2012/01/09 - 2012/09/06
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ヌールッディーンさん
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1890年(明治23年)に札幌製糖会社の工場として建てられ、1905年(明治38年)に札幌麦酒?(現在のサッポロビールの前身)が買い取り、製麦所に改修された赤レンガの建物で、1987年からはサッポロビール博物館として公開されています。
歴史的な建物だけでなく、北海道の開拓とビール製造の関係や日本のビール産業の歴史、ビールの製造法やサッポロビールの製品や広告などの展示があるほか、北海道開拓時代のビールを再現した開拓使麦酒なども販売しています。
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大きな煙突が特徴的です。
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ドーマー窓や壁面の装飾の仕方などが、明治時代の本格的なレンガ建築という印象を与えていました。
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この角度から見ると、なんとなく、以前フランスのトゥールーズで見てきたサン・セルナン聖堂(ロマネスク様式の大規模な教会堂)と似ている感じがしました。
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建物の前には樽を並べて明治9年(1876年)の開拓使麦酒醸造所の開業式の看板を再現しています。
「麦とホップを製す連者(れば)ビイルとゆふ酒に奈(な)る」と書かれています。
北海道でのビール事業は、お雇い外国人トーマス・アンチセルが野生ホップを発見し、明治5年(1872年)に北海道でのビール事業を提言したことがきっかけとなって始まりました。
開拓使はホップや大麦の栽培という農業とビールの製造という工業を発展させることによって日本の殖産興業に貢献することを期待していたのです。ビール事業は北海道の開拓当時の殖産興業による事業の中でほぼ唯一の成功例である点にも注目しておきたいところです。
(この建物も元々は製糖工場でしたが、製糖業は日本の植民地となった台湾が遥かに優位に立ったことや風土などの違いもあってか、北海道では成功しませんでした。)
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博物館の展示の様子。3階から始まり、歴史やビールの製法に関する展示、2階はサッポロビールに関する展示、1階はショップと試飲のできるホールになっていました。
展示は20分間隔で30分間ほどのガイドツアー(無料)で見ることができる他、フリーで見ることもできます。時間があるならば、ガイドツアーで案内してもらった後、自分で気になったところをチェックしてみることをお勧めします。ガイドツアーではおいしいビールの飲み方なども解説してくれます。
道内で原料を生産できるようになったことや寒冷な気候が適していたことや、ビンや王冠の開発にも苦労があり一筋縄では製造・開発できなかったこと、明治中期の官営から民営への移行、大正から昭和初期に向けての資本の独占化、戦後の資本分割、大正期以降の大衆への広まりといった流れを分かりやすく解説しており、民間企業の産業博物館としてはなかなかのレベルだと思います。
(以下追記)
2012年9月に再訪した際、展示を改めて見るといろいろと疑問なども出てきました。
明治24年(1891年)に経営の混乱で業績が低迷する日本麦酒の経営立て直しのため三井物産から馬越恭平が送り込まれました。馬越は1年で業績を黒字転換させ、明治29年(1896年)には業界トップの業績をあげました。この関係は三井物産(財閥)と、ビール業界(殖産興業政策)との関係について興味が引かれました。是非、掘り下げて調べてみたい課題です。
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サッポロビール博物館(旧札幌麦酒製麦所)とサッポロファクトリー(旧札幌麦酒工場)の模型。その中間にはかつて製瓶工場があったことがわかります。
現在の札幌の東区のあたりは開拓当時は工場を立地させていた地区であり、そのためこれらの施設はこの周辺に残っているのです。
開拓使が始めたビール事業は、明治19年(1886年)には官営から民間(大倉組の大倉喜八郎)に払い下げられましたが、払い下げの際にも北海道庁から条件が課せられていました。
原料の大麦はなるべく北海道産を使用すること、生産量は年126KL以上とすること、道庁が雇う外国人醸造技師の費用を負担することなど、官庁側の殖産興業という目的には沿いながら公費の支出は抑えようとする意図が非常によく見えて興味深いものがあります。
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明治10年代の初期のビール。
ビール瓶は当初は国産で製造できず、陶器製や輸入したビールの空き瓶を再利用したりしていました。また、栓も王冠が開発されていなかったのでコルクでした。
札幌麦酒会社が自前の工場で瓶を製造し始めたのは1900年で、明治末期から大正時代にかけて製瓶の自動化ができるようになることで、王冠が使用できるようになったそうです。
(以下、2012年9月追記)
明治末期から大正時代には生活の都市化が進展し、都市勤労者層(サラリーマン)が出現しましたが、彼らは洋風のライフスタイルを好み、ビールを消費する層として育ってきていました。
この時代には、そうしたビール需要の増加を見越して積極的に設備投資が行われ、なかでも製びんの自動化は大量生産の基盤となったのです。これは外国の酒瓶を使用していた頃とは大きく様相が変わったことを意味しています。
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展示されていた年表の一部。
明治29年にはビールの販売競争が激化しており、明治30年頃には偽商標事件が多発していたことが分かります。ビールはそれくらい売れるようになってきたということであり、大正時代のビール大衆化が予示されています。
なお、大正11年には「未成年者飲酒禁止法」が公布されていることも年表に記載がありました。こうした法制化もビール飲酒の大衆化が進んだからこそ生じる社会問題への対応と言えます。
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大日本麦酒の海外事務所・工場・合併会社の分布図。
戦前には、中国の東北部から上海、広州、台湾(台北、台南)、そしてフィリピンやマレー半島にまで及んでいたことが分かります。
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サッポロアドコレクションと称して、サッポロビールとその前身の会社のポスターを展示しています。
明治時代には(芸者さん風の?)着物の女性がモデルとなっていたものが、大正時代頃から洋風化したライフスタイルが取り入れられたり、モデルが洋服を着るようになり、昭和初期には官能的な女性の姿が描かれたものが多くなり、昭和30年代に絵から写真に転換していく様子などが見て取れます。
なお、2011年度の冬季には、北大総合博物館で「越境するイメージ――メディアにうつる中国」という特別展が行われており、その一部として女性を描いたポスターの展示を見てきましたが、この博物館の展示と一部並行しており、中国でも日本と同じような広告の傾向が見られ、大変興味深かったです。
(以下、2012年9月追記)
明治32年(1899年)には日本で初めてのビヤホールができ、明治末期から大正にかけて札幌をはじめ全国の都市にビヤホールが普及しました。この背景には都市型ライフスタイルの普及があります。ビヤホールはビールの大量消費の場であり、大量生産の体制はそれと呼応し、相乗効果を挙げることになったのでしょう。そして、大正時代には洋風のライフスタイルがポスターに現われることも、当時の世相を反映するものであることが分かります。
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1971年のポスター
高度成長が終わり、歴史的なものが見直され始めた頃の世相がこうした広告からも見て取れて興味深いものがあります。
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