2011/10/25 - 2011/10/25
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TAKEおじさん
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5日間九州北部をドライブした。
福岡でレンタカーを借りて、5日間で1000キロの旅となった。
大まかな行き先と宿は決めていたが、細かい場所は行ってから考えた。
本編は3日目前半の熊本編。
ホテルのチェックアウトは12時まで延ばして、熊本のホテルから歩いて熊本城に。
加藤清正が難攻不落の立派なお城を作った。それは西南戦争で薩摩軍がお城の官軍を落とせなかったので証明された。
西郷は終焉の地城山で「わしは官軍に負けたのではない清正公に負けたのだ」と言ったという。
残念ながら、天守などはその時に焼け落ちて現在のは再建されたもの。それでも、立派な石垣は残っている。熊本城は美しく再建されたが、昔から残っている石垣に目を付けたい。
ドライブの行程は
1日目 前半 福岡→吉野ヶ里遺跡
http://4travel.jp/traveler/stakeshima/album/10616075/
後半 ハウステンボス(泊)
http://4travel.jp/traveler/stakeshima/album/10616934/
2日目 前半 長崎 グラバー園、平和公園
http://4travel.jp/traveler/stakeshima/album/10618192/
後半 天草 大江天主堂、西海岸 熊本(泊)
http://4travel.jp/traveler/stakeshima/album/10619021
3日目 前半 熊本 熊本城、阿蘇
http://4travel.jp/traveler/stakeshima/album/10619960
後半 高千穂(泊) 高千穂峡、夜神楽
http://4travel.jp/traveler/stakeshima/album/10621091
4日目 前半 (高千穂は、3日目後半に編入)、阿蘇山
http://4travel.jp/traveler/stakeshima/album/10622844
後半 久住高原、九重”夢”大吊橋、由布院泊
http://4travel.jp/traveler/stakeshima/album/10623440
5日目 前半 由布院
http://4travel.jp/traveler/stakeshima/album/10624695
後半 門司→福岡
http://4travel.jp/traveler/stakeshima/album/10625290
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- レンタカー
PR
-
熊本城へ
ホテルから熊本城は近いので、ホテルのチェックインを12時まで延ばして車も置いていき歩いて行く。途中の喫茶店「Angelus Cafe」で、300円のモーニングをやっていた。パン屋さんなのでパンも美味しく安いし合格。 -
市電
地方に行くとメイン通りには市電が走っていて、ついカメラを向けてしまう。無公害の乗り物として今後も活躍が期待される。 -
加藤清正の銅像
熊本城といえば加藤清正。
トレードマークの長大な烏帽子形の兜を被っていた。
加藤清正は、1591年から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめ、1600年頃には天守が完成した。1606年には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが現在の熊本城である。 -
櫨方門(はぜかたもん)から入っていく
市街地に近い櫨方門から入って天守を目指す。 -
曲がりくねった石垣が続く
すぐに曲がりくねった石垣に出会う。敵が侵入されないように、石垣の道は曲がりくねっている。 -
城は石垣
お城はなんといっても石垣と櫓(やぐら)が見もの。
熊本城の石垣は凄い!
入ったばかりの石垣に目を奪われる。
これは、大きさが不揃いな石を積んだ乱積み。さらに、石のすき間に小さい石を打ち込んだ打込接(うちこみはぎ)。もっと時代が進むと整然とした石をそろえた切込接(きりこみはぎ)になる。 -
入場口
ここが櫨方門(はぜかたもん)の入場口。まだ9時前なので観光客はあまり居ない。
入場料は500円。8時半から入れる。 -
井戸(竹の丸)
加藤清正は籠城に備えて、城内に120余りの井戸を掘った。万全な備えを感じる。 -
石垣群の向こうに天守
少し行くと、凄い石垣群の向こうに天守が見えてくる。 -
石垣は敵の侵入を阻む
石垣は曲がりくねって、間に広場のある「枡形(ますがた)」を作って入ってきた敵を側面や後ろから攻撃する。 -
飯田丸五階櫓(やぐら)
左に見えるのが飯田丸五階櫓。
この石垣も真っ直ぐに伸びていて凄い! -
西竹の丸五階櫓跡
高い石垣だ。飯田丸から崖になっていたので高石垣を築いた。
上部に行くと反りが強くなる「清正流(せいしょうりゅう)石垣」だ。敵が中途まで登ってくると、頭上に石垣が覆いかぶさってくる錯覚に堕ちるので、「武者返し」とか「扇の勾配」と呼ばれる。
この石垣と櫓は、他の部分とつながっていないので「独立櫓」とも呼ばれている。 -
大きい、高い
人が小さく見える。巨大な石垣だ。 -
曲がりくねった石垣が続く
階段は不揃いで、城の階段はどこも歩きにくい。
敵の進入を阻む。 -
まだ続く石垣
石垣に囲まれた枡形で、敵は集められ一掃される。
熊本城は本当に堅古な作りだ。 -
これが二様の石垣
手前が加藤清正が築いた石垣。その向こうに、加藤家の後に熊本城主になった細川家が築いた勾配がきつい石垣。
ここが一番の撮影スポット。熊本城を見るには石垣が外せない。 -
二様の石垣 角度を変えて
左が新しい石垣、右が古い石垣。
大きな石垣であることが分かる。 -
1969年の熊本城
1969年に旅行した時のさくら咲くの熊本城。
やはり、二様の石垣かと思ったが、ちょっと違う?
どこから? -
平櫓(需要文化財)
二様の石垣から右に行くと平櫓。
平櫓(源之進櫓、四間・十四間・七間櫓、田子櫓)が続く。
慶長年間(1596〜1614) 櫓四十九・櫓門十八・城門二十九がそびえていたが、明治10年(1877) 西南戦争の折、熊本城本丸中心部の建物はほとんど焼失した。熊本城には焼失をまぬがれた十三の建造物があり国の需要文化財に指定されている。 -
飯田丸五階櫓
先ほど下から見た飯田丸五階櫓。
飯田丸五階櫓は、加藤清正の重臣「飯田化覚兵衛」が預かっていた曲輪(くるわ)に有った。高さ14.3メートルの天守級の大きさで、平成17年に復元した。
熊本城は櫓などまだ復元を進めている。 -
飯田丸五階櫓の前に大きな木
なんと樹高30メートル、推定樹齢800年の立派なクスノキだった。
櫓の倍の高さがある。飯田丸五階櫓が小さく見える。
加藤清正も見たのだろうか? -
飯田丸五階櫓の内部
内部もしっかり復元している。 -
復元行程
復元行程の説明図も展示してあり、大変さがよく分かる。
こうして、コンクリートでなく建築当時の木の作りは嬉しい。 -
いよいよ熊本城天守
再建とはいえ立派な天守である。
西南戦争では政府軍の要拠点で、西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日原因不明の出火で大小天守などの建物を焼失した。
1960年(昭和35年)に1億8000万円の費用をかけ大小天守と平櫓、塀などを再建した。中身は鉄筋コンクリートである。
外観は同じように復元したので、見た目は元の様に美しい。 -
熊本城天守
左側手前に、ここにも大銀杏がある。
この銀杏の古木は加藤清正が築城を祈念して手植えされたと伝えられている。清正がなくなるときにこの銀杏が天守と同じ高さになったときに何か異変が起きるだろうと予言し、それは奇しくも明治10年の西南戦争のときであったと言われている。
熊本城は別名「銀杏城」とも呼ばれ、晩秋には黄金色の銀杏と黒と白の天守が素晴らしい色合いをみせる。 -
熊本城天守 反対側から
白と黒とのモノトーンで何処から見ても美しい。
大天守は5重に見えるが、正確には3重6階地下1階、「一の天守」とも呼ばれる。 -
天守の中に
内部は鉄筋コンクリートで、加藤家、細川家、西南戦争の資料などが展示されている。 -
焼失前の熊本城の写真が掲示
焼失前の貴重な写真。
かなり上から撮っている。航空写真? -
天守からは展望が良い
熊本を360度見られる。 -
天守からの眺め
西側の長崎方面。
中央の山は金峰山(665メートル)。
やや霞んでいる。 -
大天守から小天守を見る
小天守は3重4階地下1階、「二の天守」。
小天守も立派だ。 -
大天守から宇土櫓(うとやぐら)
唯一焼けなかった櫓である。宇土櫓は後で中に入る。 -
再建された本丸御殿
西南戦争で焼失した本丸御殿は平成20年に再建された。
豪華絢爛の金ぴか御殿である。 -
本丸御殿大広間はさすがに凄い
「鶴乃間」から奥の「昭君乃間」まで5部屋が続く。
「鶴乃間」、「奥乃間、「櫻乃間」、「桐乃間」、「若松之間」、「昭君乃間」。
「鶴乃間」は60畳もある。 -
将棋名人戦が「櫻之間」で行われた
平成21年、4月21日(火)、22日(水)に、羽生名人と挑戦者郷田九段の名人戦第2局が行われた。
この名人戦は第7局までもつれ羽生名人が防衛した。 -
若松之間
西側に床の間と付書院、南側に違棚の書院造り。床壁や襖に若松の絵を復元している。奥には「昭君之間」。
まさしく豪華絢爛だ。 -
若松之間の付書院
若松と滝が描かれている。 -
「昭君之間」
一番奥の重要な部屋。高貴な身分の人が対面に使った。
中国の前漢時代の悲劇の美女「王昭君」が描かれている。室名の由来となった。
金ぴか。 -
天井画も凄い
見上げたら天井も凄い。
折上格天井(おりあげごうてんじょう)で、格子と格子の間に草木が描かれている。江戸後期の画家・杉谷行直の描いた「御城内昭君之間合天井図」を基にした。 -
本丸御殿の大台所と梁組み
二つの囲炉裏とかまどの煙を抜くため、天井は吹き抜けになっていた。何重にも垂直に交差している梁組みは迫力満点。 -
宇土櫓(うとやぐら)へ
唯一焼失免れた櫓の宇土櫓。
熊本城は巨大な五階櫓が5基も有った。外観は三重で、内部は5階に地下1階で最上階に高欄(こうらん:てすり)付きの廻り縁(まわりぶち)がある。
松本城の天守と同じ大きさというから驚く。 -
長い廊下は武者走り
宇土櫓の中に入る。
戦闘時に、押し寄せる敵に対して素早く対応するために、櫓の場外側に廊下を設けた。
どっどっどっ・・・と走っていく武者の姿が想像できる。 -
銃眼(鉄砲狭間(さま))
ここから敵に鉄砲を撃った。円や三角も有るが熊本城は長方形だ。
実際に使ったのだろうか。 -
本物の階段を上がっていく
本物の時代を感じる階段を上がっていく。
400年前もこの階段を加藤清正が登った?のかと思うと感慨である。
日本の城や寺などの建築物は、木造なので焼失しているのが多く残念である。ヨーロッパの石造りの古い街並みの様にはなかなかいかない。 -
最上階の五階
一階の主室と同じ広さ(3間四方)で、廻り縁と高欄が付いている。階段は元は部屋の中心に有った。
宇土櫓は1間が6尺5寸(約1,97m)で、熊本城の多くはこの単位らしい。今は1間は6尺とされているが、昔は変遷が有ったみたいだ。
織田信長 6尺5寸
豊臣秀吉 6尺3寸
徳川家康 6尺
検地するときの単位で、年貢を多く取ろうとして1間を小さくした?
いまでも、京間(1.909m)、江戸間(1.757m)と名残が残っている。 -
宇土櫓から見た天守
櫓から見ても天守は大きい。手前の銀杏も高い。 -
格子窓
内側に障子が付いていた。戦闘時には、銃眼だけでなく窓からも銃や弓を撃った。 -
再び飯田丸五階櫓
帰りに下から見た飯田丸五階櫓。まるで天守みたいに格好良い。
これで、熊本城ともお別れ。熊本城の、石垣、天守、櫓、本丸御殿とたっぷりと見ることが出来た。日本三大名城(名古屋城・大阪城・熊本城)の一つである熊本城は正に素晴らしい名城だった。現在も進めている、櫓などの修復作業が進んだら再び訪れてみたい。 -
熊本から阿蘇に向かう
郊外で食事した後、阿蘇山にむかう。阿蘇山の後は、高千穂で宿泊する。
阿蘇山は雲が掛かって期待薄だ。 -
阿蘇 米塚(こめづか)
熊本から阿蘇パノラマラインで中岳を目指す。
米塚は標高954メートルの小さな山。
神話では、阿蘇開拓の祖・健磐龍命(タケイワタツミノミコト)が収穫した米を積み上げて出来た山だという。現在修復工事中の看板があった。
山は秋色に成って来ている。 -
阿蘇は秋
ススキが一面に。外輪山も秋色。 -
草千里
大草原も寂しい感じ。天候のせいか秋色のせいか寂しく。 -
阿蘇山ロープウェイは閉鎖中
車で中岳噴火口に行けるが、翌日も来る予定なのと天気も悪いので登らなかった。それと、今日は風向きに左右される中岳の観光範囲が狭いようだった。
次の日の快晴の阿蘇の旅行記を見てください。 -
お馬さんも放牧
広い草原にお馬さんも気持ち良いだろう。 -
とりあえず阿蘇とはお別れ
また明日訪れる。
今夜の宿泊地である高千穂に向かう。
続きは以下の旅行記で。
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