2010/10/04 - 2010/10/04
186位(同エリア399件中)
B-SONさん
- B-SONさんTOP
- 旅行記60冊
- クチコミ28件
- Q&A回答3件
- 112,539アクセス
- フォロワー1人
・2010/10/02~2010/10/11にてポーランドを訪問してきました。撮った写真が800枚を超えたため、各訪問地ごとに旅行記を起こしたいと思います。こちらは旅行記3(オシフェンチム/アウシュビッツ)となります。クラクフを拠点に日帰りで行ってきました。8時間くらい滞在しましたが、すべては見きれないほどのボリュームです。表紙の写真はビルケナウ強制収容所内で遭遇したイスラエル人学生ご一行です。彼らとはその後マクダネル強制収容所でも遭遇しました。
-訪葡旅行記2010(1.クラクフ~”シンドラーのリスト”と古都~)
-訪葡旅行記2010(2.オシフェンチム~アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所(アウシュビッツ編)~)
-訪葡旅行記2010(3.オシフェンチム~アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所(ビルケナウ編)~)
-訪葡旅行記2010(4.ヴィエリチカ)
-訪葡旅行記2010(5.ワルシャワ1~ショパン生誕200周年記念~)
-訪葡旅行記2010(6.ルブリン~マイダネク強制収容所~)
-訪葡旅行記2010(7.トルン)
-訪葡旅行記2010(8.ワルシャワ2~街の風景とオマケ~)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 飛行機
- 航空会社
- LOTポーランド航空 アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ビルケナウ強制収容所の鉄道引込み線
アウシュビッツ収容所から距離にして約3キロのところにアウシュビッツ収容所2号(ビルケナウ収容所)があります。
アウシュビッツ収容所はひとつだと思っていました。「働けば自由になる」の門がある施設と鉄道引込みがある施設はロケーション的に分かれていたのですね。
「シンドラーのリスト」的にはこちらですかね。 -
アウシュビッツ収容所〜ビルケナウ収容所間を結ぶバス
無料バスが30分おきくらいで走っています。 -
ビルケナウ強制収容所の鉄道引込み線
鉄道引込み線は入り口から200m弱といった感じでした。 -
ビルケナウ強制収容所門
門はSSの中央監視塔を兼ねていました。
入り口には下記の石碑がありました。
In the years 1940-1941 German occupants expelled the Poles- - inhabitants of the villages: Brzezinka Harmeze Plawy Bor Rjsko Klucznikowice Babice Broszkowice and from Zasole District of Oswiecim
Germans founded the death camp Auschwitz-Birkenau and its economic and industrial base on the site of the demolished or taken buildings -
ビルケナウ強制収容全体
面積175ヘクタール(約53万坪)、当時はバラックが300棟以上あっただけあって、巨大です。軽く見たつもりでも3時間はかかりました。真剣に見るなら丸一日は欲しいかも。 -
BIIa区画
ビルケナウ収容所は焼却場付ガス室、鉄道引込み線の他、それぞれが鉄条網で分割された九つの区画からなる三つの区域「セクター」で構成されていました。 -
BIIa区画入り口(鉄道引込み線側)
ここBIIa区画は男性囚人の一時収容に使われました。一時収容場の目的は新たに送られてきた囚人に暴力的抑圧を与え、収容所内の規則と絶対服従を教え込むことにありました。 -
BIIa区画木造バラック内部
恐らくトイレと思われまする。 -
BIIa区画から見たBIIb区画
当時は300棟以上のバラックがあったそうですが、ほとんど完全な形で残っているのは45棟のれんが造りと22棟の木造の囚人棟だけである。焼かれたかまたは破壊されたバラックにはれんが造りの煙突しか残っていない。 -
BIIa区画で工事中のおっさん
恐らく保全活動をしているものと思われます。
無償か有償かは分かりませんが・・・。 -
BIIa区画内から見る外の世界
地面は一面芝生が生い茂っており、少し肌寒いもののいい天気でした。
しかし、ここの収容所は水が無く、衛生的に欠陥があり、鼠の大発生が囚人の生活環境をさらに悪化させました。
信じられませんが・・・。 -
BIIa区画入り口(BIII側)
ビルケナウ強制収容所の管理区域(保存区域?)的にはここが端となります。ですが、当時の施設としてはここはまだ施設の真ん中辺りのようです。(入り口から500m位歩いたんですけどね。) -
BIIa区画から見たBIII区画
BIII区画は収容所増設区域(通称メキシコ)と呼ばれていたようなのですが、今は何も無いです。 -
鉄条網とBIIa区画入り口の門
高圧電流が流されていたことを物語っています。 -
鉄条網と監視塔
BIIa区画を監視する監視塔です。
ぱっと見入れそうな気がします。 -
監視塔入り口
鍵がかかっていて入れませんでした。
・・・・当然か。 -
司令部付近
警備員かと思い、若干動揺したのですが、居眠りしているので、背後に回って写真に収めさせていただきました。
この通りを境に左がBII区画、右がBIII区画となります。 -
BII区画とBIII区画の間の道を歩くを通る現地女性
手元のガイドを見るとその先はガス室跡ですが、女性はいずこへ・・・・ -
BIIb区画
BIIb区画はユダヤ人家族用収容所でした。 -
BIIb区画
当時の写真1 -
BIIb区画
当時の写真2 -
BIIb区画
当時の写真3 -
BIIc区画
BIIc区画はハンガリーのユダヤ人収容区画でした。 -
BIIc区画
当時の写真1 -
BIIc区画
当時の写真2 -
囚人輸送用と思われる貨車(引込み線終端側)
-
貨車の側面
いったい一両に何人詰め込まれたのだろう・・・・ -
囚人輸送用と思われる貨車(収容所正門側)
左下の小さなプレートには下記の記載が。
Hugo Lowyって誰だ?
This freight car was donated and conserved by the family of Hugo Lowy who was murdered here in May 1944 -
貨車と収容所正門
-
貨車から見る引込み線終端
終端の先には犠牲者のための記念慰霊碑が立っています。 -
引込み線終端
・・・何というか、言葉にならないです。 -
アウシュビッツ強制収容所犠牲者のための記念慰霊碑
引込み線終端の先に立っています。
1967年除幕。強制収容所が博物館として残されているのはここアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所とマイダネク強制収容所の2つとなります。
ナチス犠牲者を恒久的に人々の記憶にとどめています。 -
ガス室・焼却場入り口
記念慰霊碑を挟んで左右にガス室跡があります。 -
第三焼却炉・ガス室跡見取り図
記念慰霊碑の向かって右側に第三焼却炉・ガス室があります。 -
第三焼却炉・ガス室跡
輸送後すぐに殺処分となった男性、女性、子供といった、何千ものユダヤ人が、ここでガス死させられ、焼かれました。 -
第三焼却炉・ガス室跡
当時の写真です。
ここでは強制収容所に一旦登録された後、収容所内で死んだユダヤ人やポーランド人、その他の囚人の遺体も焼かれました。 -
第三焼却炉・ガス室跡
当時のドイツ当局の設定では、この焼却場は一昼夜に遺体を1440体焼却する能力があったという。 -
第三焼却炉・ガス室跡にたたずむユダヤ人
なぜユダヤ人とわかったか?・・・・単なる思い込みです。
ただただ平和な世の中に感謝です。 -
第三焼却炉・ガス室跡
こちらはガス室跡です。
後でガイドブックを読んでわかりました。 -
第三焼却炉・ガス室跡
こちらは脱衣所跡です。
戦争末期、強制収容所当局は、戦争犯罪隠滅活動のため、1944年末、焼却炉とその建物の解体を命じました。 -
第三焼却炉・ガス室跡
こちらは脱衣所入り口です。
戦争末期に解体が命じられたものの、解体が間に合わなかったものは1945年1月20日、ナチス親衛隊員によって爆破されました。 -
第三焼却炉・ガス室跡
跡を見るだけでも死刑を宣告された人たちが裸になった地下の更衣室、そしてガス室がはっきりわかります。 -
汚水処理施設跡
施設内の端まで来たと思ったのですが、さらに建物が・・・・ -
汚水処理施設跡
最大9万人の汚水処理を行ったんですかね・・・・。
The pools and around buildings in view are a group of a asewage plants built for the constantly rising number of prisoners brought to the camp reaching 90,000, and for the planned expansion of Auschwitz. -
BIIg区画(サウナ)
汚水処理施設跡の先に更に建物が・・・。
どんだけ広いんだ・・・・ -
BIIg区画(サウナ)
ここでは強制収容所に新たに送られてきた囚人の内、強制労働に回されることになった人々の登録や消毒が行われた。ここで、ユダヤ人女性が再度選別され、妊婦が死のガス室送りになることもあった。 -
BIIg区画(サウナ)
In this building, brought into operation at the end of 1943, newly arrived prisoners designated by the SS for forced labour in the concentration camp were registered and disinfected. From now on they would be known only by a prisoner number which was tattooed on to their forearms. Here they were also issued with striped prisoner uniforms and had all their body hair removed. The SS also made additional 'selections' here, sending pregnant women to be murdered in the gas chambers. The poor state of hygiene in the concentration camp, ant the hordes of insects, brought illness and epidemics which threatened the efficient functioning of the camp and the health of the SS who ran it, This building was therefore used in periodic campaigns to delouse the prisoners and their clothing. -
BIIg区画(サウナ内)
ここは待合室兼脱衣所です。到着した囚人はここで身ぐるみをはがされ、消毒を受けます。 -
BIIg区画(サウナ内)
待合室兼脱衣所の横の小部屋に没収したと思われる小物類が展示されていました。 -
BIIg区画(サウナ内)
次にこの部屋へ移動し、消毒を受けます。ここは、消毒=毒ガス では無く、本当に消毒をする部屋のようです。
In this room, prisoners assigned to the "Canada" commando searched clothing and luggage confiscated from jewish victims who had arrived at the camp. They were looking for hidden valuables and money. Once the search was completed the clothes were disinfected in the Sauna and then stored in the "Canada" before being sent to Germany for re-use, mostly by civilians. Currency and valuables were held by a special branch of the camp administration before being sent on elsewhere, including to the Reichsbank in Berlin. -
BIIg区画(サウナ内)
衣類をスチーム消毒するための機械? -
BIIg区画(サウナ内)
衣類乾燥機と思われる設備 -
BIIg区画(サウナ内)
その先を抜けると、犠牲者の方々の写真の展示室に出ました。 -
BIIg区画(サウナ内)
犠牲者の方々の写真の展示室の奥に荷車が展示されていました。
この荷車は遺灰の運搬に使われていたらしく、第四焼却場の横にある池から引き上げられました。 -
第四焼却炉・ガス室跡
サウナのすぐ近くに第四焼却炉・ガス室跡、第五焼却炉・ガス室跡があります。 -
第四焼却炉・ガス室跡
Gas Chambers and Crematrium IV, where thousands of Jewish men, women, and children were murderd by gas and their bodies burned. The crematrium was also used for the disposal of the bodies of prisoners of the concentration camp, both Jews and non-Jews, who had died from other causes. The Gas Chambers and Crematrium IV operated intermittently from March 1943 to October 7, 1944. On that day Jewish prisoners of the Sonderkommando revolted, set fire to the building, and destroyed it. -
第四焼却炉・ガス室跡
施設の見取り図がありました。
A:Gas chambers
C:Side hatches through which pellets producing Zyklon B gas were poured
D:Room where the victims had to undress before entering the gas chamber
E:Crematorium incinerator
F:Chimneys
G:Barrack where the victims had to undress before entering the gas chamber
H:Pond where ashes of the people murdered where dumped
I:Pits used for disposal of ashes of the people murdered -
BIIg区画(通称カナダ)
BIIg区画(通称カナダ)には囚人から奪った物品の倉庫が並んでいました。 -
BIIg区画(通称カナダ)
当時の写真 -
BIIg区画(通称カナダ)
ビルケナウの全体図がありました。
収容所入り口(鉄道引込み線)が図の左下、
BIIg区画(通称カナダ)は図の右上なので、今入り口から一番遠いところにきています。 -
第二焼却炉・ガス室跡
鉄道引込み線の終端のところまで戻ってきました。
鉄道引込み線の終端の先に記念慰霊碑が立っているのですが、その記念慰霊碑をはさんで第二焼却炉跡と第三焼却炉跡があります。 -
第二焼却炉・ガス室跡
当時の建物の写真 -
第二焼却炉・ガス室跡
見取り図もありました。
焼却場には遺体焼却目的の焼却炉が五つと、ごみ焼却炉と呼ばれた個人の書類や婦人用バッグ、書籍、おもちゃなど様々な比較的価値の小さな遺品を焼く焼却炉がありました。 -
第二焼却炉・ガス室跡近くの池のほとりに立つ慰霊の石碑
近接する焼却場で焼かれた遺体の遺灰は背後にある池に投げ込まれました。ビルケナウ強制収容所跡には今日に至ってもまだ犠牲者の遺骨や位牌が出てくることがあるようです。
石碑が4つありますが、これはポーランド語、英語、イーディッシュ語、ヘブライ語の各語ごとに立てられています。 -
第二焼却炉・ガス室跡近くの池のほとりに立つ慰霊の石碑
こちらが英語版の石碑の内容
To the memory of the men,women,and children who fell victim to the Nazi genocide. Here lie their ashes. May their souls rest in peace. -
BIb区画
始めは男性収容所として機能していましたが、1943年から女性収容所として機能していました。 -
BIb区画:煉瓦造バラック内部
バラック1棟あたり何百人もの囚人が押し込まれていました。 -
BIb区画:煉瓦造バラック内部
バラックは、死にかけている人々のうめき声や、洗われることが無い不衛生な体や汗や排泄物の悪臭にあふれ、そこら中にシラミが涌きネズミが住み着いていました。 -
BIb区画:煉瓦造バラック内部
一段の奥行きは大体こんな感じです。ここに平均して5人が寝かされていました。 -
BIb区画:煉瓦造バラック内部
暖は取れていたのでしょうか・・・・ -
BIa区画とBIb区画の間の門(奥はBIa区画)
仕事に向かい、またバラックに帰る囚人たちに強制収容所の楽団がこの門の近くで行進曲を演奏しました。その音楽は、ナチス親衛隊医師が新たに送られてきたユダヤ人の選り分けをする搬入場付近まで聞こえてきたという。(ちなみに搬入場までは200m位かな・・・) -
BIa区画から見る収容所入り口
右のほうに石碑が立っています。 -
BIa区画に立つ石碑
たぶんポーランド語です。 -
BIa区画に立つバラック
From December 1942 on, several dozen Polish and their mothers were kept in this barrack as prisoners. They were deported to the camp in connection with the forced resettlement of Poles from the Zamosc region. In August 1944 several hundred children and young people were brought here from Warsaw after the outbreak of the Warsaw Uprising. -
BIa区画に立つバラック(内部)
中には囚人の子供が書いたと思われる絵画が。 -
BIa区画に立つバラック(内部)
絵画はガラスで保護されていました。風化が心配です。 -
BIa区画に立つ○○○棟
さて、何でしょう? -
BIa区画に立つ○○○棟
正解はト○レです。 -
BIa区画:人体実験棟跡
On this site stood a wooden barrack where in 1944 more than 200 Jewish children between the ages of 2 and 16 were kept as prisoners. These children, the majority of them twins, were used for criminal medical experiments by the SS doctor Josef Mengele. -
BIa区画:「死のブロック」入り口
-
BIa区画:「死のブロック」
This barrack (the 'Death Barrack') was used for the special isolation of those women prisoners of the concentration camp who were selected by the SS as unfit for further work to be sent to be murdered in the gas chambers. Here they had to await their deaths, without food or water, and often for sevral days. Many died in the barrack before they were summoned.
When the barrack was full, additional prisoners who had been selected for death were kept outside in a locked yard. -
BIa区画
やっと入り口まで戻ってきました。
駆け足で回って3時間です。
午前中のアウシュビッツ、午後のビルケナウとでもうクタクタです。
一日で見て回るには時間が足りないですが、オシフェンチムに宿泊して二日ががかりで見るとモチベーションが維持できないです。
重い歴史を学んだ一日でした。
生きていることに感謝せねばならないと感じた一日でした。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (1)
-
- とらいもんさん 2011/04/26 08:25:34
- 驚愕
- 拝見させていただきました。
驚愕の言葉のみです。
有難うございました。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
アウシュビッツ(ポーランド) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
アウシュビッツ(ポーランド) の人気ホテル
ポーランドで使うWi-Fiはレンタルしましたか?
フォートラベル GLOBAL WiFiなら
ポーランド最安
478円/日~
- 空港で受取・返却可能
- お得なポイントがたまる
1
82