2011/09/11 - 2011/09/21
78位(同エリア342件中)
明石DSさん
2011年9月19日、7:10:54
まだ午前7時10分というのに
すでに通学の高校生はまばら
学校が始まるのが早そうだ
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9日目:9月19日(月):晴れ
龍井〜延吉
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2011/平成23年9月19日(月)
■月曜日の龍井の朝
昨日の夜くらいからとうとう体調を崩し、気分は今一だったが空は青空、それだけでもホッとする。まず月曜日の朝の登校風景を見ようと外に出る。
朝鮮族の高校生男女はみんな同じブルーのジャージを来て赤いレンガ塀に沿って学校に向っていた。でも、すでにほとんどが登校してしまっているようで通学の学生は少なかった。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
眠そうに学校へ向う高校生
何を目指して勉強に励むのか?
若者はチャンスを求めて
龍井から出て行くそうだ -
朝一番の買い物
道路も歩道も関係なく
店を広げる
開店準備中
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■西市場の靴屋へ
そんな朝の通学風景を見たあとは、なにがなんでも靴を買い換えようと西市場目指して歩く。まだ店が8時前で靴店が開いているかどうか分からなかったが、早く履き替えたい一心で・・・。そして、西市場へ行き早速開店準備中の靴店を見つけ入って行った。店の主人に靴が欲しいと声を掛けたら、喜んで応対してくれ店内の灯りも点けてくれた。
この靴店は高級スニーカーを扱っている店で、棚にはいろんなブランド名の靴が並んでいた。エアークッション入りの底のぶ厚いのを見つけて、「この靴にする」と言ったら足に合うサイズを倉庫から探して来てくれた。そして履いている靴を脱いで早速それを履いた。ここの息子さんは福岡の大学に留学しているとのこと。図們で35元(445円)の靴を買い、龍井で350元(4,450円)の靴に買い換えた。安物買いの銭失いだった。
61歳にして靴の大切さをとことん痛感した。足膝腰、体中がおかしくなった。もう一歩も歩きたくないくらいに。靴屋に勤め毎月のように中国に出張している息子に「靴の大切さが分かったわ」とメールしたら、「靴もそうやけど日本人は足が弱なっているんや」との一言。ムムム納得だけど・・・。靴を履き替え気分一新、それに足への衝撃は全然違う。 -
早速適当な靴屋が見つかった
開店前だったが老板“おっちゃん”は
愛想よく応対してくれた
気に入った靴を手に入れホッとする -
ここで靴を買い
今も履いている
旅行者にとって
靴はまこと大切だ -
赤いレンガ塀の周囲を歩く
塀の周囲をまだ歩いていなかった
新しい靴を買ったので試し歩きがしたくなる
裏門から吉安街を北へ
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間島日本総領事館跡の赤いレンガ塀の周囲を歩く
そして又人民政府の赤レンガ塀に戻り、まだ歩いていなかった塀の周囲を歩く。その時は気付かなかったが、帰国後写した写真に満洲時代の監獄が写っていた。この監獄のことは知らずに見逃していた。 -
吉安街を北へ
こうやって写真を見れば、当時の小学生が
「塀が高く大きかった」との記憶が良く分かる -
塀の北端を右に曲がって迎賓路を東に
今も敷地は十二分に広く大きい
赤い塀がどこまでも続く -
この敷地内にあった満洲時代の監獄跡は知らなかった
帰国後この写真に写っている煙突と監視塔のような物を見て
「あっこんなとこに監獄があったんや」と分かった -
間島総領事館と監獄が同じ敷地にあったのか?
この敷地面積を見ても龍井が当時間島省での
一大行政拠点だったというのが偲ばれる
その頃、局市街(延吉)はどだったのだろう
監獄跡は「110指揮部、巡警大隊」
として今も立派に使われているそうだ -
塀の北・東側は公園だった
-
「間島日本総領事館:罪証展覧」なるもの
前二回は休みの日
三回目の今日は月曜日
雰囲気は全く違っていた
車も人も当然の如く多い
正面玄関には警備員
庁舎内は見学できなかった
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■「間島日本総領事館:罪証展覧」なるもの
周囲を一周回ったあと正門から月曜日の人民政府庁舎(旧間島総領事館)へ向う。初回は12日(月)だったが中秋節の三連休で休みの日、二回目の昨日も日曜日。月曜日の敷地内は車も朝早くから沢山停まっており出入りも多い。庁舎内に入ろうとしたら警備員に止められた。
「中を見るだけ」と言っても「駄目」とのこと、休みの日は自由に入れたのに・・・。その警備員に地下の「間島日本総領事館:罪証展覧」なる物を見たいというと、「電話してくれれば開けてくれる」と教えてくれた。昨日来て場所は確認しているので、裏に回り掲示している連絡先に電話をしたらすぐに通じた。電話に出たのは若い女性の声だった。「日本から来ている。地下の展示を見たい」と言うと「今何処にいる?」「地下の入り口」と言うと「?上?去。Mǎshàng guòqù. すぐに行く」との返事。
15分ほど待ったが、電話の人だと思う女性が車の助手席に乗って来てくれた。そして鍵を開けてくれて地下に入って行く。「日本人だ」と言うと「日本人、日本人は○○○で50元要ります」と言われた。韓国人なら不要なのかも?写真撮影は駄目とのこと。水牢や拷問室、部屋が二つ三つあり拷問の道具などが展示され、写真の展示もあった。その中で一枚の写真に目が留まった。
それは龍井の朝鮮銀行間島出張所の写真で、『1920年1月4日朝鮮銀行券略奪事件 間島国民会の林国楨、尹俊熙らは朝鮮銀行会寧支店に輸送中の騎馬隊を襲撃し15万円を強奪(今では「奪取十五萬円事件遺址」と彫られた記念碑が建っている)。』とある。
この建物が今も残っているようだ。「どこに有るの?」と聞いたら「工商銀行の横だ。工商銀行は龍井に一つしかない。聞けば直ぐ分かる」と大体の場所も教えてくれた。そして、またここでも記帳を求められ記帳する。殆どハングル名だったが日本人の名前もちらほらあった。地下の拷問室と言っても、この1938年/昭和14年に、この総領事館は閉館し、その後、病院であったり医科大学であったりなのに・・・実態は良く分からない。 -
わざわざ来てくれた係りの朝鮮族女性
こんな赤いバックを持っていたのか?
今、写真を見て気がつく
地下の拷問室??
拷問もあっただろうけど展示も説明も興味なし
一つの捏造はすべてを嘘にする
展示写真の中に見たことある建物の写真が目に留まる
それが朝鮮銀行間島出張所の写真だった -
人民政府庁舎を守る警備員
観光客は庁舎内に入れてくれません
昨日は勝手気ままに入れたけど
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平日の龍井日本総領事館旧跡地下
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=Ab8KqcPdqw4 -
■朝鮮銀行間島出張所跡へ
人民政府から北西方向に歩いてすぐの龍井街と繁栄路の角に工商銀行があり、その西隣に「朝鮮銀行間島出張所跡」の建物がある。実は昨日、中の張り紙に「工商銀行」の文字もあり、もしかしたらこれがそうかもと、そんな雰囲気を持つ古い建物だからと写真を撮っていた。それがバッチリそうだったので驚いた。
しかし、帰国後に「龍井統監派出所址」の写真を見つけて首を傾げる・・・その理由は、写真を見比べたら「朝鮮銀行間島出張所跡」と「龍井統監派出所址」がどう見ても同じ建物だから。
1909年11月、間島総領事館開設に伴い統監派出所は廃止されている。そして1917年:大正6年3月20日、朝鮮銀行、間島龍井村出張所を開設とある。他にこの建物は1920年建造との説明もある。
写真は似ているだけで別なのか?
記述に間違いがあるのか?
統監府派出所を後に朝鮮銀行が間島出張所として使用したのか?
ただ単にこの写真が間違っているのか?
真相は不明だが「統監府派出所の建物」と、現存する「朝鮮銀行間島出張所の建物」と、どう見比べても同じとしか思えない。 -
朝鮮銀行間島出張所跡
真相は如何に?
「朝鮮銀行間島出張所跡」と「龍井統監派出所址」の建物が同じ? -
巨龍友好公園
名前からして大きい公園なのかと思っていたが
井戸も含めてミニミニ公園だった
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■巨龍友好公園:龍井地名起源之井泉へ行きホテルに戻る。
朝からウロウロしていたが、部屋に戻った時はまだ9時13分。
でももうこの時は強烈な下痢の始まりだった。昨日、果物を食ってからほとんど食事らしいものはせず今朝を迎えた。そして足と身体全体の不調に加えて、これも今まで経験ないような下痢。まだこの時は、これからの下痢に比べると比較的ましだった・・・けど。
龍井最後のあがきかのように朝の観光?をして、早々に退房して延吉に向うことにする。階下に下りてフロントのオバちゃん老板に退房を告げ、今からタクシーで延吉まで行くことを言ったら、運転手を紹介してくれた。50元が普通料金のようだけど40元で行けるらしい。
電話で呼んでもらう間、フロントで休憩。この現代賓館は龍井宿泊のさいはお勧めです。室内土足禁止で清潔感がある。朝飯なし、バスタブ勿論なし、シャワーの湯もどうだったか?忘れたけど、満足の一泊120元。 -
巨龍友好公園と龍井地名起源之井泉は
同じ場所
人民政府の西へ、六道河路を歩けば
徒歩数分でここに来る
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「朝鮮銀行間島出張所跡」「巨龍友好公園」
http://www.youtube.com/watch?v=iTS0SdyRTRk&feature=player_embedded -
サラバ龍井現代賓館301号室
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龍井を離れ延吉に向う
龍門橋を渡って
今日はなかなかの上天気
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■紹介してもらったタクシーで一路延吉へ、サラバ龍井。
ホテル出発は9時半ごろだった。市内を出て左手方向に三峰洞、そし前方にて帽子山が見えて来た。延吉に近づいた時に前車が急に速度を落としたので「何っ?」と思っているとタクシーに備え付けている「速度取り締まり感知レーダー」が頻繁に鳴り出した。
司機(司机 Sījī 運転手)は40代男性
「漢族。龍井人。家族は妻と高校2年の娘。毎日仕事休みなし。妻も仕事、お金が必要で仕方がない。娘は高校出て多分大学に行くと思うが、大学出ても就職なく今はまだ分からない。龍井は人口が減って収入も少ない。若者はみんな外に働きに出て行く。速度の取り締まりは毎日のように来ている。奴等も仕事だから仕方が無い」
等など、タクシー乗車は私の中国語学習の場でもある。 -
帽子山を左手に見ながら向うは延吉
-
眼下に広がる景色は雄大だった
-
延吉の町並みが前方に
9月11日(日)
関空→大連→瀋陽→延吉に来て
13日(火)延吉から琿春に向い
19日(月)延吉に戻って来た -
柳京飯店
部屋も広いし
何より
ウオシュレットに救われる
これもご先祖様のお陰だ・・・と
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■10時ちょっと過ぎ柳京飯店に到着。
フロントで崔さんに言われていたように「もう予約している。崔老師・・・」というと直ぐにフロントの服務員の姑娘は分かってくれた。
フロントにいた二人の姑娘に質問した。
「ここは北朝鮮経営のホテル?」→「そうです」→「あなたたちは北朝鮮の人?」→「違います」→「朝鮮族?」→「そうです」だった。
眺めが良いように最上階の部屋を頼んだけど、このホテルは5階が最上階で眺めは全然だった。
517号室。
部屋は広く綺麗、一番驚いたのは便器が「ウォッシュレット」だった。過激下痢の時にこの「ウォッシュレット」にホント救われた。中国のホテルもそこそこ高いホテルは今時「ウォッシュレット」が当たり前なのかもだけど、中国に来るようになって13年目の私にとってここが初めてだった。 -
眺めはこんなもん
この方向に延吉公園がある
歩いて10分足らず -
北朝鮮経営のホテルとのこと
-
エレベーターから外が見える
-
こんな外観
新興街に建つ
今まで関心外のことだったが
この旅を機にいろんなHPが目に留まった
朝鮮半島の抗日歴史
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/korea/timetable/timetable0.htm#%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%91%EF%BC%90%E5%B9%B4%EF%BC%88%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%93%E5%B9%B4%EF%BC%89 -
第三軍司令部跡地:延辺大学
もうちょっと向こうに歩けば
煙集河(烟集河)の延吉橋
東が人民路:西が公園路
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■延辺大学へ
柳京飯店のある新興街を南に少し歩くと人民路に出る。人民路を西方向に歩けばすぐに煙集河(烟集河 Yān jí hé)に架かる公園橋。公園橋を渡るとそこから人民路が公園路と名前を変える。公園路を西に真っ直ぐ行けば延辺大学。元気なら楽に歩いていくけど体調悪くタクシーに乗った。5元。
この延辺大学に当時:第三軍司令部が置かれていた。司令官・村上啓作中将(シベリア抑留となり、1948年9月、ハバロフスクの収容所で病死した。享年60歳)
昭和20年終戦後の延吉の状況。
延吉での武装解除。歩兵第二八一連隊の古池少尉の手記より当時の様子が伺える。
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13yokuryu/S_13_091_1.pdf#search='歩兵第二八一連隊の古池少尉'
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「敗戦の記録:石川県・古池少尉」
延吉での武装解除。
歩兵第二八一連隊の古池少尉の手記より、一部抜粋。
1945年:昭和20年4月、関東軍は第三軍司令部をこの延吉に置いた。しかしこの延吉での対ソ戦はなく終戦を迎え、その翌日の8月16日ソ連軍が延吉に入って来た。
16日の午前中に北朝鮮の上三峯(かみさんぽう)山地の陣地から命を受けて延吉に戻った歩兵第二八一連隊の古池少尉の手記によれば、当時の様子は次のようである。
八月十六日三軍司令部命令で将校の帯剣を除く全部の兵器、弾薬を一ヵ所に集める指示が来た。将校の拳銃を取り上げるのに手間取ったが、漸く(ようやく)衛兵所に集め、ソ連軍立会いの下にソ連に引き渡した。武装解除である。
夕方が迫って来た。五時頃ソ連軍の重戦車三台が営門の前に停まった。日本の戦車より大きい。神経が擦り減る思いの一日であった。
八月十七日延吉が騒然としてきた。関東神社が燃え上がった。鮮満人が酒保を襲った。某軍曹が官舎が危険となってきたから私を応援にやらせてくれと申し出てきた。銃がないので木銃の先を尖らせて三十人の兵隊をつけて官舎へ向かわせた。軍曹の計らいで全員を兵舎に引き揚げさせた。家財は捨てざるを得なかったが一応ホッとした。
ソ連将校が兵隊を数人連れて来たが言葉がなかなか通じない。炊事場より酒肴を持ってきて飲ませて何とか帰した。延吉及び近郊の居留民、開拓団の人たちや軍属の人たちが兵舎へ助けを求めて入って来るのが次第に多くなって配置に追われるようになった。開拓団の婦女子、国境方面の人たちは着の身着のままで、婦人は男装の人や顔に墨を塗った人がかなり見受けられた。
何ともかわいそうなことだ。兵舎の割当てに追われた。国境琿春方面からの引揚者の列車がソ連の飛行機の機銃掃射を受けて、引揚者は命がけだったと話していた。程近い所に新設の二八二連隊があるが木造兵舎であったので、当方へ軍人以外の人が多く集まった。東寧、下城子方面の部隊の兵隊も次第に多くなり、右方の丘には見慣れない旗が何本も立った。朝鮮独立の旗だとか。
八月十八日朝、大隊長小川大尉が帰って来た。帯剣、階級章、靴もない惨めな姿で、顔も青く息もハアハアさせながら帰って来た。彼は十六日陣地より帰った後、連隊長に無断で官舎へ行ったようだ。そこで満鮮人に囲まれてゴタゴタを起こし、留置され相当ひどい目に遭って二晩も帰られなかったようだ。相当虐待を受けたようで留守隊長をやれる状態ではなかった。二村少尉は大隊副官太田少尉を呼んで休養させるように預けた。
残留の大谷准尉には連隊長の命令を伝えた。救助を求めて兵舎に集まる人が次第に多く、日本人が一応安全を保たれる場所のこの兵舎は二千五百人を超したようだ。ここ数日のことを振り返って、連隊長がノモンハンの経験があった故か、適切な判断で処置を進められたと思う。
隣の二八二連隊は陣地で軍旗を奉焼しその場で連隊の解散を命じたため、兵隊は三々五々原隊へたどり着くも残留部隊は機能せず、我が部隊へ聞きに来る者も多く困っていた。
以上:抜粋終わり
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古池少尉は、ご家族で満洲に赴任しており、ハルピンの近くの阿城から20年の4月に延吉に新設された歩兵第二八一連隊に転属になり、家族ともに兵舎に住んでいた。終戦後に二女を亡くし、次いで長男、そして生まれたばかりの三女も相次いで亡くした。そして自身はシベリアに抑留され、昭和21年暮れに日本に無事帰国を果たされている。
手記の最後の言葉は【ソ連のバカヤロー、スターリンのバカヤローと叫びたい。ソ連政府への不信、独裁者スターリンの横暴は終生忘れることはできない。体重は延吉では七三キロだったが、ナホトカでは四七キロになっていた。】と記している。
開拓団や民間の在留邦人も、その多くが敗戦後の惨状のなかで家族を失い失意で帰国をしたが、「在留邦人を見捨てて真っ先に逃げ出した」と言われている関東軍の兵士やその家族も同じように凄惨を極めている。
そして前線の各部隊の兵士は命令に従い最後まで見事に戦っている。関東軍を非難する前に、その時何があったのか?どうしてそうなったのか?事実を検証して欲しい。
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国会での質疑応答は面白い・・・もっともチラッとしか読んでいないが、ホントに真実に迫りたいのであれば貴重な情報源だと思う。激動の時代での出来事はまさに「真実は小説より奇なり」を思い知る。
第10号 昭和25年2月6日
「第007回国会 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第10号」
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/007/1196/00702061196010a.html
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■延辺大学にて思う
快晴の青空の下、まだ痛い足を引き摺る様にゆっくりと大学構内を歩いた。第三軍司令部跡の痕跡は何も分からないが、広大なキャンパスに立派な校舎が立ち並び、大学生の若者が色とりどりの服装で行き来し、青春を謳歌している雰囲気を感じる。
66年前の昭和20年9月、ここは今とは程遠い殺伐とした雰囲気の中で明日をも知れぬ不安な日々を日本軍兵士も在留邦人も送っていたに違いない。
誰しも生まれるにあたって親も国も選べず、時も選べない。戦争の時代とも言われる20世紀初頭に生まれた人たちは、激動の時代を何が何でも生き抜かざるを得なかった。そしてそんな時代に資源無き日本が独立を保つために選択した道を私は間違っていないと思っている。
同時に二つの道を歩くことは出来ず、敗戦と言う結果になったが良くぞその道を選んでくれたと今もそう確信している。
私の好きな言葉に山本周五郎の言葉「人間の真価は、彼が死んだとき何を為なしたかではなく、何を為そうとしたかである! 」というのがある。結果は時の運もあり、思うような結果を得られないこともある。大切なのは志だ。真の敗者とは「戦うべき時に戦わない者」だと思う。
戦った者に敗戦という結果はあれど敗者はいない。先人に感謝する!米英豪蘭中ソ・連合国相手に敢然と火蓋を切り、孤軍奮闘有色人種を代表して戦い抜いた。
敗れたとは言え世界は覇権主義の終焉を迎え多くの植民地国家は独立を目指し立ち上がった。それこそが日本が世界に敢然と見本を示した「白人vs有色人種の戦い」の結果でもある。航空母艦を含む幾多の艦隊を持ち大機動部隊を太平洋に遊弋させ米海軍と堂々と戦った。
それを誇りに思えぬ日本人に問う。
拉致被害者を放置して平気な今の日本人が、一体子孫に誇りと勇気を与えられる何かを残せるのか・・・と。 -
公園路を真っ直ぐ西に歩けば延辺大学
せっかく靴を買ったのに
今度は下痢で歩く気力失せる
タクシーに乗る:5元×13円=65円也
自国通貨の価値が上って破産した国はなし
円高大歓迎だ!自国にもっと自信を持て!
日本は一国で、経済規模は一国にてあらず
一道一都二府四十三県=そこらの47ヶ国に匹敵する
東京都と兵庫県のGDPだけで韓国GDPを越える
主要国と都道府県の経済規模(GDP)順位
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4550.html -
第三軍司令部ではなく延辺大学
八月十六日
三軍司令部命令で将校の帯剣を除く全部の兵器、
弾薬を一ヵ所に集める指示が来た。
将校の拳銃を取り上げるのに手間取ったが、
漸く(ようやく)衛兵所に集め、
ソ連軍立会いの下にソ連に引き渡した。武装解除である。 -
さすが大学構内は広くて立派だ
昭和二十年八月十六日
夕方が迫って来た。
五時頃ソ連軍の重戦車三台が営門の前に停まった。
日本の戦車より大きい。神経が擦り減る思いの一日であった。 -
延辺大学正門
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延吉での武装解除:古池少尉の手記
http://www.youtube.com/watch?v=BIP2zttsrbg&feature=player_embedded -
ケンタッキーフライドチキン
延吉橋の近くのケンタッキーで昼食
下痢だけど一応ちょっとは食っておかないと
そう思って入る
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■延辺大学から又タクシーで延吉公園へ
歩く気力なし。まず昼食をとケンタッキーフライドチキンの店に入って、昨日の夕方に果物を食べて以来何も食べず、朝から下痢のままだが、ちょっと食べてみようとハンバーグを食べた。そして、崔さんに電話連絡して「明日の午前中に日本語を学んでいる延吉の若者と話しがしたいから、10時頃から昼食を一緒に食べての3時間200元のバイト料で誰かを紹介して」と頼んだ。
崔さんはその打ち合わせに今から人民公園に来てくれるというので公園前で待った。崔さんが来てくれて、もう一度明日のことを頼んだら、崔さんは「女の子の方がいいでしょう」というので、私は「そりゃあ・・・」と言った。その場で携帯で誰かに電話をしてくれOKの返事をもらう。延辺大学の研究生(大学院生)で日本語を学んでいる朝鮮族の女性ということだった。
崔さんに「あそこのビルの六階に良い按摩の店がある」と指差して教えてもらって後で探したが見つけられず残念無念だった。 -
こんな店の2階で食べる
-
延辺旅行応援団
http://www.searchnavi.com/~hp/ybtour/yb.htm
崔さんの後姿
崔さんが明日の打ち合わせにわざわざ来てくれた
明日三時間くらい延辺大学の
日本語を学んでいる女学生と
話しが出来ることになった -
何度目かの延吉公園
ここに延吉神社があった
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■延吉公園(人民公園)
崔さんと別れて公園内に入っていった。ここに1935/昭和10年5月建立の延吉神社があり、今も手水舎の「手洗い石」が残っているそうなので、12日も今日も明日も計三回も来て探したが結局最後まで「手洗い石」を見つけることは出来なかった。
帰国後写真を見たらどうも勘違いしていたようだ。きっと私の視線の中には入っていただろうと思う。 -
ラクダか
もともとどこにいたの?
それともここで生まれ育ったの?
自らどうすることもできんなぁ〜
楽しみはあるんか・・食うことか
それでもあればええんやけど -
敗戦後の混乱の中で多くの日本人がこの延吉でも亡くなり
この小高い丘陵のどこかに埋葬されているようだ -
この地を誰が支配し
国名はどうなってるのだろう?
地名はどうだ・・・
我確信する
中華人民共和国はない -
按摩店を探す
延吉公園の展望台が見える
崔さん推薦の按摩店を探しまわる
体調最悪故見つけたかった
分からず断念し疲れ三倍増しとなる
罰が当たったというなかれ
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■按摩店を探すが見つからず、残念
1時間くらい公園内をぶらぶらし、さっき崔さんから教えてもらった按摩店を探しに行ったが、あちこち歩き回った挙句に見つけられずホントガッカリだった。
歩き疲れて喫茶店に入ってジュースと菓子パンを頼んで小休止。その後、うろつく元気なくホテルに戻って下痢で最悪な体を休める。 -
壁新聞か
延吉では、見事に「YouTube」が見れなかった
他では一度もパソコンを使わず知らないが
この地で生まれ育てば自分はどんな人間になったのだろうか?
それを思えば、日本人として生まれて幸いだった -
この喫茶店でしばし休憩する
隣の席にロシア人女性の二人連れが坐っていた
支那朝鮮ロシア、ホンマに難儀な国が隣国だ -
2011年8月10日付 延辺日本人会ニュース
http://yanbian-city.in/2011/0810/sub.html
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再び円高が進んでいます。円を両替される方、
中央郵便局南側の農業銀行内の民間両替がお薦めです。
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上記の案内も崔さん提供とのこと
HPの更新もそのようだけど
両替お勧めはこの農業銀行内の民間両替かも?
でも偽札にはご注意のことですが・・・ -
ホテルに戻る
神様仏様稲尾様ウオッシュレット様
ホンマにホンマに助かりました
もしこれなくばと、想像するだけで恐怖です -
人間ウォッチングが趣味
午後4時31分
学校帰りの道草・・・か
みんなそこそこポッチャリしている
朝鮮族は二人っ子OKのようだけど
地球の人口70億?
一体何人が定員なのか
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■それでも出かける
1時間半ほど部屋でぐったりしていたが、また4時半頃になって懲りずに出かける。ホテル周辺を歩き、人民路のバス停で坐ってバスの車掌の客の呼び込みや乗降客の様子を見たりしていた。1時間ほど戻って来た。 -
延吉に沈む夕陽
-
人民路
この辺りをウロウロすることが多かった -
バス乗り場の喧騒を見ているのも楽しからずや
午後5時過ぎ、バスで帰宅する人多し
車掌が行き先を叫んでいた -
部屋を間違えて入る
ショーを見るつもりが食堂が二つあり
あれっ?こんなんで表演あるの?
こっちに間違って入る
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■北朝鮮の表演
この柳京飯店のレストランの北朝鮮の表演(Biǎoyǎn ショー)のことを思い出し早速一階のレストランに行った。
レストランに入りメニューを見たら日本語メニューと日本料理もあり、「うな丼」と「揚げ出し豆腐」を頼んだ(計59元:767円)。でもレストランは一組四人連れの客が食事をしていたが閑散としており表演の雰囲気はまるでなし。
その内、揚げ出し豆腐が来て食べていたら、賑やかな声が聞こえて来た。「???」としばらく思っていたが、これはどうも違うと姑娘に聞けば隣の部屋だった。 -
こっちは超満員
チマチョゴリの北朝鮮美女軍団
いつもこんな雰囲気で外貨稼ぎをしているのか
韓国人ツアー客の喧しさには閉口する
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■こっちは賑やかだった
「向こうの席に坐りたい」と言ったらOKで、隣の舞台のある部屋に行ったらすでに団体:韓国人旅行客で超満員だった。一人だったので相席だが、かろうじて空いていた一番の後ろのテーブル席に坐る。
ここではチマチョゴリを着た何人もの北朝鮮の姑娘がウェイトレスとして忙しく客の注文に応じていた。帰国後「YouTube」等で見れば、その時の姑娘が写っていた。
そして表演が始まり彼女たちの歌や踊りに会場は盛り上がっていた。客のほとんどは韓国の団体旅行客のように思う。歌が始まりその二、三曲目に「北国の春」が歌われたのにはちょっと驚いた。
この歌は中国だけではなく、もはや日本の演歌というより国境を越えて南北朝鮮でも愛唱歌になっているようだ。アリランは北国の春の次くらいだった。この時会場に持って行ったのは古いデジカメで、ズームが全然ピンボケになっていてガッカリだった。
私がショーを見て感動した順番は未だ変らず。
①は「新疆ウィグルのウルムチの国際大バザールにある劇場で見た民族舞踊と歌」
②は「バンコクのマンボのニューハーフショー」
その二つを凌駕する感動のショーは未だないが、この柳京飯店の表演も見る価値はある。でも飲みながらの客がうるさくて、歌を聞く雰囲気には程遠く最後まで見ずに部屋に引きあげた。
出演の彼女たちも喧しい酔客相手でそれなりだったし、静かな雰囲気で真剣に歌う彼女たちのショーならきっと素晴らしいと思う。 -
北朝鮮美女軍団
将軍様への思いはいかなるものなのか?
美女軍団はあちこちにいるようだが
一体どんな組織がそこにあるのだろう
そしてここの彼女たちの今後は如何に? -
【お金は知っている】北朝鮮“美女軍団”
の月給はわずか2400円
2011.09.02:(産経新聞特別記者・田村秀男)
中国吉林省の省都、長春に足を運んだ。地元の大学教授に案内されたのが、
北朝鮮政府直営の料理店である。従業員は全員、出稼ぎの女性達であり、
民族衣装を着て給仕し、将軍様こと金正日総書記を讃えて歌い、踊る。
常連の教授によると、彼女達の給与は人民元で月800元だが、
平壌にピンハネされて残るのは200元。1元は12円程度だから、
たった2400円か、と思わず「美女軍団」に同情しかけたが、
教授は「何しろ平壌の大学の教授の給与は元に換算すると
5元(60円)に過ぎません。彼女たちは食住ただなので全部貯め、
1年間嬉々として勤めて帰るのです」という。
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これが真実なら驚きだけど・・・。
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柳京飯店の表演
http://www.youtube.com/watch?v=GdZKlETi5fU&feature=player_embedded
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■部屋に戻り明日に備える
8時前に部屋に戻り、それから明日朝まで下痢に悩まされ続けて一夜を苦悶の中で過ごす。こんな旅も初の経験で、昨年の同江の旅と同じく二回連続で体調を崩す旅行になってしまった。
この時は、「すぐにも日本に帰りたい」だったけど・・・。
帰国後、数日を経た今は違う。次回は体調を崩さずに快適な旅で終始したい。
夜中中頻繁にトイレ通いになった。こんな時に「ウォッシュレット」のあるホテルに泊まっていることに「ご先祖のご加護」を感じる。偶然とは思えない。感謝だった。明日は最後の観光になる。頑張ろう!
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