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JR南武線・稲田堤駅下車、徒歩約20分武蔵国小沢城(おざわじょう、神奈川県川崎市多摩区)を訪問しました。下車後府中街道に出て横断し三沢川に沿う多摩自然道を歩き、新指月橋を渡ると左の橋詰に手書の案内板があり川の手前を右手に進むと左側に登り口の階段が見えます。<br /><br />小沢城は平安時代末期に多摩川の渡しを抑える交通要地の多摩丘陵先端に稲毛三郎重成(いなげ・さぶろう・しげなり、生誕不詳~1205)により築かれました。治承4年(1180)源頼朝の平氏に対する挙兵時点では平家方として頼朝に敵対しますがやがて他の豪族共々帰順し御家人となり頼朝の信頼を得る中、正室政子の妹を妻に迎えることになります。<br /> <br />頼朝の全幅信頼を得た重成はその後木曽義仲討伐、一ノ谷の戦い、更には奥州合戦に参加して見事な成果をあげ建久元年(1190)の頼朝上洛の際は側近として随行の栄誉を得るに至ります。<br /><br />然しながら頼朝が死去しますと取り巻く状況が一変します。つまり政子方の北条時政らの謀略にかかり息子の小沢小太郎重政(おざわ・こたろう・しげまさ、生誕不詳~1205)並びに一族と共に謀殺される状況に陥ります。その後他の有力御家人も北条氏の巧みな策略により粛清され、ついには北条氏一族による執権政治が展開されます。<br /><br />小沢城は当時、多摩川を眼下に望む山城で敵が攻めにくい天然要害であり、対岸の府中方面を監視する絶好の地点であり同時に鎌倉街道が通る交通の要でもありました。具体的には鎌倉幕府にとって当地は鎌倉に直結するルートにあたり文字通り北の防衛線であり、建暦3年(1213)和田一族との戦いを機に関所を設置する等幕府も相当腐心を尽くしています。<br /><br />鎌倉政治末期元弘3年(1333)、鎌倉倒幕の為挙兵した新田義貞軍と最後の執権北条守時が派遣した北条泰家を総大将とする幕府軍とが当城の近く分倍河原(府中市)並びに関戸(多摩市)に於ける戦(分倍河原の戦い・関戸の戦い)で激突、幕府軍は多摩川の防衛線を死守するも叶わず7日後には鎌倉進攻を受け約140年に亘る鎌倉幕府はついに崩壊します。<br /><br />戦国時代に入りますと小田原に拠点を有する小田原北条氏と関東管領山内上杉氏との覇権争いとなりまして、歴史的戦略拠点である小沢城も当然にその争いに巻き込まれます。小田原北条軍は小沢城に陣を張り多摩川を渡る上杉軍を迎え撃ち見事に勝利します。この小沢原合戦に小田原北条氏2代目氏綱(うじつな、1487~1541))の嫡男氏康(うじやす、1515~1571)が初陣を飾った戦いでもあります。<br /><br />現在は川崎市の特別緑地保存地区に指定のもと公園として管理されていまして土塁・空堀・物見櫓等の遺構が完全に残っており十分堪能できる城跡と思います。<br /><br /><br /><br /><br />2022年3月4日追記<br /><br />現地説明板には下記の通り記されています。<br /><br />「小沢城址<br /><br />川崎市の西北端、稲城市と市境を接する丘陵地に小沢城址はあります。<br /><br />「新武蔵風土記稿」の伝えるところによると、鎌倉時代初頭の小沢城址は、小沢小太郎の居城だったようです。この小沢小太郎は、源頼朝の重臣として活躍した稲毛三郎重成の子で、この地域を支配していた人です。<br /><br />ここは、丘陵地形が天然の要害となり、鎌倉道や多摩川の広い低地や河原がそばにあったことから、鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台になりました。<br /><br />城の形跡として、空堀、物見台、馬場などと思われるものがあり当時を忍ばせる貴重な存在です。<br />                   川崎市 」<br /><br /><br /><br /><br />

武蔵稲城 敵対した秩父一族ながら幕府開設後は頼朝室政子の妹を妻に迎えるほどの信頼の高い実力者稲毛重成築城の『小沢城』訪問

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2011/10/09 - 2011/10/09

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR南武線・稲田堤駅下車、徒歩約20分武蔵国小沢城(おざわじょう、神奈川県川崎市多摩区)を訪問しました。下車後府中街道に出て横断し三沢川に沿う多摩自然道を歩き、新指月橋を渡ると左の橋詰に手書の案内板があり川の手前を右手に進むと左側に登り口の階段が見えます。

小沢城は平安時代末期に多摩川の渡しを抑える交通要地の多摩丘陵先端に稲毛三郎重成(いなげ・さぶろう・しげなり、生誕不詳~1205)により築かれました。治承4年(1180)源頼朝の平氏に対する挙兵時点では平家方として頼朝に敵対しますがやがて他の豪族共々帰順し御家人となり頼朝の信頼を得る中、正室政子の妹を妻に迎えることになります。
 
頼朝の全幅信頼を得た重成はその後木曽義仲討伐、一ノ谷の戦い、更には奥州合戦に参加して見事な成果をあげ建久元年(1190)の頼朝上洛の際は側近として随行の栄誉を得るに至ります。

然しながら頼朝が死去しますと取り巻く状況が一変します。つまり政子方の北条時政らの謀略にかかり息子の小沢小太郎重政(おざわ・こたろう・しげまさ、生誕不詳~1205)並びに一族と共に謀殺される状況に陥ります。その後他の有力御家人も北条氏の巧みな策略により粛清され、ついには北条氏一族による執権政治が展開されます。

小沢城は当時、多摩川を眼下に望む山城で敵が攻めにくい天然要害であり、対岸の府中方面を監視する絶好の地点であり同時に鎌倉街道が通る交通の要でもありました。具体的には鎌倉幕府にとって当地は鎌倉に直結するルートにあたり文字通り北の防衛線であり、建暦3年(1213)和田一族との戦いを機に関所を設置する等幕府も相当腐心を尽くしています。

鎌倉政治末期元弘3年(1333)、鎌倉倒幕の為挙兵した新田義貞軍と最後の執権北条守時が派遣した北条泰家を総大将とする幕府軍とが当城の近く分倍河原(府中市)並びに関戸(多摩市)に於ける戦(分倍河原の戦い・関戸の戦い)で激突、幕府軍は多摩川の防衛線を死守するも叶わず7日後には鎌倉進攻を受け約140年に亘る鎌倉幕府はついに崩壊します。

戦国時代に入りますと小田原に拠点を有する小田原北条氏と関東管領山内上杉氏との覇権争いとなりまして、歴史的戦略拠点である小沢城も当然にその争いに巻き込まれます。小田原北条軍は小沢城に陣を張り多摩川を渡る上杉軍を迎え撃ち見事に勝利します。この小沢原合戦に小田原北条氏2代目氏綱(うじつな、1487~1541))の嫡男氏康(うじやす、1515~1571)が初陣を飾った戦いでもあります。

現在は川崎市の特別緑地保存地区に指定のもと公園として管理されていまして土塁・空堀・物見櫓等の遺構が完全に残っており十分堪能できる城跡と思います。




2022年3月4日追記

現地説明板には下記の通り記されています。

「小沢城址

川崎市の西北端、稲城市と市境を接する丘陵地に小沢城址はあります。

「新武蔵風土記稿」の伝えるところによると、鎌倉時代初頭の小沢城址は、小沢小太郎の居城だったようです。この小沢小太郎は、源頼朝の重臣として活躍した稲毛三郎重成の子で、この地域を支配していた人です。

ここは、丘陵地形が天然の要害となり、鎌倉道や多摩川の広い低地や河原がそばにあったことから、鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台になりました。

城の形跡として、空堀、物見台、馬場などと思われるものがあり当時を忍ばせる貴重な存在です。
                   川崎市 」




交通手段
JRローカル 徒歩
  • 三沢川から見る小沢城跡<br /><br />かつては水堀として重要な役割を果たしていたと思われます。

    三沢川から見る小沢城跡

    かつては水堀として重要な役割を果たしていたと思われます。

  • 小澤城跡物語案内板<br /><br />手作りの案内板は好感が持てます。

    小澤城跡物語案内板

    手作りの案内板は好感が持てます。

  • 小澤城跡への案内板<br /><br />この案内板で迷うことなく前進できます。

    小澤城跡への案内板

    この案内板で迷うことなく前進できます。

  • 小澤城跡入口案内

    小澤城跡入口案内

  • 城郭への登り道<br /><br />細くて急な階段を上がって行きます。

    城郭への登り道

    細くて急な階段を上がって行きます。

  • 土橋<br /><br /><br /><br />

    土橋



  • 浅間山への案内板

    浅間山への案内板

  • 急涯下の三沢川<br /><br />蜘蛛の巣越しに眼下に見える三沢川、これでは敵軍の登坂は困難です。<br />

    急涯下の三沢川

    蜘蛛の巣越しに眼下に見える三沢川、これでは敵軍の登坂は困難です。

  • 城郭への通路<br /><br />左に天然堀を見ながら進みます。

    城郭への通路

    左に天然堀を見ながら進みます。

  • 小沢城跡全体図

    小沢城跡全体図

  • 小沢城・空堀<br /><br />薮に覆われてますが深い堀になってます。

    小沢城・空堀

    薮に覆われてますが深い堀になってます。

  • 小沢城・反対側の空堀<br /><br />こちらも随分深いです。

    小沢城・反対側の空堀

    こちらも随分深いです。

  • 小沢城郭の中心地<br /><br />案内板によるとこの辺りが城跡の中心地だそうです。それにしてもやや狭い敷地との印象を受けます。

    小沢城郭の中心地

    案内板によるとこの辺りが城跡の中心地だそうです。それにしてもやや狭い敷地との印象を受けます。

  • 小沢城・急俊な崖下<br /><br />切り立った断崖が控えています。

    小沢城・急俊な崖下

    切り立った断崖が控えています。

  • 小沢城・古井戸跡<br /><br />かつては井戸があり生活用水として使用されていました。

    小沢城・古井戸跡

    かつては井戸があり生活用水として使用されていました。

  • 小沢城・古井戸跡説明

    小沢城・古井戸跡説明

  • 小沢城・物見台跡<br /><br />右に江戸方面、左に秩父連峰が見渡せるそうです。

    小沢城・物見台跡

    右に江戸方面、左に秩父連峰が見渡せるそうです。

  • おZ泡城・物見台説明

    おZ泡城・物見台説明

  • 小沢城・深い空堀<br /><br />自然の要害にも拘らず更に念を入れて敵の攻撃を阻止しようとする城主の慎重な姿勢が窺えます。

    小沢城・深い空堀

    自然の要害にも拘らず更に念を入れて敵の攻撃を阻止しようとする城主の慎重な姿勢が窺えます。

  • 小沢城・空堀説明

    小沢城・空堀説明

  • 小沢城・反対側の空堀

    小沢城・反対側の空堀

  • 小沢城跡・石碑

    イチオシ

    小沢城跡・石碑

  • 小沢城跡説明(小沢城跡里山の会)<br /><br />小沢城主、稲毛重成は源頼朝の信頼を得て正室政子の妹を妻としますが、1195年7月に妻が歳若くして死去します。重成は妻の死を悼み追善の為相模川架橋工事を行い1198年(建久9年)完成、その落成供養に臨席の頼朝がその帰路に落馬しそれが元で死亡します。やがて重成は出家して重成入道と称されます。

    小沢城跡説明(小沢城跡里山の会)

    小沢城主、稲毛重成は源頼朝の信頼を得て正室政子の妹を妻としますが、1195年7月に妻が歳若くして死去します。重成は妻の死を悼み追善の為相模川架橋工事を行い1198年(建久9年)完成、その落成供養に臨席の頼朝がその帰路に落馬しそれが元で死亡します。やがて重成は出家して重成入道と称されます。

  • 小沢城跡説明(川崎市)<br /><br />当説明版には記載されてませんが、入道重成はその後小沢城を長男の小沢小太郎重政に譲り、自らは近隣の支城というべき枡形城へ移ったと言われてます。

    小沢城跡説明(川崎市)

    当説明版には記載されてませんが、入道重成はその後小沢城を長男の小沢小太郎重政に譲り、自らは近隣の支城というべき枡形城へ移ったと言われてます。

  • 小沢城跡里山の会案内板<br /><br />会員募集要領と主たる活動実績一覧が張り出され、民間の保存会としての保存に対する姿勢が窺えます。

    小沢城跡里山の会案内板

    会員募集要領と主たる活動実績一覧が張り出され、民間の保存会としての保存に対する姿勢が窺えます。

  • 小沢城・馬場跡<br /><br />石碑・案内板の他ベンチが備えられた広々とした敷地となっています。この日も家族連れで散策に来ていました。

    小沢城・馬場跡

    石碑・案内板の他ベンチが備えられた広々とした敷地となっています。この日も家族連れで散策に来ていました。

  • 小沢城・馬場跡説明<br /><br />武士達が馬術を磨いた場所です。鎌倉時代から戦国時代に亘る約380年間に6?7回の合戦が行われたそうです。<br />特筆すべきは多摩川沿いの分倍河原に陣を構えた新田義貞軍と関戸に陣を敷いた幕府軍とで戦われ、激戦の末新田軍の勝利と帰し小沢城も攻撃を受け廃城となりました。<br />

    小沢城・馬場跡説明

    武士達が馬術を磨いた場所です。鎌倉時代から戦国時代に亘る約380年間に6?7回の合戦が行われたそうです。
    特筆すべきは多摩川沿いの分倍河原に陣を構えた新田義貞軍と関戸に陣を敷いた幕府軍とで戦われ、激戦の末新田軍の勝利と帰し小沢城も攻撃を受け廃城となりました。

  • 新田義貞公像<br /><br />JR及び京王電鉄の分倍河原駅前バスタ-ミナル前に建立された新田義貞公の像の写真です。<br />

    新田義貞公像

    JR及び京王電鉄の分倍河原駅前バスタ-ミナル前に建立された新田義貞公の像の写真です。

  • 新田義貞公像<br /><br />小沢城跡訪問後現地を訪れました。素晴らしい像ですネ。

    新田義貞公像

    小沢城跡訪問後現地を訪れました。素晴らしい像ですネ。

  • 説明文

    説明文

  • 野外テーブル<br /><br />広い馬場跡には持込弁当などをを広げて食事できるようにテーブルが配置されています。この日も家族で昼食を摂っていました。

    野外テーブル

    広い馬場跡には持込弁当などをを広げて食事できるようにテーブルが配置されています。この日も家族で昼食を摂っていました。

  • 散策している家族連れ<br /><br />子供達が飛び回って遊んでいました。ひじょうにいい雰囲気ですネ。

    散策している家族連れ

    子供達が飛び回って遊んでいました。ひじょうにいい雰囲気ですネ。

  • 馬場跡南端からの景色<br /><br />切立った断崖でさすがは天然の要害と言われる価値があります。

    馬場跡南端からの景色

    切立った断崖でさすがは天然の要害と言われる価値があります。

  • 穴沢天神社方面案内板

    穴沢天神社方面案内板

  • 穴沢天神社案内柱<br /><br />重政が日参したと言う穴沢天神社<br />を経て帰路に着きます。

    穴沢天神社案内柱

    重政が日参したと言う穴沢天神社
    を経て帰路に着きます。

  • 穴沢天神社全景<br /><br />馬場跡から細い道を下り切った所に神社があります。

    穴沢天神社全景

    馬場跡から細い道を下り切った所に神社があります。

  • 小沢城跡入口案内<br /><br />当神社を入口として登ることも可能です。

    小沢城跡入口案内

    当神社を入口として登ることも可能です。

  • 穴沢天神社略誌

    穴沢天神社略誌

  • 穴水神社・正面全景

    穴水神社・正面全景

  • 筆塚

    筆塚

  • 筆塚説明<br /><br />江戸時代後期筆学を業とした原田金陵の功績を讃えて164名の門下生により建立されたそうです。

    筆塚説明

    江戸時代後期筆学を業とした原田金陵の功績を讃えて164名の門下生により建立されたそうです。

  • 穴水神社・境内<br /><br />荘厳な雰囲気が感じられます。

    穴水神社・境内

    荘厳な雰囲気が感じられます。

  • 穴水神社・鳥居

    穴水神社・鳥居

  • 京王電鉄相模原線<br /><br />帰路三沢川に沿って歩きますと高架橋が見えてきます。

    京王電鉄相模原線

    帰路三沢川に沿って歩きますと高架橋が見えてきます。

  • 河川管理境界<br /><br />行政の境目に当たるため担当行政が分かれていることが判ります。

    河川管理境界

    行政の境目に当たるため担当行政が分かれていることが判ります。

  • 三沢川から城跡を望む<br /><br />三沢川を左にして間の道路を歩きます。急涯の地に樹木が茂ってこれでは敵軍の登坂は極めて困難です。

    三沢川から城跡を望む

    三沢川を左にして間の道路を歩きます。急涯の地に樹木が茂ってこれでは敵軍の登坂は極めて困難です。

  • 城跡を遠望<br /><br />天然の要害であることが判ります。

    城跡を遠望

    天然の要害であることが判ります。

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