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JR京浜東北線蕨(わらび)駅下車西口から商店街を徒歩15分、右手に入りますと左側に市民会館、その隣の公園に密かに名残をとどめる蕨城(わらびじょう、埼玉県蕨市中央)を訪問しました。<br /><br />築城時期は南北朝時代、築城者は足利将軍一門に属し、室町幕府の重臣であった渋川義行(しぶかわ・よしゆき)と伝えられ、長禄元年(1457)義行の曽孫である義鏡(よしかね)の代に将軍義政より古河公方対抗するため関東探題に任ぜら堀越公方の足利政知(あしかが・まさとも)の執事として関東下向し蕨城に入りますが、幕府の後ろ盾叶わず足利成氏に破れやがて渋川一族は地域領主としての道を歩むことになります。<br /><br />大永6年(1526)相模国北部から武蔵国南部にかけて勢力有する扇谷(おうぎがやつ)上杉朝興(うえすぎ・ともおき)の攻撃を受け反抗叶わず不本意ながら支配下に置かれますが、一方相模国を勢力下に置き武蔵国南部を席巻する小田原北条氏の進出により永禄7年(1564)蕨城は奪回され、扇谷上杉氏の敗退により渋川氏は小田原北条氏支配に組み込まれます。<br /><br />永禄10年(1567)蕨城主の渋川義基(しぶかわ・よしもと)は小田原北条氏の軍勢となって安房国里見氏と戦い、上総国三船山の激戦にて討ち死、天正18年(1590)豊臣秀吉によるいわゆる小田原征伐では渋川氏も小田原北条氏に属しますが、小田原城の開城並びに北条氏の没落に伴い蕨城も廃城となり、残された家臣らは周辺にて帰農することになります。<br /><br />現地は既に公園化された小規模敷地で中央部は広場になっており子どもが遊び、隣接の和良比(わらび)神社側のやや高台に場違いなほどの大きな城址石碑が眼に入ります。<br /><br />地勢的には戦国時代に於ける関東城砦の特徴である自然の要害を巧みに活用した様子は窺えず、平地に基本形である堅固な空堀と土塁を四方に造る中、どのように敵攻撃の防御施設を施したのか自分では想像が及びません。<br /><br />城主だった渋川氏は将軍足利氏系出身の名家でありますが、関東においては古河公方・上杉管領・北条氏等の三つ巴の覇権を争う中に巻き込まれ、知名度ありながら相応の戦力が伴わず所領の蕨とその周辺を守るため不本意ながら主家を度々変えて四苦八苦の支配経営に追い込まれていた事と推察します。<br /><br /><br /><br />現地設置の説明板には下記の通り記載されています。<br /><br /><br />「蕨城址は貞治元年(1366)、将軍足利氏の一族武蔵国司である渋川義行が城を構え、のちその一族が知行します。<br /><br />室町時代の末戦乱の続く関東平定のため長禄元年(1457)将軍義政は近親で九州探題という重い家柄の渋川義鏡を関東探題として下向させました。<br /><br />義鏡は義行の蕨城に拠り関東諸将に将軍の令をつたえ鎌倉に赴き管領を授かります。その後義鏡の子息義堯、その子義基が居城します。<br /><br />徳川時代の始め家康は宿駅制度の拡充と参勤交代の制施行まで城址に御殿を置きます。<br /><br />蕨城址は南北に帯状に連なる自然堤防の中央部を占め江戸上期の絵図面によれば幅六間半の堀と幅四間半の土塁をめぐらせ、堀内一丁二反三畝余坪これに接して南方に堀と土塁をめぐらせた二町一反八畝八坪の外輪地があります。<br /><br />北方に続き梯子形に堀と土塁の構えが見られ復元すれば同心円的複部平地方形館城といわれる。<br /><br />いまわずかに堀跡と御所跡、枡形、要害、館、堀内、矢坊敷、のろし台、防止などの俗名を残すだけであります。(一部抜粋)」

武蔵蕨 足利将軍家一族ながら勢力拡大叶わず扇谷上杉氏・小田原北条氏などの支配下にて生き抜いた渋川氏本拠『蕨城』訪問

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2011/12/07 - 2011/12/07

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR京浜東北線蕨(わらび)駅下車西口から商店街を徒歩15分、右手に入りますと左側に市民会館、その隣の公園に密かに名残をとどめる蕨城(わらびじょう、埼玉県蕨市中央)を訪問しました。

築城時期は南北朝時代、築城者は足利将軍一門に属し、室町幕府の重臣であった渋川義行(しぶかわ・よしゆき)と伝えられ、長禄元年(1457)義行の曽孫である義鏡(よしかね)の代に将軍義政より古河公方対抗するため関東探題に任ぜら堀越公方の足利政知(あしかが・まさとも)の執事として関東下向し蕨城に入りますが、幕府の後ろ盾叶わず足利成氏に破れやがて渋川一族は地域領主としての道を歩むことになります。

大永6年(1526)相模国北部から武蔵国南部にかけて勢力有する扇谷(おうぎがやつ)上杉朝興(うえすぎ・ともおき)の攻撃を受け反抗叶わず不本意ながら支配下に置かれますが、一方相模国を勢力下に置き武蔵国南部を席巻する小田原北条氏の進出により永禄7年(1564)蕨城は奪回され、扇谷上杉氏の敗退により渋川氏は小田原北条氏支配に組み込まれます。

永禄10年(1567)蕨城主の渋川義基(しぶかわ・よしもと)は小田原北条氏の軍勢となって安房国里見氏と戦い、上総国三船山の激戦にて討ち死、天正18年(1590)豊臣秀吉によるいわゆる小田原征伐では渋川氏も小田原北条氏に属しますが、小田原城の開城並びに北条氏の没落に伴い蕨城も廃城となり、残された家臣らは周辺にて帰農することになります。

現地は既に公園化された小規模敷地で中央部は広場になっており子どもが遊び、隣接の和良比(わらび)神社側のやや高台に場違いなほどの大きな城址石碑が眼に入ります。

地勢的には戦国時代に於ける関東城砦の特徴である自然の要害を巧みに活用した様子は窺えず、平地に基本形である堅固な空堀と土塁を四方に造る中、どのように敵攻撃の防御施設を施したのか自分では想像が及びません。

城主だった渋川氏は将軍足利氏系出身の名家でありますが、関東においては古河公方・上杉管領・北条氏等の三つ巴の覇権を争う中に巻き込まれ、知名度ありながら相応の戦力が伴わず所領の蕨とその周辺を守るため不本意ながら主家を度々変えて四苦八苦の支配経営に追い込まれていた事と推察します。



現地設置の説明板には下記の通り記載されています。


「蕨城址は貞治元年(1366)、将軍足利氏の一族武蔵国司である渋川義行が城を構え、のちその一族が知行します。

室町時代の末戦乱の続く関東平定のため長禄元年(1457)将軍義政は近親で九州探題という重い家柄の渋川義鏡を関東探題として下向させました。

義鏡は義行の蕨城に拠り関東諸将に将軍の令をつたえ鎌倉に赴き管領を授かります。その後義鏡の子息義堯、その子義基が居城します。

徳川時代の始め家康は宿駅制度の拡充と参勤交代の制施行まで城址に御殿を置きます。

蕨城址は南北に帯状に連なる自然堤防の中央部を占め江戸上期の絵図面によれば幅六間半の堀と幅四間半の土塁をめぐらせ、堀内一丁二反三畝余坪これに接して南方に堀と土塁をめぐらせた二町一反八畝八坪の外輪地があります。

北方に続き梯子形に堀と土塁の構えが見られ復元すれば同心円的複部平地方形館城といわれる。

いまわずかに堀跡と御所跡、枡形、要害、館、堀内、矢坊敷、のろし台、防止などの俗名を残すだけであります。(一部抜粋)」

交通手段
JRローカル 徒歩
  • 蕨駅開設・記念石碑<br /><br />蕨駅階段を降りますと石碑がありまして蕨駅開設記念碑とわかりました。即ち明治26年2月28日蕨驛開設、鐵道大臣八田嘉明の題字とあります。尚記念碑は昭和17年7月25日付の蕨町長代理名となっています。

    蕨駅開設・記念石碑

    蕨駅階段を降りますと石碑がありまして蕨駅開設記念碑とわかりました。即ち明治26年2月28日蕨驛開設、鐵道大臣八田嘉明の題字とあります。尚記念碑は昭和17年7月25日付の蕨町長代理名となっています。

  • 蕨市案内図<br /><br />蕨城跡写真の場所が地図上にプロットされて位置関係がわかりやすくなっています。蕨城跡の他城主渋川公墓や蕨本陣等の訪問地が見られます。<br /><br />

    蕨市案内図

    蕨城跡写真の場所が地図上にプロットされて位置関係がわかりやすくなっています。蕨城跡の他城主渋川公墓や蕨本陣等の訪問地が見られます。

  • 蕨城跡拡大写真

    蕨城跡拡大写真

  • 城址公園通り<br /><br />商店街を歩きますと「城址公園通り」が右手に見えます。

    城址公園通り

    商店街を歩きますと「城址公園通り」が右手に見えます。

  • 市民会館<br /><br />昭和49年市制15周年記念事業として城跡公園と共に建設されました。

    市民会館

    昭和49年市制15周年記念事業として城跡公園と共に建設されました。

  • 蕨城跡・公園入口

    蕨城跡・公園入口

  • 蕨城跡・説明板

    蕨城跡・説明板

  • 城郭跡・広場<br /><br />公園の広場として市民に開放されています。この日も市民会館での催物を終えて広場で憩う子連れの主婦達が見られます。完全に市街化されているため、往時の遺構などはありません。

    城郭跡・広場

    公園の広場として市民に開放されています。この日も市民会館での催物を終えて広場で憩う子連れの主婦達が見られます。完全に市街化されているため、往時の遺構などはありません。

  • 蕨城跡・石碑<br /><br />城郭奥のやや高い位置に大きく石碑が建てられています。

    イチオシ

    蕨城跡・石碑

    城郭奥のやや高い位置に大きく石碑が建てられています。

  • 城郭跡広場と樹林<br /><br />周辺は既に市街化されておりまして手前の城郭が公園の広場として子ども達の遊び場となっています。尚画面の奥には「蕨城址碑」の石碑が大きく立っています。

    城郭跡広場と樹林

    周辺は既に市街化されておりまして手前の城郭が公園の広場として子ども達の遊び場となっています。尚画面の奥には「蕨城址碑」の石碑が大きく立っています。

  • 城郭跡広場と市民会館<br /><br />城郭跡の前に建つ市民会館とは一体となっており、城郭愛好する者としていささか心が穏やかではありません。

    城郭跡広場と市民会館

    城郭跡の前に建つ市民会館とは一体となっており、城郭愛好する者としていささか心が穏やかではありません。

  • 和良比(わらび)神社<br /><br />蕨城跡に隣接する和良比神社が控えています。合祀100周年と掲載されています。

    和良比(わらび)神社

    蕨城跡に隣接する和良比神社が控えています。合祀100周年と掲載されています。

  • 拝殿

    拝殿

  • 和良比神社誌<br /><br />室町時代蕨城主渋川公が八幡大神をお祭りしたのが創立のはじまりとされています。(石碑説明抜粋)

    和良比神社誌

    室町時代蕨城主渋川公が八幡大神をお祭りしたのが創立のはじまりとされています。(石碑説明抜粋)

  • 和良比(わらび)神社庭園から城郭跡を望む<br /><br />紅葉した樹木が美しく手入れも入念です。そして神社と城郭との境目辺りに長い盛土が見えます。復元された土塁かと思われます。

    イチオシ

    和良比(わらび)神社庭園から城郭跡を望む

    紅葉した樹木が美しく手入れも入念です。そして神社と城郭との境目辺りに長い盛土が見えます。復元された土塁かと思われます。

  • 和良比神社合祀百周年際ポスター<br /><br />前日祭:平成23年12月10日(土)芸能大会を予定<br />奉告祭:平成23年12月11日(日)神事後「水前寺清子ショ?」予定

    和良比神社合祀百周年際ポスター

    前日祭:平成23年12月10日(土)芸能大会を予定
    奉告祭:平成23年12月11日(日)神事後「水前寺清子ショ?」予定

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