2011/07/13 - 2011/07/13
34位(同エリア127件中)
まみさん
2011/07/13水 エチミアジン日帰り&エレヴァン市内観光
・ブルー・モスク(修復中で入れず)
(エチミアジンまで路線バスで約50分)
・大聖堂と礼拝堂(世界遺産)(宝物館入れず)
(タクシー乗合でトビリシに15分ほどで戻る)
・自由市場散策
・民族芸術博物館見学&撮影
・国立美術館見学
【エレヴァン泊:ホテル・アララト(Ararat)】
アルメニアに限らずコーカサス3カ国は、地方の魅力的な見どころは交通アクセスが不便なところが多いため、1人だと代金が高くつくのを覚悟で、めぼしいところは思い切って車とガイドを事前に手配しました。
だけど、せっかくの個人旅行です。
滞在市内観光だけでなく、公共交通機関を利用した自力での日帰り旅行もしないと、旅程にメリハリがつかなくなるし、物足りなくなります!
というわけで、グルジアではグルジア教会の総本山のムツヘタへの日帰り旅行を旅程に盛り込みましたが、アルメニアでも同様に、アルメニア教会の総本山のエチミアジンは自力で行くことにしました。
どちらも総本山だけあって、地元の人もたくさん出かけるため、さすがにこういうところは交通アクセスは不便ではないです。
アクセスの手段は列車ではなくバスかマルシュルートカ(乗り合いタクシー)ですが、頻発していますし、距離的にもさほど遠くなく時間がかからないので、ホテルの朝食をしっかり食べた後で出かけるスロースタートでも、余裕をもって往復できます。
ただし、自力で行くとなにかと時間がかかるし、他に近くに見どころがあっても、体力の限界で回れないこともあります。
また、もともと私の持つ背景知識が少ないので、いくら現地でガイドブックとにらめっこしても、見るべきポイントを逃したり、重要な意味を持つものを、それと知らずたくさんスルーしてしまうはずです。
そのマイナス点を、自力で行く満足感とコスト安といったプラス点と天秤に掛けて、覚悟した上で決めました。
マイナス点は、後からやはり残念に思ってしまうけど、仕方がないです。両方のいいとこどりはできません。
例えば、エチミアジン市内に入ってすぐのところにある聖リプシメ教会は行けませんでした。
一番目当ての大聖堂がある町の中心から2kmもあるし、なにより暑くて気力がダウン。歩くのはもちろん、往路復路のいずれかでバスを途中下車して歩く気にも、とてもなれませんでした。
また、大聖堂では必見の宝物「ロンギヌスの槍」や「ノアの箱船の破片」を見てくるのを忘れました。
というか、ゆっくり時間をかけて見学した後に宝物館に入ろうとしたら、ミサが始まってしまったので、入れなくなってしまったのです。
翌日の地方めぐりの現地ガイドさんにエチミアジン行きのことを聞かれてそのことに気付き、「私がガイドしていれば、ちゃんと案内したのに」と言われて、さすがに悔しくなりました。
でも、仕方がないもんっ! 忘れたものは忘れたんです!
どうせっ、さび付いたぼろぼろの槍と、腐りかかった木片でしょ!
───というのは、ただの悔し紛れの捨てゼリフです(苦笑)。
エチミアジン行きのバス・マルシュルートカ乗り場の情報は、フォートラベル旅行記や、アルメニアの観光案内所の公式サイト(ただし2011年2月で更新がストップしていたことに後で気付きました)でも確認しておきました。
中央市場に近い、サリヤン通りとメスロプ・マシュトツ通りの交差点を100メートルほど歩いたところにあり、そこが始発です。
アルメニア語は文字すら読めない私にとって、市内の地下鉄を含め、公共交通機関の利用はハードルが高いです。
我ながらあきれるほどいろんな不安が次から次へとわいてきました。
でも達成した後の喜びはひとしおです。
もっとも、後から振り返れば、なんであんなに心配したんだろう、と思うくらい、アクセスはめちゃくちゃ簡単でした!
さすがに首都に近くて地元の人がよく行く、信仰の中心、心のふるさとの大聖堂がある町だけのことはあります。
それと、地元のみなさんの親切のおかげでもあります。
例えば、エチミアジン行きのバス乗り場は目立たず、あっさり通り過ぎてしまい、見つけられなくてあせりました。
始発乗り場なので客待ちのマルシュルートカが待機しているかと思ったのに、朝10時過ぎというのは朝のピークをとっくに過ぎた時間帯だったからでしょうか。
いや、始発乗り場といっても、ターミナルになっていないふつうの道路だから、バスもマルシュルートカも長く停車していられないのかも知れません。
だけど、エレヴァン市内は、英語通用度が高いです。
中年以上の人に話しかけると、英語に自信のない日本人が日本で外国人に話しかけられそうになるときと似たような反応をすることが多いですが(笑)、20〜30代くらいのまで人を狙えば、ほとんど英語が通じます。それで、通りがかりの人に教えてもらえました。
そして停留所で10分と待たずにバスがやってきました。
本当は多少高くても(といっても、コーカサスを含む東欧は交通費が非常に安いので、たかが知れています)、スピードの出るマルシュルートカを待っていたかったのですが、近くにいたおじいさんがそのバスを指して、「エチミアジン! エチミアジン!」と教えてくれました。
あんまり熱心に教えてくれるので、乗らないわけにはいきませんでした(苦笑)。
※エチミアジン行きのバス乗り場の写真はこちら。
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/22690799/
関連の旅行記
「2011年コーカサス3カ国旅行ハイライトその5:国際・国内・市内交通編・後編」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10586586/
エチミアジン行きのバスは70ドラムでした。円貨にして14円です!
あんまり安いので、運転手さんの給料が心配になりました。
ちなみに帰りはマルシュルートカを利用しましたが、4人相乗りで1人300ドラム。それでも60円です!
ミネラルウォーターよりちょっと高いくらい(苦笑)。
(2011年7月現在、1 AMD(アルメニア・ドラム)=約0.2円で換算)
エチミアジンまでの往路はバスで50分くらい。
それに対して、帰路は、マルシュルートカの運ちゃんがびゅんびゅん飛ばしたので、20分でした。
エチミアジン行きのバスは、はじめガラ空きでしたが、あちこちの停留所で人が乗ってきて、エチミアジンに着く頃にはほぼ満員となりました。
市内では扉を開けっ放しで走っていました。
扉が完全に閉まらなくて、車体がガタガタいうオンボロバスですが、東欧旅行をしていれば慣れっこになります。
これが、かなりスタイリッシュで現代的でグルジアに比べればお金持ちのアルメニアの首都の路線バスかと思うと、ちょっと驚きますけど。
※エチミアジン行きの路線バスの車内の写真はこちら。
(エレヴァン市内で空いているときに撮りました。
車体の写真は、乗るときも下りるときも周りの人が、私が迷っているのではないかと気をきかせて熱心に案内してくれたので、撮る暇がありませんでした(苦笑)。)
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/22690800/
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/22690801/
関連の旅行記
「2011年コーカサス3カ国旅行ハイライトその5:国際・国内・市内交通編・後編」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10586586/
エレヴァンを出た後、バスは田舎を横切る幹線道路をのんびり走り、なんだか牧歌的な気分になれました。
途中で雪山が見えました。
もしかしたら、アララト山か!?───と、内心ひそかに興奮したのですが、午後に行けたエレヴァンの国立美術館で、あれはアルメニア最高峰のアラガツ山(4,090m)だと気付きました。
もっとも、その「地球の歩き方」でしょうかいされたリヴィブのアルメニア教会も、地味とはほど遠く、内部装飾などから受ける印象は、エチミアジン大聖堂に似ていました。
※車窓からなんとかそれらしいものが撮れたアラガツ山の写真はこちら。
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/22690802/
関連の旅行記
「2011年コーカサス3カ国旅行ハイライトその5:国際・国内・市内交通編・後編」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10586586/
エチミアジン大聖堂は、息をのむほど見事でした。
「地球の歩き方」で、ウクライナのリヴィブにあるアルメニア教会の説明には、「一般にアルメニア教会の内装は地味だ」とあるのですが、エチミアジン大聖堂は一般の教会ではないとはいえ、地味だなんて、とんでもないです。
誰がそんなことを言ったの!?
という反論したい気分満々であちこちで撮影しまくり@
関連の旅行記
「2009年ウクライナ旅行第11日目(4)リヴィブ:リヴィブに戻った後、ちょっとだけ街散策とアルメニア教会」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10419209/
というわけで、同じ敷地内のもう一つの礼拝堂や庭にあったハチュカル(十字架の石碑)なども含めて、1時間以上かけて撮影見学をしてしまいました。
ガイドさんと一緒では、こんなに心ゆくまで写真を撮ってはいられなかったでしょう。代わりにロンギヌスの槍とノアの方舟の破片を見損ねましたけど。
立案中は、エチミアジン市内の他の教会も行きたいと思っていましたが、その筆頭のリプシメ教会に行くのをやめたのは、大聖堂だけでもう十分満足してしまったせいでもあります。
エチミアジン大聖堂を訪れた観光客は、多少は外国人もいるかもしれませんが、たぶん地元のアルメニア人ばかりだったと思います。たぶん、というのは、これまでの私に特に縁がなかったアルメニア人とそれ以外の欧米系の外国人を見分けがついたか怪しいから。
でも、アルメニア人であれば、観光客というより、巡礼者かな。
地元のみなさんの気分は、きっとお伊勢参り@
熱心に祈るだけ人もいたけれど、お祈りの前後で記念撮影を撮っている姿も、あちこちで見られました。
だから私も、安心して写真を撮りまくったんです。
大聖堂を出ようとしたときに初めて、撮影禁止の張り紙を見つけて、ゲッ!!
でも、撮っちゃったもんは、撮っちゃったもん。
それに、地元の人が撮影していても、私が撮影していても、すぐそばを通りかかった僧侶は、なんにも言わなかったですもん。
と、言い訳させてください(苦笑)。
「エチクアジン大聖堂
マイル・タチャル Mayr Tachar(母なる教会)とも呼ばれる。エチミアジンの語源は神の子が降臨した場所という意味。アルメニアにキリスト教を伝道したグリゴル・ルサヴォリチが神の啓示を受け、この地に最初の教会を建てたという伝説による。敷地内にはカトリックで言えば法王庁に相当するカトリコス(総主教)座、神学校などがある。大聖堂のドーム部分と鐘楼は17世紀のものだが、基本的な構造は7世紀から変わっていない。奥の方に宝物館があり、キリストの脇腹を刺したと伝えられるロンギヌスの槍やノアの箱船の破片といった教会秘蔵の聖遺物、宝石付きの十字架など祭礼に使う品々が展示されている。また、敷地内には国中からとくに貴重なものを集めたハチュカル(十字架石)が建てられている。」
(「旅行人ノート シルクロード 中央ユーラシアの国々 [改訂版]」(2006年11月改訂)より)
※2011年コーカサス3カ国旅行の旅程一覧はこちら。
簡易版「2011年コーカサス3カ国旅行プロローグ(旅程一覧)地図付」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10584724
詳細版「2011年コーカサス3カ国旅行の詳細旅程(写真付き)」
http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2011/07/2011-1ab0.html
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1915年から23年のアルメニア人ジェノサイド(集団虐殺)・メモリアル
トルコ政府は公式には認めていないようですが、アルメニアがオスマントルコ帝国の一部だったときから19世紀末まで、ケマル・アタチュルク政権時代も含め、いくたびかアルメニア人の大虐殺を行っていました。
第一次大戦勃発翌年の1915年から23年にかけての大虐殺は、民族根絶を目的とした計画的集団的なものだったため、ジェノサイドと呼ばれています。
ナチスによるユダヤ人ジェノサイド(ホロコースト)よりも先です。
当時のヨーロッパの大国中心の国際社会は、小国や被支配者民族の主権や人権が今よりずっと軽視されがちな時代背景において、トルコとの関係や利権のために、アルメニア人の独立の悲願やジェノサイド被害の訴えに真剣に取り組みませんでした。
このときにきちんとジェノサイド問題に取り組んでいれば、ホロコーストは避けられたのでは、という考え方もあるようです。
なにしろ、ヒトラーは1939年9月、ポーランド侵攻を前にした将校を前に「女,子どもも無慈悲に殺せ!……あのアルメニア人絶滅のことを今誰が口にしようか!」と檄をとばしたとか。
1915年から1923年にかけて、オスマントルコの青年トルコ党政府によって行われたジェノサイドによって、帝国内に居住していたアルメニア人250万人のうち150万人が死亡したそうです。
オスマン青年将校や官僚を中心にトルコ人民族意識が高まっていたことや、当時のオスマントルコ経済でアルメニア人資本家がトルコ人の小資本家をおさえて優位にあったことなどが背景にありました。
この記念碑は、エチミアジン大聖堂の敷地の境界に、まるでゲートにように立っていました。
アルメニア人のジェノサイドのことは、私はアルメニア旅行を計画するまでほとんど知らず、学生時代に世界史が好きと自負していたけど(現近代史は苦手でしたが)、学校教育では習いませんでした。
旅行前ににわか勉強で調べたけれど、旅行中も旅行後も、ともすればミーハーな楽しみばかり追いかけがちな私にとって、この記念碑が、もう一度アルメニアの歴史とジェノサイドのことをふりかえるきっかけになったのは確かです。
※旅行前後ににわか勉強のために読んだ、アルメニア人ジェノサイドについて触れた書籍
「悲劇のアルメニア」藤野幸雄・著/新潮選書
「アルメニアを知るための65章」中村偉晴・著/明石書店
ほか参考にした主なサイト
「アルメニアへようこそ」の「アルメニア人ジェノサイド」
http://homepage3.nifty.com/armenia/genocide.htm -
ハチュカル(十字架の石碑)のある石碑
アルメニア語でハチュカルの「ハチュ」は十字架、「カル」は石の意味です。
後ろにある建物は、管理棟かブックショップか博物館か神学校か……。
敷地内に大聖堂以外にも観光客が入れなくもないところがあったようなのですが、よく分からなかったし、大聖堂がダントツにすばらしかったので、他はあれこれ回りませんでした。
「エチミアジン(ヴァガルシャパト)/Echimiadzin(Bagarshapat)
アルメニア教会の総本山、エチミアジン大聖堂のある町。町の中心はコミタス Komitasi 広場。そこから Atarbekyan通りが西へ延び、大聖堂の入り口はそれを100mほど進んで南側。東の M. Mashtotsi 通りは聖フリプスィメ教会を経て、イェレヴァンへの幹線道路に通じている。アルメニア教会歴のクリスマス(1月6日)には世界中の信者が集まる。(後略)」
(「旅行人ノート シルクロード 中央ユーラシアの国々 [改訂版]」(2006年11月改訂)より) -
ハチュカルと礼拝堂・その1
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ハチュカルと礼拝堂・その2
この礼拝堂は、大聖堂見学の後に見学しました。
中には、十字架や聖書を売るショップも併設されていました。 -
エチミアジンの絶対的ハイライトのエチミアジン大聖堂
「アルメニア正教の総本山エチミアジン
アルメニア正教の総本山。町が創設された117年当時は、アルメニアの首都だった。4世紀に首都がドゥズィン、エレヴァンに移されてからも、訪れる巡礼者が絶えない。2000年には世界遺産に登録されている。(中略)
エチミアジンとは「神の唯一の子が降りた」という意味。聖グレゴリウスは、ある晩夢を見た。キリストが地上に下りてきて、火の小槌で地上を打ったのだ。聖グレゴリウスはお告げに従い、この地に木造の教会を建てた。これがエチミアジンの始まり、世界最初の公式の教会の由来であるという。
(「‘10〜’11年版 地球の歩き方 ロシア&ウクライナ ベラルーシ コーカサスの国々」より) -
大聖堂への入口となっていた鐘楼
「広い敷地の真ん中にエチミアジン大聖堂がある。建築様式はシンプル。回廊はなく十字形の会堂があるだけ。天井はドームになっていて、とんがり帽子の屋根が載っている。当初は装飾やイコンの類は一切なかったが、今ではきらびやかなフレスコ画が入口の天井などを飾っている。大聖堂内部(祭壇に向かって右側奥)には宝物館があり、キリストの脇を刺したといわれるローマ兵の槍や、ノアの箱船の破片などが展示されている。(後略)」
(「‘10〜’11年版 地球の歩き方 ロシア&ウクライナ ベラルーシ コーカサスの国々」より) -
入口前の鐘楼下のアーチの天井と入口の上部のアーチ
入る前からこんなに美しくて、どうしましょう。 -
入口の上部の美しい浮彫装飾
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入口の脇のカラフルで美しい浮彫装飾
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中に入ってまっすぐ奥に主祭壇が見える
「アルメニア最古の中央ドーム様式の建築はエチミアツィン教会で、301〜303年にトゥルダト3世とグリゴルによって建てられたといわれる。同教会は、学校、筆写稿貯蔵所、写本室、印刷所の先駆けとなったばかりでなく、アルメニア人の命運を支えることになる精神上の教育の源泉となった。今もエチミアツィンは、民族発祥の地・アルメニア高地の核心部から離散したアルメニア人の精神上のセンターであり続けている。」
(「アルメニアを知るための65章」(中島偉晴・著/明石書店)より) -
巡礼の記念撮影中
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祈る人
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祭壇の脇の説教台の上には教会の模型のようなものが
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説教台とアーチ天井
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エキゾチックな文様のある中央ドーム天井
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豪華なシャンデリア
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主祭壇前の台座と奥の主祭壇までの様子
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主祭壇の前のろうそく立てや十字架や聖杯のある台座
「こんな言い伝えがある。3世紀末、キリスト教はまだ異教であった。当時アルメニアを治めていたトゥルダト3世はキリスト教を弾圧した。そんな中、聖グレゴリウスはアルメニアのキリスト教の布教に尽力していた。当初よかったふたりの仲は、次第に険悪なものへと変わっていった。トゥルダト3世は聖グレゴリウスを殺すわけにもいかず、彼を暗い穴の中に閉じ込めた。彼に食料を与えることを禁じたが、ある女性が密かに毎朝穴にパンを投げ入れ、そのおかげで彼は生き延びることができた。
その後、トゥルダト3世は重い病気にかかってしまう。ある日、トゥルダト3世の姉が、聖グレゴリウスを穴から出せば病気が治る、という夢を見た。そこでトゥルダト3世は聖グレゴリウスを穴から出した。それが300年のできごと。それ以降、トゥルダト3世はキリスト教を受容し、301年にアルメニアは世界で初めてキリスト教を国家宗教として正式に認めた国になった。」
(「‘10〜’11年版 地球の歩き方 ロシア&ウクライナ ベラルーシ コーカサスの国々」より) -
信者が跪いて祈りをささげるときの膝置きと、キッスしていたシルバーの十字架と聖書
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聖母子の祭壇画がある、美しい大理石の主祭壇
アルメニアがキリスト教を国教化したのは301年。世界で最初です。
それに対してローマ帝国でキリスト教が認められたのは、ミラノ勅令の出た313年、そして国教化されたのはもっと後です。
「アルメニアを知るための65章」(中島偉晴・著/明石書店)によると、その史実的歴史背景はこう推測されています。
「アルシャクニ朝(※)の王は、ゾロアスター教の教義をもって襲いかかるササン朝ペルシャの影響力に対抗するための強力な武器となるものが必要であった。国内的には、キリスト教を民族の宗教と定めることによって、すでに存在していたキリスト教徒勢力から、反王朝勢力を成すナハラル(世襲貴族、豪族)に対応し得る支持力を引き出せると考えたのであろうか。」
※アルシャクニ朝
1〜5世紀のアルメニアの王朝。それ以前の前1世紀からローマの侵攻に苦しんでいたアルメニアは、3世紀に今度は新興国のササン朝ペルシャからの侵略に悩まされました。
当時のアルメニアは必然的にペルシャからの影響を受けやすく、またナハラル(世襲貴族、豪族)は、戦時にアルメニア王のために兵役につく義務はありましたが、その地位は王から当たられるものではなく世襲でした。王抜きの会議の招集権もいました。
当時のアルメニアには70ほどのナハラル家がありました。
(情報源は同じく「アルメニアを知るための65章」(中島偉晴・著/明石書店)) -
主祭壇の聖母子の祭壇画
マリアの顔立ちが、ここでもアルメニア人女性というかんじです。
幼子イエスもアルメニア人の男の子っぽいかも。
トビリシのアルメニア教会やエレヴァンのスルプ・グリゴル・ルサヴォリチ大聖堂の聖壇画でも、マリアの顔はアルメニア人女性っぽかったです。
トビリシのアルメニア教会の聖壇画の写真
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/24348439/
関連の旅行記
「2011年コーカサス3カ国旅行第9日目(2)トビリシ:グルジアとアルメニアの正教会とイスラムの聖堂めぐり」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10638772
スルプ・グリゴル・ルサヴォリチ大聖堂の聖壇画の写真
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/24507336/
関連の旅行記
「2011年コーカサス3カ国旅行第10日目(1)エレヴァン:バラ色の凝灰岩の建物が美しく歴史の新しい街散策と街一番の大きさと新しさを誇るスルプ・グリゴル・ルサヴォリチ大聖堂」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10643780
「さまざまな神々が居着いていたアルメニア高地では、「異」教がペルシャや親ペルシャ派ナハラルの指示を得ていたため、キリスト教が全土に浸透するには相当の時間と寛容、なお暴力が費やされたものとみられる。キリスト教は、古代神殿、犠牲式執行所、聖なる木立などを新しい唯一神の信仰のために援用することによって、また、古来の観念を新信仰の求めに対応して付加することによって宣伝、布教された。アナヒータ女神は聖母マリア(アルメニア語では<アストゥヴァツァツィン>アストゥヴァツ=神、ツィン=産んだ、つまりマリアム=マリアのこと)、アラマズドは父なる神、ヴァハグンは神の子キリストに、それぞれ同一視されることになった。そして聖なる火ミフルは、神の使徒の頭に舌状に降下する火に、と。古代信仰上の犠牲を捧げる多くの慣習などの名残が、アルメニア・グリゴル使徒教会の儀式や祭礼行事のなかにアマルガム状に調合されたかたちで現れている。」
(「アルメニアを知るための65章」(中島偉晴・著/明石書店)より) -
主祭壇の下の大理石に描かれた聖人達の一部───聖母子と洗礼者ヨハネ
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アルメニア教会は主祭壇のすぐ前に王座あり
カトリックで言えば法王庁に相当するカトリコス(総主教)座の物理的な座は、ひょっとしてこれでしょうか。 -
顔だけ浮き出た壁の天使たち
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柱のエキゾチックで美しい文様
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壁のあちこちにもエキゾチックな文様
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マリアのイコンとそれに捧げられたろうそく
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十字架磔のイコンとそれに捧げられたろうそく
グルジアやアルメニアの教会では、いろんな教会ですてきなろうそく立てを見て来ました。
その写真はこちらのハイライト旅行記にまとめました。
「2011年コーカサス3カ国旅行ハイライトその12:グルジアとアルメニアの教会のステキなろうそく立て」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10590036/ -
エチミアジン大聖堂を横から見た外観
十字架プランなのがよく分かります。 -
別棟の礼拝堂前のハチュカル群
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国中から集められた貴重なハチュカル・その1
大聖堂の敷地内にある年季の入ったハチュカルのいくつかを写真に収めました。
メインの十字架に二つの小さな十字架がスペースを埋めるように寄り添っているのは、アルメニア独特の十字架デザインでしょうか。 -
国中から集められた貴重なハチュカル・その2
アルメニアの十字架デザインは少し変わっています。
少なくとも私にとっては珍しいです。 -
国中から集められた貴重なハチュカル・その3
こういう綱模様、迷路のような文様もよく見かけます。 -
国中から集められた貴重なハチュカル・その4
割れたところが痛々しいです。
磔にされたキリストと祈る聖人も彫り込まれています。 -
ハチュカルが並べられていた塀とその先の鐘楼
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別棟の礼拝堂へ
こちらは、大聖堂に比べるとあまりに現代チックでそっけなく感じましたが、団体観光客が入って行くのを見たので、これは見逃してはいけない場所に違いいなと思い、団体が見学し終えるのを待って、入ってみました。
どこに何がどういういわれがあるか、ないのか、といったことは、さっぱり分からずじまいでしたけど(苦笑)。 -
礼拝堂の天井
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美しい木製の聖書台
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ここでも巡礼の記念撮影中@
真ん中のくぼみは、推測ですが、きっと泉を象徴しているのだと思います。
こんな風に立ち入り禁止状態で囲われているところを見ると、宗教的に重要な場所なんだろうと思います。 -
祭壇
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入口の方にあった意味ありげな柱
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大聖堂に戻ってみると、ミサの最中
それも、いかにも私の中のアルメニア僧侶のイメージどおりの黒い衣装で! -
黒服の僧侶たち
翌日、アルメニア人の見地ガイドさんに、アルメニア教会では僧侶は黒い服を着てミサをするものなのか尋ねたところ、これは日常的なミサのときだけで、何かの折りの特別なミサでは、他の正教会のように豪華でカラフルで美しい衣装を身につけているそうです。 -
主祭壇に向かって右では
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主祭壇に向かって左では
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たくさん写真も撮れて満足して去ろうとしたら……!
ありゃ、ホントは教会内は撮影禁止でしたか、全く気付きませんでした!
でも、アルメニア人らしき信者たちもじゃんじゃん写真を撮っていたし、うろうろしていた僧侶もそれを見てなんにも言ってませんでした。
こういう禁止事項に対して、さほど神経質になっていない大聖堂なのかもしれません。 -
大聖堂の外にあった墓の一つ
この後、セントラルから2kmのリプシメ教会に行こうかどうしようか、行くなら歩いて行くか、エレヴァンに戻るバスで途中下車しようか、ぎりぎりまで迷いましたが、人に聞いた帰りのバス停に向かってぶらっと歩いていたら、エレヴァンに戻るなら相乗りはどうか、とマルシュルートカの運ちゃんに声をかけられました。
あと一人で満員になるので、出発できるとのこと。
見れば同乗者残り3人は現地アルメニア人ですし、運賃も4人で折半して300ドラム(日本円にして150円!)だというので、これならボラれたりしていないだろうと安心できて、そのままエレヴァンに帰ることにしました。
なので、エチミアジン観光は大聖堂めぐりだけになりました。
なお、タクシーにボラれないか、コーカサス旅行中にちゃんと用心しましたが、それもあったと思いますが、この旅行中、コーカサスのタクシー運ちゃんは概してアジアの外国人観光客に対して料金設定は良心的でした。ぼろうと手ぐすねひいているかんじは全くありませんでした。
ふりかえれば、今まで旅行してきた東欧でいえば、ルーマニアとか、ウクライナとか、ポーランド、そしてこのコーカサス旅行の2ヶ月後に出かけたウズベキスタンの方が、もっと油断できませんでした。
ちなみに、行くのをやめてしまったリプシメ(フリプシメ)教会の名前の由来の女性フリプシメについて、「アルメニアを知るための65章」(中島偉晴・著/明石書店)に記述がありました。
「フリプシメは、アルメニアへのキリスト教導入にさいして重要な役割を果たした女性として語り継がれている。3世紀後半、彼女はローマで修道女になった。とても美しく、その美しさが時の皇帝の目に留まり、彼女を妃にと請われたため、女子修道院長をはじめ修道女たちは、逃避行生活に入った。フリプシメと仲間は、各地を転々とした末、アルメニアのヴァガルシャパト(現エチミアジン)に辿り着いた。だが、一行は見つけ出され、トゥルダト3世のもとに引き出される。この王もまた、フリプシメの美しさに打たれて妃にと望む。これを拒んだ彼女は、ガヤネ、ショガカットともども逃亡する。だが、王の部下は彼女らを見つけ出し、殺してしまった。後年、その場所にそれぞれの名前を付した教会が創建され、今日に至っている由である。」
(「アルメニアを知るための65章」(中島偉晴・著/明石書店)より)
エレヴァン編へとつづく。
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