2010/07/12 - 2010/07/12
35位(同エリア53件中)
まみさん
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2010/07/12月 スィグルダとトゥライダ城日帰り
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<スィグルダ>
・鍵広場と歩く杖公園
・英国プロテスタント教会&塔見学
・新宮殿(現在はレストラン)と旧城跡(現在は野外劇場)散策
・ロープウェイでガウヤ川を渡る
<クリムルダ>
・トゥライダス通り沿いの散策道でハイキング
・グートゥマニャ洞窟見学
<トゥライダ>
・トゥライダ城博物館保護区見学
<バスでスィグルダまで戻る>
【リガ泊:ホテル・イリーナ(Iriena)】
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トゥライダ城博物館保護区の入口にたどり着いたとき、それだけでもう1日の苦労が報われた気がして、胸がいっぱいになりました。
時刻はちょうど16時。
あちこちに寄り道しながらのんびり歩いていたとはいえ、11時25分にスィグルダに到着して、はや5時間近く。
達成感はひとしおで、あやうく城見学は二の次になりそうになりました。
トゥライダ城は思っていたのと違って、周辺はとても広くて整備された公園になっていました。敷地面積からいうとお城はそのごくごく一部でした。
全体が博物館保護区となっていて、博物館そのものは、1996年にバルセロナで行われたヨーロッパの博物館フォーラムで、特別賞とトップ10の博物館賞を受賞しているそうです。
入口にあったイラストマップを見ると、まるで野外民俗博物館のような一角もあり、池回りに民家が点在している一角は絵になる景色が期待できそうです。城見学の後でぜひ写真撮影に回りたいと思いました。
実際は、城見学を終えた後、その気力がなくなってしまってあきらめましたが。
他に、フォークロアをテーマとした彫刻公園みたいなエリアもありました。
スィグルダに着いてからバスなどでまっすぐトゥライダ城に来ていたら、そういったフォークロア・エリアも撮影散策したでしょう。
でも、行きを徒歩にして、スィグルダをゆっくり散策したことを後悔していません。
あれはあれで素敵な時間が過ごせたし、写真の収穫にも満足しています。
逆に帰りが徒歩だったら、スィグルダであれだけあちこち回れたか分かりません。
両方とも回れるのが一番ですが、旅はどうしても取捨選択の連続です。
その時々の自分の選択は、たとえ状況によって選択肢が狭められた結果であっても、よい面を前向きに捉え、後悔はしたくないです。
入口から城まで少し距離がありました。
城の閉館時間の18時までは余裕があったものの、くたくたになった私のペースで城まで何分かかるか分からなかったので、城を目の前にするまでは気が抜けませんでした。
城は往時の姿の半分ほどしか残っていなくて、よく写真で目にする高さ42mのメインタワーが一番絵になり、そこからのガウヤ川周辺の眺めがハイライトといえるでしょう。
城のメイン部分は、夕方は逆光でしたし、ぽつぽつ残る城の遺跡も、好みの写真をゲットしづらい被写体でした。
もっとも、塔は、壁の厚さが3〜4mにもなるものもあり、それは外と中を見比べても実感しづらかったものの、全体的に中世の雰囲気たっぷりの建築物の集まりで、見応えありました。
メインの建物には、城やスィグルダの歴史にまつわる丁寧な展示がありました。
英語解説は充実していて、興味を覚えたけど読み切れないと思ったものは、後でゆっくり読むために写真を撮ってきました。
他にも、遺跡の主な建築物には英語が併記された説明プレートがあり、また、キッチンや地下牢として使われていたところ、発掘の様子など、分かりやすい展示が随所にありました。
城の他には、幸い入口から城に向かう途上にあったおかげで、小さな教会と、“トゥライダのバラ”と呼ばれた美女伝説のお墓参りができました。
いや、正確にはお墓は寄り損ねました。
トゥライダのバラ、トゥライダのバラと覚えていたので、墓のことをすっかり忘れてしまい、お墓近くの小さなバラ花壇しか見学しなかったのです。
トゥライダのバラは、城がポーランドに占領された時期の悲劇ですが、外国人による被支配の歴史が長かったラトヴィア、いやバルト三国では、似たように悲劇はきっとたくさんあったでしょう。
原翔さんの「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」に、この話は詳しく載っていました。
ポーランド兵に辱めを受けるのを、死をもって拒絶し、恋人に貞節を通した美女の墓を、今でも新婚さんが挙式のあとで詣でることがあるそうです。
もし本日が週末の結婚式日和だったら、そんな新婚カップルが教会やお墓のそばで見られたのかもしれません。
帰りは、1〜2時間に1本あるかないかの市内バスで、トゥライダ城博物館保護区の駐車場前のバス停からスィグルダのバスターミナルまで、私が5時間近くかけた道のりを、バスでは5分ちょっとで走り抜けてしまいました(苦笑)。
そしてスィグルダからリガまでの長距離バスの1時間。
疲れ切ってぐうぐう寝てはいたのですが、窓が閉め切っていて、空調がちっとも効かない車内で、まだ昼間のような太陽が窓からさんさんの降り注いでいたため、リガに到着したときには、からからの日干しになりかけの気分でした。
そんな帰りのバスの1時間で、スィグルダからトゥライダまでの5時間のハイキングよりもたくさん真夏の日光にさらされた気がします。
あんまり体がほてって仕方がなかった上、ホテルの部屋にはクーラーがないので、駅前の北欧系の大型チェーンデパートの、クーラーがキンキンにきいていた軽食スペースで1時間以上涼んでからでないと、ホテルに戻る元気が回復しませんでした。
トゥライダからスィグルダへ、そしてリガへの帰りのバスや時刻表などの写真は、こちらのハイライト旅行記にまとめました。
「2010年バルト3国旅行ハイライトその2:移動と市内交通編<ラトヴィア>」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10483387/
2010年バルト3国旅行の旅程一覧はこちら。
簡易版「2010年バルト3国旅行プロローグ(旅程一覧)地図付」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10481279/
詳細版「2010年バルト3国旅行の詳細旅程(写真付き)」
http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2010/07/2010-ccbf.html
「トゥライダ城
赤レンガが周囲の緑に映える美しい城。トゥライダとはリーヴ語で「神の庭」という意味だ。13世紀初めに騎士団がリーヴ人の王カウポの城を破壊し、その後リーガのアルベルト僧正によって同じ場所にこの城が造られた。
本丸は現在博物館となっており、スィグルダの歴史に関する資料が展示されている。塔の上からはすばらしい景色が一望のものとに見渡せる。」
(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)
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16時に到着、トゥライダ城博物館保護区の入口
入場料は3.00ラトヴィア・ラッツでした。
(旅行前に調べた2010年6月30日現在の換算レート:1.00ラトビィア・ラッツ(Ls)=152..47円)
ここに到着するまでにぼろぼろのくたくたでしたが、再び元気が出てきました。
さあ、城まであと一息! -
トゥライダ城博物館保護区のエリアマップ
城は、エリアのはじにあります。それも敷地のごく一部!
城の展示などが閉まってしまう18時まではまだたっぷり時間があるからいいですが、私のことだから、ゆっくりしているとあっという間に時間が過ぎていますので、まずは城へ急ぎます。
「ガウヤ川に架かる橋を北側に渡るとそのトゥライダで、すぐに「トゥライダ博物館特別地」に着く。この敷地全体はかつては城に所属していたが1625年に貴族の荘園となった。その荘園には30の建物と魚の孵化場などの池が28あった。それが1920年の農地改革で地主には17万坪が残され、後は10人に分割され、建物はリーガ教員組合の「休息の家」となり、第二次大戦後には集団農場となった。その頃の建物がいまではわずかばかり残っている。トゥライダ城はこの博物館の敷地内にあるのだ。」
(「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用) -
トゥライダ城博物館保護区の中のフォークソング・パーク(TAUTASDZIESMU PARKS)の彫刻の写真と説明
看板の写真もなかなかなので、公園内を紹介した説明看板をいくつかアップします。
実際には、フォークソング・パーク(ラトヴィア語でTautasdziesmu parks)までは回れませんでした。気力・体力・時間ともになくなっていて。
この説明によると、インドゥリス・ランカ(Indulis Ranka)というアーティストによる、ラトヴィアの生活の知恵やフォークソングを題材にした彫刻が25個あるようです。
そしてフォークソング・パークと並んで、ダイヌの丘(Dainu Hill、ラトヴィア語でDziesmu darzu)が1985年にできて、そこにもラトヴィアの近代の民族覚醒時代の文化的モニュメントとなっているようです。
博物館保護区の地図を見る限りでは、これらが占めるのは5分の1くらいでしょうか。トゥライダ城のエリアの倍以上のようです。 -
トゥライダの石造りの城(TURAIDAS MURA PILS)の塔の写真と説明
この博物館保護区のハイライトであり、私もこの城のエリアを中心に回りました。
中世のカトリックの大司教領の行政の中心として発展しましたが、後にドイツ騎士団の城となったり、その後はスウェーデン領にもロシア領にもなったりと、ラトヴィア全体の歴史の縮図のような数奇な歴史を経ています。
城自体は1214年に建築された跡、16世紀まで増改築が繰り返されました。
城内部にはラトヴィアの歴史とからめたこの地方の歴史に関する展示がありました。
大ざっぱな枠組みならなんとなく捉えられた気がしますが、細かいところまではよく分かりませんでした。 -
城に向かう途中にある教会の丘(BAZNICKALNS)の教会の写真と説明
この説明によると、教会があるところは、13世紀は現地のリーヴ人のお墓だったところのようです。
ラトヴィアのこのヴィドゼメ地方ではもっとも古い木造教会の一つで、1750年、ダニエル・メルケル牧師のときに献堂されたそうです。
トゥライダのバラと呼ばれる美女の伝説にまつわるお墓が近くのあるのですが、私は勘違いしてしまい、お墓でなくバラを見舞ってその写真を撮って来ました。
トゥライダのバラの写真はこちら。
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/19899193/
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/19899195/
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/19899201/
関連の旅行記
「2010年バルト3国旅行ハイライトその10:植物編<園芸種や花木>」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10487695/ -
1996年にバルセロナで行われたヨーロッパの博物館フォーラムで特別賞を受賞したときのもの
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トゥライダ城博物館保護区(TURAIDAS MUZEJREZERVATS)の説明と写真
トゥライダと昔のリーヴ人の言葉で「神の庭」を意味するそうです。
説明によると、この博物館保護区が設立されたのは1988年で、歴史的な建造物が37件あり、面積は41ヘクタール。
トゥライダの丘には城があり、教会の丘にはフォークソング公園があるなど、ラトヴィア2000年の歴史遺産や象徴があちこちにあるそうです。
城の塔からはガウヤ渓谷の美しい景色が眺められます。それがこの城のハイライトと言ってよいかもしれないです。 -
民家が点在する絵になる景色@
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城の方角を示す看板
ピルス。今回の旅行をきっかけに覚えられたごくごくわずかなラトヴィア語の一つ。城という意味です。 -
トゥライダ教会
城に急がねば〜と思うのですが、スルーするには惜しく、ちょっと寄りました。
「特別地の入り口を少し入ると小山があり、そこに農民達が1750年に建てたという木造のトゥライダ教会がある。ラトヴィアで最も古くできた教会の一つといわれるこの教会は新婚の夫婦が献花する場所である。教会の側にはかつては墓地があった。13世紀にキリスト教に帰依したリーヴ人の墓地だったが、教会の側に死者を埋葬するのは好ましくないということで墓は消滅した。」
(「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)
「教会が立つこの小山の一角にライムの木がある。ポーランド兵の横恋慕を拒否して殺されたトウライダのバラといわれた乙女マイヤが眠る墓に、彼女の恋人が植えたといわれる木である。この伝承は16世紀の実話にもとづいている。美人のマイヤにはヴィクトルスという荘園で庭師として働く恋人がいた。マイヤに恋心を抱いたポーランド兵がヴィクトルスの名前で手紙を書いてマイヤを呼び出す。ポーランド兵の陵辱から逃れられないと思ったマイヤは首にしていたスカーフを提供するからと釈放を願う。ヴィクトルスから贈られたこのスカーフにはあらゆる危険から身を守る魔力が備わっていると彼女は必死に説明する。そして、それを証明するためにポーランド兵に刀でマイヤ自身を刺させる。こうして、マイヤは絶命した。そのマイヤを悼んでヴィクトルスはこの木を植えたのだ。新婚の夫婦がここに献花するのはこれがためである。」
「トゥライダ・ルァザの墓
トゥライダ教会の近くの菩提樹の下に眠る、“トゥライダのバラ”とたたえられた美女の墓。恋人への愛を貫くために死を選んだ彼女をたたえて、花を手向ける人があとを絶たない。週末には式後の新婚さんがひっきりなしにお参りに来ている。」
(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より) -
全体的に白いかわいらしい教会内部
挙式のチャペルって雰囲気です。 -
城に向かう途中、あちこちに絵になる景色あり@
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トゥライダ城の図解と4ヶ国語による説明看板
6番側は完全な廃墟ですが、9番に城の歴史にまつわる展示がありました。
4番は1番上のフロアの窓からガウヤ峡谷の景色を見渡すことができました。
余談ですが、この4番のメインタワーの2階に古代バルト民族のデザインのアクセサリーショップの支店があり、ついつい購買欲もそそられてしまいました。
ただ、欲しかった指輪の私のひとさし指に合うサイズがなかったので、翌日、リガの本店で買いました。
リガ本店のお店の写真はこれです。
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/20044415/
そして買ったアクセサリーの写真がこちら。
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/20044426/
関連の旅行記
「2010年バルト3国旅行ハイライトその16:ゲットしたものゲットしたところなど(完)」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10488479/ -
トゥライダ城の写真と4ヶ国語による説明看板
トゥライダ城の発掘や城の整備と研究が始まったのは20世紀後半だそうです。 -
やっと到着した、本日のハイライトのトゥライダ城
北門側から入ります。
手前は見張り塔。
「(前略)アルベルト司教は完成した城を平和な地を意味するフリートラント(Friedland)と名づけるが、やがてトゥライダ城に変更している。アルベルト司教はこの城を家臣がリヴォニアを管理するために使用した。城はそのため軍事目的にかなうものに改造されていった。
1425年にリヴォニア騎士団(補足:帯剣騎士団、13世紀にチュートン騎士団に吸収される。おおざっぱにいえば、どちらもドイツ騎士団)はこの城を乗っ取って以降、62年間占拠した。騎士団はその時期に、大砲などの火器に対応するために補強や改造を繰り返したので、城は大きくなった。この城を大司教は1487年に取り戻しているが、その経緯は分からない。
ポーランドがリーガを攻撃した1561年にこの城はポーランドに占領される。やがて戦いの近代化で対応能力の不備がはっきりしてくる。そして、リヴォニア戦争の末期の1583年にポーランドは城を軍事目的から外して小規模の兵の駐屯地とした。1625年にスウェーデン王がこの城を占領して総督ニール・スターンスカールにあたえ、総督は荘園として使用した。そして、1776年の火薬庫への落雷で、城はドンヨン塔、中央部の塔、穀物庫などが部分的に残るだけでほとんどが壊れてしまう。
城の修復は1950年代に始まり現在もその途上にある。修復が終わった部分にある博物館には城の歴史やリーヴ人の資料などがあった。(後略)
(「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用) -
見張りの塔のある北門と外堀と橋の説明
先ほどの写真の手前にあった円筒の塔のかつての姿と城の遺跡全体の中の位置と解説です。
これによると、この北側の防御施設が整ったのは15世紀です。
北塔は直径12メートルで、城壁の分厚い側は4.5メートル、反対側の薄い側でも2.5メートルあったそうです。
城壁の外は堀になっていて、城側から上下操作できる吊り橋が架かっていましたが、その橋は残っていません。 -
トゥライダ城で目立つメインタワーと城
13世紀と14世紀に建てられ、かつては地下を牢獄として使ったという高さ42メートルの円筒状のドンヨン塔です。
この急な螺旋階段を登ると、中は5階建てになっていて、最上階から周辺が眺められるようになっています。
1950年代に修復が完了しました。 -
そびえるトゥライダ城
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城内の歴史展示より、13〜16世紀のリガ大司教時代の説明
かいつまんで解説しますと、トゥライダ城は13世紀から16世紀まではリガの司教あるいは大司教の領有でした。
リガ司教は、ラトヴィアの地において、平和的に、あるいは武力をもって、キリスト教を布教しました。
それとは別にこのあたりでひしめいていた勢力は、現エストニアの大司教と、帯剣騎士団(後にチュートン騎士団に吸収されますが、要するにドイツ騎士団の一派)でした。
リガ大司教は教皇からリガとロシアのキリスト教世界のリーダーとしての地位をまかされていましたが、世俗の地位としてはリガ大司教領土のみの領主でした。この国の支配権を求めて多くの勢力がしのぎを削っていました。
当時のトゥライダ城はリガ大司教の司教領の経済的政治的中心地であり、執政官が住んでいました。有力者の訪れも多く、裁判や重要な協定が行われたこともありました。
その中世時代のものが、ここに展示されています。 -
リガ大司教と帯剣騎士団の争っていた時代の展示
やじりと刀などの武器とイラスト。
下のイラストでは、大司教が帯剣騎士団に脅されています。 -
13〜16世紀にかけての城の増築の解説図
メインタワーと北の城壁や見張り塔は13世紀末〜14世紀初頭に完成していますが、この展示室の部分は16世紀になってもはまだ出来上がっていませんでした。 -
最後に上ろうととってあるメインタワーと歴史展示があった城部分
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15〜16世紀には牢獄として使われていたメインタワーの地下部分
当時の様子がマネキン人形で復元されていました。
説明によると、中世は人々が投獄されるのは裁判までの短い期間で、自白を促すために拷問が行われるのが通常でした。
長いこと牢獄に監禁されるのは、たいてい政敵でした。 -
城の南部分の発掘の様子の写真、上は1978年、下は2000年
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中庭からメインタワーを中心に見回す
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メインタワーの内部の図解
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メインタワーの壁の壁の分厚さ
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メインタワー内部にて
ストーブの跡!?
シャンデリアは中世当初のものではなく、近代に付け加えられたものでしょう。 -
メインタワーからの眺め:トゥライダ城跡の南部分とガウヤ渓谷
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緑豊かなトゥライダ城博物館保護区
彼方にフォークソング公園と彫刻が見えます。 -
14倍ズームで捉えた、フォークソング公園の彫刻の一つ
片面が顔になっているようです。 -
メインタワーから城の北部分を見下ろす
あそこから入ってきたわけです。 -
城の一部と森深きガウヤ渓谷
左手の彼方にかすかにスィグルダ城が見えます。
あそこからやってきたわけです。 -
城の一部とガウヤ川
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RENDV. 1972と書かれた鉄の旗とガウヤ渓谷
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城の中庭部分とガウヤ川
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さっきメインタワーの上から見た彫刻
帰りに見かけたので撮影しました。
メインタワーを最後に、城を見学し終えたのは18時少し前でした。
池や民家風の家が点在するエリアを少し散策しようかと思ったのですが、いまからバス停に向かえば18時15分のスィグルダ行きのバスに乗れるし、その次は19時10分までバスがない……と思ったら、18時10分のバスで帰りたくなってしまいました。
スィグルダからリガまでさらに1時間かかるので、18時15分のバスでスィグルダに戻って、リガに到着するのは20時頃になるはずです。
ちなみに、夏の日照時間の長さには助けられています。
7月のバルト3国は22時まで明るいので、ホテルに戻るときに一人夜道を歩かざるをえないという心配はありません。女一人の旅行にとって、治安面での懸念が一つ減ります。
トゥライダからスィグルダ行きの市内バスの運賃は0.30ラトヴィア・ラッツでした。
私が約5時間ほどかけて歩いた道のりを、バスは5分余りであっという間に走り抜けました。
スィグルダからリガ行きの長距離バスの運賃は帰りと同じ1.50ラトヴィア・ラッツです。
旧ソ連圏は生活に必要な食料や公共交通金は本当に安いです。
おわり。
※余談ですが、私はこのスィグルダでのハイキングの時間をずっと6時間と勘違いしていました。
てっきり11時に歩き始めたかといつのまにか勘違いしていたのです。
あらためて自分の旅日記をひっくり返してみたら、11時50分に出発していました。約5時間だったわけです。
ハイライト旅行記のラトヴィア移動編や、帰国後まもなくまとめたもう一つのブログでの旅行の感想記事では、6時間、6時間と書いてしまいましたが、そのままにしてあります。なんとなくきりがいい数字だから!?
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