2011/09/19 - 2011/09/21
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しんちゃんさん
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遠野物語で有名な遠野市内を散策しました。県外のナンバー車がうろうろと怪しい動きをしたため、駐車場に止まったら後ろにパトカーがおり尾行されていた!!これにはびっくりしました。あいにくの雨の中を見学しました。台風が日本列島を襲う前日でした。
- 交通手段
- 自家用車
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まずは、情報収集するためには遠野駅に行けば何かあると思い、わざわざバイパスから駅に行きました。「観光協会・遠野市物産センター」に遠野マップがあり、これを参考にして散策しました。
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No1「キツネの関所」 最近作られた施設でない、昔からある名所旧跡を回りました。第一箇所目です。
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「五日市のキツネの関所」説明版からです【町場にくる村びとたちの楽しみは茶屋酒を飲みながら、ほら話をふきまくることでした。帰り道、かかさまへのみやげの五十集(塩魚や干魚)を首にかけ、夜ふけにこのあたりを通ると、美しい女が「風呂に入って酒っこあがんせ」とほほえみながら誘いかけ……夜があけるとわが身は泥沼やこえだめにつかり、みやげはとうに消えていたと。ドントハレ。】ドントハレは遠野地方の“終わり”という方言です。
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No2 超有名「カッパ淵」
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通常の常堅寺からではなく、西側から訪問しました。民家を通り、あぜ道を行きます。
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有名になりすぎ俗化してしまった。
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「かっぱ淵」説明版からです。【遠野の河童は顔が赤いといわれその伝説は数多く残っている。「小烏瀬(こがらせ)川の姥子(おばこ)淵の辺に、新屋の家といふ家あリ、ある日渕へ馬を冷やしに行き、馬曳きの子は外へ遊びに行きし間に、河童出でてその馬を引き込まんとし、かへりて馬に引きずられて厩(うまや)の前に来たり……」遠野物語五十八話 この阿部屋敷の水ごうの流れ渕には河童駒引きの伝説を伝える河童神様を祀っている。洞の中には乳首の縫いぐるみが奉納されており、乳の信仰に転化している興味深いい民俗がある。 遠野市・遠野市観光協会 遠野ヲイオンズ クラブ】
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河童神様の祠の中
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No3 「阿部屋敷跡」かっぱ淵南側にありました。説明版です【阿部屋敷(別名 屯館(とんだて))陸奥六郡に威勢を誇った安陪氏の、一族が、天康平のころ(紀元1050年ころ構えた屋敷で、豪壮な直屋(すごや)の母屋には数十名の家族がすみ、土塁と掘とでかこまれていました。八幡(はちまん)座館(ざだて)の八幡太郎の軍と小鳥瀬川をはさんで矢をうちあったと伝える的場もあります。】
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阿部屋敷跡北西の角の「稲荷堂」無断で敷地に入らせていただきました。「かっぱ淵」と垣根なしでつながっていました。
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「稲荷堂」内部
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No4 「早池峰(はやちね)古参道跡」説明版なし。 プチ旅によりますと【遠野三山にも数えられ、山頂にエーデルワイスの仲間であるハヤチネウスユキソウが咲くことで知られる早池峰山(はやちねさん)。古道跡は中世に修験の地として栄えた早池峰山(早池峰神社)の登拝道の入口。朽ち果てた鳥居と早池峰大社と刻まれた自然石が残されている。早池峰神社は遠野の信仰と文化の発祥の地。神秘的な説話が今も残されている。】
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No5 「馬っこつなぎ」説明版です【6月15日の朝、わらで編んだニ頭の馬っこをつなぎ、家の川戸(かど)や田の水口(みずくち)などにたてて、豊作を祈ります。津島天王にこの日集まる農神たちの神馬とも伝えられますが、疫病を牛頭(ごず)天王の力で川に流してしまう素朴な水神まつりの原型です。馬のかたちを木版で刷った紙の小旗を大地に差し立てるところもあります。】
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No6 「安全太郎」説明版です【この「安全太郎」は、昭和五九年九月二日、岩手県交通安全協会土淵分会(当時名)が結成三十周年を迎え、また、土淵町がヘルメット・シートベルト着用モデル地区に指定された事を機に、会員全員が結集して交通事故撲滅を願い約一ケ月の制作日数をかけ、「交通安全の守護」として「日本一の木彫りカッパを建立したものです。原木は秋田県田沢湖町産の樹齢三八十年の楢の木です。】
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No7 「伝承館」 遠野地方の農家のかつての暮らしぶりを再現。
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「山崎金勢様」この標識に従って行きました。
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No8 「山崎金勢様」説明版です。【「山崎のコンセイサマ」 遠野には多くの素朴なコンセイサマが子授けや豊作の願い神としてまつられていますが、昭和47年に発見されたこのコンセイサマは高さが1.5メ−トルもあって最大です。背後の山頂の賽の河原と一対にして、中世の人びとば“死と再生の地上まんだら”つくっていました。】
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説明版からです。【コンセイサマは、金勢様又は金精様と書きます。子宝を願う婦女子が、ここに奉納されている赤い小枕を一つ借リてきて腰元に置き、願いが叶えられればニつにしてお返しするならわしでせす。御神体は、男性の象徴を現し、すべての物事を神に結びつけた民間信仰に由来するもので、これは駒形信仰とも混同されるようになりましたが、本来は生産の神として信仰されたもののようです。(『遠野物語』第十六話参照)】
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祠の中のもの
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林の中の「********」コンセイ様が男の象徴、これは女の象徴
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迷いに迷い、やっと探し当てた「栃内観音」“栃”は明治時代栃木県で作成された漢字なので命名は明治以降です。雨で道はぬかるみ、車では狭くて行けず、今回はパス。残念!
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No9 「大槌街道跡」オシラサマ
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「大槌街道跡」オシラサマ説明版からです。【ここは大槌街道と小国街道の分岐点でかつては駄賃づけの馬の鈴の音がにぎやかに鳴り、祭文語りや歩き巫女など、さすらいの旅びとたちが往来して諸国の物語を伝えました。この近くの元山伏の北川家には、8体のオシラサマがまつられています。オシラサマはマントを着た小人のような形をし、長者の娘と愛馬の悲恋の物語をもつ、養蚕の神さまです。】
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No10 ダンノハナと佐々木喜善墓地。壇の塙と書くようである。説明版からです。【 ダンノハナ(佐々木喜善の墓) 村の全景を見わたせるこの丘は、山口館の一部で、死者への回向の地とも、館時代の処刑場跡ともいわれています。昭和28年につくられた佐々木喜善の墓は、柳田岡男が『遠野物語』の印税をあてて建て、折日信夫が筆をとりました。】
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遠野市の東の端にある「佐々木喜善」氏のお墓のある、壇の塙共同墓地
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「佐々木喜善」氏の墓 柳田國男はこの方が語った民話を筆記・編纂し出版しました。
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「佐々木喜善」氏は左から5番目です。
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No11 水車(山口部落)駐車場に着いたら、パトカーが後ろにぴったり!!「何か悪い事したかな?」自問自答!じっとしんちゃんの車を見ています。「観光で、うろうろはしたけど、泥棒の下見ではないよ!」誰かから通報されたかな?「マ・悪い事していないから…写真でも撮り続けよう…」恐る恐るカメラを持って外に出ました。しんちゃんを見ていましたが観光客が名所旧跡巡りをしていると確認したためか、ゆっくり駐車場を出て行きました。心臓に悪いな!
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説明版からです。水車(山口部落)【多くの物語をを語り伝えてきた山口は、ぶんだ峠、界木(かいぎ)峠の入り口にある坂の多い村でした。曲り家をかこんでヒエ・アワ・豆畑が広がり、これらの脱穀や製粉のため水車は昼も夜もゴトゴトと音をたてて粉塵を噴き上げ、静かな風景のなかで力強い鼓動を響かせていました。】
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No12 「佐々木喜善」生家
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説明版からです。【「佐々木喜善の家」明治43年に出版され、わが国の民俗学の誕生期をいろどった柳田国男の名著『遠野物語』の名著で、昔話研究の先駆者である佐々木喜善は、この家で『聴耳紙』『罫姐夜譚(ろうおうやたん)』などのすぐれた著書を執筆しました。多くの研究者たちが 訪れ、遠野の聖地とされています。】
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「デンデンラ野」姥(おば)捨て山をこう読んだそうです。
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説明版からです。【六十歳にった老人を拾てた野で老人たちは日中は里に下りて農作業を手伝い、わずかな食料を得て野の小屋に帰り、寄り添うように暮らしながら生命の果てるのを静かに待ったと伝えられています。かつての山村の悲しい習いをうかがわせます。】
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老人たちの住む小屋がありました。
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No13 「角助の墓」
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説明版からです。【しし踊りは、遠野を代表する民俗芸能です。種ふぐべ、子おどり、仲太鼓、太刀ふりの30人をしたがえ、12頭のししが乱舞する豪壮さが観客をひきつけます。角助は江戸時代のなかごろ遠州掛川(静岡県掛川市)で、しし踊りをみて、そのすぐれた点をとりいれ「駒木しし」を完成した舞い手、振りつけ師として語りつがれてきた人です。】
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墓石群の奥にある祠
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No14 「妻の神の石碑」
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説明版からです。【この山道の奥には、こどもをなくした母親が小石を積みあげてお経をとなえ、こどもの名をよぶと会えると信仰された賽の河原があります。このところが、生と死、この世とあの世とのさかいの神の祭りの場であったことから、これらの石碑がたてられました。】
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No15 「母也明神(ぼなりみょうじん)」説明版からです。【ボナリ・オラリは、沖縄までひろがる巫女を意味する古代語と推定されています。大同年間(806〜809)につくられた右手前方の用水路には、巫女の娘夫婦が人柱となった悲話が伝えられ、母也明神はこの霊をなぐさめるためにまつったものです。】
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もう一枚の説明版からです。【「母也明神(ぼなりみょうじん)の由来」矢崎堰(せき)は、大同年間(1180年前)に造られをと伝えられる。昔、矢崎に巫女(みこ)がいた)。一人娘に揖を取っをが気に入らず、何とかしたいものだと機会を待っていた。その頃、猿ケ石川から田に水を引く堰の止めが、毎年大水の為にやぶられ、困りぬいた村人達は巫女に伺いをたてた。ここぞとばかり巫女は、「神のお告げだ、白い着物を着て白い馬に乗って通る者があるから、その人を堰□に沈め、堰の主になってもらうしか方法がない」と教えた。一方、巫女は気に入らない婿に白い着物を着せ、白い馬に乗せ隣村に使いに出した。村中を通りがかったその婿を見を村人は「堰の主になってくれと頼んだ。婿は運命とあきらめ快く承知したが、それを知った巫女の娘である妻も白装束になり、男蝶女蝶の二人揃ってこそ真があると、二人で白い馬に乗って、堰□に沈んだのである。 その後大雨が降り、堰□に大ニつの岩が現われ、材人はこれを足場に止めを築いた。巫女は、可愛い娘まで失った事を深く悔み悲しんで毎日泣き暮れ、同じ場所に入水して死んでしまった。堰には、主となった夫婦と、白馬を祀る堰神様があり、巫女の屋敷跡に巫女の霊を祀ったのが母也明神であると伝えられており、巫女塚は巫女の墓と伝えられている。】
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No16 「松崎観音堂」駐車場の説明です。【『遠野物語』序文の道「忍峠」(しだとうげ) 『遠野物語』は、日本民俗学の父・柳田圃男(1875〜1962)が、遠野出身の佐々木喜善(1886〜1933)から聴いた遠野に伝わる不思議な話を百十九話にまとめたものです。 この出版に先立ち、柳田は明治四十二年(1909)八月に遠野を旅しています。遠野の高善旅館に滞在し、馬を借りて佐々木喜善の家を訪ね、松崎や附馬牛の村々をめぐりました。その様子は『遠野物語』序文の中で簡潔な美しい文体に表現されています。松崎から附馬牛へ向かう際に「忍峠」を越え、途中はるか北にそびえる早池峰山を仰ぎ見「附馬牛(つきもうし)の谷へ越ゆれば早地蜂(はやちね)の山は淡く霞み山の形は菅笠(すげがさ)のごとくまた片かなのへの字に似たり」と詩情豊かに表現しています。明治四十三年(1910)六月十四日に刊行された『遠野物語』は百年の時を越え、日本民俗学の夜明けを告げる書として、また日本近代文学の名著として、今なお多くの人々に読み継がれています。平成二十三年三月 遠野市】
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No16 「松崎観音堂」本命の説明版です。【遠野七観音は、慈覚大師が一本のカツラの木から七体の観音像をきざみ、七つの村に安置したと伝えられています。宝暦ごろ(1751〜1763)から白衣姿で鉦をならし、七観音和讃をとなえながら、それらをたどる巡礼が列をなしたといいます。松崎観音は二番目の札所で、境内に天文6年(16世紀)の市内最古の石碑があります。】
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松崎観音、本堂
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本堂にある松崎観音のようです。モノクロの写真がありました。
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「松崎観音の碑」説明版からです。【この碑は天文六年(1537)の銘があり、御影石の碑の中では県内最古のものではないかと言われている。昔、付近の部落の家ごとに難病が多く続くので、巫女に伺いをたてると「御堂の前を流れる小川に古い大供養碑か橋板になって万人に踏まれている。洗い清めて境内に再建して供養すれば災厄が除かれるとお告げがあり、探したとろ、碑石が石橋の役目をしていることがわかり再建した。すると難病は、たちどころに部落から去ったと言われている。遠野市】
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No17 「飢餓の碑」
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「飢餓の碑」説明版からです。【江戸時代には全国的に飢饉がしばしばおこり、遠野でも大飢饉が10回ありました。とくに宝暦5年(1755)、6年とつづいた大飢饉には、領内の人口の三分の一にあたる4300人が餓死をしました。その犠牲者を供養するため、宝暦7年にたてられたのがこの碑です。】
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市内を循環していると、こんなミニ民家があちらこちらにありました。はてなんでしょう?ゴミの集荷所でした。
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No18 「遠野遺産第No84号 TONO HERITAGE 阿曽沼公歴代の碑 THE Stone monuments of the Lords of Asonuma」
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「阿曽沼公歴代の碑」 説明版からです。【阿曽沼氏は、源頼朝が奥州を平定した文治5年(1189)から慶長5年(1600)の滅亡まで、13代400年間にわたって遠野の領主でした。この時代は、中世動乱のときで、この地域もいくども戦場になりました。中央の五輪塔は泥田のなかから出土したものです。】
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説明版その2からです【「阿曽沼公歴代の墓」遠野の最初の統治者阿曽沼四郎広郷をはじめ歴代の霊がまつられている。1189年源頼朝から平泉征討の恩賞として遠野十二郷を領した阿曽沼氏はよく頷内を治め繁栄した。向ケ原の戦いがあった慶長五年(1600)当主は十四代広長であった。徳川家康の上杉景勝攻めに出陣した留守中に家臣の謀反にあい約四〇〇年続いた政権は亡びたのである。五輪塔はもと阿曽沼家の菩提寺である養安寺にあったもので、製作は室町期と伝えられこの地方では最古のものである。遠野市 遠野市観光協会 遠野ライオンズクラブ】
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No19 「村兵稲荷」
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説明版からです。【「村兵稲荷神社」この封兵稲荷神社は文成年代(1818〜1829年)の遠野の豪商二代村上岳衛門が建主となり遠野在住の白木屋初代村井又兵衛が寄付して松崎町光興寺宇金ケ沢に建立せしめた(村上氏由緒記)ものといわれ、その際に江戸の庭園師などを招き当社の建立の外一帯の造園に当らせた上、京都から正一位稲荷大明神の神体を勧請、従二位権大納言藤原実後の御直筆を奉じて五穀豊穣、家運隆昌を祈願したといわれるもので、天保二年五月のことである。やがて近隣の崇敬も集め今日に至っている。例大祭は、毎年九月二十Ξ日である。 遠野市】
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超でかっ!どうやって動かしたのだろう?
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No20 「太郎淵」
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説明版からです。【「太郎淵」「川には河童多く住めり。猿ケ石川ことに多し」と遠野物語に記されるようにこの流域には河童の伝説が多くある。光興寺の淵に太郎と言う河童が住んでいて、洗濯など水仕事に来る集落の女達をのぞきに来てはいつも悪さをして困ったと言う。また、この淵の下方にも淵があって、太郎河童に言いよる女河童が住んでいたと言われた処である。今でも太郎淵、女ケ淵と言い二匹の河童が住むと言われている。(遠野物語・第五五話)遠野市】
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お腹がすきました。道の駅「遠野風の丘」にておそば定食をいただきました。「遠野風の丘蕎麦振舞い」1260円
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No21 「千葉家住宅」説明版からです。【国指定重要文化財(建造物)千葉家住宅 五棟…一部略…千葉家住宅は、天保年間(1830〜1844)に主屋が建設され、大正末期までに現在のような屋敷構えが整った。主屋は馬屋を前面に張り出してL形平面とする、いわゆる南部曲り家形式の民家で、主屋の座敷では面皮材の棹縁を使用するなど、漏洒な意匠を見せる。 千葉家住宅は、南部曲り家の分布域南縁に位置するとともに、遠野地方の典型的な間取りで、洗練された座敷意匠を採用するなど、江戸末期の大型曲り家民家として高い価値がある。また、主屋の周囲には、江戸末期から大正期にかけて建設された附属建物が残り、その特異な敷地構成とともに豪農の屋敷構えをよく保っている。遠野市教育委員会】駆け足にて遠野市散策終了!!
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