    > 前橋で仕事のおりに諸先輩たちが
    > 興奮気味で語ってくれたことを覚えていますが
    > 是非 一度は見たいものです
    →映画ここに泉ありは、小生は30年ほど前にビデオで見る機会があり、作品の素晴しさに感動した記憶がございます。
    また、3年前に東京京橋映画センターのリバイバル作品上映で、該作品が上映される事になり、上映当日は通路まで埋め、皆さん感動してご覧になっておりました。
    当時の女優は昨今の軽薄アイドルと異なり知性を感じさせます。
    更に、22才の岸恵子さんや21才の草笛光子さんの美しさは、かくやとばかり!
    グリークのピアノ協奏曲第3楽章のピアノ部分は岸さん自身の演奏だそうで、ぶっつけ本番でミスタッチも収録されておりますが、凡人には出来ぬ技巧です。
    数年前に、一部収録時間の都合で、草笛光子さんが軽井沢の山荘シーンでの登場シーンはカットされありませんが、DVDで復刻されております。



    横浜臨海公園

    REDFORZA

    REDFORZAさん からの返信 2012/08/29 17:30:18
    横浜海浜公園さん 大変大変御無沙汰しています。お元気ですか?
    東海道線の戸塚駅から上り電車でご一緒させていただきました。
    私は、川口まで帰宅しましたが、横浜海浜公園さんは、横浜で下車されたと記憶しています。
    短い時間でしたが、とても学識のある方と思っていましたが、ブログをみて鉄道の高崎線の件には、写真の枚数といいその歴史的なことの緻密さといい(その記事は)圧巻でした・・・

    先週は、18切符の旅に、北陸にいってきました。
    とても楽しいたびでしたが、ブログにまとめるところまではしませんが、その前に韓国の麗水万博に行ってきて、ブログにまとめました。

    韓国は、安くてみんな親切でハングルが話せない筆者もたのしく旅行をしています。お時間が会ったら是非、次のURLにご訪問ください。
    (いつか横浜京浜公園さんと旅行できるのを楽しみにしています)


    韓国_麗水万博を自由に楽しむ一週間!_2012.7.16 - 2012.7.22

    http://skipn.blog88.fc2.com/blog-entry-81.html#more


    楽しかった韓国鉄道一人旅

    http://skipn.blog88.fc2.com/blog-entry-40.html#more

    読んだら、「拍手」のクリックしてくださいm(__)m
    コメントもらえればもっとうれしいですが・・・

    韓国の領土問題でいまややこしくなってきていますね!
    早く解決すればよいのに(^O^)/

    川口 REDFORZA

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