2011/10/29 - 2011/10/30
3016位(同エリア3214件中)
ちゃおさん
この古屋旅館に泊まるまでの熱海の認識と言ったら、明治期になって人々の移動、旅行が自由になり、東京からもそれ程離れていないここ熱海は、明治期の政経財、文人の格好の湯治場になって、その中の一人に明治前半の文豪尾崎紅葉がいて、ここ熱海を舞台にしての金色夜叉を書いたものと思っていた。
しかしここ古屋旅館に泊まってその認識は大きく変えられた。この旅館の創業自体が紅葉の時代よりは遥かに古く、文化・文政期の1806年、日露戦争を遡ること100年も前のことであり、その頃の江戸期より既に旅館業として成り立っていた。文化文政には町人文化が花開き、お伊勢参りなどもブームになっていて、伊勢の宿坊のみならず旅籠、旅館が内宮前に軒を連ねていたようであるが、ここ熱海では温泉宿として賑わっていたに違いない。
この宿の案内書には平安時代の寛平8年(896年)、京都東光寺の僧・善祐が不義密通の罪で阿多美(今の熱海)に遠流となり、市内和田浜に住んでいたとのことであるが、今その善祐のお墓がこの旅館の敷地の中にある。尚、密通の相手は清和天皇の女御で、後の帝陽成天皇の生母・藤原高子と続日本紀に出ているそうである。
それから100数十年後、平治の乱に敗れた13歳の源頼朝はこの熱海から山を一つ越えた先の韮山・蛭が小島に遠流となっているが、平安末期よりこの辺りは既にかなり開けていたのかも知れない。内田康夫の小説に贄門島というこの熱海の先の伊豆山と、千葉の安房の贄門島とを結んだ当時の頼朝の逃避行を題材にした面白い歴史推理小説があるが、数年前、伊豆山神社の長い石段を登り、境内にある頼朝と政子が婚姻前に逢瀬を重ねたという伝説の残る石の椅子に座り、伊豆、相模の海を眺めた数年前のことも思い出した。
旅館の敷地には又「古屋天満宮」という天神造りの神社もあって、由来によれば、菅原道真が大宰府へ島流しにされた際、無念の意で彫った自像七体の内の一体が熱海に流れ着き、今この神社に祀られているとのこと。七体の内、現存する三体は、大宰府天満宮と北野天満宮、それにここ古屋天満宮である。じっと目を凝らして内陣を見ると、「大国天照」と古風な古語で篆書された額が掲げられていた。この一つを見てもその古さが感じられるものだった。
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