2010/10/04 - 2010/10/04
186位(同エリア400件中)
B-SONさん
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・2010/10/02~2010/10/11にてポーランドを訪問してきました。撮った写真が800枚を超えたため、各訪問地ごとに旅行記を起こしたいと思います。こちらは旅行記2(オシフェンチム/アウシュビッツ)となります。クラクフを拠点に日帰りで行ってきました。8時間くらい滞在しましたが、すべては見きれないほどのボリュームです。表紙の写真はアウシュビッツ強制収容所内の監視塔と有刺鉄線です。(「触るなキケン」と書いてあります。)
-訪葡旅行記2010(1.クラクフ~”シンドラーのリスト”と古都~)
-訪葡旅行記2010(2.オシフェンチム~アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所(アウシュビッツ編)~)
-訪葡旅行記2010(3.オシフェンチム~アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所(ビルケナウ編)~)
-訪葡旅行記2010(4.ヴィエリチカ)
-訪葡旅行記2010(5.ワルシャワ1~ショパン生誕200周年記念~)
-訪葡旅行記2010(6.ルブリン~マイダネク強制収容所~)
-訪葡旅行記2010(7.トルン)
-訪葡旅行記2010(8.ワルシャワ2~街の風景とオマケ~)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
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本日の旅の出発点。クラクフ本駅(Krakow Glowny)
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ポーランドでは駅の窓口で英語が通じないとの情報を得ていたので、ユーレイルパスを使うことにしました。5日間有効のユーレイルポーランドパスというものを事前に日本で購入しました。(ユーレイルパスは現地では購入できませんので。)使い方について簡単に説明すると、まず使用を開始する前に駅の窓口にてバリデーション(ハンコ押印)をしてもらいます。パスには5日分日付を入力する箇所があるので、使う日に日付を記入して使います。
簡単でしょ。簡単なんです。無事バリデーションを終えられれば。
ユーレイルパスは過去の訪欧旅行にて利用したことがありました。その際はアイルランドのゴールウェイというチケット売り場が2つくらいしかない小さな駅だったのですが、問題なくバリデーションでき、バリデーションごときで危機的な状況になるとは夢にも思わなかったのですが・・・・・ -
クラクフ駅のチケット売り場です。パッと見て窓口が20くらいある大きな駅であることが分ると思います。さっそく窓口に行って「バリデーションプリ〜ズ」って言ったところ、ジェスチャーで「知らん」と言われました。「知らん」って・・・・・。別の窓口に行くとポーランド語で何やら説明をされてしまい、結局良く分からない状況になってバリデーションできない危機に・・・・。オシフェンチム行き列車の出発は20分後。どうする自分!!。って、悩んでもしょうがないので、覚悟を決めて自らすべての窓口を回って、全部駄目だったらあきらめる、主体的たらいまわしの刑を実施することにしました。人間覚悟を決めると落ち着きを取り戻すもので、落ち着きを取り戻せると運も取り戻せるのかはわかりませんが、3つ目の窓口にて冷たく「テン」と吐き捨てられましたが、このキーワードを逃す訳がありません。10番窓口に行くと何ともまぁあっさりとバリデーションしてくれました。
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出発10分前に無事バリデーション完了!
いざ出発です。クラクフからオシフェンチムまでは電車で約90分です。電車は定刻通り出発しました。 -
こちらがアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所の最寄駅となるオシフェンチム駅です。クラクフは定刻通り出発したのにオシフェンチム到着は何故か30分遅延していました。日本の鉄道の素晴らしさを実感いたしました。
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オシフェンチム駅からは「地球の歩き方」の地図を頼りに徒歩で行きました。まさに「地球の歩き方」で地球を歩くということで。歩くこと20分。煙突が昔ながらのレンガ造りで、そこに今風の建材でコーティングされた建物が視界に入ってきました。アウシュビッツも経年劣化と戦っているのだなと物思いにふけっていたのですが、普通の民家の様でした・・・・。
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アウシュビッツと見間違えた住宅街を通っていくと本当のアウシュビッツの駐車場らしきものが見えてきました。しかし、何という観光バスの数。今日は月曜日なのですが・・・・・
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入口付近の売店で日本語版ガイドブックを購入し、いざ入場・・・と思ったものの、入口が分からん。いや、正確には入り方がわからん。と言うのも、「地球の歩き方」では”入場無料”とあったのに、入口にゲートがあるのだ。団体客はどんどん入っていくし、「今日は団体客の日か?」とか思いながら、入口付近の英語の掲示板を見てみると・・・・・「アテンダントなしでは入場できません」的な文章が・・・・。英語もろくにしゃべれないのにチケットを買わねばならんとは・・・・ま、これに気づけただけましか。というわけで何とか買ってきました。無料じゃねぇじゃねぇかよバカヤロー。34ズロチ(約1,000円)だったぜバカヤロー。ちなみに、インフォメーションセンターには両替所(カントール)もあるので、通貨はともかく現金を持っていけばOKです(レートはイマイチですが・・・・)
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34ズロチ払ってゲットしたのがこのシール。おそらく時間帯ごとに色が分かれているようで、これでグループ分けしているようでした。(他に黄色とか水色とかがいました。)
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待つこと30分、ついに入口ゲートを通過することができました。入口で無線レシーバーお借り、ツアー開始です。一応博物館の職員の方の生ガイド付きツアーですが、低英語力の私には理解できないので、見たものを見たままに感じてまいります。
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アウシュビッツには大きくアウシュビッツとビルケナウという二つの収容所があります。映画”シンドラーのリスト”でも登場した鉄道引込線のある方の収容所はビルケナウで、「働けば自由になる」の門がある方がアウシュビッツとなります。
アウシュビッツ収容所は第二次世界大戦中5年間にも及びナチス・ドイツによって占領された国の国民に恐怖感を与え続けました。この収容所1940年にポーランド人政治犯を収容するために設立されました。当初はポーランド人虐殺の場として利用する予定だったが、時間の経過とともに全ヨーロッパの人間、主にそれぞれの国籍を持ったユダヤ人、ジプシー、ソ連軍捕虜をここに送り始めました。囚人にはチェコ人、ユーゴスラビア人、フランス人、オーストリア人、そしてドイツ人もいました。収容所が解放されるまで、ポーランド人の政治犯もここに送り続けられていました。 -
1939年9月の戦闘の後、オシフェンチム市(Oswiecim)を含む一帯はドイツ第三帝国の一部に編入されました。同時にナチスはここの地名をアウシュヴィッツに変更しました。
既存刑務所が囚人であふれていたことや今後ポーランド住民の大量逮捕の必要性から、1939年末には収容所建設構想が生まれていました。
なぜこの場所に設立されたのかということですが、厳密にはこの類の絶滅収容所はポーランド国内に結構建てられており、施設がそのまま残っている数少ない収容所がここなだけです。ここはもともとポーランド軍の基地であったことと、町の人口密集地から離れていたことと増設や隔離の対策が取れることと交通の便が良かったことなどから設立が決められたようです。 -
1940年4月い収容所設立命令が下り、所長にはルドルフ・ヘスが任命されました。1940年6月14日にゲシュタポによってアウシュビッツ収容所の初囚人として、タルヌフ市から728人のポーランド人が政治犯として護送されてきました。
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収容所が設立された当初は、14棟の1階建て、6棟の2階建ての計20棟の建物がありました。1941年から1942年には、囚人の労働力を使って、1階建ての建物は全て2階建てに改築され、8棟の建物が増築されました。
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厨房と管理棟を除いた28棟には1942年、一時最大28,000人の囚人が収容されていました。尚、平均的な収容者数は13,000〜16,000でした。囚人たちは地下室と屋根裏を含めた囚人棟に入れられていました。
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囚人の数が増大すると同時に、収容所地域も拡大していきました。そして、収容所は巨大な絶滅工場に変わっていきました。
オシフェンチムのアウシュビッツ1号は、新しい収容所建設の基本となりました。
1941年にはオシフェンチムから3キロ離れたブジェジンカ村で、第2の収容所の建設が始まりました。それはその後アウシュビッツ2号と名付けられました。そして1942年にはオシフェンチム付近、IGファルベン化学工場があったモノヴィツェ村に、アウシュビッツ3号が建設されました。そして1942年から1944年にはアウシュビッツ3号の管理下に約40カ所のミニ収容所が出現しました。殆どは囚人たちの労働力を利用した工場・鉄工所・炭鉱の近くに設立されました。 -
ARBERT MACHT FREI(働けば自由になる)
アウシュビッツ強制収容所入口です。戦前はここにポーランド軍オシフェンチム兵舎がありました。戦争勃発後、空き家となった建物の利用、ポーランド人逮捕者数の急速な増加、既存刑務所の満杯状態などから1940年半ばにナチス親衛隊によってここにポーランド政治犯を対象とした強制収容所を設置することとなりました。 -
ARBERTのBのふくらみが上下逆さまになっている感じがします。収容者のせめてもの抵抗の証だとか。
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囚人たちは毎日この門をくぐって労働に出かけていました。門の近くの広場では何千もの囚人がスムーズに行進できるように、また、新入りのモチベーションアップのため、収容所の音楽隊が行進曲を演奏していました。
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囚人用厨房
The camp orchestra had to assemble here to play marches while the prisoners filed past. This was to help prisoner's keep in step and make it easier to count them as they went to and from work. -
第24ブロック
The corpses of prisoners shot while trying to escape were often displayed here as a warning to others.
ここは入口の通りに面した棟です。毎日人がこの棟の前を行進して通ることから、見せしめとして逃亡を図った囚人の死体をさらす場に利用していたようです。 -
中央広場
One of the many torments of life in the concentration camp was the daily roll-call. The entire prison population of thousands of prisoners had to stand to attention during the roll-calls held on the central square at this location. Later, when new buildings were constructed over of the original roll-call area, the prisoners were lined up on the camp streets in front of the blocks. The roll-calls often lasted several hours, and sometimes even a dozen hours os longer.
囚人たちの生活の中で苦痛であったものの一つが点呼です。千人近くの点呼が完了するまで何時間も立たされたとか。点呼の時にはSSが囚人の数を確認していました。同時に移動絞首台または集団絞首台が置かれ、見せしめのための死刑執行も行われていました。集団絞首台は1943年7月19日、3人の脱走者を助け、収容所周辺の一般市民とコンタクトをしていた疑いで12人のポーランド人が吊るされました。 -
第5ブロック
このブロックには、解放後に発見された、被害者の所持品が展示してありました。ブラシ類、靴、所有者の名前と住所が書いてあるトランク、ボール、身体障害者の義手と義足など。 -
第5ブロック内:囚人のメガネ
-コラム:ナチスの思想-
ナチスの思想の根本には、反ユダヤ主義・反民主主義・反共産主義とドイツ民族の優越がありました。また「人種的に純粋」な社会を築こうとし、ナチス・ドイツはユダヤ人の絶滅そしてスラブ人とジプシーとその他の民族の絶滅を計画していました。
ポーランドへの進行による第二次世界大戦勃発の目的の一つには、ドイツ人が移住するためのドイツ領の拡大がありました。1937年にドイツ第三帝国の権力者と1933年にドイツ政権を執ったNSDAPの設立者であったアドルフ・ヒトラーは次のように語りました。
「我々の戦争目的は、人を勝ち取ることではなく、農業に適する領域を勝ち取ることである。」 -
第5ブロック内:囚人の義足・義手
-コラム:第二次世界大戦の勃発-
1939年9月1日にドイツ軍が、又17日にはソ連軍がポーランドに攻め込み全国を占領した後ポーランドは分割されました。そしてオシフェンチム市を含むポーランドの一部はドイツ領となりました。中央ポーランドは完全にドイツの支配下となり、ドイツの行政によって運営される総督管区が作られました。1939年8月にはドイツとソ連の協定で東部ポーランドはソ連に占領されました。しかし1941年6月にドイツとソ連の戦争がはじまり、結局その後それらの領土もドイツに占領されたのでした。
1940年4月になるとドイツはデンマークとノルウェーを、5月にはベルギー、オランダ、ルクセンブルクとフランスを攻撃しました。また、1941年4月にドイツはユーゴスラビアとギリシャに攻め込み、同年6月には同盟国であったソ連を攻撃しました。そして1941年秋にはヨーロッパの殆どがドイツに占領されたのです。 -
第5ブロック内:囚人の生活用品
-コラム:ナチス・ドイツの強制収容所-
ドイツで強制収容所はすでに1933年から建設されていました。そこには「不必要な人材」と見做された人々が収容されていたのです。それはナチス政権に反対していた人々、刑事犯そしてユダヤ人などでした。そして第二次世界大戦の勃発後、ドイツは占領した国にも収容所を造り始めました。
強制収容所であるアウシュビッツは、ナチス・ドイツ管理下のその他の収容所と同じ国立の施設であり、ドイツ国家の中央行政により運営されていました。収容所はSS中央経済・行政庁によって管理されていましたが、収容所に人々を送り込み、そして殺害する責任はドイツ第三帝国中央保安庁にあったのです。 -
第4ブロック
アウシュビッツ収容所はナチスによって造られ、ポーランド人と諸国民を収容するための最大の収容所であった。収容された人々は監禁され、飢え、重労働、医学実験、死刑執行の手段で虐殺されていった。そして1942年からこの収容所は、ヨーロッパにおけるユダヤ人の最も大きな絶滅センターになった。死を宣告されたユダヤ人の殆どはここに到着してすぐガス室に送られ、ファイルに登録されずに殺されていった。そのために、現在収容所で殺された人数を突き止めることは困難である。しかし収容所問題を長年研究し続けてきた歴史学者の発表によると、存在している不完全である資料の研究からアウシュビッツでは約150万人が殺害されたということがわかった。 -
第4ブロック内
ブジェジンカで収集された人間の灰は器に入れられ、殺害された人々の記念になっている。 -
第4ブロック内
ドイツ第三帝国はさまざまな宗教・政治思想の人、捕虜と一般市民、強制退去させた町や村の住民、偶然手入れの時につかまえた人、そして人種として絶滅させる予定だった人々をアウシュビッツ収容所に送り込んだ。 -
第4ブロック内
SS司令官ハインリッヒ・ヒムラーはアウシュビッツ収容所をユダヤ人の絶滅センターに選んだ。その動機を所長のルドルフ・ヘスは、回想録の中で次のようにヒムラーの言葉を引用しながら説明している。「これより東にある虐殺場では、大規模な行動が実現できない。そこで私はその目的のためにアウシュビッツを選んだ。交通上の立地条件は有利で、しかもこの地域を周囲から隔離して、遮断することも可能だ」すでに1942年1月にユダヤ人の大量虐殺が始まった。最初に死を宣告されたユダヤ人が、シレジア地方と総督管区(ポーランド)からアウシュビッツに護送されてきた。また、春になるとスロバキア、フランス、そしてベルギー、オランダのユダヤ人も大量に送られてきた。そして、秋からはドイツ、ノルウェー、北ポーランドとリトアニア、またほかの占領された国々からもユダヤ人が連行されてきた。 -
第4ブロック内
ナチス・ドイツがソ連を攻撃して間もなく、アウシュビッツにはソ連軍の捕虜も収容されるようになった。収容所へ12,000人の捕虜が送られてきた。そしてほぼ5か月以内にそのうちの8,320人が命を奪われた。ある人は毒殺され、ある人は銃殺され、残りは衰弱し、死んでいった。 -
第4ブロック内
アウシュビッツ収容所はジプシーの虐殺場でもありました。ここで21,000人のジプシーが虐殺されました。 -
第4ブロック内
アウシュビッツ収容所へ殺害されるために送られてきた人の殆どは、東ヨーロッパに移住されるだけと信じていた。特にギリシアとハンガリーのユダヤ人たちは騙され、ナチスから存在しない農場、土地、商店などを購入した。また、収容所についた人たちは自分の財産の最も価値のあるものを持参していた。 -
第4ブロック内
逮捕された人たちの中には、2,400キロもアウシュビッツから離れたところから運ばれてきた人もいました。この人たちの多くは密閉された貨車で、食糧なしで旅をさせられた。貨車に身動き一つできないほど押し込まれ、オシフェンチムに憑くまで7日〜10日間も旅をさせられた。 -
第4ブロック内
列車はオシフェンチムの貨車駅、そして1944年からは、ブジェジンカに特別に設けられた鉄道引込線(積み下ろし場)に着いた。ここでSS将校とSS医師が選別を行った。労働できそうな人たちは収容所に入れられ、仕事ができないと判断された人たちはガス室へ行かされた。ルドルフ・ヘス所長の証言によると、運ばれてきた人間の70〜80%がガス室へ送られた。 -
第4ブロック内
ユダヤ人虐殺行為時にSS隊員に写され、今まで残っている約200枚の写真のうち、数十枚のドキュメンタリー写真がここ第4ブロックに展示されています。アウシュビッツの「死の工場」見取り図には、赤で集団虐殺場が示してあります。それらは銃殺場・ガス室・焼却炉、死体を落としあるいは積み上げて焼くための場所を示している。 -
第4ブロック内:チクロンBの空き缶の山
第2焼却炉・ガス室の模型を見ると、地下の脱衣室に入る人々が見えます。シャワーを浴びさせるとSS隊員に騙されていたため、みな落ち着いています。洋服を脱がされ、シャワー室に見せかけた地下の部屋まで歩かされました。天井には水が出たことがないシャワーが取り付けてありました。210平方メートルの部屋に、約2000人が押し込まれました。そして、扉を閉じてから、、天井の穴からSSの衛生兵がその中へチクロンBを投入した。中に入っていた人間は15分から20分の間に窒息して死んだ。その後死体から金歯が抜かれ、髪の毛が切られ、指輪とピアスが取られた。そして死体は1階にあった焼却炉へ、そして死体が多すぎるときには積み上げるために外に運ばれた。 -
第4ブロック内:チクロンBの空き缶
チクロンBという毒薬は、デゲッシュ社が生産し、1941年から1944年の間にそれだけで30万マルクの利益を上げました。
アウシュビッツだけで1942年から1943年の間に2万キログラムのチクロンBが使用されました。ヘス元所長の証言によると、約1500人を殺すのに6〜7キログラムの毒ガスが必要でした。解放後、収容所の倉庫には使用されたチクロンBの缶の山が残り、中身の入った缶もあった。陳列戸棚にはチクロンB結晶のほかに、アウシュビッツ収容所からデッサウのデゲッシュ社へ毒ガスを取りに行かせた命令書が何枚も展示されている。 -
第4ブロック内:人間の髪の毛で作られた生地
アウシュビッツ収容所が解放された時、ソ連軍は倉庫で袋に入った約7トンの髪の毛を発見した。それは本来ならば収容所管理局がドイツ本国にあった工場へ送って儲けようとしたものだった。専門家による髪の毛の検査によると、その中にはチクロン化合物に毒性をもたらすシアンが発見された。そしてその髪の毛を使って、ドイツの会社はマットレスと布地などを作っていた。
また、殺された人々の死体から抜かれた金歯は、金の延べ棒の形で、ドイツ中央衛生局へ運ばれた。 -
第6ブロック
アウシュビッツ強制収容所に送られてきた囚人の一部は、選別なしで直接収容所へ入れられた。大部分は飢え、死刑執行、重労働、拷問、不衛生などの理由によって、死んでいった。選別の時に労働に耐えうると判断され、収容所に送られたユダヤ人もいた。 -
第6ブロック内
囚人たちは、収容所に送られてきた日に収容所管理局長から「お前たちの出口は一つしかない。焼却炉の煙突だ。」と言われた。新しく到着した囚人たちは、洋服とそのほかのものを取り上げられ、髪を切られ、消毒を受けて、そして囚人番号を付けられ登録された。各囚人は3ポーズの写真を撮られ、1943年からは、その代わりに左腕に刺青(写真参照)を入れられた。 -
第6ブロック内:囚人刺青用の墨
囚人番号が刺青されたのは、アウシュビッツ収容所だけだった。囚人たちは逮捕内容と収容所に連行された理由によって、色別の三角形のワッペンで識別された。それは囚人番号と一緒に、囚人服に付けなければならなかった。 -
第6ブロック内:囚人服
囚人の大半は、政治犯を示す赤のワッペンを付けていた。縞模様の囚人服は生地が薄く、寒さから囚人を守ることができなかった。下着は週週間または数か月おきに着替えをもらえることができたが、囚人はそれを洗濯することはできなかった。そして、それは色々な伝染病が流行する原因となった。特に、チフス、カイセンが流行していた。 -
第6ブロック内
アウシュビッツ収容所のファイルには、男女合わせて40万人の囚人のデータが入れられていた。そのうちアウシュビッツやほかの収容所へ移送後、あるいは撤退の時に約34万人が命を奪われた。囚人にとって一番の苦しみは、囚人を確認するための点呼であった。点呼は時には数時間、または十数時間も続いた。たとえば、1940年7月6日の点呼は19時間も続けられた。収容所当局は、懲罰のための点呼もたびたびおこなった。その時には囚人たちはかがんだままの姿勢で、または数時間も手を挙げたまま、その点呼を受けなければならなかった。 -
第6ブロック内
死刑執行とガス室に次いで効果的な囚人の虐殺方法は、労働であった。囚人たちは様々な分野の仕事をさせられていた。最初は収容所の増築作業という仕事だったが、次第に、囚人たちの労働力をドイツ第三帝国の産業が利用し始めた。仕事は休息なしでいつでも走りながら行わなければならなかった。仕事のテンポの速さ、食糧不足、そして激しい拷問が、死亡率を高めた。労働班が収容所に戻るとき、手押し車には囚人の死体が積まれ、そしてスコップで殴られた負傷者も中には混じっていた。 -
第6ブロック内
オシフェンチム付近のモノビツェに、合成ゴムとガソリンの工場「ブナ・ヴェルケ」を建設し、IGファルベンインダストリーは、優先的に労働力として囚人を利用した。3年の間にその「ブナ」工場では、3万人のアウシュビッツ収容所の囚人が死んでいった。アウシュビッツ収容所管轄下のミニ収容所の殆どは、シレジア地方の炭鉱、鉄工所と工場の近くに建設された。囚人たちは石炭採掘や軍事工場、火薬工場などの建設作業に駆り出された。 -
第6ブロック内:囚人の食事
囚人の一日の食事量は、1,300〜1,700カロリーに過ぎなかった。朝食として500ccのコーヒーと呼ばれた液体、昼食として1リットルの殆ど水のような腐った野菜で作られたスープしかもらえなかった。夕食は300〜350グラムの黒パン、31グラムのマーガリンと薬草の飲み物だった。重労働と上によって、体は完全に衰弱した。囚人たちは栄養失調になり最後は死だった。 -
第6ブロック内
現在では収容所で毎日起こっていた悲惨な場面を想像することは難しい。囚人の中にもいた画家たちは、当時の雰囲気を作品で表そうとした。それらは、彼らが残した証言である。収容所内の生活を生々しく現している。 -
第6ブロック内
収容所で最も大変な運命にあったのは、妊婦と子供だった。彼らは最初、直接ガス室行きになった。その後は子供だけが収容されることもあった。
それは主にユダヤ人とジプシー、そしてポーランド人とロシア人の子供たちであった。
しかし、子供とはいえ、大人と同じように収容所の規則に従わなければならなかった。また大人と同じように政治犯としてファイルに入れられた。ある種の子供たち(たとえば双子)は、犯罪的な医学実験の材料にされた。ほかの子供たちは重労働をさせられた。SSの医師が子供たちの選別を行って、その子供たちに心臓へのフェノール注射を行い殺害したケースもある。
収容所に連行された子供たちはしばしば政治犯として登録された。それらの写真、そしてソ連軍によって解放された子供たちの写真が展示してある。 -
第11ブロック
第11ブロックは、収容所から隔離された収容所内の刑務所であった。その1階と地下はそのまま残されている。 -
第11ブロック:死の壁
第10ブロック(左側)と第11ブロック(右側)の中庭は、両側から高い壁で区切られていた。第10ブロックの窓に付けてある木の板は、そこで行われていた死刑執行を見られないための措置だった。「死の壁」の前でSS隊員が、約数千人の囚人たち、主にポーランド人を銃殺した。第11ブロックの中庭では、鞭打ちなどの罰も執行されていた。 -
第11ブロック:臨時裁判部屋
臨時裁判官はカトヴィツェ(Katowice)から収容所に来て、2〜3時間で数十人から数百人の死刑判決を下しました。 -
第11ブロック:脱衣室
死刑の判決を受けた囚人たちは「死の壁」の前に連行されていきました。銃殺される前には、廊下の真中にある脱衣室で裸にならなければならなかった。銃殺される予定だった囚人が少なかったときにはその脱衣室で死刑が執行されたこともあった。 -
第11ブロック地下:移動絞首台
囚人たちの組織的虐殺は、SSが用いた懲罰制度とも関係していた。囚人はささいなことによっても、懲罰を受けた。リンゴを拾うこと、労働時間の排泄、自分の金歯を一切れのパンと交換する、そしてSS隊員に能率が悪いと判断されるなどの理由である。懲罰には、次のようなものがあった。鞭打ち、杭に吊す(後ろ手に縛り、体を吊す)、第11ブロックの特別監房ブロックへの移送、過重労働、懲罰点呼、懲罰班への入隊などだった。このうち鞭打ち台、移動絞首台、杭が展示されている。懲罰班に入れられた囚人たちは、食糧を減らされ、最も体力を酷使する仕事を課されていた。 -
第11ブロック地下
ここでは1941年9月にチクロンBを使って集団虐殺の実験が行われた。その時、約600人のソ連軍捕虜と収容所内の病院に入院中の250人の患者が殺された。 -
第11ブロック地下:監房
地下にある監房には、囚人、収容所付近の囚人を助けようとした一般市民、囚人の脱走の仕返しとして餓死を宣告された脱走者の仲間、収容所の規則に違反したとSSにみなされた囚人などが入れられた。 -
第11ブロック地下:監房
地下の監房では、「地下の掃除」と呼ばれる選別を定期的にSSが行っていた。選ばれた囚人は懲罰班に行かされるか、または銃殺されるかした。地下には3種類の監房があり、多くは尋問中の囚人が入れられた。 -
第11ブロック:2階
囚人たちは生命の危機に瀕しながらも、SSに対して抵抗運動を試みた。収容所付近に住んでいるポーランド人と密かに連絡を取り、収容所内に食料品や医薬品を送り込むようにしたのである。収容所からはSS犯罪の資料が外に流された。囚人・SS隊員の名簿も外に送られていた。それらの資料などがナチスに見つからないように特別に作られた容器に入れられたり、暗号で手紙が送られることもあった。 -
第11ブロック:2階
収容所内では反ナチスの連帯感を高めるための、色々な活動が水面下で進行していた。文化的活動や宗教的な活動も行われていた。アーティストたちは密かに創作活動もしていた。 -
点呼広場:集団絞首台
点呼の時には、SSが囚人の数を確認していた。同時に移動絞首台や集団絞首台が置かれ、見せしめのための死刑執行も行われていた。 -
点呼広場:集団絞首台となりの監視塔
(以下等の左隣にある看板の記述です。)
Booth where the SS man responsible for conducting the roll-call and collecting reports on the number of prisoners took shelter during inclement weather. -
ルドルフ・ヘスの絞首台
(以下手前の看板の記述です。)
This is where the camp Gestapo was located. Prisoners suspected of involvement in the camp's underground resistance movement or of preparing to escape were interrogated here. Many prisners died as a result of being beaten or tortured.
The first commandant of Auschwitz, SS-Oberstumbannfuhrer Rudolf Hoss, who was tried and sentenced to death after the war by the Polish Supreme National Tribuunal, was hanged here on 16 April 1947. -
ルドルフ・ヘスの絞首台
絞首台は焼却炉の入り口の前にあります。1947年4月16日にアウシュビッツ収容所元所長ルドルフ・ヘスの死刑執行がこの絞首台にて行われました。 -
焼却炉
焼却炉は収容所を取り囲む鉄線の外にあります。 -
焼却炉:内部
焼却炉の中のもっとも大きな部屋は、はじめ死体安置所であり、その後ガス室に改造された。ここでは1941年から1942年にわたって、ソ連捕虜とシレジア地方のゲットーから運ばれてきたユダヤ人が毒殺された。 -
焼却炉:内部
奥の部屋には、3台あったうちの2台の焼却炉が残されている。そこでは一日に350人の死体が焼かれていた。1台の炉には同時に2-3人の死体が入れられた。焼却炉自体はドイツのエルフルト市のトップ・ウンド・ゼーネ社が製造した。同じ会社は1942年と193年にブジェジンカにも4件の焼却炉の炉を設置した。その社名は炉の一部に書いてある。その焼却炉は140年から1943年まで利用されていた。
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この旅行記へのコメント (1)
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- 何でも観太郎さん 2011/04/27 20:11:05
- ただただ掲載に大感謝です。
- 以前から,「アウシュビッツ」に是非行きたいと思っていましたが,B−SONさんの旅行記を拝見して感動いたしました。写真1枚1枚が見事で,また実に丁寧な説明が付されており,自分も訪問した気持ちになりました。今までのどんな「写真」よりも,時間をかけて,凝視して,ナチの過ちを心から考える事ができました。本当にありがとうございました。
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