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芭蕉は旧奥州街道に沿って鍋掛宿の渡しで船に乗り、対岸の腰堀宿で旧奥州街道を離れ、左に折れ、那須街道をその先の高久村に向かう。<br /><br />我々は那珂川をバスで鉄橋を渡り、今も当時の様子を窺わせる旧奥州街道を垣間見る。<br /><br />高久家の入り口に、「芭蕉二宿の地」と記載した石碑の案内が有る。<br /><br />黒羽で高勝が紹介状を書いてくれた高久村の高久家は、この一帯36ヶ村を束ねる大名主であり、問屋であり、諏訪神社の神主でもあった。<br /><br />しかし芭蕉は高久家に寄宿する積りではなかったらしいが、たまたま雨に遭い、やむを得ず高久家に2泊した。<br /><br />芭蕉はそのお礼に、芭蕉が発句し、曾良が編んだ脇(連句で発句に続く第2の句)を懐紙に記し、名主の高久覚左衛門に贈った。<br /><br />高久家に今も残る芭蕉の発句と曾良の脇は、芭蕉の自筆と云われる貴重な資料で、高久家のご当主がその写しを直接説明してくださった。<br /><br />  落ちくるや 高久の宿の郭公  芭蕉<br /><br />  木の間をのぞく 短夜(みじかよ)の雨  曾良<br /><br />併せて安部某の文化十二年に記載したと云う、曾良陸奥日記抄の写しを拝見した。<br /><br />高久家から北に少し行った所に、木に覆われた「芭蕉翁塚」と云う小山が有り、そこに高久家子孫の高久青楓が建立した「芭蕉庵桃青君碑」なるものが建っており、風雨に晒され彫られた字は読めないものの、同じ句が刻まれているらしい。<br /><br />ここも案内して下った高久家のご当主は、小山の上から振り返り、田圃の先の林との境目が、芭蕉が辿った旧奥州街道だと指し示してくださった。<br />

奥の細道を訪ねて[第5回]③芭蕉が殺生石に向かう途上寄宿した「高久家」

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2011/07/23 - 2011/07/23

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WT信

WT信さん

芭蕉は旧奥州街道に沿って鍋掛宿の渡しで船に乗り、対岸の腰堀宿で旧奥州街道を離れ、左に折れ、那須街道をその先の高久村に向かう。

我々は那珂川をバスで鉄橋を渡り、今も当時の様子を窺わせる旧奥州街道を垣間見る。

高久家の入り口に、「芭蕉二宿の地」と記載した石碑の案内が有る。

黒羽で高勝が紹介状を書いてくれた高久村の高久家は、この一帯36ヶ村を束ねる大名主であり、問屋であり、諏訪神社の神主でもあった。

しかし芭蕉は高久家に寄宿する積りではなかったらしいが、たまたま雨に遭い、やむを得ず高久家に2泊した。

芭蕉はそのお礼に、芭蕉が発句し、曾良が編んだ脇(連句で発句に続く第2の句)を懐紙に記し、名主の高久覚左衛門に贈った。

高久家に今も残る芭蕉の発句と曾良の脇は、芭蕉の自筆と云われる貴重な資料で、高久家のご当主がその写しを直接説明してくださった。

  落ちくるや 高久の宿の郭公  芭蕉

  木の間をのぞく 短夜(みじかよ)の雨  曾良

併せて安部某の文化十二年に記載したと云う、曾良陸奥日記抄の写しを拝見した。

高久家から北に少し行った所に、木に覆われた「芭蕉翁塚」と云う小山が有り、そこに高久家子孫の高久青楓が建立した「芭蕉庵桃青君碑」なるものが建っており、風雨に晒され彫られた字は読めないものの、同じ句が刻まれているらしい。

ここも案内して下った高久家のご当主は、小山の上から振り返り、田圃の先の林との境目が、芭蕉が辿った旧奥州街道だと指し示してくださった。

同行者
一人旅
交通手段
観光バス JRローカル
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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