2011/09/11 - 2011/09/21
45位(同エリア339件中)
明石DSさん
2011年9月18日、5:34:46
龍井現代賓館は在満国民学校(龍井高級中学)の前
窓下は「吉安街」
学校前の道は「六道河路」
今日18日は日曜日なので、通学する学生なし
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8日目:9月18日(日):晴れ
龍井にて
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2011/平成23年9月18日(日)
■龍井の朝
いつものように5時頃起床した。龍井の朝は雲ひとつ無い快晴。今日は一日龍井市内の散策だ。ここに来る前は龍井賓館に宿泊するつもりだったが、昨年か一昨年に閉鎖したとのことで現代賓館(電話 0433−3269996)が宿になった。旅たち前に日本で宿を探した時は、このホテルの情報はどこにも無かった。
このホテルは旧龍井総領事館(現人民政府)の隣、旧在満国民学校(龍井二中)の向かい、龍井地名起源井泉のすぐ近くにある。外観は安宿風で料金も一泊120元と安いが部屋は清潔で、中国の安宿とは雰囲気が違う。
朝鮮族経営のホテルは、今回延吉の境浦旅館と、この現代賓館の二ヶ所に宿泊したが、どちらも部屋は清潔感がある。お勧めだ。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
階段の上り下りは運動にもなります
でもこの時はすでに足が痛くて
体中がおかしくなっていた・・・けど
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龍井「満洲時代の市街地図」
http://www.youtube.com/watch?v=fmb-eWH9jIE&feature=player_embedded -
旧「間島在満国民学校」・・現在「龍井高級中学」
在満国民学校の校舎はどんなだったのか?
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■間島在満国民学校
このホテルは朝食はなく、7時過ぎから散策に出発。まず向かいの在満国民学校へ。
電動式開閉の立派なゲートの校門に警備員が朝から常駐している。「日本から来た。ここは満洲時代日本人の学校だった。中を見せて欲しい」と頼んで了解を得て入る。高校とは思えない堂々たる建物で、それも大きい。こんな小さな街で、高校がこんなに大きくてどれだけの在校生がいるのだろうか? -
「龍井高級中学」
漢字に負けぬハングル文字の大きさと
校舎のでっかさがこの学校を表している -
校門扉も立派過ぎる
電動ゲートに守衛室
警備のおっちゃんに頼んで入れてもらう
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龍井「在満国民学校」
http://www.youtube.com/watch?v=qlYT0d_UPAg&feature=player_embedded -
中国一所朝鮮族高中
朝早くから校庭ではクラブ活動なのか
サッカーの紅白戦のようなものをやっていた
朝鮮族にとってサッカーはやはり一番人気のスポーツのようだ
満洲では野球どころかキャッチボールも見たことない
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■中国一所朝鮮族高中
この延辺朝鮮族自治州は、朝鮮族と漢族、その他は、小・中・高校も完全に分かれている。ここも「朝鮮族高級中学=高校」と明記した碑がある。だから人口に比較しても学校は沢山あるとのこと。この学校を見るだけで教育熱心なのは頷ける。今から66年前の1945年、ここは在満国民学校として日本人が通っていた。それから半世紀と16年・・・か。「初級中学=中学」
運動場ではクラブ活動なのか?サッカーのミニゲームをしていた。朝鮮族は昔からサッカーがスポーツのメーンで、龍井育ちのアイさんも朝鮮族の子供と良くサッカーをして遊んだようだ。ボールはテニスボールのようなボールで、その時、いつもアイさんはゴールキーパーをやっていたとのこと。韓国・北朝鮮がサッカーが強いのも当然だろう。運動場も広く、建物も大きい。
中学生守?(Zhōngxuéshēng shǒuzé 中学生心得)の第一項
「??祖国、??人民 ??中国共?党,努力学?、准??社会主??代化?献力量。
(Rè'ài zǔguó Rè'ài rénmín yǒnghù zhōngguó gòngchǎndǎng, nǔlì xuéxí, zhǔn wu wèi shèhuì zhǔyì xiàndàihuà gòngxiàn lìliàng.)
「祖国を愛し、人民を愛し、共産党を支持し、学習に励み、社会主義の近代化に貢献する。」
この支那大陸の歴史は、権力者が変わり、国名が変わり、国土の大きさも変わり続けている。そして、1949年今から62年前に55の少数民族と大多数の漢族の国としての共産主義独裁国家が成立した。中華人民共和国はたった62年の新しい国だ。
一体今の中共政府は、あとどのくらい持つのだろう。一旦成立した支那大陸の国家で最短で崩壊したのはどの時代の国なのか?知らないが、まだ建国62年、そしてますます大国になりつつある今だから、まだまだ百年、二百年続いてもおかしくない。
道徳心なき国家の膨張は、世界の脅威でもあり、隣国日本はまさに気合を入れなおし、この独裁政権国家に朝貢するような国になっては駄目だ。それには富国強兵しかない。 -
2010/8.3
中国一所朝鮮族高中
中国初の朝鮮族高校
誇らしげな碑と学校の大きさ
延辺朝鮮民族の気概を感じる -
校門から現代賓館を写す
六道河路を挟んで斜め目の前だ
徒歩1分、慌てて車に轢かれないよう -
“アイ”さんたちの通学路を歩く
吉安街
この道を真っ直ぐ歩けば
在満国民学校に突き当たる
交差する左右の道は迎賓路
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■アイさんたちが通学したであろう道を歩く。
小学校3年生まで通っていた道。旧関島総領事館の赤いレンガ塀は子供の目からは「大きくて高い塀」だったそうだ。今日は日曜日で通学の姿がなく、ひっそりとした吉安街で残念だったが、いつもならこの道を多くの高校生が学校に向っているのだろう。この龍井総領事館といっても設立は1909年:明治43年朝鮮併合の一年前だが、1938年:張鼓峰事件勃発直前の昭和13年3月31日閉館している。
張鼓峰事件の時は「琿春陸軍病院」となり負傷者が入院していたようだ。その後も医科大学となり、開拓医学院として使われ、1945年3月「東満医科大学」となった後にすぐに終戦を迎える。アイさんたちが通っていたころの赤いレンガ塀は、総領事館の塀ではなく医科大学の塀だった。
この塀沿いを歩いて感じたのは、「こんなに長い塀だったのか?」「塀がこんなに続くというのは、結構でっかい敷地なんやなァ〜」である。まるで軍隊の駐屯地のような敷地の広さを感じた。 -
吉安街
北方向を写す
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旧龍井日本総領事館:「赤塀の周囲を巡る」
http://www.youtube.com/watch?v=2tkPmpzNEM8&feature=player_embedded -
満洲時代は何が建っていたのだろう?
■龍井市人民病院
途中龍井街へ出て龍井市人民医院に行く。でっかい総合病院で立派なものだ。内部にはそれぞれの科の医者が写真と経歴で紹介されている。 -
中国の総合病院はどこでも医者の写真入り紹介がある
卒業大学・経歴・今の職責など紹介されている
患者から見れば医者の情報は多い方が良い
なんせ自分の命を託すのだから -
ロータリーにある案内標識
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■龍井駅へ
そこから次は、駅前のロータリーを経て龍井駅に。
このロータリーも龍井市内の道路も、市の中心部は満洲時代と同じだ。アイさんからもらった「満洲時代の手書きの地図」と区割りも道路も同じだから。満洲時代をこの龍井で暮らした人は、こういった変らないロータリーの風景や駅を見れば懐かしく昔が甦るだろうと思う。
その思い出は、当時の年齢にもよるだろうけど敗戦後の苦難の逃避行を含め複雑だろうけど・・・。 -
龍井街より駅前ロータリーを写す
-
満洲時代も今も変らぬ龍井駅舎
今でも立派なものだ -
駅舎内から駅前広場を写す
満州国は
1932−1945、たった?13年間だが飛躍的に発展した
「日本人」「漢人」「朝鮮人」「満洲人」「蒙古人」
「五族協和」
今の中共・新疆ウイグル・チベット・内蒙古、そして北朝鮮
どっちがよりましか・・・ -
龍井駅ホーム
みんな日本が作った鉄道だ
最初は「天図軽便鉄路「(てんとけいべんてつろ)」として
紆余曲折苦難の歴史の上に敷設され現在に至る
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9B%B3%E8%BB%BD%E4%BE%BF%E9%89%84%E8%B7%AF -
1932年満洲建国の翌年、南満洲鉄道に経営委託
待合室に、今は人はいないが発車時刻になれば
山ほどの人が集まる・・・きっと、必ず
どこにこんな人が一杯いるんや?というくらい -
切符売り場
今は閑散としている・・・が
ここなら切符も落ち着いて買えそう -
龍井駅前の公衆トイレ
そういえば私も入ったなぁ〜
口で息をしながらだけど
アイさんが、昔のままだと言っていた
満洲時代、なんで日本人がこんなトイレ作ったんや?
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龍井駅前にて思うこと
http://www.youtube.com/watch?v=S6H6h0ewdc0&feature=player_embedded -
(旧)龍井電業株式会社へ向う
駅裏、線路の北側に龍井発電所がある
写真の煙突がそうだ
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■龍井にて思う
ソ連侵攻後そして日本の敗戦。満洲各地で在留邦人は悲惨な体験をすることになる。この龍井も例外ではない。ここはソ連軍の進駐はあったようだが戦場にはなっていないようだ。敗戦後、この延辺地区は昔から朝鮮族を中心として共産抗日ゲリラ活動も盛んな地域だったことから、日本人に対して冷徹だったのは、満人よりも朝鮮人だったようだ。小学校3年生だったアイさんの印象でも、支那人の方がまだ同情的だったとのこと。
そして龍井でも多くの在留邦人が殺害されているそうだ。医者であったり、本屋の主人であったり、龍井在住の日本人の中でも中心的な人がそのターゲットになったのかも。アイさんたちが平成14年に龍井出身の方々とこの地を訪ねた時も、龍井で医者だったお父さんが終戦後に殺害され、その時のことを聞こうとした娘さんに、当時を知る案内の朝鮮族の二人の方はそこのとについては一切教えてくれず、二人とも最後まで口を開こうとしなかったそうだ。
父親を無残に殺された娘さんも、罪なき日本人を復讐で殺した朝鮮族も、戦争は元より悲惨だ。想像を絶することが起きる。それが戦争だ。何が起きても全ては戦争の範疇だ。ルールがあって無きが如し、殺すか殺されるか?その現実に直面すれば一体人間はどのような行動をするのか?そこに是も非もあるのだろうか?殺したくなければ殺されるしかない。自分はそれで納得しても、子や親や兄弟を見殺しにするのか?
「だから戦争は絶対駄目だ」と誰もが口を揃えて言う。ならば奴隷になるのか?相手に服従し機嫌を伺い、少しでも良い待遇を求めて生きるのか?文化や伝統を否定され、自分の大切な物を全て放棄しろと強要され従うのか?それを言えばすぐに日本は台湾・朝鮮にその「悪の所業」をしたと言う。ならば逆の立場なら良かったのか?台湾・朝鮮側の立場の方が良かったのか?当時世界の国はそのどっちかの二者択一の時代だった。
戦争を防ぐには自分が強くなることしかない。強くなれば戦争をしたくなる?じゃあ弱ければ良いのか?周辺諸国を恐がらさない適当な強さなら良いのか?周辺諸国が日本を敵対する国家で日本より強くを目指していればどうだ?綺麗ごとばかりを言う者や似非平和主義者はうんざりだ。自虐こそ、いや自虐だけが善だと思っているのだろう。哀れで無責任としか言いようが無い。
私は奴隷にはなりたくない。侵略されたくないし、服従国家として朝貢もしたくない。今の日本が米国の従属国であるのも嫌悪している。「自分の国は自分で守る」それが人間が人間として生きる最低限の基本だ。憲法9条を未だに放棄せず、自ら牙を抜くような人間が人間らしく生きることは出来ない。無様な日本になってるのを心の奥底で感じながら見て見ない振りして、ご先祖に、そして子孫に対し取り返しのつかない罪を重ねているのが今の日本人だ。
駅前から発電所へと歩いた。龍井電業株式会社として日本人が作り、今も立派に稼動している。アイさんのお父さんがこの発電所の所長として勤務しておられた。そして敗戦後も直ぐに引揚げることは出来ず「留用」なのか自分の意思なのか?知らないが、昭和21年10月、発電所の引継ぎを終え帰国の途につかれた。そして、やはり辛い避難行を体験しながら家族全員無事に葫蘆島経由で日本に戻られている。
新京経由での引揚げだったそうだが、その間無蓋車に乗り、中国人ボランティアに炊き出しをしてもらったりしたそうだ。そしてレンガ倉庫は下に敷く新聞紙もなく。食事は並んで待ち、ご飯の焦げをもらうために並んだりもした。写真は検問所通過のたびに没収され、満洲紙幣、兌換券、株券なども没収された。それでもアイさんのご両親がお金を隠し持ち、物売りから買っていた。
そんな避難行の中に終戦後に共産党を吹聴し、当地で同胞を散々痛めつけていた連中も、隠れるように帰国しようとしていたそうだが、時に見つかりみんなに半殺しの目に合わされていたのが小学生だったアイさんの記憶に残っているようだ。市民派・社会主義者・共産主義者は、伝統文化を否定し国家をも否定する。今の中国のように、国というのは建前で共産党の私物であり、平等どころか強固な階級を作り幹部だけが栄華を楽しみ、奴隷と恐怖社会を作る。 -
踏み切りの上に何が中に入ってるのか?
太いパイプが踏み切りをまたいで
発電所に引き込まれている -
すぐそこに龍井プラットホームがある
-
中国国電
「吉林龍華龍井熱電産」
満洲時代日本が作った発電所 -
駅近くの、この一画だと思うけど
■龍井駅周辺の日本人社宅?を探す
発電所から駅の方に戻り、YouTubeで「旧満州延吉市龍井の生家を訪ねて」 を見て、電電公社の社宅があった場所に行った。2001年の龍井の動画で10年後の今日だったが、赤レンガの長屋は今もあったが場所は特定出来ない。でもこの辺りだろうと思う。
http://youtu.be/Is8OgnP3AzM -
レンガ作りの社宅だったようなので
こんな感じの社宅が建ち並び
多くの日本人が龍井での生活をしていたのだろう -
龍井駅南東傍の住宅街
1945年:昭和20年8月9日まで
日本人の平穏な暮らしがあった -
龍井電業社宅を探しに
東山街から南方向を写す
アイさんからもらった旧龍井市街図は
今の四中と五中が逆に書かれている
それで勘違いしていたが
帰国後新旧地図を見直してそれが分かった
旧市街図地図の書き間違いなのか?分からないが
旅行中は今の四中附近が社宅のあった場所だと思っていた
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■今の「龍井市第五中学」周辺の日本人住宅を探しに歩く
次に向ったのは、アイさんが住んでいた地域にそれらしき住宅を探しに行った。東山の西側麓で地図を見れば四中の近くだ。そこに行くまでの道は立派な道が貫き、高層の高級マンション風の建物が建ち並んでいた。 -
旧社宅の場所を勘違いしていたのでこのあたりではないが
この東山街の両側一帯は
高級マンション群が建ち並んでいた
マンション入り口も厳重にガードされている
海蘭路までの東山街左手にある高級マンション
このマンションは多少銭?
龍井の金持ちは何で稼いでいるのだろう?
龍井(りゅうせい)は鉱物資源が豊富とあるけど -
東山街より海蘭路の手前で南を写す
目の前の交差点を左に曲がれば東山公園入り口 -
東山公園登り口を背に海蘭路を写す(西方向)
-
東山公園
ハイキングコース登り口
足が痛い膝が痛い、何でやねん??
体中がおかしいけどなんでやねん?だった
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■東山公園に上る
とりあえず先に東山に上ってみることにした。高台に登ると眼下に龍井市内を見渡せることが出来るので、旅すればいつも高い所に行きたくなる。
東山公園として整備され市民のハイキングコースだ。途中にここにも革命烈士の塔が立っている。この烈士の塔には、「解放時期革命烈士」「抗美援朝時期革命烈士」「社会主義革命和建設時期」の犠牲者の碑と書かれていた。
そのまま先へ歩いたら視界が良くなり眺望も開けてくる。琵岩山、一松亭、帽子山もくっきり見える、そして三峰洞も・・・。
ドーン、ドーンと大砲を撃つような音が聞こえてきたが、後から聞いて分かったがこれは開店記念などに打ち上げる連続花火の音だった。結構迫力ある音でちょっと驚く。東山公園のハイキング道を歩いてもどこまで続くのか?見当が付かず、足も痛くなって散歩している人に「この道の終点はどこ?」と聞いたら、この道はぐるりと周囲を巡っていて終点は無い。一周だいたい1時間くらいと教えてくれた。
元気なら絶好のハイキングコースだけど、足が痛くてこの道を歩き通せば他のところに行けなくなると思って断念した。あの時、一周回っていればこの東山にあるはずの日本人墓地の見当も付いたかもしれないと、後になってそのことが頭をかすめた。 -
日曜日好天に恵まれて散歩の人多し
ここは絶好のハイキングコース
手頃だし、町のすぐ傍だし、景色はええし
我が家の西明石のそばにもこんな丘が欲しい
淡路を一望できる万葉に歌われた海の景色はあるけど
平坦を歩くのと上り下りは違う
贅沢言えば罰が当たる・・・けど -
革命烈士の塔・・・か
革命の挙句が中共で北朝鮮か
そんなもん糞食らえ、最悪やろ! -
足と体が快調なら歩きまわりたいけどホンマ
残念無念なり -
東山より西方向:龍井を写す
パノラマ写真 -
マンションの色もカラフルで
日々の生活は一体どんな調子?
何か不満は? -
デジカメズームで「一松亭」を撮影
こっちから見えれば向こうからも見えるはず
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龍井、東山公園にて
http://www.youtube.com/watch?v=q68ehqoJE1g&feature=player_embedded -
市四中への道中
この時は、市四中附近に龍井電業日本人社宅があると思っているので
それを探しながらキョロキョロしながら歩いてた
古い建物もアチコチあった
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■市四中を探しながら
東山公園を下り、この辺の古い住宅街を見歩きながら四中に向う。この四中の運動場の隅に恩真中学同門会が建てた碑がある。
http://ameblo.jp/rohi0086/theme2-10001907744.html#main
「ぷるはと通信」によれば、数奇な経過を辿った学校だ。1920年:大正9年当時龍井にイギリス租界なる場所があり、イギリス人宣教師が最初に立てた学校。抗日運動の場所としてイギリス租界にあるこの学校が重要な舞台になった。それが1938年:昭和14年私立恩真中学となり、1942年:昭和17年間島省龍井第三国民学校となった。
何故?この龍井にイギリス租界が?・・・昔のことを知ろうと思えば大変だ。関連付けると次々と分からないことばかりが増えてくるし、歴史を学ぶことは大変だし、正しくその時代を知り、その出来事を正しく評価するのは至難だ。この四中に行く道中、人民解放軍部隊が所々にあった。そして東山の日本人墓地は、YouTubeで見た時、軍の施設附近から登っていたので、そこらを探したが分からず断念。足膝腰と痛くて歩きにくく探索のテンションも上らず。 -
これらがどの時代のものか不明
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東山のどこかにある日本人墓地への道も探しながら
この辺は解放軍部隊や公安などがあって
一人ボソボソ歩きながらパチパチとカメラを写しにくい
何も悪いことしてないけど、何となく恐い -
東山日本人墓地
こっちを登るのか?あっちなのか?
どこやったのか?
分からん -
「恩真中学旧址」の碑の背面を道から塀越しに写す
そして帰国後、日本人墓地への道が分かった
YouTube:「旧満州延吉市龍井の生家を訪ねて」 を見て
http://www.youtube.com/watch?v=ygCiDYhkI7E
写真を撮っているこの道を登っているのが分かった
上記YouTube「10分55秒」の道がそれだ
左が市四中の運動場の塀、そこからこの碑の写真を撮った
しかし今更どうしようもならぬ -
龍井市第四中学に辿り着く
こっちの学校名にはハングルが併記されていない
ということは漢族の学校なのだろう
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■龍井市第四中学
トボトボと歩いて龍井市第四中学に辿り着き校門の警備の姑娘に頼んだ。「この碑の写真を撮りたいから中に入れてくれ」とプリントを見せて、姑娘は「そんな物はない」と言う。「日本から来て龍井の日本関連の旧跡を巡っている。運動場の隅にある。さっき外からあるのを確認している」と言ったら入れてくれた。その碑の裏には確かに「1920.2−1946.9 龍井恩真中学同門会 1998年9月17日立碑」との文字が刻まれている。
『1920年2月4日、長老派教会は龍井に恩真中学校を創設。校長フォード、学生数27人で5年制。英語、聖書、漢文、理科などを教授。開学後すぐ日本の警察によって2名の教師と20名以上の学生が逮捕される。1ヶ月後釈放。』と「延辺朝鮮族自治州フォトギャラリー」にある。この碑に刻まれた年号からいえば、創設時期の同窓生を含めての同門会の碑なのだ。ふ〜ん。歴史がある。帰りに校門の警備の姑娘にデジカメで撮ったばかりの「恩真中学旧址」の写真を見せたら笑っていた。
四中附近にも古い家屋が残る長屋があったが、それが龍井電業の社宅なのか?全く分からない。でもこのあたりに住み、学校にも通っていたのだろう。四中から吉安街へ向うとすぐに龍井第五中学があった。四中の正門の学校表示は漢語表記だけで、この五中の正門の表記はハングルが上に書かれ、その下に漢語表記だった。四中は漢族が通う中学で、五中が朝鮮族の中学なのだろう。 -
広い運動場の東北の隅に「恩真中学旧址」の碑がある
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ここにもいろんな歴史あり
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龍井市第四中学の校舎
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龍井市第五中学
アイさんからもらった旧龍井市街地図を見たら
地図に四中と書いている場所が、この五中の場所だから
この附近に龍井電業の社宅があったと思う
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龍井第五中学の場所(グーグルMap)大きな地図にすれば学校名が出てくる
http://local.google.co.jp/?ie=UTF8&t=m&vpsrc=6&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&source=embed&ll=42.769833,129.429309&spn=0.005608,0.01369&z=17
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旧満州電業株式会社龍井発電所:市四、五中
http://www.youtube.com/watch?v=pW59hmBmV2Y&feature=player_embedded -
301号室の廊下から下を見ると
こんな景色
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■アイさんの龍井の思い出
そして小学校3年生まで龍井で過ごしたアイさんから聞いた話しを思い浮かべながら、吉安街を在満国民学に向ってぶらぶら歩いた。
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「アイさん」
満洲生まれ,在満国民小学校三年まで龍井市
昭和の後半に初めて龍井に来る時は、龍井での身元引受人が必要だった。その時は、満洲時代に龍井電業(株)の独身寮の風呂焚きをしていた朝鮮人が偉くなっていて身元引受人になってくれた。そして平成14年に三度目の龍井訪問の時は、その人が日本人墓地などに案内してくれた。
その朝鮮人のSさんとNさん(仮名)は、終戦後に龍井○○書店の主人や、龍井で医院を開業していた医者などが朝鮮人に殺害されたが、その時同行していた遺族の息子さんや娘さんが殺害場所や状況の説明を頼んだが二人は頑なに教えてくれなかった。龍井神社:東山?神社の宮司も殺された。
当時の家は、発電所の社宅ということもあり今でいえばオール電化で、部屋の暖房もオンドルではなく電熱器と電機ストーブ。風呂もニクロム線を入れて五右衛門風呂、鋳物なので冷たく熱い。
アイさんにはお兄さんもいて在満国民学校の3年生と6年生、学校にはお兄さんと一緒に集団登校のように行った。兄貴はスケート選手として、延吉などに大会に行った。
龍井の駅舎は昔のまま。左端のトイレもそのまま。覚えている。駅の看板は???龍門橋は覚えていない。「龍井地名起源井泉」も小さい時の思い出はない。
龍井に陸軍病院があった。平成14年の時は民間の社宅として残っていた。小学校1年の時、その病院に行った。陸軍病院といっても民間病院と同じような雰囲気だった。龍井の映画館も良く行ったけど、どこだったか分からない。
朝鮮銀行の襲撃、15万円事件は知らない。学校の横の公園は知らない。学校裏の川は記憶に無い。社宅に囲まれて外にはあまり出ていない。
今の人民政府の地下に政治犯などへの水牢など拷問施設があったが、叫んでいる声を聞いた友人もいてそのことを良く覚えているようだ。アイさん自身は聞いた記憶はないそうだ。百貨店の外観は昔のまま。
この龍井にもまだ残留日本人孤児がいるかも?アイさんの社宅にも両親が亡くなって残された人がいる。戦後、日本人もばん刀で首を撥ねられた。当時の刑務所・収容所は、東山にあり今は軍の施設。琿春にも発電所があった。
昭和の後半、一番最初の龍井訪問は、二日間滞在。一班に約40人。四班くらいに分けて詳しい人を中心に街中を歩いた。父親が殺された人も沢山いる。家族揃っての帰国はアイさんのところくらい。その時は龍井の小学校時代の先生も一緒に行った。受け持ちの先生。生涯独身。二人。四、五年前に亡くなった。家族で満洲に来ていた。
アリラン・トラジ。朝鮮語の歌を耳から覚えた。いまだに歌の一節を覚えている。クラスに朝鮮人はいない。社宅には良く遊びに来る。テニスコートを使ってサッカーをする。サッカーボールは無い。朝鮮人と遊んでも親はなにも言わなかった。朝鮮人の子供は喧嘩になると「マッケンニィ」と言いながらかかってくる。そして頭突きで来る。
アイさんの父親は龍井電業の所長だから帰国が遅れた?ソ連軍がトラックで龍井に入って来るのを見ていた。関東軍兵士の姿はない。今の道路を延吉方向から走ってくるソ連軍の車列が見えた。リュックサックを父親が作っても、すぐにソ連軍兵士に盗られる。いくつつくったことか・・・。お父さんは器用だった。
アイさんは営口(えいこう インコウ)で生まれ、父親の転勤で龍井へ。龍井から遠くに出向いたのは、営口の近くでお袋の兄貴、満人50人くらい使ってりんご園を経営。その叔父さんが死んで(小学校1年)葬式に行った。その時、大連にいた医者の叔父さんを訪ねて行った。上野駅に似せて作られた大連の駅は覚えている。大連の駅裏に安田講堂が残っている。大連と営口に二泊。
以上
アイさんから旅行前にお話しを伺い龍井の旧地図を頂いたので、今回の龍井旅行が有意義な物になった。感謝!
■一旦部屋に戻り、小休止のあと・・・。
そして一旦301号室の部屋に戻り小休止。それから今度は昼飯を食べに出て行った。午後の散策の始まりだ。龍井で一番賑やかな西市場の方に足が向く。中国の露天市場では野菜や果物屋がどことも多い。
私も健康管理を趣味にしだして果物を食前に食べるようになり、今では果物が大好きだ。中国人は日本のように健康保険や医療機関も整備されていないのもあると思うが、健康に関しての意識は日本人より高いような気がする。早朝の散歩や太極拳もそうだし、「水を沢山飲め」とか「毎日リング一個食べろ」と言われることがある。
昼はおかず一品とご飯を頼んで食べた。このあたりの食堂はどこでも先に小皿にキムチや漬物などを出してくれる。食事の後は龍井の学校巡りをした。この頃は足が痛くて、その痛さが今まで無いような感じで、足。膝。腰、そして体中がおかしくなっていた。
そしてこのちょっと後にその原因にやっと気付く。それは図們で買った安物の靴だった。見かけは良くても、底が薄くそれも硬い。「日本に戻れば棄てればいい」と思って買った靴だけど、気付いてからは一歩も歩きたくなくなった。61歳にして強烈に靴の大切さが身にしみて分かった。 -
車の左手の店が朝鮮族の食堂
何でもまあまあ美味しかった
龍井街の南端:西側 -
繁栄路
-
繁栄路と龍井街の交差点より
ちょっと西に繁栄路を入ったところに
この古そうな建物が目に付き写真を撮る
これが1920年(大正9年) 1月4日
朝鮮銀行券略奪事件の
http://yb.gnk.cc/date01/info01.htm
「朝鮮銀行間島出張所」跡だったとはこの時皆目知らなかった
しかし、この建物が間島龍井統監府派出所址とされる絵葉書がある
どこからみても同じ建物だとしか思えない・・・が、真実は如何に?
1921年建造とされるが、出張所から統監府へと変遷を辿ったのかも? -
松茸の産地ゆえ
高いのか?安いのか?良く分からんけど -
西市場入り口付近
-
どこかでこれを食べたけど
写真も記憶もないので、店も何も味も忘れた
ご飯の食器を見れば朝鮮族の店だろう -
龍井中学グランド右に立つ旧大成中学
正門右にハングル表記あり
ゆえにここは朝鮮族の中学だろう
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■学校回り
まず人力車(三輪車)に乗って現在の龍井中学のグランドの一隅にある、二度目の大成中学へ行く。
その掲示写真を見ても、朝鮮族の通う学校だったのだろうか?そして今は龍井の愛国教育基地として抗日抵抗運動の歴史や愛国者と言われる朝鮮人の写真や紹介がある。昔の龍井の写真も多く展示されていて見応えはある。
この学校出身者で日本の同志社大学に学び、福岡刑務所で獄死した「尹東柱(ユン・ドンジュ、1917年12月30日 - 1945年2月16日)」が英雄的扱いで紹介されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%B9%E6%9D%B1%E6%9F%B1
12日(月)もここに来たがほとんどが韓国人旅行者だった。内部はハングル一色で、無料で参観出来る。この日は、人が少なく朝鮮族の案内の人が付いてくれた。簡単な中国語での紹介だったが、最後に記帳を頼まれ、その後に寄付を頼まれた。
寄付の気持ちはなかったけど日本人として私としてはカッコつけて???大枚の100元を渡した。その気は全くなかったのに・・・。でも写真や資料は一見の価値はある。写真も自由に撮れる。でも内容については一切信用しない。
何故なら?歴史の一つでも故意に或いは明らかに捏造すれば、その他全ての信用など出来る物ではないし、私はしない。一つどころか竹島領有・併合の中味・慰安婦問題等など捏造を上げれば切りが無い。他に真実らしきがあっても空しいだけだ。
無論言われなくても真実は如何に?両者で言い分が真っ向違うのは分かっている。しかし真実は一つだ。納得できる方を自ら選択する。それが私にとっての真実だ。誰にも押し付けはしない。だから押し付けるな。 -
旧大成中学
-
昔の龍井地名起源之井泉
-
瑞甸(ソジョン)書塾(1906年)の碑は
満洲で初の朝鮮族が創立した学校だが
たった八ヶ月の短期間で閉鎖になっている。
その理由は
創立者が朝鮮国王の密使として塾を離れたことによる財政難や
統監府間島派出所の取り締まりで閉校となっている。
それがスタディツアー 報告?では・・・
https://sites.google.com/site/kajalearninggroup/tour_report/dai-3kai-sutadi-tsua--2009nen-3tsuki--dai-2nichi-me
『この書塾はたった8ヶ月で日本によって潰された。』
総監府の取り締まり???
何でも日本のせい・・か、その性根には辟易する
そして彼等と手を組み先人を冒涜する
反日日本人には軽蔑と哀れみしかない -
これが日本が作った学校だろう
そして日本の学校に即した教育というものだ -
中央学生帽:尹東柱(ユン・ドンジュ)
同志社大学在学中の写真とある
近くで見ればみんなの表情も分かる
写真は誤魔化せない。 -
これが学校の教室というもので
瑞甸書塾と比べてみろ -
1920年大正9年創立「恩真中学」か
龍井にイギリス租界があったなんて・・・
この写真を見て
カナダキリスト教の宣教師が創立したと納得
イギリス租界を逆手にとって抗日の拠点・・・か
なるほど -
これが当初の龍井駅だったのか
1924年11月1日天図軽便鉄路(てんとけいべんてつろ)は
龍井村-老頭溝・朝陽川-局子街(のちの延吉)間開業。 -
間島日本総領事館
今も堂々たる建物だから
当時は尚更遙かに堂々たる建物だったろう
これも侵略の象徴っていうのか?
今の北朝鮮を開放しても侵略か?
在満邦人以外は奴隷だったのか? -
当時の大成中学の写真
服装から朝鮮族学生が多いように見える
これも日本の侵略統治の証か?
彼等の服装と写真の態度が当時を如実に示している -
詩人:尹東柱(ユン・ドンジュ)詩碑
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「韓国にもノーベル賞候補がいる。」
ブログ「中韓を知りすぎた男」より
http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-793.html
2011/平成23年10月10日(月)
「韓国にもノーベル賞候補がいる。10年近くノーベル賞候補と報道され続けていたにも関わらず今年も不発に終わってしまった」と韓国の知人から聞かされ、思わず「エッ!誰」と驚いてしまった。
聞けば高銀(コ・ウン)氏という詩人だそうです。どのような詩を書いているのか知りたくてソウルの本屋に買いに行かしたが、残念ながら置いていませんでした。
そこでネットで探した結果「日本への礼儀」と題した一編の詩を見つけました。正直読んだあと少し感動しました。
今日は高銀氏の東日本大震災について書かれた感動の一編を味わってください。
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「日本への礼儀」
どうしてあの凄まじい災難に口を開いて空虚な声を出せるというのか、
どうしてあの目の前の真っ暗な破局に口をつぐんで顔をそむけるという
のか、あれもこれもお手上げ状態でリアルタイムの画面をみる。
何千なのか、何万なのかしれない日常のやさしい命、もう生きて戻って
こない。お母さんも、子供も、おじいさんも飲み込まれた。
お父さんも、お姉さんも、友達も、どこかの瓦礫の山に埋もれた。
あれほどつましいあなたがたの家、全部流された。
船が陸へ来てひっくり返り、車がおもちゃのように流された。牛乳も水もない。
人間の安楽とはどれだけ不運なのか、人間の文明とはどれだけ無明な
のか、人間の場所とはどれだけあっけないものか、
あの唐山、あのインドネシア、あのハイチ、あのニュージランド
今日また日本の事変で、人類は人類の不幸で自身を悟る。
しかし日本はいまさらのごとく美しい、決してこの不幸の極限に沈没
しないで、犯罪も、買い占めも、混乱も無く、あなたを私として、
私をあなたとして、この極限を耐えぬいてついに打ち勝つ。
今日の日本はまた明日の日本だ、私の隣人日本の苦痛よ、その苦痛の
その次よ、今日の日本でもって以降の日本は必ずやたちあがる。
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「高銀氏は1933年,全羅北道群山に生まれる。群山中学校中退。1952年入山して僧侶生活をおくる」という経歴からして戦前の日本の教育を受けたものと思われます。でなければ「日本はいまさらのごとく美しい」とは書けなかったと思います。
美しいとは景色のことでなくもちろん日本人の心を指しています。戦後の捏造された反日教育を受け、日本を罵倒することしかできない現在の韓国人では決して書けなかった美しい一編です。
辻本貴一氏(文責)
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旧大成中学:龍井
http://www.youtube.com/watch?v=ZdlJ_sFZPm0&feature=player_embedded
-
1938年間島省立光明国民高等学校
1941年には間島省立龍井第一国民高等学校と改称する。
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■次は龍井市北安小学へ
こっちは小学校ではなく小学・中学までしか書かれていない。校はない。
大成中学旧跡のある龍井中学から歩いてもすぐなのだろうけど、足が痛くて歩く気がせず、2元(26円)の人力車に乗る。
この学校にも面白い経緯があるようだ。昔、満洲、いや満州以外もそうかもしれないが日本国外に私学が多く創立されていたことに驚く。最終的には間島省立龍井第一国民高等学校となっているようだが・・・。
「ぷるはとん通信」に詳しく紹介されている。
http://ameblo.jp/rohi0086/theme2-10001907744.html#main -
この小さな面積の龍井市内に
これだけの多くの学校があったことに
改めて当時の満洲国の統治内容が分かる
これを植民地というなれば世界に植民地数あれど
こんな行政を施した宗主国はどこにあるのか?
あれば教えて欲しい -
龍井市東山実験小学
現在の龍井市実験小学校
この場所に
『1906年、李相?が立てた現代式学堂である瑞甸書塾』があった
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■次は龍井市東山実験小学へ、
ここに東北解放記念塔:1946年建立があるが、その碑の背面には朝鮮語で
「1945年8月15日弱小民族の救世主ソ連赤軍の威力で東北と祖国は解放を得た。一周年記念の年に建立」と刻まれているそうだ。弱小民族の救世主ソ連赤軍・・・か。
朝鮮人はソ連共産党をそのように思っていたとは、それが北朝鮮の今であり、中国の今にも通じる。共産主義は全てを破滅へと向わせる。難儀なことだ。
瑞甸(ソジョン)書塾の碑は満洲で初の朝鮮族が創立した学校だが、たった八ヶ月の短期間で閉鎖になっている。その理由は創立者が朝鮮国王の密使として塾を離れたことによる財政難や統監府間島派出所の取り締まりで閉校となっている。 -
実験小学校で何を学び
龍井の子供たちは
将来何を夢見ているのだろう -
ソ連軍が救世主と讃えるは不幸としか思えず
-
それまでは
朝鮮民族に塾も学校も何故なかったのか?
下々に
「勉強」「学習」という意識がなかったのだろう
日本には江戸時代においても無数の私塾があった -
龍門橋から海蘭江北方向を写す
遠くの山は「三峰洞」
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■龍門橋
次は龍門橋の近くの海蘭河沿いの「沿江公園」というのが地図にあったのでタクシーで向う。タクシーの運転手が地図を見て、「そんな公園はない」と言われたが、「まあええわ・・・」と思い、橋のたもとまで行き降りた。運転手の言ったように、地図にはくっきりと書かれている「沿江公園」は影も形もなかった。 -
橋の西・北側の木
昭和20年8月15日、この木は
あったのか?無かったのか? -
東興中学(現在:龍井市三中)
延辺朝鮮族自治州の朝鮮人は
中華人民共和国の延辺朝鮮族自治州の朝鮮人として
何か不満不足はあるのか?
満洲時代に比較して何が良くなった
本音を聞いてみたい
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■東興中学(現在:龍井市三中)と蓋のないマンホール
海蘭河のあたりをぶらぶら散歩していたら、地図にこの近くに東興中学(現在:龍井市三中)が有ることに気付いた。そこに行く。中学校とは思えない巨大なキャンパスで、日本のそこらの大学より見た目は敷地も含めて立派な学校だった。
この中学も1941年間島省立龍井第二国民学校となっているようだが、創立時点でも設立者は天道教信者・崔翼龍とあり、敗戦後には、この学校がソ連軍歓迎の龍井での主導的役割を果たしているらしい。
日本が大東亜戦争に負けずに満州国が続いていたら、きっと今の中国東北部とは違って、素晴らしい国としての満州国が健在だったろう。ソ連赤軍に解放されたと喜ぶ朝鮮族ならば・・・。そして東アジアは安定し、中国の不気味な膨張もなく、今とは違う世界が確実に存在している。歴史にイフは禁物なのだろうけど・・・。 -
ここもハングル表記をした学校
そして校舎もバカデカイ
ソ連赤軍が救世主なら
北朝鮮は・・・??? -
龍井市三中から龍門橋に歩きかけたら
蓋のないマンホールがポッカリ口を開けていた
これを見つけるたびに心戒める
そうだ!ここは日本ではない・・・のだと -
痛い足を引きずり
満洲時代の橋桁
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龍井学校巡り
http://www.youtube.com/watch?v=Y7PXHT3RlzA&feature=player_embedded -
間島日本総領事館
12日に引き続いて再度来訪、明日も再々訪だが
歴史遺産としていつまでもこの庁舎が使われますように
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■間島日本総領事館へ
東興中学(現在:龍井市三中)を出て、次は人民政府へ行った。日曜日だったので人も少なく庁舎の中にも勝手に入れた。中にはビリヤード台が置いてあった。この建物の変遷を思えば、いろんな立場の日本人が66年前までここを闊歩していた。張鼓峰事件の負傷者もここで入院し手当てを受けた。そして病院として医科大学として長く使われた。この周囲を囲む赤いレンガ塀は、まるで龍井の象徴のようだ。これからもこの人民政府の建物とともに長く残って欲しい。
この建物の裏側地下にある拷問部屋と言われる監獄は、平日でないと入れない。今日はこの敷地の中をぶらぶら歩いた。総領事館跡の横には領事公邸が今は「広播電視局」として使われている。その奥にも日本時代の建物が残っていると教えてもらって見に行った。旧総領事館や領事公邸と同じような年代を感じさせる建物だった。「延辺朝鮮族自治州土地監察支隊:龍井大隊」「龍井市二次土地調査領導小組」とのプレートが入り口に貼り付けてあった。それが何だったのか? -
領事館・医院・医科大学
そして龍井人民政府庁舎
この玄関は激動の歴史を見守ってきた
いろんな人間がここをくぐり中に入っていった -
前回は祝日、今日は日曜日で
玄関に警備員はいなく勝手に入れる
誰も文句言わないので勝手に入った
ビリヤード台か、休憩時間に遊ぶのか?
それとも仕事時間でも可なのか?可だ -
裏は公安:POLICEの建物
賄賂は犯罪ではないのか?
賄賂は正当な要求だ・・・と
なるほど、それも含めての給料だったのか -
今もそのまま映画のセットとして使える
重厚さもあって役人は威張れるな -
木の扉もそのままなのか
やっぱり違う日本人監督作品 -
まだ百年は使えそう
ますます値打ちが出るから使い続けて下さい! -
これも満洲時代の建物と聞いたが
何だったのか?忘れる
思い出せず、調べても分からず
不明 -
左:延辺朝鮮族自治州土地監察支隊
右:龍井市二次土地調査領導小組 -
何の建物だったのか?
それなりに雰囲気のある建物だけど -
地下の拷問室とは??
領事館としては1938年/昭和13年3月31日閉館している。
1909年明治42年〜29年間が総領事館
それ以降1945年までの7年間は医院・医科大学
何もなかったと思わないが何とも思わない
共産主義者の跋扈は人をとことん不幸にする
今のロシア中国北朝鮮の監獄は?
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■間島日本総領事館:罪証展覧
その後、地下室の入り口を確認しに人民政府の建物の裏側に回ったら、そこに「間島日本総領事館:罪証展覧」との看板がありすぐに分かった。地下入り口には「延辺州中共党史教育基地」「青少年愛国主義教育基地」といったプレートも。そこに連絡の電話番号が貼ってあった。月曜日の明日又ここに来よう。 -
風聞・また聞きの類いは一切信じない
自民族が惨たらしくやられた・・・と
捏造し誇張することに何の意味があるや?
広島長崎東京大空襲
確かに惨いがそれが戦争だ
捏造誇張などする気は無い -
裏門を中から写す
-
快晴の空の下
間島日本総領事館
我を迎えたり
その姿を見て誇りに思う
例え日本人は居なくても
ここに堂々たる日本あり -
正門から西方向を写す
-
東方向を写す
サラバではなく明日朝またここに来る
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間島日本総領事館旧跡
http://www.youtube.com/watch?v=3U64kz4HwxY&feature=player_embedded -
もう一歩も歩きたくない
ここで果物を買ってホテルに戻った
体調すこぶる悪く最早歩く気力湧かず
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■現代賓館に戻る
そして後は、果物を買ってホテルに戻った。今日も疲れ切った。そして図們で買った底の薄い安物の靴がその原因だと気付き、靴を買いに行こうと思ったが、「3時半か4時で閉まっているから行っても無駄だ・・・」とホテルの女性老板に言われた。その時すでに午後4時を回っていた。足膝腰だけではなく体中が痛くだるかった。こんな感覚は61歳の人生で初めてだった。
もうこの靴を履いて一歩も歩きたくないと夕飯を食べに行く意欲も無く、果物を食って日本から持って来た菓子がまだ残っていたので、それらを食べて寝ることにした。前回の同江への旅では熱に冒されて四苦八苦になったが、今回も後半に体調を崩した。快適な旅を送るのは難しい。さあ、明日は龍井から延吉に戻る。そして明後日は大連、その次は日本へ帰れる。
いつも私は日本に帰れる日が楽しみになってしまう。一体いつになになったら旅に慣れて、帰国することが嫌になるような旅が出来るのか?枕が替わったら寝れない状態から抜け出せるのか? -
日本から持参のお菓子は宝物
ちょっと食べるだけでホッとする
味が違う甘さが違う
果物を食い腹が冷えた感覚あり
しかし、明日からの地獄?今は分からず
フフフ、そんな明日が楽しみ?ではない
ホンマ我ながら情けない
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