タリン旅行記(ブログ) 一覧に戻る
**********************<br />2010/07/16金 タリン観光1日目<br />**********************<br />・旧市街散策しながらCityBike社へツアー申込みに行く<br />・エストニア国立歴史博物館(2011年5月まで改装中で閉館)<br />・旧市街でショッピング<br />・ラエコヤ広場<br />・旧市庁舎と博物館見学&写真撮影<br />・工芸美術館<br />夕方17時から:「自転車で巡る、ようこそタリン(Welcome to Tallinn by bike)」に参加(20時まで)<br /><停まって説明を回った観光スポット><br />・ふとっちょマルガリータ<br />・タリン港<br />・カドリオルク宮殿&公園<br />・大統領官邸と衛兵交代式見学<br />・歌の原<br />・第二次世界大戦記念碑<br />・ピリタ川とピリタ修道院<br />・ピリタ通りの海岸沿いのサイクリングコース<br />・ルサルカ像<br />【タリン泊:ホテル・バロンズ(Barons)】<br />**********************<br /><br />CityBike社の夕方5時からの回るタリン自転車ツアーの参加者は、私以外は男性2人だけでした。<br />ガイドは専門のガイドではなく、CityBike社の運営メンバーの1人と思われる、まだ20代くらいの若い兄ちゃんでした。<br />ツアーの感想としては、良かった点もあり残念な点もあり。<br /><br />ガイドの兄ちゃんは金髪で北欧系の整った顔立ちで背が高く、とてもほっそりしていました。私よりずっと(苦笑)。<br />他の2人の参加者は、1人はガイドの兄ちゃんと同じくらいの世代のフィンランド人の男の子。この男の子とはほとんど話をすることはありませんでした。<br />話題があまり合いそうにないし、私の英語がつたないから、互いに敢えて話をする気にはならなかったというところです。<br />もう1人の参加者はもう少し年齢が上で、30代か40代か。ひげを生やしていたので見た目より年上に見えたかもしれないことを考えると30代くらいかだったもしれません。<br />この方は私に気を遣ってくれて、よく話しかけてくれました。<br />タリンには仕事のためにエストニア語を勉強しにきていて、いまは大学に通っているので、社会人学生さんでした。<br />英語のツアーでしたが、考えてみたら私以外の3人の男性は、共通言語としてエストニア語も可能だったかもしれません。<br /><br />ツアーで残念だった点は、兄ちゃんの英語が聞き取りづらかったことです。<br />ところどころで自転車を停めては説明してくれたのですが、場所によっては風や道路を走る車の音で声が聞こえにくかったり、私の英語力と背景知識の欠如のせいで、何が話題にされているのがピンとこなかったり。<br />また、楽しみにしていた、無形文化遺産の歌と踊りの祭典の会場の「歌の原」は、舞台までは行かず、入場ゲートをチラリと見ただけでしたし、ピリタ修道院も橋のあたりからチラッと見えたような見えないような(そんなんだから、撮った写真ではもっと分かりません……)。<br />しかも、ピリタ修道院のときには、ヒアリング以前に、そばに近寄っても、兄ちゃんの声が全然聞こえませんでした。<br />そのときは、説明されたものがなんだったかよく分からなかったので興味も失い、もういいや、と思ってスルーしましました。<br />ちょっと遠慮もありました。たった3人のツアーで遠慮なんかしていてどうすんの、と思いましたが、どの部分をもう一度説明して欲しいのかと聞かれたとしたら、全部って答えなくてはならなかったから。<br />でも、あとで地図でコースをたどったときにピリタ修道院だったんだと気付いて、ちょっぴり悔しくなりました。<br />もっとも説明は聞けても、ほとんど見えず、ましてや写真など撮れるアングルではなかったです。<br />そんな風に、場所によっては、有名なスポットにただ近づいただけっていう、期待はずれのところもありました。<br /><br />でも、宮殿がある郊外の高級住宅地区カドリオルクや、そのカドリオルク宮殿と花壇のある中庭、大型船の停泊する港、港沿いのピリタ海岸のサイクリングコースはとても良かったです。<br />良かったところの方がずっと多いと思います。全般通じて、とても気持ちの良いサイクリングができました。<br />そして、ついでに町の名所も確認できた、というところでしょう。<br />それにこれらは徒歩ではとても回れやしません。<br /><br />小さなアクシデントはありました。<br />走っているときに、前カゴが外れて落ちたり、ギアが外れたり。<br />ただ、ガイドの兄ちゃんがついていたので、すぐに直してもらえました。<br /><br />カドリオルク地区ではクム美術館の建物も見ました。<br />本当は閉館時間をとっくに過ぎていたのですが、ちょこっとだけ中に入ることができました。<br />ガイドの兄ちゃんがぜひ私たちに紹介したかったようです。いや、他の2人の男性参加者もとても興味ありそうにしていて、ちょっとでも中に入れないか尋ねたのはフィンランド人の男の子だったと思います。<br />警備員か責任者らしき人がいたので、ロビーのところまで、と兄ちゃんが交渉して。総勢たった4人という少なさのおかげもあったようです。<br />クム美術館は、私にとっては、あくまで、エストニアの絵画が一堂に集められた国一番の美術館だったので、正直、建物はどうでも良かったくらいですが(笑)、ガイドの兄ちゃんたちは現代建築としての価値の方を重視していました。<br />ガイドの兄ちゃんからすると、絵画コレクションの方は国立美術館としてはオーソドックスであまり個性はなく、アカデミックな作品が多いように感じていたようです。<br />だけど、私のような、エストニア美術にざっくりと触れたい外国人にとっては、その教科書のような展示こそが、求めるものなのです。<br /><br />クム美術館は、タリン観光の時間が足らなくて、行けないかもしれないと半ばあきらめていました。セントラルからこのように自転車か、のあるいはトラムを使わないと行けない、少し郊外にあったこともネックでした。<br />でも後日、時間をみつくろって行くことができました。すでに夕方近くで、ゆっくり鑑賞できる時間があるかないか、ぎりぎりな時間に。<br />美術館はトラム駅から少し離れていたのですが、このときにカドリオルク地区を自転車で走ったおかげで、方向音痴の私でも真っすぐに美術館に向かうことができました。道に迷わなかった分、少しでも鑑賞時間を稼ぐことができたわけです。<br /><br />旅行先では、特にめったに行かない海外ともなれば、狂ったようにパチパチと写真を撮りたがる私にとって、参加者の男性2人もガイドもペースが早く、説明が終わったらすぐに、さっさと次に移動してしまうので、写真をゆっくり撮れないことも私には残念でした。<br />でも、自転車で走っていた場所によっては、あたりに人はいなくて、片手ハンドルで悠々と走れるくらいでしたので、自転車に乗ったまま胸ポケットのデジカメを取り出して片手で撮る、という芸当もやってのけることができました。<br />カメラの手ぶれ補正機能で十分手ぶれをカバーできるくらい、とてもよい天気であたりが明るかったことも幸いしました。<br />日本の秋空のように天高く広々とした空に曇がすばらしいドラマを演出していたので、なにげない景色でも、むしょうに写真を撮りたくなったものです。<br />同時に、自転車の片手運転をひそかに楽しんだ子供の頃の気分にちょっと浸れました。<br /><br />このタリン自転車ツアーでレンタルした自転車とCityBike社のオフィスの写真はこちらのハイライト旅行記にまとめました。<br />「2010年バルト3国旅行ハイライトその12:自転車レンタル編」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10488157/<br /><br />2010年バルト3国旅行の旅程一覧はこちら。<br />簡易版「2010年バルト3国旅行プロローグ(旅程一覧)地図付」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10481279/<br />詳細版「2010年バルト3国旅行の詳細旅程(写真付き)」<br />http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2010/07/2010-ccbf.html<br />

2010年バルト3国旅行第13日目(2)タリン:郊外を回る自転車ツアー

4いいね!

2010/07/16 - 2010/07/16

1162位(同エリア1479件中)

2

42

まみ

まみさん

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2010/07/16金 タリン観光1日目
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・旧市街散策しながらCityBike社へツアー申込みに行く
・エストニア国立歴史博物館(2011年5月まで改装中で閉館)
・旧市街でショッピング
・ラエコヤ広場
・旧市庁舎と博物館見学&写真撮影
・工芸美術館
夕方17時から:「自転車で巡る、ようこそタリン(Welcome to Tallinn by bike)」に参加(20時まで)
<停まって説明を回った観光スポット>
・ふとっちょマルガリータ
・タリン港
・カドリオルク宮殿&公園
・大統領官邸と衛兵交代式見学
・歌の原
・第二次世界大戦記念碑
・ピリタ川とピリタ修道院
・ピリタ通りの海岸沿いのサイクリングコース
・ルサルカ像
【タリン泊:ホテル・バロンズ(Barons)】
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CityBike社の夕方5時からの回るタリン自転車ツアーの参加者は、私以外は男性2人だけでした。
ガイドは専門のガイドではなく、CityBike社の運営メンバーの1人と思われる、まだ20代くらいの若い兄ちゃんでした。
ツアーの感想としては、良かった点もあり残念な点もあり。

ガイドの兄ちゃんは金髪で北欧系の整った顔立ちで背が高く、とてもほっそりしていました。私よりずっと(苦笑)。
他の2人の参加者は、1人はガイドの兄ちゃんと同じくらいの世代のフィンランド人の男の子。この男の子とはほとんど話をすることはありませんでした。
話題があまり合いそうにないし、私の英語がつたないから、互いに敢えて話をする気にはならなかったというところです。
もう1人の参加者はもう少し年齢が上で、30代か40代か。ひげを生やしていたので見た目より年上に見えたかもしれないことを考えると30代くらいかだったもしれません。
この方は私に気を遣ってくれて、よく話しかけてくれました。
タリンには仕事のためにエストニア語を勉強しにきていて、いまは大学に通っているので、社会人学生さんでした。
英語のツアーでしたが、考えてみたら私以外の3人の男性は、共通言語としてエストニア語も可能だったかもしれません。

ツアーで残念だった点は、兄ちゃんの英語が聞き取りづらかったことです。
ところどころで自転車を停めては説明してくれたのですが、場所によっては風や道路を走る車の音で声が聞こえにくかったり、私の英語力と背景知識の欠如のせいで、何が話題にされているのがピンとこなかったり。
また、楽しみにしていた、無形文化遺産の歌と踊りの祭典の会場の「歌の原」は、舞台までは行かず、入場ゲートをチラリと見ただけでしたし、ピリタ修道院も橋のあたりからチラッと見えたような見えないような(そんなんだから、撮った写真ではもっと分かりません……)。
しかも、ピリタ修道院のときには、ヒアリング以前に、そばに近寄っても、兄ちゃんの声が全然聞こえませんでした。
そのときは、説明されたものがなんだったかよく分からなかったので興味も失い、もういいや、と思ってスルーしましました。
ちょっと遠慮もありました。たった3人のツアーで遠慮なんかしていてどうすんの、と思いましたが、どの部分をもう一度説明して欲しいのかと聞かれたとしたら、全部って答えなくてはならなかったから。
でも、あとで地図でコースをたどったときにピリタ修道院だったんだと気付いて、ちょっぴり悔しくなりました。
もっとも説明は聞けても、ほとんど見えず、ましてや写真など撮れるアングルではなかったです。
そんな風に、場所によっては、有名なスポットにただ近づいただけっていう、期待はずれのところもありました。

でも、宮殿がある郊外の高級住宅地区カドリオルクや、そのカドリオルク宮殿と花壇のある中庭、大型船の停泊する港、港沿いのピリタ海岸のサイクリングコースはとても良かったです。
良かったところの方がずっと多いと思います。全般通じて、とても気持ちの良いサイクリングができました。
そして、ついでに町の名所も確認できた、というところでしょう。
それにこれらは徒歩ではとても回れやしません。

小さなアクシデントはありました。
走っているときに、前カゴが外れて落ちたり、ギアが外れたり。
ただ、ガイドの兄ちゃんがついていたので、すぐに直してもらえました。

カドリオルク地区ではクム美術館の建物も見ました。
本当は閉館時間をとっくに過ぎていたのですが、ちょこっとだけ中に入ることができました。
ガイドの兄ちゃんがぜひ私たちに紹介したかったようです。いや、他の2人の男性参加者もとても興味ありそうにしていて、ちょっとでも中に入れないか尋ねたのはフィンランド人の男の子だったと思います。
警備員か責任者らしき人がいたので、ロビーのところまで、と兄ちゃんが交渉して。総勢たった4人という少なさのおかげもあったようです。
クム美術館は、私にとっては、あくまで、エストニアの絵画が一堂に集められた国一番の美術館だったので、正直、建物はどうでも良かったくらいですが(笑)、ガイドの兄ちゃんたちは現代建築としての価値の方を重視していました。
ガイドの兄ちゃんからすると、絵画コレクションの方は国立美術館としてはオーソドックスであまり個性はなく、アカデミックな作品が多いように感じていたようです。
だけど、私のような、エストニア美術にざっくりと触れたい外国人にとっては、その教科書のような展示こそが、求めるものなのです。

クム美術館は、タリン観光の時間が足らなくて、行けないかもしれないと半ばあきらめていました。セントラルからこのように自転車か、のあるいはトラムを使わないと行けない、少し郊外にあったこともネックでした。
でも後日、時間をみつくろって行くことができました。すでに夕方近くで、ゆっくり鑑賞できる時間があるかないか、ぎりぎりな時間に。
美術館はトラム駅から少し離れていたのですが、このときにカドリオルク地区を自転車で走ったおかげで、方向音痴の私でも真っすぐに美術館に向かうことができました。道に迷わなかった分、少しでも鑑賞時間を稼ぐことができたわけです。

旅行先では、特にめったに行かない海外ともなれば、狂ったようにパチパチと写真を撮りたがる私にとって、参加者の男性2人もガイドもペースが早く、説明が終わったらすぐに、さっさと次に移動してしまうので、写真をゆっくり撮れないことも私には残念でした。
でも、自転車で走っていた場所によっては、あたりに人はいなくて、片手ハンドルで悠々と走れるくらいでしたので、自転車に乗ったまま胸ポケットのデジカメを取り出して片手で撮る、という芸当もやってのけることができました。
カメラの手ぶれ補正機能で十分手ぶれをカバーできるくらい、とてもよい天気であたりが明るかったことも幸いしました。
日本の秋空のように天高く広々とした空に曇がすばらしいドラマを演出していたので、なにげない景色でも、むしょうに写真を撮りたくなったものです。
同時に、自転車の片手運転をひそかに楽しんだ子供の頃の気分にちょっと浸れました。

このタリン自転車ツアーでレンタルした自転車とCityBike社のオフィスの写真はこちらのハイライト旅行記にまとめました。
「2010年バルト3国旅行ハイライトその12:自転車レンタル編」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10488157/

2010年バルト3国旅行の旅程一覧はこちら。
簡易版「2010年バルト3国旅行プロローグ(旅程一覧)地図付」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10481279/
詳細版「2010年バルト3国旅行の詳細旅程(写真付き)」
http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2010/07/2010-ccbf.html

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  • ウース(Uus)通りと一体となったような石壁の家<br /><br />タリン自転車ツアーでまず最初に見学したのは、すぐそばにあったふとっちょマルガレータです。<br />これはそのすぐそば。<br />

    ウース(Uus)通りと一体となったような石壁の家

    タリン自転車ツアーでまず最初に見学したのは、すぐそばにあったふとっちょマルガレータです。
    これはそのすぐそば。

  • 最初の説明ポイントの、ふとっちょマルガレータ<br /><br />近くに居すぎたのでこんなアングルで@<br /><br />「ふとっちょマルガレータ Paks Margareeta<br /> 町の最も重要な出入口を守るため、1529年に建てられた砲塔。直径24m、城の厚さは4.7mにもなり、まさに“ふとっちょ”そのもの。そこから砲弾が発射されなくなってからは、倉庫や兵舎、監獄として使われた。1917年のロシア革命の混乱時に火災に遭い、廃墟となったが、その後修復され現在は海洋博物館になっている。<br /> ここが監獄に使われていた頃、囚人の食事を切り盛りするやはり太ったおかみさんがいて、彼らから尊敬と畏敬の念をもって慕われていた。彼女の名前がマルガレータ。塔の愛称も、彼女に由来すると伝えられている。(後略)」<br />(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)<br /><br />「デンマークの海からの侵入を防ぐ目的で建設され、塔の3階部分には大砲が設置された。塔の前面にある稜堡は1640年から1650年にかけてのスウェーデン時代に設けられた。この砲塔は完成したのがタリンに宗教改革の波がおしよせた時期だったので活躍はほとんどしていない。騎士団は外部の敵どころか内部の混乱への対処で精一杯だったのだ。価値を失った砲塔は1830年からは監獄として使用されるが、1917年以降の60年間は廃墟のままに放置された。修復が始まったのは1978年で現在は海洋博物館である。「太ったマルガレータ」の名前は監獄で囚人の世話をした親切な女性に因んだものである。」<br />(「バルト三国歴史紀行 エストニア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)<br />

    最初の説明ポイントの、ふとっちょマルガレータ

    近くに居すぎたのでこんなアングルで@

    「ふとっちょマルガレータ Paks Margareeta
     町の最も重要な出入口を守るため、1529年に建てられた砲塔。直径24m、城の厚さは4.7mにもなり、まさに“ふとっちょ”そのもの。そこから砲弾が発射されなくなってからは、倉庫や兵舎、監獄として使われた。1917年のロシア革命の混乱時に火災に遭い、廃墟となったが、その後修復され現在は海洋博物館になっている。
     ここが監獄に使われていた頃、囚人の食事を切り盛りするやはり太ったおかみさんがいて、彼らから尊敬と畏敬の念をもって慕われていた。彼女の名前がマルガレータ。塔の愛称も、彼女に由来すると伝えられている。(後略)」
    (「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)

    「デンマークの海からの侵入を防ぐ目的で建設され、塔の3階部分には大砲が設置された。塔の前面にある稜堡は1640年から1650年にかけてのスウェーデン時代に設けられた。この砲塔は完成したのがタリンに宗教改革の波がおしよせた時期だったので活躍はほとんどしていない。騎士団は外部の敵どころか内部の混乱への対処で精一杯だったのだ。価値を失った砲塔は1830年からは監獄として使用されるが、1917年以降の60年間は廃墟のままに放置された。修復が始まったのは1978年で現在は海洋博物館である。「太ったマルガレータ」の名前は監獄で囚人の世話をした親切な女性に因んだものである。」
    (「バルト三国歴史紀行 エストニア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)

  • タリン港にやってきた@

    タリン港にやってきた@

  • 赤いボートが停泊していたタリン港<br /><br />タリン港では、ちょうどフェスティバルの最中で、とても混雑していました。<br />

    赤いボートが停泊していたタリン港

    タリン港では、ちょうどフェスティバルの最中で、とても混雑していました。

  • タリン港に停泊していたアドミラル号

    タリン港に停泊していたアドミラル号

  • 4つに分かれているターミナルの一つ<br /><br />走りながら撮った写真の1枚目です。<br />巨大なフェリーが停泊していましたが、その写真は撮りそこねました。<br />ターミナルは行き先ごとに違うので、フェリーを利用する場合には注意が必要です。<br />

    4つに分かれているターミナルの一つ

    走りながら撮った写真の1枚目です。
    巨大なフェリーが停泊していましたが、その写真は撮りそこねました。
    ターミナルは行き先ごとに違うので、フェリーを利用する場合には注意が必要です。

  • タリン港の近く、ソ連時代の1965年の建物<br /><br />これも走りながら撮りました。<br />

    タリン港の近く、ソ連時代の1965年の建物

    これも走りながら撮りました。

  • カドリオルク地区の白鳥の池<br /><br />カドリオルク地区は住宅地としても休息地としても人気のタリン郊外です。<br />

    カドリオルク地区の白鳥の池

    カドリオルク地区は住宅地としても休息地としても人気のタリン郊外です。

  • 走りながら撮影したカドリオルク宮殿<br /><br />ツアーの仲間2人のシルエットと共に。<br />でも実はここで自転車をおりて庭園を散策しました。<br /><br />「カドリオルク公園 Kadrioru Park<br /> 大北方戦争(1700〜1721年)後、バルト地域を手に入れたロシアのピョートル大帝が妃エカテリーナのために離宮と公園を造らせたのがここ。地元の人々はエカテリーナに対応するエストニア女性の名を使い“カドリの谷(Kadriorug)”と呼んだ。<br /> 離宮の建設が開始されたのが1718年、イタリアの建築家による後期バロック様式の宮殿で、現在はカドリオルク美術館となっている。そこから少し丘の上にある建物は、1930年代に建設された大統領官邸。公園内にはピョートル大帝が滞在した小屋も残り、博物館となっている。」<br />(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)<br />

    走りながら撮影したカドリオルク宮殿

    ツアーの仲間2人のシルエットと共に。
    でも実はここで自転車をおりて庭園を散策しました。

    「カドリオルク公園 Kadrioru Park
     大北方戦争(1700〜1721年)後、バルト地域を手に入れたロシアのピョートル大帝が妃エカテリーナのために離宮と公園を造らせたのがここ。地元の人々はエカテリーナに対応するエストニア女性の名を使い“カドリの谷(Kadriorug)”と呼んだ。
     離宮の建設が開始されたのが1718年、イタリアの建築家による後期バロック様式の宮殿で、現在はカドリオルク美術館となっている。そこから少し丘の上にある建物は、1930年代に建設された大統領官邸。公園内にはピョートル大帝が滞在した小屋も残り、博物館となっている。」
    (「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)

  • カドリオルク宮殿入口<br /><br />もちろん中には入りませんでした。そういうツアーではないので。<br /><br />「1718年7月22日、ピョートル大帝が宮殿として公園の建設命令を下したことにより、カドリオルグの開拓が開始された。ローマ出身の建築家ニッコロ・ミケッティがイタリアの別荘をモデルに宮殿を建設し、中でも傑作は、宮殿本館の2階まで吹き抜けになっているバロック様式のパーテーィーホールである。パーティーホールは今も当時の面影が保たれている。また、現在宮殿内はエストニア国立美術館所有の海外美術品のコレクションが展示されており、オランダ、ドイツ、イタリア、ロシア、オーストリア、スイス、その他の国々の作品を鑑賞することができる。」<br />(タリンで買った日本語カラーパンフレット「タリン 歴史あふれる町」より)<br />

    カドリオルク宮殿入口

    もちろん中には入りませんでした。そういうツアーではないので。

    「1718年7月22日、ピョートル大帝が宮殿として公園の建設命令を下したことにより、カドリオルグの開拓が開始された。ローマ出身の建築家ニッコロ・ミケッティがイタリアの別荘をモデルに宮殿を建設し、中でも傑作は、宮殿本館の2階まで吹き抜けになっているバロック様式のパーテーィーホールである。パーティーホールは今も当時の面影が保たれている。また、現在宮殿内はエストニア国立美術館所有の海外美術品のコレクションが展示されており、オランダ、ドイツ、イタリア、ロシア、オーストリア、スイス、その他の国々の作品を鑑賞することができる。」
    (タリンで買った日本語カラーパンフレット「タリン 歴史あふれる町」より)

  • フランス式庭園のカドリオルク庭園

    フランス式庭園のカドリオルク庭園

  • 庭園から宮殿を眺める<br /><br />宮殿と庭園を含めたカドリオルク美術館・公園は約60ヘクタールだそうです。<br />

    庭園から宮殿を眺める

    宮殿と庭園を含めたカドリオルク美術館・公園は約60ヘクタールだそうです。

  • 庭園のトリトン像

    庭園のトリトン像

  • イルカに乗るトリトン像

    イルカに乗るトリトン像

  • スウェーデン王がピョートル大帝に贈った、現在樹齢300年にもなる木と<br /><br />このあと大統領官邸前で、衛兵の交代式を見学しました。<br />その写真はこちらのハイライト旅行記に収めました。<br />「2010年バルト3国旅行ハイライトその15:フェスティバルとセレモニー編<エストニアにて>」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10488476<br />

    スウェーデン王がピョートル大帝に贈った、現在樹齢300年にもなる木と

    このあと大統領官邸前で、衛兵の交代式を見学しました。
    その写真はこちらのハイライト旅行記に収めました。
    「2010年バルト3国旅行ハイライトその15:フェスティバルとセレモニー編<エストニアにて>」
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10488476

  • エストニアの国立美術館であるクム美術館<br /><br />フィンランド人建築家ペッカ・ヴァパーヴォリ(Pekka Vapaavuori)設計。2006年にオープン。<br />常設展は18世紀から1990年代の絵画が展示されています。<br />企画展で取り上げられるのは、海外のものや現代アートなど幅広いジャンルに及びます。<br />この美術館は2008人に、ヨーロッピアン・ミュージーアム・フオーラムからその年の美術館賞(Museum of the Year Award)を受賞しました。<br />

    エストニアの国立美術館であるクム美術館

    フィンランド人建築家ペッカ・ヴァパーヴォリ(Pekka Vapaavuori)設計。2006年にオープン。
    常設展は18世紀から1990年代の絵画が展示されています。
    企画展で取り上げられるのは、海外のものや現代アートなど幅広いジャンルに及びます。
    この美術館は2008人に、ヨーロッピアン・ミュージーアム・フオーラムからその年の美術館賞(Museum of the Year Award)を受賞しました。

  • クム美術館、入ってすぐのロビー<br /><br />鍵がしまっていなかったので、ガイドの兄ちゃんが中に案内してくれました。<br />中にいた警備員さんか責任者らしき人に、ここだけ見せてくれとかけあって、許可をもらっていました。<br />翌々日にこのクム美術館に行くことができました。<br />左手が展示室となっていました。<br />

    クム美術館、入ってすぐのロビー

    鍵がしまっていなかったので、ガイドの兄ちゃんが中に案内してくれました。
    中にいた警備員さんか責任者らしき人に、ここだけ見せてくれとかけあって、許可をもらっていました。
    翌々日にこのクム美術館に行くことができました。
    左手が展示室となっていました。

  • 走りながら撮ったカドリオルク公園の一角

    走りながら撮ったカドリオルク公園の一角

  • 走りながら撮った、前をゆく3人のツアー仲間

    走りながら撮った、前をゆく3人のツアー仲間

  • カドリオルク公園にて

    カドリオルク公園にて

  • 入口しか見られなかった、かの有名な歌の原<br /><br />入るにはどうも入場料が要るようでた。<br />柵の向こうの白い建物が歌の原です。<br /><br />「歌の原 Lauluvaljak<br /> 5年に1度のエストニア最大の祭り、歌と踊りの祭典で最後に歌のコンサートが開かれるステージ。民族衣装に身を包んだ3万人以上の歌い手がエストニア各地から集い、観光客は10万人以上に達する。次回の祭典は2009年7月2日から。<br /> 1988年9月11日、エストニア各地から30万以上(民族人口の約3分の1)の人々がここに集い、独立への思いを歌にした。“歌いながらの革命”といわれたバルト三国の独立運動が大きな一歩を進めた瞬間だった。」<br />(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)<br />

    入口しか見られなかった、かの有名な歌の原

    入るにはどうも入場料が要るようでた。
    柵の向こうの白い建物が歌の原です。

    「歌の原 Lauluvaljak
     5年に1度のエストニア最大の祭り、歌と踊りの祭典で最後に歌のコンサートが開かれるステージ。民族衣装に身を包んだ3万人以上の歌い手がエストニア各地から集い、観光客は10万人以上に達する。次回の祭典は2009年7月2日から。
     1988年9月11日、エストニア各地から30万以上(民族人口の約3分の1)の人々がここに集い、独立への思いを歌にした。“歌いながらの革命”といわれたバルト三国の独立運動が大きな一歩を進めた瞬間だった。」
    (「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)

  • タリンで買ったカラーパンフレットより、歌と踊りの祭典中の歌の原のステージ写真<br /><br />本当はこういうステージをこの目で見たかったんです。<br /><br />「第一階目の歌の祭典は1869年タルトゥにて開催された。歌の祭典はエストニア国民にとって政治的な意味もあらわしてきた。20世紀後半の「鉄のカーテン」の向こう側で、歌の祭典は自由を感じとることのできる数少ない手段のひとつであった。歌の祭典に参加することは名誉であり、歌手の数は次第に増加していった。1960年になると新しい大規模なステージが完成され、祭典時にはそばにある聖火塔に聖火が灯される。現在広場の坂の上には有名な指揮者グスタヴ・エルネサクス(1908年〜1993年)の銅像が置かれている。<br /> 歌の広場はソ連時代の終わりにデモが行われた場所のひとつであった。1988年の6月の白夜の夜、祖国の歌を歌うために人々がこの広場に集まった。エストニア人たちは独立を願う気持ちがあまりにも強かったので、国民全体がひとつの目標のために団結したのである。同年、9月の初めの集会では数十万人もの国民が集まり、エストニアの独立回復がこの広場ではじめて公然と叫ばれるようになった。とうじは歌を武器にするしかなかったので、その画期的な出来事は「歌う革命」として知られている。19世紀の第一次民族覚醒期にエストニア人は自分たちがヨーロッパ民族であることを歌い、そして20世紀末の第二次民族覚醒期には歌の祭典の電灯に支えられ、自分たちが自由であることを歌った。<br /> 歌の祭典はドイツ文化圏を模範とし、エストニア人のこのような活動は近隣諸国にも影響を与え、ラトヴィアやリトアニアでも歌の祭典が行われるようになった。バルト三国の歌とダンスの祭典の電灯は2003年にユネスコの伝承及び無形遺産の傑作リストに登録された。」<br />(タリンで買った日本語カラーパンフレット「タリン 歴史あふれる町」より)<br />

    タリンで買ったカラーパンフレットより、歌と踊りの祭典中の歌の原のステージ写真

    本当はこういうステージをこの目で見たかったんです。

    「第一階目の歌の祭典は1869年タルトゥにて開催された。歌の祭典はエストニア国民にとって政治的な意味もあらわしてきた。20世紀後半の「鉄のカーテン」の向こう側で、歌の祭典は自由を感じとることのできる数少ない手段のひとつであった。歌の祭典に参加することは名誉であり、歌手の数は次第に増加していった。1960年になると新しい大規模なステージが完成され、祭典時にはそばにある聖火塔に聖火が灯される。現在広場の坂の上には有名な指揮者グスタヴ・エルネサクス(1908年〜1993年)の銅像が置かれている。
     歌の広場はソ連時代の終わりにデモが行われた場所のひとつであった。1988年の6月の白夜の夜、祖国の歌を歌うために人々がこの広場に集まった。エストニア人たちは独立を願う気持ちがあまりにも強かったので、国民全体がひとつの目標のために団結したのである。同年、9月の初めの集会では数十万人もの国民が集まり、エストニアの独立回復がこの広場ではじめて公然と叫ばれるようになった。とうじは歌を武器にするしかなかったので、その画期的な出来事は「歌う革命」として知られている。19世紀の第一次民族覚醒期にエストニア人は自分たちがヨーロッパ民族であることを歌い、そして20世紀末の第二次民族覚醒期には歌の祭典の電灯に支えられ、自分たちが自由であることを歌った。
     歌の祭典はドイツ文化圏を模範とし、エストニア人のこのような活動は近隣諸国にも影響を与え、ラトヴィアやリトアニアでも歌の祭典が行われるようになった。バルト三国の歌とダンスの祭典の電灯は2003年にユネスコの伝承及び無形遺産の傑作リストに登録された。」
    (タリンで買った日本語カラーパンフレット「タリン 歴史あふれる町」より)

  • 第二次世界大戦メモリアルをほれぼれするドラマチックな空と

    第二次世界大戦メモリアルをほれぼれするドラマチックな空と

  • 第二次世界大戦メモリアルから眺めたタリン港

    第二次世界大戦メモリアルから眺めたタリン港

  • 第二次世界大戦メモリアルの間を通り抜ける

    第二次世界大戦メモリアルの間を通り抜ける

  • ピリタ川<br /><br />何を説明されていたか全然聞き取れなかった地点です。<br />でも、ホテルに戻った後に経路を地図で確認し、断片的に聞き取れた内容も思い出し(男女の修道士と修道女がどーのこーのと言っていたのは覚えていました)、ピリタ修道院のことが話されていたことに気付きました。<br /><br />「ピリタ修道院 Pirita Klooster<br /> ピリタ川にかかる橋の側にある修道院跡。15世紀前半に裕福な商人たちによって建てられ、約150年後のリヴォニア戦争の際にロシア軍によって破壊された。<br /> 修道院は男女同居で、真ん中の教会を挟んで北側に修道女が、南側に修道士が住んでいたと伝えられている。教会はカーテンによって仕切られていて、彼らはお互いに言葉を交わすことを禁じられ、身振りのみで会話をしていたらしい。教会の裏側には、どうしても必要なことを伝えるための両方から入れる小さな部屋があったという。そこでどんな会話が交わされたのか、遺跡は何も語らない。」<br />(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)<br />

    ピリタ川

    何を説明されていたか全然聞き取れなかった地点です。
    でも、ホテルに戻った後に経路を地図で確認し、断片的に聞き取れた内容も思い出し(男女の修道士と修道女がどーのこーのと言っていたのは覚えていました)、ピリタ修道院のことが話されていたことに気付きました。

    「ピリタ修道院 Pirita Klooster
     ピリタ川にかかる橋の側にある修道院跡。15世紀前半に裕福な商人たちによって建てられ、約150年後のリヴォニア戦争の際にロシア軍によって破壊された。
     修道院は男女同居で、真ん中の教会を挟んで北側に修道女が、南側に修道士が住んでいたと伝えられている。教会はカーテンによって仕切られていて、彼らはお互いに言葉を交わすことを禁じられ、身振りのみで会話をしていたらしい。教会の裏側には、どうしても必要なことを伝えるための両方から入れる小さな部屋があったという。そこでどんな会話が交わされたのか、遺跡は何も語らない。」
    (「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)

  • タリンで買ったカラーパンフレットより、ピリタ修道院と数世紀前の石造の十字架<br /><br />ピリタ修道院の説明を受けた場所では、ピリタ修道院は影も形も見られませんでしたが、この日の夕方にタリンで買ったパンフレットで補うことができました。<br /><br />「ピリタ地区の名前はピリタ修道院に由来する。ピリタ修道院の建設が始まったのは、スウェーデンのヴァドステナで修道院が建てられてから数十年後、そしてビルギッタを聖人と定めてから約10年後のことである。3人の裕福なタリン商人の援助によって修道院建設が開始され、1436年に完成した。ピリタ修道院の存在は各地に知れ渡り、ただちにこの辺りでは最大規模の修道院となった。ピリタ修道院は例外的に修道女と修道士の混在する修道院で、統括者は女子修道長であった。修道院は16世紀のリヴォニア戦争で破壊されたが、その廃墟は今でもピリタの景色の一部分を成している。古い修道院の横にある2001年に完成した新しい修道院では再び聖ビルギッタ修道院が活動している。」<br />(タリンで買った日本語カラーパンフレット「タリン 歴史あふれる町」より)<br />

    タリンで買ったカラーパンフレットより、ピリタ修道院と数世紀前の石造の十字架

    ピリタ修道院の説明を受けた場所では、ピリタ修道院は影も形も見られませんでしたが、この日の夕方にタリンで買ったパンフレットで補うことができました。

    「ピリタ地区の名前はピリタ修道院に由来する。ピリタ修道院の建設が始まったのは、スウェーデンのヴァドステナで修道院が建てられてから数十年後、そしてビルギッタを聖人と定めてから約10年後のことである。3人の裕福なタリン商人の援助によって修道院建設が開始され、1436年に完成した。ピリタ修道院の存在は各地に知れ渡り、ただちにこの辺りでは最大規模の修道院となった。ピリタ修道院は例外的に修道女と修道士の混在する修道院で、統括者は女子修道長であった。修道院は16世紀のリヴォニア戦争で破壊されたが、その廃墟は今でもピリタの景色の一部分を成している。古い修道院の横にある2001年に完成した新しい修道院では再び聖ビルギッタ修道院が活動している。」
    (タリンで買った日本語カラーパンフレット「タリン 歴史あふれる町」より)

  • 走りながら撮影したピリタ川の桟橋

    走りながら撮影したピリタ川の桟橋

  • 走りながら撮影した海岸沿いのピリタ通り・その1

    走りながら撮影した海岸沿いのピリタ通り・その1

  • 走りながら撮影した海岸沿いのピリタ通り・その2<br /><br />新市街が見えました。<br />

    走りながら撮影した海岸沿いのピリタ通り・その2

    新市街が見えました。

  • フランス人彫刻家の作品

    フランス人彫刻家の作品

  • 走りながら旧市街を望む

    走りながら旧市街を望む

  • 走りながら撮影した、さきほどの第二次世界大戦メモリアル

    走りながら撮影した、さきほどの第二次世界大戦メモリアル

  • ぽこぽこ岩がある海岸<br /><br />これも走りながら撮りました。<br />

    ぽこぽこ岩がある海岸

    これも走りながら撮りました。

  • カドリオルク地区のルサルカ像<br /><br />「ピリタ通りにはいくつかの慰霊碑が置かれている。中でも最も美しいものは、装甲艦ルサルカ号の慰霊碑として、御影石の土台に置かれた天使像である。モニュメントの基礎の部分は船をイメージし、周りの荒削りの石は波を表している。ルサルカ像はエストニア民族の彫刻家の先駆者、アマンドゥス・アダムソン(1855年〜1929年)により1902年に完成した。」<br />(タリンで買った日本語カラーパンフレット「タリン 歴史あふれる町」より)<br />

    カドリオルク地区のルサルカ像

    「ピリタ通りにはいくつかの慰霊碑が置かれている。中でも最も美しいものは、装甲艦ルサルカ号の慰霊碑として、御影石の土台に置かれた天使像である。モニュメントの基礎の部分は船をイメージし、周りの荒削りの石は波を表している。ルサルカ像はエストニア民族の彫刻家の先駆者、アマンドゥス・アダムソン(1855年〜1929年)により1902年に完成した。」
    (タリンで買った日本語カラーパンフレット「タリン 歴史あふれる町」より)

  • ロシア正教会の旗を掲げるルサルカ像の女神

    ロシア正教会の旗を掲げるルサルカ像の女神

  • 走りながら撮った、タリン港に入港する大型船タリニク号

    走りながら撮った、タリン港に入港する大型船タリニク号

  • 説明があったけどなんの建物か忘れた・その1

    説明があったけどなんの建物か忘れた・その1

  • 説明があったけどなんの建物か忘れた・その2<br /><br />この後まもなくツアーは終わりました。<br />

    説明があったけどなんの建物か忘れた・その2

    この後まもなくツアーは終わりました。

  • ヴィル門近くのセーターの壁<br /><br />20時なのですでに店じまいでしたが、そのおかげで壁がよく見えました。<br /><br />「セーターの壁<br /> 旧市街のメインストリート、ヴィル通りとムーリヴァヘ通りと交差点近くの城壁下に並ぶセーターの屋外市場。普通値引きのないエストニアでも、ここだけは少々の駆け引きが可能。セーターは600EEKぐらいから。」<br />(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)<br />

    ヴィル門近くのセーターの壁

    20時なのですでに店じまいでしたが、そのおかげで壁がよく見えました。

    「セーターの壁
     旧市街のメインストリート、ヴィル通りとムーリヴァヘ通りと交差点近くの城壁下に並ぶセーターの屋外市場。普通値引きのないエストニアでも、ここだけは少々の駆け引きが可能。セーターは600EEKぐらいから。」
    (「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)

  • まだまだ明るい午後8時の青空を背景に、シルエット気味の旧市庁舎<br /><br />「市庁舎は1322年の記録では宗教法廷として使用され、1363年には劇場になっている。市庁舎となったのは1372年である。何度か改造されて1404年に現在の石灰石のゴシック様式の姿となった。600年もの間、市政の中心であったこの市庁舎はいまは迎賓館となり、コンサート・ホールとしても使われている。1944年のソ連の空襲で65mの尖塔にあった風見鶏のオールド・トーマスは破壊されたが、建物自体の損傷はなかった。」<br />(「バルト三国歴史紀行 エストニア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)<br />

    まだまだ明るい午後8時の青空を背景に、シルエット気味の旧市庁舎

    「市庁舎は1322年の記録では宗教法廷として使用され、1363年には劇場になっている。市庁舎となったのは1372年である。何度か改造されて1404年に現在の石灰石のゴシック様式の姿となった。600年もの間、市政の中心であったこの市庁舎はいまは迎賓館となり、コンサート・ホールとしても使われている。1944年のソ連の空襲で65mの尖塔にあった風見鶏のオールド・トーマスは破壊されたが、建物自体の損傷はなかった。」
    (「バルト三国歴史紀行 エストニア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)

  • 夕日が当たる旧市街<br /><br />夕食のあとの午後21時班です。まだまだ明るい準・北欧の夜。<br /><br />エストニア旅行中にとった食事とレストランの写真はこちらのハイライト旅行記にまとめました。<br />「2010年バルト3国旅行ハイライトその8:食事とレストラン編<エストニア>」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10485246/<br /><br />ラヘマー国立公園に出かけたタリン2日目につづく。<br />

    夕日が当たる旧市街

    夕食のあとの午後21時班です。まだまだ明るい準・北欧の夜。

    エストニア旅行中にとった食事とレストランの写真はこちらのハイライト旅行記にまとめました。
    「2010年バルト3国旅行ハイライトその8:食事とレストラン編<エストニア>」
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10485246/

    ラヘマー国立公園に出かけたタリン2日目につづく。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • kanaさん 2011/06/07 17:52:36
    タリン情報ありがとうございます
    まみさん こんにちわ

    漠然といつか行ってみたいと思っていたバルト3国
    その中でも、ヘルシンキから船で行けちゃうとだけ知っていたタリン
    まみさんの旅行記を拝見して、少しですがイメージがわきました
    ありがとうございます(^^)

    いつになるかわかりませんが、その際は、色々と参考にさせていただきたいと思います

    でわでわ

    kana

    まみ

    まみさん からの返信 2011/06/09 01:09:09
    RE: タリン情報ありがとうございます
    kanaさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

    kanaさんの旅行歴すごいですね。52カ国ですか!
    だけど世界は広いですね。52カ国を制覇してらしても、バルト三国はこれからなんですね!
    ぜひkanaさんの記録に加えてください。
    タリンの旅行記はあともう少し続きます。
    1日目に回れたのは、タリンの旧市街の中でも下町と、それから郊外。
    後日、タリンの山の手ともいうべきトームペアの丘と、それからエストニア国立美術館ことクム美術館で撮影した絵の旅行記を準備中です。
    私はヘルシンキとは空でつなげたのですが、フェリーで行く方も多いですよね。

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