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今年のGW前半は、2泊3日の岡山旅行。<br />到着した前日は雨が降りそうな不安定な天気だったのですが、今日は快晴!<br />朝から(寝坊したので昼近くから?)元気に岡山城へ行ってきました。<br /><br />

【岡山観光】 宇喜多秀家が築いた西国の名城 「烏城(岡山城)」

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2011/04/29 - 2011/04/29

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みにくま

みにくまさん

今年のGW前半は、2泊3日の岡山旅行。
到着した前日は雨が降りそうな不安定な天気だったのですが、今日は快晴!
朝から(寝坊したので昼近くから?)元気に岡山城へ行ってきました。

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  • 路面電車<br /><br />岡山駅から岡山城までは、のんびり歩いて30分くらいの距離。<br /><br />メインストリートである桃太郎通りをまっすぐ進めばたどり着くのですが、今回は路面電車を使ってみることにしました。<br /><br />

    路面電車

    岡山駅から岡山城までは、のんびり歩いて30分くらいの距離。

    メインストリートである桃太郎通りをまっすぐ進めばたどり着くのですが、今回は路面電車を使ってみることにしました。

  • 路面電車<br /><br />電車内はこんな感じ。<br />料金は後払いで、100円か140円。<br /><br />

    路面電車

    電車内はこんな感じ。
    料金は後払いで、100円か140円。

  • 路面電車<br /><br />岡山駅前から、城に一番近い城下電停まで乗っていこうと思ったのですが、その手前柳川電停で右折する電車だったようです。<br /><br />乗る時にどこ行きなのか、ちゃんと確認しておいたほうがいいですね。<br /><br />

    路面電車

    岡山駅前から、城に一番近い城下電停まで乗っていこうと思ったのですが、その手前柳川電停で右折する電車だったようです。

    乗る時にどこ行きなのか、ちゃんと確認しておいたほうがいいですね。

  • 路面電車<br /><br />私たちが乗ってきたピンク色の電車のほかに、白い桃太郎マークの電車もありました。<br />

    路面電車

    私たちが乗ってきたピンク色の電車のほかに、白い桃太郎マークの電車もありました。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />岡山城は、黒い下見板張りの外観から別名「烏城(うじょう)」と呼ばれ、また金の鯱を挙げていたと伝えられるため、「金烏城」の名もあります。<br /><br />当時はかなり広い縄張りだったはずですが、今は二の丸・三の丸があったであろう場所も市街地に飲み込まれ、写真のような不思議な光景を見ることができます。<br />

    烏城(岡山城)

    岡山城は、黒い下見板張りの外観から別名「烏城(うじょう)」と呼ばれ、また金の鯱を挙げていたと伝えられるため、「金烏城」の名もあります。

    当時はかなり広い縄張りだったはずですが、今は二の丸・三の丸があったであろう場所も市街地に飲み込まれ、写真のような不思議な光景を見ることができます。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />こういう立派な石垣が、城下のいたるところに広がっています。<br />

    烏城(岡山城)

    こういう立派な石垣が、城下のいたるところに広がっています。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 岡山城石山門跡<br /><br />中には以前はどのような建物があったのか分かるように看板が立てられている場所もありました。<br /><br />石山門は、戦前は国宝に指定されていましたが、昭和20年の空襲により焼失してしまいました。<br />こちらの石垣には、赤茶けた焼け跡が残っており、空襲の激しさを物語っています。<br /><br /><br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 岡山城石山門跡

    中には以前はどのような建物があったのか分かるように看板が立てられている場所もありました。

    石山門は、戦前は国宝に指定されていましたが、昭和20年の空襲により焼失してしまいました。
    こちらの石垣には、赤茶けた焼け跡が残っており、空襲の激しさを物語っています。


  • 林原美術館<br /><br />岡山城周辺には美術館・博物館・図書館などがありますが、今回は時間の関係で行けませんでした。<br />

    林原美術館

    岡山城周辺には美術館・博物館・図書館などがありますが、今回は時間の関係で行けませんでした。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />内堀沿いに歩いていると、岡山城の天守が見えてきました。<br />

    烏城(岡山城)

    内堀沿いに歩いていると、岡山城の天守が見えてきました。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />パンジー<br />

    烏城(岡山城)

    パンジー

  • 烏城(岡山城)<br /><br />パンジーと岡山城<br />

    烏城(岡山城)

    パンジーと岡山城

  • 烏城(岡山城)<br /><br />内下馬橋<br /><br />

    烏城(岡山城)

    内下馬橋

  • 烏城(岡山城)<br /><br />内堀<br /><br />向こうのほうには白鳥が泳いでいます。<br />

    烏城(岡山城)

    内堀

    向こうのほうには白鳥が泳いでいます。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />豊臣五大老・宇喜多秀家が築いた西国屈指の名城。<br />小早川・池田と引き継がれた築城事業により、古式な望楼型天守をはじめ櫓35棟・多門櫓6棟・城門25棟を擁する堂々たる城郭へ変貌する。<br /><br />世が明治と改まり、城は藩の府城たる役割を終えるが、天主閣は破却を免れて国宝となる。<br /><br />惜しくも天守は戦災で焼失するが、のち再建。今も岡山のシンボルとして街を見守り続けている。<br />

    烏城(岡山城)

    豊臣五大老・宇喜多秀家が築いた西国屈指の名城。
    小早川・池田と引き継がれた築城事業により、古式な望楼型天守をはじめ櫓35棟・多門櫓6棟・城門25棟を擁する堂々たる城郭へ変貌する。

    世が明治と改まり、城は藩の府城たる役割を終えるが、天主閣は破却を免れて国宝となる。

    惜しくも天守は戦災で焼失するが、のち再建。今も岡山のシンボルとして街を見守り続けている。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />この地図は烏城公園の案内図ですが、この公園部分は城全体の本丸だけにすぎず、以前は二の丸・三の丸がこの周囲に大きく広がっていました。<br /><br />

    烏城(岡山城)

    この地図は烏城公園の案内図ですが、この公園部分は城全体の本丸だけにすぎず、以前は二の丸・三の丸がこの周囲に大きく広がっていました。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 大手門(内下馬門跡)<br /><br />付近は本丸の正門があったところで、城の威厳や大名の権力を誇示するために、巨石が組み込まれている。<br /><br />最大の石は、高さ4.1m、幅3.4mであるが、厚みはなく、板石を建てたものである。<br /><br />発掘調査によって、関ヶ原合戦直後に池田氏が築いたものである可能性が強まった。<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 大手門(内下馬門跡)

    付近は本丸の正門があったところで、城の威厳や大名の権力を誇示するために、巨石が組み込まれている。

    最大の石は、高さ4.1m、幅3.4mであるが、厚みはなく、板石を建てたものである。

    発掘調査によって、関ヶ原合戦直後に池田氏が築いたものである可能性が強まった。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 大納戸櫓台の石垣<br /><br />関ヶ原合戦後に、小早川秀秋が築き、池田利隆が大幅に改修したとみられる石垣である。<br /><br />加工をあまり施さない自然石を用いているが、上部ほど傾斜が強くなる特徴を持っている。<br /><br />上に建っていた大納戸櫓は、南北長20m、三階建ての雄大な建物であった。<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 大納戸櫓台の石垣

    関ヶ原合戦後に、小早川秀秋が築き、池田利隆が大幅に改修したとみられる石垣である。

    加工をあまり施さない自然石を用いているが、上部ほど傾斜が強くなる特徴を持っている。

    上に建っていた大納戸櫓は、南北長20m、三階建ての雄大な建物であった。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />ツツジ<br /><br />まだ満開というわけではありませんが、ところどころ綺麗に咲いており、重厚な城を、明るく華やかな雰囲気にしていました。<br />

    烏城(岡山城)

    ツツジ

    まだ満開というわけではありませんが、ところどころ綺麗に咲いており、重厚な城を、明るく華やかな雰囲気にしていました。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />ツツジ<br />

    烏城(岡山城)

    ツツジ

  • 烏城(岡山城)<br /><br />ツツジ<br />

    烏城(岡山城)

    ツツジ

  • 烏城(岡山城)<br /><br />ツツジと不明(あかずの)門<br />

    烏城(岡山城)

    ツツジと不明(あかずの)門

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 不明(あかずの)門下の石垣<br /><br />右隅は宇喜多秀家期の石垣に被せて造られており、関ヶ原合戦後の小早川秀秋期か前池田期に築かれたものとみられる。<br /><br />上部は不明門を建てた時に積み足され、中ほどの一部は天保9年(1838)に崩れて修理を受けている。<br /><br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 不明(あかずの)門下の石垣

    右隅は宇喜多秀家期の石垣に被せて造られており、関ヶ原合戦後の小早川秀秋期か前池田期に築かれたものとみられる。

    上部は不明門を建てた時に積み足され、中ほどの一部は天保9年(1838)に崩れて修理を受けている。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 不明(あかずの)門下の石垣<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 不明(あかずの)門下の石垣

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 鉄門(くろがねもん)跡<br /><br />下の段の南側から表書院へ通じる櫓門。<br />木部の全体を鉄板でおおったいかめしい門があった。

    烏城(岡山城)

    ◎ 鉄門(くろがねもん)跡

    下の段の南側から表書院へ通じる櫓門。
    木部の全体を鉄板でおおったいかめしい門があった。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 鉄門(くろがねもん)跡<br /><br />この写真のどこかに、みにくま君が隠れています。<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 鉄門(くろがねもん)跡

    この写真のどこかに、みにくま君が隠れています。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 不明(あかずの)門<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 不明(あかずの)門

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 天守<br /><br />表書院跡から天守を撮影。<br />かなり近づき、大きく見えるようになってきました。<br /><br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 天守

    表書院跡から天守を撮影。
    かなり近づき、大きく見えるようになってきました。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />藤棚<br /><br />藤が咲くにはまだ少し早かったのですが、光の関係でとっても良い写真が撮れました。<br /><br />

    烏城(岡山城)

    藤棚

    藤が咲くにはまだ少し早かったのですが、光の関係でとっても良い写真が撮れました。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 月見櫓 重要文化財<br /><br />月見櫓は、岡山城本丸を構成する一二三の段の二段目に当たる中の段の北西角を固める隅櫓で、池田忠雄が岡山藩主であったときの城郭整備に伴い、元和年間から寛永年間前半の時期(1620年代)の建築と判断されています。<br /><br />構造は、一部地下付きの塗籠造り本瓦葺き二階建てで、城外(北西)側から眺めると二層の望楼型の様相を示し、城内(南東)側から眺めると三層の層塔型の景観を呈しています。<br /><br />規模は、地階と一階が桁行(東西)9.79m、梁間(南北)7.94m・二階が方形で桁行・梁間とも5.03m、棟高13.67mです。<br /><br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 月見櫓 重要文化財

    月見櫓は、岡山城本丸を構成する一二三の段の二段目に当たる中の段の北西角を固める隅櫓で、池田忠雄が岡山藩主であったときの城郭整備に伴い、元和年間から寛永年間前半の時期(1620年代)の建築と判断されています。

    構造は、一部地下付きの塗籠造り本瓦葺き二階建てで、城外(北西)側から眺めると二層の望楼型の様相を示し、城内(南東)側から眺めると三層の層塔型の景観を呈しています。

    規模は、地階と一階が桁行(東西)9.79m、梁間(南北)7.94m・二階が方形で桁行・梁間とも5.03m、棟高13.67mです。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 月見櫓 重要文化財<br /><br />地階は、一階床下の貯蔵場所であり、一階の床板が引上げ式の戸造りとなっていて、有事の際に一階へ通じる作りとなっています。一階は、西面に石落し(俯射装置)付きの唐破風造りの出格子窓を設けて城外側への臨戦の備えをなし、南面西寄りに入口を設けています。<br /><br />二階は、西側の初層屋根の妻部に千鳥破風の格子窓、西壁に引き違い窓、北側の踊場北窓に破風造りの武者窓、北側に引き違い窓を設けて、一階同様に城外側への備えを厳しくしています。<br />その一方で、二階の城内側の東面と南面には雨戸を立ての手摺付きの縁がめぐり、内側に腰高明り障子を立てており、二階のたたずまいは、城内側が日常生活仕様となっていて、平時にも月見を始めとした四季の眺望と小宴を催すのに格好の構造となっています。<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 月見櫓 重要文化財

    地階は、一階床下の貯蔵場所であり、一階の床板が引上げ式の戸造りとなっていて、有事の際に一階へ通じる作りとなっています。一階は、西面に石落し(俯射装置)付きの唐破風造りの出格子窓を設けて城外側への臨戦の備えをなし、南面西寄りに入口を設けています。

    二階は、西側の初層屋根の妻部に千鳥破風の格子窓、西壁に引き違い窓、北側の踊場北窓に破風造りの武者窓、北側に引き違い窓を設けて、一階同様に城外側への備えを厳しくしています。
    その一方で、二階の城内側の東面と南面には雨戸を立ての手摺付きの縁がめぐり、内側に腰高明り障子を立てており、二階のたたずまいは、城内側が日常生活仕様となっていて、平時にも月見を始めとした四季の眺望と小宴を催すのに格好の構造となっています。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 月見櫓 重要文化財<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 月見櫓 重要文化財

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 穴蔵<br /><br />香川県豊島産の凝灰岩(豊島石)の切石で造られており、幅3.8m、奥行2.9m、深さ2.3mあります。<br />もとは屋根があり、非常用の食料を保存していたのではないかと考えられています。<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 穴蔵

    香川県豊島産の凝灰岩(豊島石)の切石で造られており、幅3.8m、奥行2.9m、深さ2.3mあります。
    もとは屋根があり、非常用の食料を保存していたのではないかと考えられています。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />岡山城にまつわる城主たち<br /><br />◎ 戦国岡山を制した梟雄 宇喜多直家(1529〜1581)<br /><br />尼子経久や毛利元就と共に中国地方三大謀将に数えられる戦国大名である。<br /><br />備前の名族・宇喜多氏の宇喜多興家の子に生まれるが、当主である浦上家三代に仕えた祖父・宇喜多能家が同僚の島村盛実の諫言によって謀殺され、父・宇喜多興家も暗愚を装って逃亡し、まだ幼い宇喜多直家も生まれ育った砥石城を逃げ出す事になった。<br /><br />逃亡中に父も死に、母は浦上宗景の奥女中となった為、事実上の孤児の状態から伯母の手で育てられた宇喜多直家は、母の尽力により奇跡的に浦上宗景の家臣となり、300石の小城・乙子城の城主となった。<br />後に宇喜多三老と呼ばれる岡利勝、戸川秀安、長船貞親や花房正幸ら家臣らと城を守りながら、自らの権謀術数の限りを尽くして重臣に昇りつめて砥石城を取り戻し、果てには浦上宗景を追放して備前国を支配する戦国大名にのしあがった。<br /><br />が、織田信長の遠征軍に対して一度は敵対した後、和睦。羽柴秀吉と共に中国侵攻軍に加わり、息子・宇喜多秀家の事を、同じく低い地位から駆け上がった身同士で意気投合したと思われる羽柴秀吉に託して没した。<br /><br />宇喜多直家については、共に宇喜多家再興に尽力した異母弟の宇喜多忠家が、宇喜多直家死後に話した<br /><br />「兄は恐ろしい男だった。腹黒く、なにをたくらんでいるかわからないところがあった。それゆえ兄の前に出るときは、かならず衣服の下に鎖帷子をつけたものだ。」<br /> <br />との逸話もあり、且つ、一度は武家の最下層にまで転落した身から復活する為に、暗殺・毒殺の他、妻の実家や娘の嫁ぎ先を滅ぼして結果的に妻や娘を自決に追い込む等血なまぐさいエピソードから、同じく権謀術数の限りを尽くした毛利元就の様に英雄・英傑とは呼ばれず、血も涙も無い腹黒い人物とされ、著作によっては悪人の代名詞とされる事が多い。<br />

    烏城(岡山城)

    岡山城にまつわる城主たち

    ◎ 戦国岡山を制した梟雄 宇喜多直家(1529〜1581)

    尼子経久や毛利元就と共に中国地方三大謀将に数えられる戦国大名である。

    備前の名族・宇喜多氏の宇喜多興家の子に生まれるが、当主である浦上家三代に仕えた祖父・宇喜多能家が同僚の島村盛実の諫言によって謀殺され、父・宇喜多興家も暗愚を装って逃亡し、まだ幼い宇喜多直家も生まれ育った砥石城を逃げ出す事になった。

    逃亡中に父も死に、母は浦上宗景の奥女中となった為、事実上の孤児の状態から伯母の手で育てられた宇喜多直家は、母の尽力により奇跡的に浦上宗景の家臣となり、300石の小城・乙子城の城主となった。
    後に宇喜多三老と呼ばれる岡利勝、戸川秀安、長船貞親や花房正幸ら家臣らと城を守りながら、自らの権謀術数の限りを尽くして重臣に昇りつめて砥石城を取り戻し、果てには浦上宗景を追放して備前国を支配する戦国大名にのしあがった。

    が、織田信長の遠征軍に対して一度は敵対した後、和睦。羽柴秀吉と共に中国侵攻軍に加わり、息子・宇喜多秀家の事を、同じく低い地位から駆け上がった身同士で意気投合したと思われる羽柴秀吉に託して没した。

    宇喜多直家については、共に宇喜多家再興に尽力した異母弟の宇喜多忠家が、宇喜多直家死後に話した

    「兄は恐ろしい男だった。腹黒く、なにをたくらんでいるかわからないところがあった。それゆえ兄の前に出るときは、かならず衣服の下に鎖帷子をつけたものだ。」

    との逸話もあり、且つ、一度は武家の最下層にまで転落した身から復活する為に、暗殺・毒殺の他、妻の実家や娘の嫁ぎ先を滅ぼして結果的に妻や娘を自決に追い込む等血なまぐさいエピソードから、同じく権謀術数の限りを尽くした毛利元就の様に英雄・英傑とは呼ばれず、血も涙も無い腹黒い人物とされ、著作によっては悪人の代名詞とされる事が多い。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />岡山城にまつわる城主たち<br /><br />◎ 秀吉の信任厚い若き備前中納言 宇喜多秀家(1573〜1655)<br /><br />安土桃山時代の武将・大名。豊臣政権下の五大老の一人。通称は「備前宰相」。大名家としての宇喜多氏最後の当主であり、備前岡山57万4000石の大名。<br /><br />宇喜多直家晩生の子で、天正9年(1581)、父の病没により9歳で家督を相続。翌年毛利征伐のため出陣してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に気に入られ、養子扱いの厚遇を受ける。<br /><br />本能寺の変ののち、秀吉の天下取りの戦いに積極的に参戦、数々の戦功を挙げ、天下統一後は備前国・美作国・播磨国西部と備中国東半の57万4千石を知行する大大名に躍進した。<br /><br />天正17年(1589)には、前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を正室に迎えている。文禄の役(第一次朝鮮出兵)では元帥を務め、戦後その功により中納言に昇進。さらに、徳川家康、前田利家らとともに豊臣政権の最高機関である五大老に任じられ、名実ともに政権の実力者に名を連ねた。<br /><br />天正18年(1590)、自らの勢力に見合う居城の築城に着手。その城普請には秀吉の指導を受け、父・直家が居城とした石山の城(岡山城の前身)の東隣の丘陵「岡山」に本丸を構えることとした。同時に、近世的な城郭構想に基づき城下町の建設にも着手、商工業者を城下に集め、のちの岡山発展の基礎を築いた。<br /><br />慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍の主力となって奮戦するが壊滅・敗走、薩摩の島津家へ逃れた。3年後、幕府に出頭。死罪を免れて二人の子息、近侍とともに八丈島へ配流された。島にあること約50年、明暦元年(1655)、83歳で没した。<br />なお配所の宇喜多一族には、豪姫の実家・前田家や旧家臣・花房家から援助が続けられた。<br />

    烏城(岡山城)

    岡山城にまつわる城主たち

    ◎ 秀吉の信任厚い若き備前中納言 宇喜多秀家(1573〜1655)

    安土桃山時代の武将・大名。豊臣政権下の五大老の一人。通称は「備前宰相」。大名家としての宇喜多氏最後の当主であり、備前岡山57万4000石の大名。

    宇喜多直家晩生の子で、天正9年(1581)、父の病没により9歳で家督を相続。翌年毛利征伐のため出陣してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に気に入られ、養子扱いの厚遇を受ける。

    本能寺の変ののち、秀吉の天下取りの戦いに積極的に参戦、数々の戦功を挙げ、天下統一後は備前国・美作国・播磨国西部と備中国東半の57万4千石を知行する大大名に躍進した。

    天正17年(1589)には、前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を正室に迎えている。文禄の役(第一次朝鮮出兵)では元帥を務め、戦後その功により中納言に昇進。さらに、徳川家康、前田利家らとともに豊臣政権の最高機関である五大老に任じられ、名実ともに政権の実力者に名を連ねた。

    天正18年(1590)、自らの勢力に見合う居城の築城に着手。その城普請には秀吉の指導を受け、父・直家が居城とした石山の城(岡山城の前身)の東隣の丘陵「岡山」に本丸を構えることとした。同時に、近世的な城郭構想に基づき城下町の建設にも着手、商工業者を城下に集め、のちの岡山発展の基礎を築いた。

    慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍の主力となって奮戦するが壊滅・敗走、薩摩の島津家へ逃れた。3年後、幕府に出頭。死罪を免れて二人の子息、近侍とともに八丈島へ配流された。島にあること約50年、明暦元年(1655)、83歳で没した。
    なお配所の宇喜多一族には、豪姫の実家・前田家や旧家臣・花房家から援助が続けられた。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />岡山城にまつわる城主たち<br /><br />◎ 歴史の奔流に呑まれた夭折の君主 小早川秀秋(1582〜1602)<br /><br />木下秀吉(後に羽柴、豊臣)の正室おね(北政所、高台院)の兄・杉原家定(後に木下)の五男に生まれる。おねに愛され、幼少から秀吉の猶子となるが、文禄元年(1592)に小早川隆景の養子となり、2年後、隆景の隠居に伴い家督を相続、筑前国・肥前国のうち30万7000石を領有し、わずか13歳にして名島城主となる。<br /><br />秀吉死後の慶長5年(1600)、豊臣家家臣団・文治派による打倒・徳川家康の戦では、はじめ宗家である毛利家とともに西軍の主力となり伏見城を攻略するが、9月15日の決戦=関ヶ原の合戦では途中で東軍について西軍を攻撃、東軍大勝の立役者となった。この戦功により、敗軍の将となった宇喜多秀家の旧領のうち備前国・美作国の51万石を与えられた。<br /><br />岡山城に入城した秀秋は、その大幅な近代化改装に取り組んだ。よく知られているのは、従来の外堀の外側に新たに倍の幅を持つ外堀を築いたことで、これにより城域そのものが約2倍に拡張された。この新しい外堀はわずか20日間で完成したと伝えられ、「二十日堀」と呼ばれる。<br />さらに総検地の実施、寺社領の再整備と古刹の復興、領内の域割りの実施等、数々の治績を残すが、在封2年足らずの慶長7年(1602)、21歳の若さで没する。<br />史書類には岡山在城時の乱行を記したものがあり、その死には諸説あるが、こうした悪評とその業績とは相容れないものである。<br />

    烏城(岡山城)

    岡山城にまつわる城主たち

    ◎ 歴史の奔流に呑まれた夭折の君主 小早川秀秋(1582〜1602)

    木下秀吉(後に羽柴、豊臣)の正室おね(北政所、高台院)の兄・杉原家定(後に木下)の五男に生まれる。おねに愛され、幼少から秀吉の猶子となるが、文禄元年(1592)に小早川隆景の養子となり、2年後、隆景の隠居に伴い家督を相続、筑前国・肥前国のうち30万7000石を領有し、わずか13歳にして名島城主となる。

    秀吉死後の慶長5年(1600)、豊臣家家臣団・文治派による打倒・徳川家康の戦では、はじめ宗家である毛利家とともに西軍の主力となり伏見城を攻略するが、9月15日の決戦=関ヶ原の合戦では途中で東軍について西軍を攻撃、東軍大勝の立役者となった。この戦功により、敗軍の将となった宇喜多秀家の旧領のうち備前国・美作国の51万石を与えられた。

    岡山城に入城した秀秋は、その大幅な近代化改装に取り組んだ。よく知られているのは、従来の外堀の外側に新たに倍の幅を持つ外堀を築いたことで、これにより城域そのものが約2倍に拡張された。この新しい外堀はわずか20日間で完成したと伝えられ、「二十日堀」と呼ばれる。
    さらに総検地の実施、寺社領の再整備と古刹の復興、領内の域割りの実施等、数々の治績を残すが、在封2年足らずの慶長7年(1602)、21歳の若さで没する。
    史書類には岡山在城時の乱行を記したものがあり、その死には諸説あるが、こうした悪評とその業績とは相容れないものである。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />岡山城にまつわる城主たち<br /><br />◎ 西国将軍輝政の子・家康の孫 池田忠継(1599〜1615)<br /><br />備前国岡山藩初代藩主。<br /><br />豊臣政権の有力大名で「西国将軍」と称された池田輝政を父にもち、母は徳川家康の娘・督姫。<br /><br />関ヶ原合戦を経て徳川家康の天下になると、戦功により輝政は播磨国52万石を支配する姫路城主となり、慶長8年(1603)にはわずか5歳の忠継も備前国28万石を賜り岡山城主となる。家康の外孫ゆえの厚遇といえよう。しかし実際には幼少の忠継は姫路城にとどまり、兄・利隆が岡山城に赴いて輝政の指示のもと治世に当たり、実質的な城主となった。<br /><br />実際に忠継が岡山城に入城したのは輝政没後の慶長19年(1614)のことであった。利隆が輝政の遺領を継いで姫路城主となるが、このとき幕府は播磨国西部の10万石を忠継に与え、その知行は計38万石となった。同年、利隆とともに大坂冬の陣に出陣、和睦後岡山城へ凱旋するが間もなく発病し、慶長20年(1615)2月、17歳の短い生涯を閉じた。

    烏城(岡山城)

    岡山城にまつわる城主たち

    ◎ 西国将軍輝政の子・家康の孫 池田忠継(1599〜1615)

    備前国岡山藩初代藩主。

    豊臣政権の有力大名で「西国将軍」と称された池田輝政を父にもち、母は徳川家康の娘・督姫。

    関ヶ原合戦を経て徳川家康の天下になると、戦功により輝政は播磨国52万石を支配する姫路城主となり、慶長8年(1603)にはわずか5歳の忠継も備前国28万石を賜り岡山城主となる。家康の外孫ゆえの厚遇といえよう。しかし実際には幼少の忠継は姫路城にとどまり、兄・利隆が岡山城に赴いて輝政の指示のもと治世に当たり、実質的な城主となった。

    実際に忠継が岡山城に入城したのは輝政没後の慶長19年(1614)のことであった。利隆が輝政の遺領を継いで姫路城主となるが、このとき幕府は播磨国西部の10万石を忠継に与え、その知行は計38万石となった。同年、利隆とともに大坂冬の陣に出陣、和睦後岡山城へ凱旋するが間もなく発病し、慶長20年(1615)2月、17歳の短い生涯を閉じた。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 不明(あかずの)門<br /><br />表書院(藩庁)の南端から本段(城主居館)へ上る石段の入口に設けた渡櫓門、天守閣のある本段全体の入口を固めた大形の城門であるが、平素の出入りは北端の渡り廊下を使用し、この門はほとんど閉ざされていたことから「不明(あかずの)門」と呼ばれた。<br /><br />明治の廃城後取り壊されたが昭和41年、鉄筋コンクリートで再建された。<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 不明(あかずの)門

    表書院(藩庁)の南端から本段(城主居館)へ上る石段の入口に設けた渡櫓門、天守閣のある本段全体の入口を固めた大形の城門であるが、平素の出入りは北端の渡り廊下を使用し、この門はほとんど閉ざされていたことから「不明(あかずの)門」と呼ばれた。

    明治の廃城後取り壊されたが昭和41年、鉄筋コンクリートで再建された。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 不明(あかずの)門<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 不明(あかずの)門

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 不明(あかずの)門<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 不明(あかずの)門

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 不明(あかずの)門<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 不明(あかずの)門

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 不明(あかずの)門<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 不明(あかずの)門

  • 烏城(岡山城)<br /><br />岡山城にまつわる城主たち<br /><br />◎ 岡山藩政を確立した名君 池田光政(1609〜1672)<br /><br />播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。岡山藩池田家宗家3代。<br /><br />幼少の岡山藩主・池田忠継に代わり岡山城で執政にあたっていた池田利隆の嫡男として、同城に生まれる。元和2年(1616)、姫路藩主となっていた利隆の死に伴い遺領42万石を継ぐが、幼少のため翌年因幡国・伯耆国32万石の鳥取藩主に転封となる。鳥取在城時は鳥取城と城下町の大改修を手がけたが、寛永9年(1632)、従弟・池田光仲との国替えで、24歳の青年藩主として誕生の地・岡山城に入城、31万5,200石を知行することになる。<br /><br />光政は儒教を信奉し、藩政に「仁政」を実践すべく、藩主親政の領国治世に邁進した。儒教を藩是とし、熊沢蕃山をはじめ、多くの儒学者を岡山に招いている。その治績は、家臣に領主権を分与する地方知行制(じかたちぎょうせい)から米・貨幣を与える俸禄制への転換といった行政機構・領内支配体制の抜本的改革、大規模な新田開発と農村整備・治水対策といった社会資本整備から、藩士の子弟のための藩学校のほかに領民の教育施設である閑谷学校(しずたにがっこう)を整備するなどの教育施策にまで及び、まさに岡山藩政の基礎を確立したといえる。<br /><br />寛文12年(1672)、藩主の座を嫡男・綱政に譲り、岡山城西之丸に隠居。このとき新田分のうち2万5,000石を二男・政言(まさこと)に、1万5,000石を三男・輝録(てるとし)に分知し、それぞれ鴨方藩、生坂藩を支藩として設置した。<br /><br />隠居して10年後の天和2年(1682)、74歳で没する。<br /><br />水戸藩主・徳川光圀や会津藩主・保科正之と並び称される、近世初期屈指の名君であった。

    イチオシ

    烏城(岡山城)

    岡山城にまつわる城主たち

    ◎ 岡山藩政を確立した名君 池田光政(1609〜1672)

    播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。岡山藩池田家宗家3代。

    幼少の岡山藩主・池田忠継に代わり岡山城で執政にあたっていた池田利隆の嫡男として、同城に生まれる。元和2年(1616)、姫路藩主となっていた利隆の死に伴い遺領42万石を継ぐが、幼少のため翌年因幡国・伯耆国32万石の鳥取藩主に転封となる。鳥取在城時は鳥取城と城下町の大改修を手がけたが、寛永9年(1632)、従弟・池田光仲との国替えで、24歳の青年藩主として誕生の地・岡山城に入城、31万5,200石を知行することになる。

    光政は儒教を信奉し、藩政に「仁政」を実践すべく、藩主親政の領国治世に邁進した。儒教を藩是とし、熊沢蕃山をはじめ、多くの儒学者を岡山に招いている。その治績は、家臣に領主権を分与する地方知行制(じかたちぎょうせい)から米・貨幣を与える俸禄制への転換といった行政機構・領内支配体制の抜本的改革、大規模な新田開発と農村整備・治水対策といった社会資本整備から、藩士の子弟のための藩学校のほかに領民の教育施設である閑谷学校(しずたにがっこう)を整備するなどの教育施策にまで及び、まさに岡山藩政の基礎を確立したといえる。

    寛文12年(1672)、藩主の座を嫡男・綱政に譲り、岡山城西之丸に隠居。このとき新田分のうち2万5,000石を二男・政言(まさこと)に、1万5,000石を三男・輝録(てるとし)に分知し、それぞれ鴨方藩、生坂藩を支藩として設置した。

    隠居して10年後の天和2年(1682)、74歳で没する。

    水戸藩主・徳川光圀や会津藩主・保科正之と並び称される、近世初期屈指の名君であった。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />岡山城にまつわる城主たち<br /><br />◎ 父の治績を継承、後楽園の築庭者 池田綱政(1638〜1714)<br /><br />岡山藩の第2代藩主。岡山藩池田家宗家4代。<br /><br />池田光政の嫡男として江戸藩邸で生まれる。<br />20歳から岡山にあり、父から執政を学ぶ。寛文12年(1672)、父の隠居に伴い岡山藩主となるが、翌年には領内が大洪水に見舞われ年貢収入が激減、さらにその翌々年の延宝3年(1675)には御所造営の課役により莫大な出費が生じ、藩は深刻な財政危機に陥った。このため綱政は藩政改革を断行、父に引き続いて津田永忠を重用するとともに服部図書ら有能な人材を登用、財政再建と農村整備に取り組んだ。沖新田・幸島新田等の開発(児島湾の大型干拓)を行い、また水利のため倉安川を、城下の洪水対策のため百間川を開削して、生産力増大と治水事業に顕著な業績を残した。<br /><br />父とは対照的に儒学を好まず、和歌・能楽・書画・蹴鞠などを好んだ文化人で、元禄13年(1700)には大名庭園・後楽園を造営。後楽園は現在、水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並んで日本三名園に数えられている。<br />また神仏への信仰が厚く、備前吉備津宮(現在の吉備津彦神社)を再建して池田家の氏神とし、さらに元禄11年(1698)には池田家の菩提寺として曹源寺を創建した。<br /><br />正徳4年(1714)没、77歳であった。

    烏城(岡山城)

    岡山城にまつわる城主たち

    ◎ 父の治績を継承、後楽園の築庭者 池田綱政(1638〜1714)

    岡山藩の第2代藩主。岡山藩池田家宗家4代。

    池田光政の嫡男として江戸藩邸で生まれる。
    20歳から岡山にあり、父から執政を学ぶ。寛文12年(1672)、父の隠居に伴い岡山藩主となるが、翌年には領内が大洪水に見舞われ年貢収入が激減、さらにその翌々年の延宝3年(1675)には御所造営の課役により莫大な出費が生じ、藩は深刻な財政危機に陥った。このため綱政は藩政改革を断行、父に引き続いて津田永忠を重用するとともに服部図書ら有能な人材を登用、財政再建と農村整備に取り組んだ。沖新田・幸島新田等の開発(児島湾の大型干拓)を行い、また水利のため倉安川を、城下の洪水対策のため百間川を開削して、生産力増大と治水事業に顕著な業績を残した。

    父とは対照的に儒学を好まず、和歌・能楽・書画・蹴鞠などを好んだ文化人で、元禄13年(1700)には大名庭園・後楽園を造営。後楽園は現在、水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並んで日本三名園に数えられている。
    また神仏への信仰が厚く、備前吉備津宮(現在の吉備津彦神社)を再建して池田家の氏神とし、さらに元禄11年(1698)には池田家の菩提寺として曹源寺を創建した。

    正徳4年(1714)没、77歳であった。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 慶長期の古式な天守閣<br /><br />宇喜多秀家が築いた岡山城天守閣は、慶長2年(1597)頃の竣工と言われている。<br />この時期は、豊臣秀吉による天下統一事業も終わり、全国で城と城下町の整備が促進された時期であったが、今日に残る近世城郭が築城されたのは関ヶ原合戦後のことなので、この頃に築造された天守閣は少ない。岡山城以外では、会津若松城・松本城・広島城などで、中でも岡山城は最も古式な様式で造られ、意匠を凝らした天守閣であった。

    烏城(岡山城)

    ◎ 慶長期の古式な天守閣

    宇喜多秀家が築いた岡山城天守閣は、慶長2年(1597)頃の竣工と言われている。
    この時期は、豊臣秀吉による天下統一事業も終わり、全国で城と城下町の整備が促進された時期であったが、今日に残る近世城郭が築城されたのは関ヶ原合戦後のことなので、この頃に築造された天守閣は少ない。岡山城以外では、会津若松城・松本城・広島城などで、中でも岡山城は最も古式な様式で造られ、意匠を凝らした天守閣であった。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 天守閣の様式<br /><br />岡山城天守閣は、大入母屋造りの基部に、高楼を重ねた、「望楼型」と呼ばれる様式をしている。<br />この様式は、犬山城・丸岡城など初期の天守によく見られるが、世界遺産で名高い姫路城もこの様式である。<br /><br />外観を見ると、外壁に黒塗りの下見板を張っているため全体的に黒色が強調された姿をしており、それに金箔瓦が彩を添えていた。「烏城」「金烏城」という異称はこれに由来する。この下見板も、初期の天守によく用いられた手法である。

    烏城(岡山城)

    ◎ 天守閣の様式

    岡山城天守閣は、大入母屋造りの基部に、高楼を重ねた、「望楼型」と呼ばれる様式をしている。
    この様式は、犬山城・丸岡城など初期の天守によく見られるが、世界遺産で名高い姫路城もこの様式である。

    外観を見ると、外壁に黒塗りの下見板を張っているため全体的に黒色が強調された姿をしており、それに金箔瓦が彩を添えていた。「烏城」「金烏城」という異称はこれに由来する。この下見板も、初期の天守によく用いられた手法である。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 複合式天守閣<br /><br />一見ひとつの建物のように見えるが、岡山城天守閣の西側三分の一は、塩蔵と呼ばれる別の櫓である。このような渡櫓なしで直接櫓が天守閣に付属している形式を「複合式天守」という。岡山城の他に、犬山城・松江城・小田原城などがある。特に松江城は様式も岡山城と同じ望楼式で、層の重なり方も似ており、現存する天守の中では最も岡山城に近い天守閣といえる。

    烏城(岡山城)

    ◎ 複合式天守閣

    一見ひとつの建物のように見えるが、岡山城天守閣の西側三分の一は、塩蔵と呼ばれる別の櫓である。このような渡櫓なしで直接櫓が天守閣に付属している形式を「複合式天守」という。岡山城の他に、犬山城・松江城・小田原城などがある。特に松江城は様式も岡山城と同じ望楼式で、層の重なり方も似ており、現存する天守の中では最も岡山城に近い天守閣といえる。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 天守閣南北立面図<br /><br />岡山城天守閣の外観上の大きな特徴は、南北と東西の幅が極端に異なること、そして1階と最上階の面積がこれまた大きく異なっている点にある。<br />南北方向から見ると、塩蔵が西面に付属していることもあって左右に大きく広がりを持ち、非常に安定した、優雅な姿をしている。<br /><br />◎ 天守閣東西立面図 <br /><br />東西の立面図を見ると、南北に比べ全長が半分以下となっているため、垂直方向に高くそそり立っているように見え、南北方向から見たときのようなどっしりした安定感はあまり感じられない。しかし、2つの大入母屋屋根が妻面を向けており、西面ではさらに塩蔵の入母屋妻面が加わるため、非常に賑やかな印象を受ける。 <br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 天守閣南北立面図

    岡山城天守閣の外観上の大きな特徴は、南北と東西の幅が極端に異なること、そして1階と最上階の面積がこれまた大きく異なっている点にある。
    南北方向から見ると、塩蔵が西面に付属していることもあって左右に大きく広がりを持ち、非常に安定した、優雅な姿をしている。

    ◎ 天守閣東西立面図

    東西の立面図を見ると、南北に比べ全長が半分以下となっているため、垂直方向に高くそそり立っているように見え、南北方向から見たときのようなどっしりした安定感はあまり感じられない。しかし、2つの大入母屋屋根が妻面を向けており、西面ではさらに塩蔵の入母屋妻面が加わるため、非常に賑やかな印象を受ける。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 内部平面の特徴<br /><br />天守閣の内部もまた、外観の複雑さを反映して、特徴的な様相を呈している。<br />普通、天守閣の内部各階はほぼ同じ四角形の平面をしており、上階に行くにつれ、同じ逓減率で部屋が小さくなっていくものだが、岡山城天守閣は1階から6階まで、全ての階が異なった平面をしているのである。これは、岡山城天守閣の天守台が、不等辺五角形をしていることに因るところが大きい。<br />1階平面が天守台の形そのままに五角形をしており、それを上階にいくにつれ、徐々に四角形に修正しているため、このような特徴的な構造となったのである。<br />五角形の天守台は全国唯一のものであり、四角形以外の天守台も、岡山城の他には織田信長が築いた安土城(八角形)以外には見られない。

    烏城(岡山城)

    ◎ 内部平面の特徴

    天守閣の内部もまた、外観の複雑さを反映して、特徴的な様相を呈している。
    普通、天守閣の内部各階はほぼ同じ四角形の平面をしており、上階に行くにつれ、同じ逓減率で部屋が小さくなっていくものだが、岡山城天守閣は1階から6階まで、全ての階が異なった平面をしているのである。これは、岡山城天守閣の天守台が、不等辺五角形をしていることに因るところが大きい。
    1階平面が天守台の形そのままに五角形をしており、それを上階にいくにつれ、徐々に四角形に修正しているため、このような特徴的な構造となったのである。
    五角形の天守台は全国唯一のものであり、四角形以外の天守台も、岡山城の他には織田信長が築いた安土城(八角形)以外には見られない。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 天守

    烏城(岡山城)

    ◎ 天守

  • 烏城(岡山城)<br /><br />この日の入城料は800円。<br />普段の入城料はもう少し安いと思うのですが、この日は特別展を行っていたので、いつもより高くなっています。<br />

    烏城(岡山城)

    この日の入城料は800円。
    普段の入城料はもう少し安いと思うのですが、この日は特別展を行っていたので、いつもより高くなっています。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 岡山の名工たち<br /><br />名刀を生んだ真金の技術 〜刀剣と時代の流れ〜<br /><br />期間 4月1日〜5月22日<br />時間 9:00〜17:30<br />場所 岡山城天守閣特別陳列場<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 岡山の名工たち

    名刀を生んだ真金の技術 〜刀剣と時代の流れ〜

    期間 4月1日〜5月22日
    時間 9:00〜17:30
    場所 岡山城天守閣特別陳列場

  • 烏城(岡山城)<br /><br />天守展望台からの眺め 〜南〜<br />

    烏城(岡山城)

    天守展望台からの眺め 〜南〜

  • 烏城(岡山城)<br /><br />天守展望台からの眺め 〜東〜<br />

    烏城(岡山城)

    天守展望台からの眺め 〜東〜

  • 烏城(岡山城)<br /><br />天守展望台からの眺め 〜北〜<br />

    烏城(岡山城)

    天守展望台からの眺め 〜北〜

  • 烏城(岡山城)<br /><br />天守展望台からの眺め 〜西〜<br />

    烏城(岡山城)

    天守展望台からの眺め 〜西〜

  • 烏城(岡山城)<br /><br />双眼鏡とちびくまJr<br /><br />

    烏城(岡山城)

    双眼鏡とちびくまJr

  • 烏城(岡山城)<br /><br />天守展望台からの眺め 金鯱<br />

    烏城(岡山城)

    天守展望台からの眺め 金鯱

  • 烏城(岡山城)<br /><br />天守展望台からの眺め<br /><br />

    烏城(岡山城)

    天守展望台からの眺め

  • 烏城(岡山城)<br /><br />天守からの眺め<br /><br />こちらは展望台からではなく、一段下の階からの眺めです。<br />

    烏城(岡山城)

    天守からの眺め

    こちらは展望台からではなく、一段下の階からの眺めです。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />鯱瓦<br /><br />岡山城本丸中の段の隅櫓や城門などの城郭建築物に使用されていた鯱瓦の一つで、明治15年以降の建物の取壊しに際して関係者のもとで保存されていましたが、この度天守閣の展示資料に寄贈されました。<br />

    烏城(岡山城)

    鯱瓦

    岡山城本丸中の段の隅櫓や城門などの城郭建築物に使用されていた鯱瓦の一つで、明治15年以降の建物の取壊しに際して関係者のもとで保存されていましたが、この度天守閣の展示資料に寄贈されました。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />記念撮影用の籠<br /><br />

    烏城(岡山城)

    記念撮影用の籠

  • 烏城(岡山城)<br /><br />記念撮影用の籠<br /><br />城内の実物展示品は基本的に撮影NG。<br />今日の特別展では、たくさんの刀剣が展示されていましたが、それらも撮影はできませんでした。<br />

    烏城(岡山城)

    記念撮影用の籠

    城内の実物展示品は基本的に撮影NG。
    今日の特別展では、たくさんの刀剣が展示されていましたが、それらも撮影はできませんでした。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 天守<br /><br />手前の白い建物は塩蔵です。<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 天守

    手前の白い建物は塩蔵です。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 天守<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 天守

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 天守<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 天守

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 天守<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 天守

  • 烏城(岡山城)<br /><br />天守からの帰りは、来た時とは反対側の廊下門へ向かいます。<br />ここから馬場口門のほうへ行くと、後楽園への近道になるからです。<br />

    烏城(岡山城)

    天守からの帰りは、来た時とは反対側の廊下門へ向かいます。
    ここから馬場口門のほうへ行くと、後楽園への近道になるからです。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 廊下門<br /><br />表書院(中段)から本段(上段)に渡した長廊下の下手に設けられた門で「廊下門」と呼ぶ。<br />昭和41年に鉄筋コンクリートで再建された。<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 廊下門

    表書院(中段)から本段(上段)に渡した長廊下の下手に設けられた門で「廊下門」と呼ぶ。
    昭和41年に鉄筋コンクリートで再建された。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 廊下門<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 廊下門

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 廊下門<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 廊下門

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 廊下門<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 廊下門

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 小納戸櫓下の石垣<br /><br />池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、搦め手の廊下門脇を守る小納戸櫓が上に建っていた。<br /><br />一帯の石垣の石材は犬島(岡山市犬島)から運ばれたとみられる割石で、「+」や「L」形などの刻印を持つものがある。

    烏城(岡山城)

    ◎ 小納戸櫓下の石垣

    池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、搦め手の廊下門脇を守る小納戸櫓が上に建っていた。

    一帯の石垣の石材は犬島(岡山市犬島)から運ばれたとみられる割石で、「+」や「L」形などの刻印を持つものがある。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 小納戸櫓下の石垣<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 小納戸櫓下の石垣

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 天守<br /><br />馬場口門付近からの眺めです。<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 天守

    馬場口門付近からの眺めです。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 月見橋<br /><br />岡山城と岡山後楽園を結ぶ唯一の橋です。<br />

    烏城(岡山城)

    ◎ 月見橋

    岡山城と岡山後楽園を結ぶ唯一の橋です。

  • 烏城(岡山城)<br /><br />◎ 月見橋からの眺め<br /><br />ここからの眺めが最高に綺麗です。<br />月見橋というくらいだから、城と月が綺麗に見られるんだろうなー。<br /><br />では、この後は岡山後楽園に向かいます。<br /><br /><br />◎ おしまい<br />

    イチオシ

    烏城(岡山城)

    ◎ 月見橋からの眺め

    ここからの眺めが最高に綺麗です。
    月見橋というくらいだから、城と月が綺麗に見られるんだろうなー。

    では、この後は岡山後楽園に向かいます。


    ◎ おしまい

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この旅行記へのコメント (10)

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  • saraさん 2011/05/05 21:16:11
    岡山へようこそ
    みにくまさん、こんばんは。

    ようこそ岡山へ。
    歴史がきちんと調べてあって嬉しくなりました。
    写真も素敵で、岡山在住の私も「綺麗なお城〜、行ってみた〜い」と思っちゃいました(笑
    倉敷旅行記も楽しみです。

    by sara

    みにくま

    みにくまさん からの返信 2011/05/06 22:57:45
    RE: 岡山へようこそ

    saraさん、こんばんは〜。

    GWの前半は岡山へ行ってきました。
    城・庭園・倉敷と3か所しか行けませんでしたが、楽しかったです。

    お城や歴史の勉強は私も好きなので、旅行記を作成しているうちに豆知識的なことも調べていて、私も勉強になりました。

    私はちょっと他の方とは違うポイントから撮影したりするので、同じ岡山でも、ここどこ??、なんて思ってしまう写真もあるかもしれません。

    少し急用があって旅行記を作成できていませんが、近いうちに倉敷旅行記も作成しますので、またお時間のある時にでものぞいてみて下さい。


    では〜(^O^)/
  • たらよろさん 2011/05/03 13:31:34
    烏色・・・
    こんにちは〜みにくま様

    GWなのに、私1人でお休みで暇してます(笑)

    岡山城、以前行った時は大雨で、もちろん後楽園も大雨で(笑)
    それでも、そのフォルムのすごく綺麗な岡山城は印象に残ってます。
    でも、やっぱり晴れていると尚一層いいですね〜

    黒と白と金色のコントラスト♪

    また見てみたいなぁ。。。

      たらよろ

    みにくま

    みにくまさん からの返信 2011/05/03 22:27:16
    RE: 烏色・・・

    たらよろさん、こんばんは〜。

    あらま、ご主人はお忙しいみたいですねー(^_^;)

    私たちはGWの前半は岡山へ行ってきたのですが、後半は何も予定がないので、当日になって天気を見て、どこに行くか考える感じです。

    岡山城は初めて見ましたが、黒い壁がどっしりした感じで迫力がありました。
    私たちが到着した日にも、少し観光できる時間があったのですが、途中で雨が降りそうな感じだったので行きませんでした。
    雨が降っちゃうと、観光も写真を撮るのもすごく大変になっちゃいますよね。
    雨の中の城とかも、写真で見るにはいいのでしょうけど、撮る時は傘をさしながらでは、数倍疲れてしまいます。

    岡山は大阪からでも1時間ちょいで行けるので、気軽でいいですね。

    私もまた機会があれば行きたいです。


    では〜(^O^)/
  • かずちゃんママさん 2011/05/03 09:52:11
    連休・・
    みにくまさん こんにちは〜

     連休は,岡山にいらっしゃっていたんですか・・。
     岡山は,近いので何度も来ているのに,後楽園や烏城の詳しいこと何も知らなくて・・・。
     すごく勉強になりました!! ありがとうございます。(でも,すぐ忘れます)

     後楽園は,ツツジやサツキがきれいなのですね。この季節に行ったことがないので,すごく新鮮でした。サツキの小さな花が密集しているのは,すばらしいです。今年は,満開が遅いようですね。
     
     ここは,高松の栗林公園より,洋風な庭園という感じがしていました。広い芝生があったり・・。近くにもいいところがあるということを,再発見ました。。

     写真の加工,水彩画風というのもおもしろいですね。私もあるサイトを見つけては,いるのですが,まだ試していません。。楽しみがまた1つ増えた感じですね。

     ところで,気になったのは,オレンジ色の花のことですが,「ポピー」とあるのですが,これは「パンジー」ではないでしょうか? 珍しい色ですね。(花や葉っぱの形がパンジー・??)

     みにくまさんが,2泊3日をどう過ごされたのか,気になります。「どんな体験をして,どんなものを食べて,どこへ泊まったのか・・・?」 
     
     今後の展開,楽しみに待っています。

     では,また〜

              田植えが終わった田んぼに囲まれているさぬきのかずちゃんママより

     

     

    みにくま

    みにくまさん からの返信 2011/05/03 22:21:08
    RE: 連休・・


    かずちゃんママさん、こんばんは〜。

    GWの前半は、岡山へ行ってきました。
    2泊3日なので、城と庭とあとは倉敷にしか行けませんでしたが、なかなか楽しかったですよ。
    岡山城のことは事前勉強などほとんどしないで行ったので(これが楽しい)、帰ってきてから写真を見て編集していくうちに、私も勉強になることが多々ありました。

    ツツジやサツキ

    ぎゃっ!
    私が全部ツツジだと思っていたのは、一部サツキだったんですね。
    花の小さいほうがサツキですかー。

    ポピーとパンジー

    あらっ、これも間違えていました(^_^;)
    ポピーは、城から後楽園へ行く時に咲いていたのを見てごっちゃになっちゃいました。

    写真の加工は今回初めてやってみたのですが、けっこう楽しめますね。
    ネット上から拾ってきたフリーソフトなので、大したことはできませんが、そのうちもっと高度なソフトも使いこなせるようになりたいです。

    この次の日は倉敷に行くのですが、そちらも街並みとか素敵でしたよー。
    近いうちにUPするので、お楽しみに〜(*^_^*)


    では〜(^O^)/
  • 義臣さん 2011/05/02 18:05:23
    古い事を
    岡山城の姿で 古い時代を思い出しました

     連絡橋を工事中の頃でした 

    岡山で宿泊 お城 公園も見て 翌日はレンタカーであちらこちらを観光してきました

    みにくまさんの綺麗な写真、、丁寧な説明をみて 

    私はあの時何を見てきたのか、、考えて、、なにも思い出さない。。

     困った事です。 ですが、、見ながら、、あれも ここもと思い出してます。

                         義臣

    みにくま

    みにくまさん からの返信 2011/05/03 22:01:03
    RE: 古い事を

    義臣さん、こんばんは〜。

    岡山城にも行かれているんですねー。

    私たちは初めての岡山だったので、とりあえず定番の城・後楽園と行きましたが、どちらも楽しかったです。
    翌日は倉敷まで行って、街並みを見てきました。

    ほんの数年前の旅行のこともけっこう忘れてしまいますからね〜。
    時々旅行記や写真を見て、ああーそういえば、と言って思い出すことも多いです。


    では〜(^O^)/
  • まつじゅんさん 2011/05/02 09:22:29
    「晴れの国」にようこそ
    みにくまさん、岡山にようこそ。

    なんて良いながら、私昨年の4月から岡山で勤務していますが、週末は鳥取に帰るので殆ど岡山市内を知りません。(特に昼間の市内は全く解りません)

    岡山城、後楽園も昔旅行に来て以来、まだ行っておりません。城の桜も、近所のホテルであった宴会の時、会場の窓から酔っぱらって見ていた位ですので、城は「ホホ〜こうなっているのか」と、写真で初めて知った次第です。

    きっと美味しい物も、しっかりあるのでしょうね。。。

    続編、町歩きを楽しみにしています。

    matujyunnでした。

    みにくま

    みにくまさん からの返信 2011/05/03 21:56:21
    RE: 「晴れの国」にようこそ

    まつじゅんさん、こんばんは〜。

    今回初めて岡山へ行ってきました〜。

    とりあえず岡山城ときびだんごを食べることを目的に、大して事前調査もせずに行ったので、メジャーなところを3か所ほど回っただけでした。

    岡山城ももう少し早い時期だったら、桜が綺麗だったんでしょうね。
    私たちが行った時は桜はほとんどなかったものの、ツツジが咲き始めだったので良かったです。

    美味しいもの、特に海の幸に期待をしていたのですが、残念ながらこの時の旅行では出会えませんでした。
    また次回に期待です。

    街歩きは倉敷に行ってきたので、後ほどの旅行記で紹介します。


    では〜(^O^)/

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