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フランスのマルタへの玄関はドゴールで無く、オルリー空港なのです。<br />それも接続が悪く、夏なのに一日1便午前中しかありませんでした。<br />それで1泊したわけです。<br /><br />AIR MARUTA 467(11:45発14:20分着)の飛行機でフランスの陸を離れると下は地中海です。<br />海がまぶしくきらきら輝いて真っ青。まもなくマルタ本島に到着です。<br />空港から手配しておいたタクシーでバレッタのホテル・カステーュに到着です。<br />この島はアフリカに近く気候は北アフリカ性気候でからりとしていますが暑い!!!!<br />マルタのことは新橋のマルタ航空が観光局も兼ねていますし、ネットで検索すると色々情報が出ています。旅行社も日本人が経営しているところとか日本人が応対してくれるところもあり、空港からの送迎、ゴゾ島までの送迎、などなど色々手配してもらいました。<br />ホテルはエクスペデイアで取りました。<br /><br />予約者しか、それも1日50人しか入場できないハイポジュームの遺跡は何とかネットで予約しました。<br />遺跡もたくさんあるのですがここは地中海のリゾートの島で遊びのメニューはたくさんあります。<br />サンジュリアンからのフルデイのクルージングの予約もFAXで出来ました。<br />イタリアや南フランスに比べて物価も安いので夏のリゾートにはもってこいの国です。<br />船で回る色々なコース。シチリアまで日帰りで行くもの、ダイビング、マルタ島めぐりやらレジャーランドもいくつかあります。<br /><br />人々は気の遠くなるような長い歴史の中で人との付き合い方を学んできた国民と国は、たくましくそして心地よいです。<br /><br />空港からの道には分厚い壁のアフリカ様式の家が並びます。<br />バレッタに近ずくと大きな石作りの建物が並んできます。<br />バレッタの市内に入るゲートの前に大きな噴水、トリトン広場がありバスターミナルになっていました。<br /><br />バレッタという町の名前はヨハネ騎士団がロードスからイスラム帝国に戦いで破れ流浪の末、マルタ島をスペイン国王から与えられ、忘れられていたような何もない乾燥した小さい島を異教徒との防波堤としての要塞都市に作り上げたマルタ騎士団長ジャン・ド・ラ・ヴァレッテ。パリゾンの名前の寄るものです。<br /><br />★マルタ騎士団について塩野七生さんの【ロードス島攻防記】から<br />ロードス島のヨハネ騎士団がオスマントルコ(スレイマン大帝)に破れ、放浪の時代、騎士団長リラダンは十字軍結成を呼びかけるのを諦めませんでした。<br />1530年神聖ローマ帝国皇帝、スペイン王もかねるカルロスは地中海に浮かぶ3つの小島を、思い出しマルタと2つの小島を年に1羽の鷹を年貢料として騎士団に与えました。カルロスの番犬として北アフリカの攻撃の義務も負うことに成りました。<br />騎士団長にはわかってはいましたが存続することに意義がありマルタ移住を決めます。騎士団長リラダンは4年後になくなりますが、ラ・ヴァレッテが後を引き継ぎます。<br />ロードスとは気候も違い何もかも初めから作り上げなければならない、冬の寒さと夏の暑さの気候が厳しく全島が禿山、荒れた島の唯一の利点は鋭く抉られたいくつかの湾に恵まれていることでした。誰もも住まない荒れた一帯を要塞化することにしました。<br />実際指揮したのはイタリア人の築城技師達。マルタに移住し30年、湾一帯の要塞化は半ばまで完成しました。<br />騎士団の財政も以前ほど豊かではなく短期間に完了可能なものではありませんでした。<br />1565年オスマントルコのスレイマン大帝は再び聖ヨハネ騎士団を攻撃します。ロードス攻防戦をしのぐ厳しさで続く戦いが続きますが、鉄の意思を持つヴァレッテ(63歳)はマルタを守りぬきます。その後、破損の激しい城塞を修復、補修し3年後に亡くなります。<br />それ以降、騎士団により要塞化されたこの一帯はマルタの首都となり【バレッタ】と名つけられます。<br />1798年マルタの聖ヨハネ騎士団はエジプト遠征中のナポレオンによりマルタから追放されます。【城塞ならば疑いなく耐え抜いたに違いない、しかし。守る騎士達のほうに精神力がかけていた】バレッタに入場したナポレオンは後にこう書いたそうです。<br />マルタは1814年ナポレオン失脚後イギリス領に、第2次大戦後に独立。<br />マルタの国章は聖ヨハネ騎士団の八角の変形十時、首都はバレッタ。騎士たちが作り上げた要塞はその後も海軍基地として活用されています。<br />マルタを失ってからはモスクワ、シチリア、北イタリアのフェラーラに移転しましたがローマに移ります。<br />騎士団の一人が自分の財産として持っていた建物を騎士団に寄付をしたからです。ローマのコンドッティ通りには今も聖ヨハネ騎士団の本部があり,ヴァチカンと同じようにイタリアの中でも独立国です。<br />所有の車のナンバーも独自、切手も発行しており本部内の郵便局からは騎士団の切手を付け限られた国にも手紙を出すことが出来ます。<br />現在の騎士団長は77代目その下には8000の騎士が、結婚し以前のように清貧、服従、貞潔を強いることはありません。<br />聖ヨハネ騎士団が,骨董品として残るのではなく活動し続ける組織であること。イスラム相手の戦士は消えましたが、もう一つの任務、医療活動は残りました。世界中に赤字に変形十時のしるしをつけた病院や研究所や救急車があるように各原語別の隊を組んで活躍しています。<br />20,21世紀の騎士たち。900年を経て、アマルフィーの商人がイエルサレムに創設した当時の使命にも戻ったのである。<br />★<br />

マルタ島とゴゾの歴史とクルーズの旅 1

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2007/08/10 - 2007/08/17

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indijyonko

indijyonkoさん

フランスのマルタへの玄関はドゴールで無く、オルリー空港なのです。
それも接続が悪く、夏なのに一日1便午前中しかありませんでした。
それで1泊したわけです。

AIR MARUTA 467(11:45発14:20分着)の飛行機でフランスの陸を離れると下は地中海です。
海がまぶしくきらきら輝いて真っ青。まもなくマルタ本島に到着です。
空港から手配しておいたタクシーでバレッタのホテル・カステーュに到着です。
この島はアフリカに近く気候は北アフリカ性気候でからりとしていますが暑い!!!!
マルタのことは新橋のマルタ航空が観光局も兼ねていますし、ネットで検索すると色々情報が出ています。旅行社も日本人が経営しているところとか日本人が応対してくれるところもあり、空港からの送迎、ゴゾ島までの送迎、などなど色々手配してもらいました。
ホテルはエクスペデイアで取りました。

予約者しか、それも1日50人しか入場できないハイポジュームの遺跡は何とかネットで予約しました。
遺跡もたくさんあるのですがここは地中海のリゾートの島で遊びのメニューはたくさんあります。
サンジュリアンからのフルデイのクルージングの予約もFAXで出来ました。
イタリアや南フランスに比べて物価も安いので夏のリゾートにはもってこいの国です。
船で回る色々なコース。シチリアまで日帰りで行くもの、ダイビング、マルタ島めぐりやらレジャーランドもいくつかあります。

人々は気の遠くなるような長い歴史の中で人との付き合い方を学んできた国民と国は、たくましくそして心地よいです。

空港からの道には分厚い壁のアフリカ様式の家が並びます。
バレッタに近ずくと大きな石作りの建物が並んできます。
バレッタの市内に入るゲートの前に大きな噴水、トリトン広場がありバスターミナルになっていました。

バレッタという町の名前はヨハネ騎士団がロードスからイスラム帝国に戦いで破れ流浪の末、マルタ島をスペイン国王から与えられ、忘れられていたような何もない乾燥した小さい島を異教徒との防波堤としての要塞都市に作り上げたマルタ騎士団長ジャン・ド・ラ・ヴァレッテ。パリゾンの名前の寄るものです。

★マルタ騎士団について塩野七生さんの【ロードス島攻防記】から
ロードス島のヨハネ騎士団がオスマントルコ(スレイマン大帝)に破れ、放浪の時代、騎士団長リラダンは十字軍結成を呼びかけるのを諦めませんでした。
1530年神聖ローマ帝国皇帝、スペイン王もかねるカルロスは地中海に浮かぶ3つの小島を、思い出しマルタと2つの小島を年に1羽の鷹を年貢料として騎士団に与えました。カルロスの番犬として北アフリカの攻撃の義務も負うことに成りました。
騎士団長にはわかってはいましたが存続することに意義がありマルタ移住を決めます。騎士団長リラダンは4年後になくなりますが、ラ・ヴァレッテが後を引き継ぎます。
ロードスとは気候も違い何もかも初めから作り上げなければならない、冬の寒さと夏の暑さの気候が厳しく全島が禿山、荒れた島の唯一の利点は鋭く抉られたいくつかの湾に恵まれていることでした。誰もも住まない荒れた一帯を要塞化することにしました。
実際指揮したのはイタリア人の築城技師達。マルタに移住し30年、湾一帯の要塞化は半ばまで完成しました。
騎士団の財政も以前ほど豊かではなく短期間に完了可能なものではありませんでした。
1565年オスマントルコのスレイマン大帝は再び聖ヨハネ騎士団を攻撃します。ロードス攻防戦をしのぐ厳しさで続く戦いが続きますが、鉄の意思を持つヴァレッテ(63歳)はマルタを守りぬきます。その後、破損の激しい城塞を修復、補修し3年後に亡くなります。
それ以降、騎士団により要塞化されたこの一帯はマルタの首都となり【バレッタ】と名つけられます。
1798年マルタの聖ヨハネ騎士団はエジプト遠征中のナポレオンによりマルタから追放されます。【城塞ならば疑いなく耐え抜いたに違いない、しかし。守る騎士達のほうに精神力がかけていた】バレッタに入場したナポレオンは後にこう書いたそうです。
マルタは1814年ナポレオン失脚後イギリス領に、第2次大戦後に独立。
マルタの国章は聖ヨハネ騎士団の八角の変形十時、首都はバレッタ。騎士たちが作り上げた要塞はその後も海軍基地として活用されています。
マルタを失ってからはモスクワ、シチリア、北イタリアのフェラーラに移転しましたがローマに移ります。
騎士団の一人が自分の財産として持っていた建物を騎士団に寄付をしたからです。ローマのコンドッティ通りには今も聖ヨハネ騎士団の本部があり,ヴァチカンと同じようにイタリアの中でも独立国です。
所有の車のナンバーも独自、切手も発行しており本部内の郵便局からは騎士団の切手を付け限られた国にも手紙を出すことが出来ます。
現在の騎士団長は77代目その下には8000の騎士が、結婚し以前のように清貧、服従、貞潔を強いることはありません。
聖ヨハネ騎士団が,骨董品として残るのではなく活動し続ける組織であること。イスラム相手の戦士は消えましたが、もう一つの任務、医療活動は残りました。世界中に赤字に変形十時のしるしをつけた病院や研究所や救急車があるように各原語別の隊を組んで活躍しています。
20,21世紀の騎士たち。900年を経て、アマルフィーの商人がイエルサレムに創設した当時の使命にも戻ったのである。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.0
グルメ
4.0
ショッピング
4.0
交通
3.0
同行者
友人
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
鉄道 タクシー 飛行機
航空会社
JAL
旅行の手配内容
個別手配

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  • モンパルナス墓地

    モンパルナス墓地

  • モンパルナスのレストランどれも美味しい料理でした

    モンパルナスのレストランどれも美味しい料理でした

  • 実力あり

    実力あり

  • 安くてうまい。町中のビストロ

    安くてうまい。町中のビストロ

  • アッパー・バラッカ・ガーデン。<br />ホテルは直ぐ傍のCastille <br />便利なところでした。

    アッパー・バラッカ・ガーデン。
    ホテルは直ぐ傍のCastille 
    便利なところでした。

  • バレッタは要塞です

    バレッタは要塞です

  • バレッタ

    バレッタ

  • バレッタ

    バレッタ

  • 午後から出かけたクルーズは飽きるほど長時間でした。

    午後から出かけたクルーズは飽きるほど長時間でした。

  • マルタのイメージ

    マルタのイメージ

  • スリーシテイ―ズ

    スリーシテイ―ズ

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