2011/08/21 - 2012/09/06
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ヌールッディーンさん
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明治10年代前半に永山武四郎の私邸として建てられた和洋折衷の木造建築です。
屋根の上の「棟飾り」など同時代に建てられた清華亭と共通点が多いので、同時に見ると面白さが倍増します。
永山武四郎は「屯田兵育ての親」として知られる人物で、明治6年に開拓使次官・黒田清隆に屯田兵設置の必要性について意見を述べ、こえれが黒田の建議となり屯田兵制度が作られました。早くも明治8年には琴似村(現・札幌市西区琴似)に初の屯田兵198戸が入植しました。以来、明治37年に屯田兵制度が廃止されるまで、道内に37兵村が設けられました。
永山武四郎は明治22年には屯田兵司令官となり、警備本位から開拓本位へと方向転換し、屯田兵の募集もそれまでの士族中心から一般人からも採用するよう改めました。これにより北海道の開拓は大いに進んだとされています。
永山は明治21年に北海道の開拓について「内陸から行わなければならない。ことに、上川開拓をもって急務とする」と述べたとされ、内陸部の開拓に強い関心を示していました。北海道開拓は沿海部を重視する人々と内陸部を重視する人々の意見の対立があったとされますが、永山は後者の代表的人物であり、北海道開拓の歴史を知る上での重要人物の一人でもあります。
所在地:中央区北2条東6丁目(サッポロファクトリーのすぐ隣)
(DSCF0670)
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平面図。右側の黄色い部分が旧永山武四郎邸。左側の大きな部分は旧三菱鉱業セメント?の社員寮。
明治44年に旧永山邸の土地・建物が三菱合資会社に譲渡されたため、(永山邸は現存部分以外にも建物があったのですが)昭和12年に北側部分を解体して社員寮を建て、現存の旧永山邸の部分は貴賓室として使用されてきたのです。
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応接室(洋間)にそのまま和室が繋がっているのも、この時代の建築の特徴の一つです。
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シャンデリアの釣り元の漆喰の飾りはほぼ同時期の建築である清華亭にも見られます。
こうした類似性から明治13年に建てられた清華亭と同じ職人集団によって同時期に建てられた可能性が指摘されています。
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和室から洋室を望む。
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縁側がありますが、非常に短く、部屋の一辺にしかないのは特徴的です。寒冷地だからでしょうか。
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ベイウィンドウが洋室ではなく和室にあるのは特徴的で驚きました。
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昭和12年頃竣工の旧三菱鉱業セメント?の社員寮。
どことなく東京の岩崎邸と雰囲気が似ていると思います。
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旧社員寮部分の玄関を入るとなかなか豪華な雰囲気のロビー。
エントランスを通ると比較的すぐに階段付きのロビー風の空間が広がる点も岩崎邸と似ていると感じました。
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「電話室」
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社員寮の2階はロビーのようになっていました。社員の社交の場として活用されていたのでしょう。
(DSCF0707) -
社員寮・2階の廊下。洋風の廊下に広い和室があります。
社員寮は独身寮だったため、広い和室なども多数の社員が住む場所だったそうです。
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旧永山邸が面する北3条通りは開拓使の本庁に通じる道であり、現在も赤レンガ庁舎に通じています。
私邸を東区の工業地区の真ん中に建てながら、行政の中枢へと直通する場所でもあるということに永山武四郎の開拓への強い意志が感じられるように思います。
(IMG1630)
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