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京成線大佐倉駅から徒歩約10分、千葉氏最後の拠点本佐倉城(もとさくらじょう、千葉県印旛郡酒々井町)跡を訪問しました。<br /><br />治承4年(1180)源頼朝が平氏に対し挙兵するも石橋山の戦いで敗退、頼朝は安房に逃れますが態勢を立て直すに当り強力な支えをしたのは他ならぬ下総を所領とする千葉氏で鎌倉幕府創設以降も重臣として幕府の中心的な役割を果たします。<br /><br />康生元年(1455)、享徳(きょうとく)の乱に巻き込まれ千葉城を本拠としていた千葉宗家は庶流の馬加康胤(まくわり・やすたね、1374~1456)・原胤房(はら・たねふさ、生誕不詳~1471)に攻め込まれ、千葉城は落城、宗家当主の千葉胤直(ちば・たねなお、1419~1455)・胤宣(たねのぶ、1445~1455)親子は逃亡先にて自害して千葉宗家は滅亡します。<br /><br />宗家千葉氏を滅亡させた馬加康胤は千葉氏(後期千葉氏)を名乗り、康胤の孫である輔胤(すけたね、1421~1492)の時代になると1470年頃千葉城に代わる本拠としてこの地に築城することになります。<br /><br />文明3年(1471)、関東管領山内上杉氏より執事職の指名を得られずこれに反発した長尾景信(ながお・かげはる、1443~1514)によって古河公方の拠点である古河城が攻撃を受け、足利成氏(あしかが・しげうじ、1434~1497)は千葉氏を頼り本佐倉城に逃れています。<br /><br />やがて千葉氏の内紛や家臣の自立などにより勢力が後退する中、相模国から武蔵国南部を北進する小田原北条氏の介入により北条氏政の五男直重(なおしげ、生誕不詳~1627)を当主に迎え入れ事実上小田原北条氏に臣従する状況に陥ります。<br /><br />天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原の役で千葉氏は滅亡、佐倉領は徳川家臣の内藤家長(ないとう・いえなが、1546~1600)により接収されますが、慶長15年(1610)に土井利勝(どい・かつとし、1573~1644)が入封し近隣の鹿島台地に佐倉城を築城するなか、元和元年(1616)の「一国一城令」により本佐倉城は廃城となります。<br /><br />地勢的には当城は舌状台地に築かれ、当時の状況では印旛沼の水を引き込む事により周辺は沼地を含む湿地帯に改修するなどして寄せ手の進撃を防御する態勢作りに腐心した事と想像されます。<br /><br />また縄張りについては大胆な土塁・空堀は勿論の事、城山から奥ノ山への連絡として木橋の配置などから北条氏による改修がなされたものと思われます。<br /><br />自分が訪問する前に京成佐倉駅前の観光案内所でパンフレットを入手して当城訪問しましたが、途中の道案内は完璧、現場でも発掘調査が一段落した様子でポイント毎に復元想像図の看板が立てられ、見学者の立場に配慮した案内で良い印象を受けました。<br /><br /><br />2022年3月21日追記<br /><br />入手のパンフレット「国指定史跡 本佐倉城 散策マップ」には簡単ながら<br />あらましが記載されています。<br /><br />「本佐倉城跡は今から約500年前(西暦1470年前後)に造られた中世戦国時代の城跡です。城の主は千葉氏一族、約100年間で9代の城主が本佐倉城を本拠地としました。治めていた国は下総国一国(現在の千葉県北部と茨城県南部)で、関東でも有数の名族でした。<br /><br />しかし、豊臣秀吉の天下統一により、敵対していた千葉氏は滅亡し、主をなくした本佐倉城はここから長い眠りにつきます。<br /><br />そして、400年の時がすぎました。本佐倉城はその間ひっそりと眠り続け、ほぼ当時のままの姿で今、再び目覚めようとしているのです。<br /><br />ぜひ、みなさんの足で城の中を歩いてみてください。」

下総佐倉 内紛を克服し亥鼻城(千葉城)から移転した名門千葉介と称される千葉氏本拠『本佐倉城』訪問

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2011/11/08 - 2011/11/08

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滝山氏照

滝山氏照さん

京成線大佐倉駅から徒歩約10分、千葉氏最後の拠点本佐倉城(もとさくらじょう、千葉県印旛郡酒々井町)跡を訪問しました。

治承4年(1180)源頼朝が平氏に対し挙兵するも石橋山の戦いで敗退、頼朝は安房に逃れますが態勢を立て直すに当り強力な支えをしたのは他ならぬ下総を所領とする千葉氏で鎌倉幕府創設以降も重臣として幕府の中心的な役割を果たします。

康生元年(1455)、享徳(きょうとく)の乱に巻き込まれ千葉城を本拠としていた千葉宗家は庶流の馬加康胤(まくわり・やすたね、1374~1456)・原胤房(はら・たねふさ、生誕不詳~1471)に攻め込まれ、千葉城は落城、宗家当主の千葉胤直(ちば・たねなお、1419~1455)・胤宣(たねのぶ、1445~1455)親子は逃亡先にて自害して千葉宗家は滅亡します。

宗家千葉氏を滅亡させた馬加康胤は千葉氏(後期千葉氏)を名乗り、康胤の孫である輔胤(すけたね、1421~1492)の時代になると1470年頃千葉城に代わる本拠としてこの地に築城することになります。

文明3年(1471)、関東管領山内上杉氏より執事職の指名を得られずこれに反発した長尾景信(ながお・かげはる、1443~1514)によって古河公方の拠点である古河城が攻撃を受け、足利成氏(あしかが・しげうじ、1434~1497)は千葉氏を頼り本佐倉城に逃れています。

やがて千葉氏の内紛や家臣の自立などにより勢力が後退する中、相模国から武蔵国南部を北進する小田原北条氏の介入により北条氏政の五男直重(なおしげ、生誕不詳~1627)を当主に迎え入れ事実上小田原北条氏に臣従する状況に陥ります。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原の役で千葉氏は滅亡、佐倉領は徳川家臣の内藤家長(ないとう・いえなが、1546~1600)により接収されますが、慶長15年(1610)に土井利勝(どい・かつとし、1573~1644)が入封し近隣の鹿島台地に佐倉城を築城するなか、元和元年(1616)の「一国一城令」により本佐倉城は廃城となります。

地勢的には当城は舌状台地に築かれ、当時の状況では印旛沼の水を引き込む事により周辺は沼地を含む湿地帯に改修するなどして寄せ手の進撃を防御する態勢作りに腐心した事と想像されます。

また縄張りについては大胆な土塁・空堀は勿論の事、城山から奥ノ山への連絡として木橋の配置などから北条氏による改修がなされたものと思われます。

自分が訪問する前に京成佐倉駅前の観光案内所でパンフレットを入手して当城訪問しましたが、途中の道案内は完璧、現場でも発掘調査が一段落した様子でポイント毎に復元想像図の看板が立てられ、見学者の立場に配慮した案内で良い印象を受けました。


2022年3月21日追記

入手のパンフレット「国指定史跡 本佐倉城 散策マップ」には簡単ながら
あらましが記載されています。

「本佐倉城跡は今から約500年前(西暦1470年前後)に造られた中世戦国時代の城跡です。城の主は千葉氏一族、約100年間で9代の城主が本佐倉城を本拠地としました。治めていた国は下総国一国(現在の千葉県北部と茨城県南部)で、関東でも有数の名族でした。

しかし、豊臣秀吉の天下統一により、敵対していた千葉氏は滅亡し、主をなくした本佐倉城はここから長い眠りにつきます。

そして、400年の時がすぎました。本佐倉城はその間ひっそりと眠り続け、ほぼ当時のままの姿で今、再び目覚めようとしているのです。

ぜひ、みなさんの足で城の中を歩いてみてください。」

交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩

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  • 京成線大佐倉駅<br /><br />各駅停にて下車します。周辺は店舗など何もありませんが名所旧跡を示す案内板が立派に立っていました。

    京成線大佐倉駅

    各駅停にて下車します。周辺は店舗など何もありませんが名所旧跡を示す案内板が立派に立っていました。

  • 名所・旧跡案内板<br /><br />本佐倉城址(もとさくらじょうし)の他勝胤寺(しょういんじ)、旧浜宿河岸、八幡神社等千葉氏に関係する旧跡説明が眼に入ってきます。<br />その他平将門に関する旧跡の案内があります。(本佐倉史跡めぐりコースに設定されています)

    名所・旧跡案内板

    本佐倉城址(もとさくらじょうし)の他勝胤寺(しょういんじ)、旧浜宿河岸、八幡神社等千葉氏に関係する旧跡説明が眼に入ってきます。
    その他平将門に関する旧跡の案内があります。(本佐倉史跡めぐりコースに設定されています)

  • 本佐倉史跡めぐりコース案内<br /><br />京成本佐倉駅を基点とする9・3Kmのコースですが本日は時間の関係で本命の本佐倉城跡の往復になります。

    本佐倉史跡めぐりコース案内

    京成本佐倉駅を基点とする9・3Kmのコースですが本日は時間の関係で本命の本佐倉城跡の往復になります。

  • 本佐倉城跡案内<br /><br />本佐倉駅から成田方面線路沿いに歩き、ガード入口を左に見て右折直進しますと城跡案内板が視野に入ります。<br /><br />

    本佐倉城跡案内

    本佐倉駅から成田方面線路沿いに歩き、ガード入口を左に見て右折直進しますと城跡案内板が視野に入ります。

  • 城跡への連絡農道<br /><br />農道の先に見える森山は城跡の一部でしょうか。

    城跡への連絡農道

    農道の先に見える森山は城跡の一部でしょうか。

  • 東光寺ビョウ案内柱<br /><br />本佐倉城跡の北側(印旛沼側)に広がる東光寺ビョウを経て、この先城の玄関口となる東山虎口に至ります。

    東光寺ビョウ案内柱

    本佐倉城跡の北側(印旛沼側)に広がる東光寺ビョウを経て、この先城の玄関口となる東山虎口に至ります。

  • 本佐倉城跡(内郭群)全体図<br /><br />全体図を見ると7区画の郭がある事が確認されます。<br /><br /><br /><br /><br />

    本佐倉城跡(内郭群)全体図

    全体図を見ると7区画の郭がある事が確認されます。




  • 大規模土塁<br /><br />東山虎口の西側大規模土塁を裏側から見ます。<br /><br />

    大規模土塁

    東山虎口の西側大規模土塁を裏側から見ます。

  • 東山虎口<br /><br />虎口は2つの門と蛇行した狭い通路、内枡形の長方形の空間によって構成されまして極めて厳重に守られています。<br /><br />

    東山虎口

    虎口は2つの門と蛇行した狭い通路、内枡形の長方形の空間によって構成されまして極めて厳重に守られています。

  • 東山虎口からの蛇行通路<br /><br />この通路を抜けると左右の土塁が切れて、左手に東山馬場が広がります。

    東山虎口からの蛇行通路

    この通路を抜けると左右の土塁が切れて、左手に東山馬場が広がります。

  • 東山虎口通過<br /><br />虎口を通過して振返りますと左右に大土塁があります。

    東山虎口通過

    虎口を通過して振返りますと左右に大土塁があります。

  • 郭と東山馬場<br /><br />虎口から振返って郭と馬場を望みます。

    郭と東山馬場

    虎口から振返って郭と馬場を望みます。

  • 東山馬場から郭を望む<br /><br />

    東山馬場から郭を望む

  • 東山馬場から郭を近影

    東山馬場から郭を近影

  • 郭虎口<br /><br />現道になっている堀底道を登っていくと上りきった所は?郭でその現道に沿って塀跡があり、塀跡の先には門跡があったそうです。

    郭虎口

    現道になっている堀底道を登っていくと上りきった所は?郭でその現道に沿って塀跡があり、塀跡の先には門跡があったそうです。

  • 門跡の先の通路<br />

    門跡の先の通路

  • 郭<br /><br />周囲は土塁に囲まれています。広い郭です。



    周囲は土塁に囲まれています。広い郭です。

  • 大堀切<br /><br />城山(左手)と奥ノ山(右手)を分ける大堀切です。?郭虎口から続く通路は大堀切の前で左折、高低差2mほどのスロープを登りきった所が平坦面となっており、木戸跡があったようです。

    イチオシ

    大堀切

    城山(左手)と奥ノ山(右手)を分ける大堀切です。?郭虎口から続く通路は大堀切の前で左折、高低差2mほどのスロープを登りきった所が平坦面となっており、木戸跡があったようです。

  • 城山と奥ノ山分れ道<br /><br />大堀切を通過し突き当りを左右に道が分かれます。即ち右折すると奥ノ山、左折すると城山にたどり着きます。

    城山と奥ノ山分れ道

    大堀切を通過し突き当りを左右に道が分かれます。即ち右折すると奥ノ山、左折すると城山にたどり着きます。

  • 高台地<br /><br />大堀切から連なる高台地が大きく見えます。

    高台地

    大堀切から連なる高台地が大きく見えます。

  • 城山通路<br /><br />この通路は城山に登る唯一の通路で、何度も蛇行しており攻め手の進むスピ-ドを落します。しかもこの先の虎口までの高低差は7mもあり急な勾配は攻め手を容易に登らせないように工夫されてます。

    イチオシ

    城山通路

    この通路は城山に登る唯一の通路で、何度も蛇行しており攻め手の進むスピ-ドを落します。しかもこの先の虎口までの高低差は7mもあり急な勾配は攻め手を容易に登らせないように工夫されてます。

  • 城山石柱<br /><br />虎口に石柱で確認します。

    城山石柱

    虎口に石柱で確認します。

  • 城山虎口左手<br /><br />虎口左手の土塁が大きく張り出していますので虎口が狭くなってます。<br /><br />

    城山虎口左手

    虎口左手の土塁が大きく張り出していますので虎口が狭くなってます。

  • 城山虎口右手<br /><br />

    城山虎口右手

  • 城山虎口中央<br /><br />城山の出入口でにあたります。当時は左右に塀が立ち、中央部に門があり門を入りますと目前に土塀が建ち、すぐさま直角に左折することになります。

    城山虎口中央

    城山の出入口でにあたります。当時は左右に塀が立ち、中央部に門があり門を入りますと目前に土塀が建ち、すぐさま直角に左折することになります。

  • 高台の城山<br /><br />虎口中央部から高台の城山を望みます。当時は塀が建ちその向こうは建物があると思われます。

    高台の城山

    虎口中央部から高台の城山を望みます。当時は塀が建ちその向こうは建物があると思われます。

  • 城山内部を守る土塁<br /><br />城山の内部を囲む土塁で当時この奥に門があり、その中に城主の居館、来客を迎える館、その他台所や武器倉庫などがあったかと思われます。

    城山内部を守る土塁

    城山の内部を囲む土塁で当時この奥に門があり、その中に城主の居館、来客を迎える館、その他台所や武器倉庫などがあったかと思われます。

  • 城山建物跡<br /><br />土塁の内側の広い敷地に建物跡があったと思われます。画面の奥には土塁が内部敷地を取り囲んでいます。

    城山建物跡

    土塁の内側の広い敷地に建物跡があったと思われます。画面の奥には土塁が内部敷地を取り囲んでいます。

  • 城山内部<br /><br />高めの土塁が周辺を囲んでいます。<br />(土塁の崩れを防止するため青ビニ-ルで覆われています)

    城山内部

    高めの土塁が周辺を囲んでいます。
    (土塁の崩れを防止するため青ビニ-ルで覆われています)

  • 城山内部

    城山内部

  • 奥ノ山への通路<br /><br />

    奥ノ山への通路

  • 城山から奥ノ山を眺める<br /><br />大堀切の上に位置しますが当時は木橋が架かっていたと思われます。<br /><br />

    城山から奥ノ山を眺める

    大堀切の上に位置しますが当時は木橋が架かっていたと思われます。

  • 空堀<br /><br />城山から空堀を望みます。

    空堀

    城山から空堀を望みます。

  • 奥ノ山入口<br /><br />渡れないので一度途中まで戻り奥ノ山に向かいます。<br /><br />

    奥ノ山入口

    渡れないので一度途中まで戻り奥ノ山に向かいます。

  • 奥ノ山への通路<br /><br />狭い階段を登っていきます。<br />(振返って撮影します)<br /><br />

    奥ノ山への通路

    狭い階段を登っていきます。
    (振返って撮影します)

  • 妙見宮跡・石柱

    妙見宮跡・石柱

  • 奥ノ山土塁<br /><br />城山同様に高い土塁で囲まれています。

    奥ノ山土塁

    城山同様に高い土塁で囲まれています。

  • 奥ノ山全景<br /><br />奥ノ山は別名「妙見郭」とも呼ばれ、調査により14m四方の一段高い基壇が発見されておりまして、妙見宮の跡と思われます。

    イチオシ

    奥ノ山全景

    奥ノ山は別名「妙見郭」とも呼ばれ、調査により14m四方の一段高い基壇が発見されておりまして、妙見宮の跡と思われます。

  • 奥ノ山石柱<br /><br />妙見宮は千葉氏の守り神で5代目と8代目の城主はここで元服の儀式をあげたそうです。

    奥ノ山石柱

    妙見宮は千葉氏の守り神で5代目と8代目の城主はここで元服の儀式をあげたそうです。

  • 本佐倉城跡プレート<br /><br />当プレートによると本佐倉城跡は根古屋城とも呼ばれておりまして「房総の魅力500選」となっています。

    本佐倉城跡プレート

    当プレートによると本佐倉城跡は根古屋城とも呼ばれておりまして「房総の魅力500選」となっています。

  • 芝生と樹木<br /><br />

    芝生と樹木

  • 土塁と空堀<br /><br />険しい空堀が当たり一面に見られます。

    土塁と空堀

    険しい空堀が当たり一面に見られます。

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