![かなり久しぶりに多倫路にお散歩に行ってきました。<br /><br />このあたりは、もともとはアメリカ租界で、<br />その後、共同租界に組み込まれた場所。<br />旧日本租界(実際には日本租界というものは<br />存在しなかったが)と呼ばれているエリアには<br />当時10万人もの日本人が住んでいたといいます。<br /><br />多倫路は戦前は日本人が多く住み、<br />その後は魯迅をはじめとする青年活動家が<br />住んだ場所です。<br /><br />この日の散歩後半はこちら↓<br />上海★秋の旧日本租界散歩~日本人街の面影を求めて山陰路へ<br />http://4travel.jp/traveler/blue_tropical_fish/album/10520770/<br />](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/10/52/04/650x_10520442.jpg?updated_at=1366938498)
2010/11/14 - 2010/11/14
1622位(同エリア11701件中)
熱帯魚さん
かなり久しぶりに多倫路にお散歩に行ってきました。
このあたりは、もともとはアメリカ租界で、
その後、共同租界に組み込まれた場所。
旧日本租界(実際には日本租界というものは
存在しなかったが)と呼ばれているエリアには
当時10万人もの日本人が住んでいたといいます。
多倫路は戦前は日本人が多く住み、
その後は魯迅をはじめとする青年活動家が
住んだ場所です。
この日の散歩後半はこちら↓
上海★秋の旧日本租界散歩~日本人街の面影を求めて山陰路へ
http://4travel.jp/traveler/blue_tropical_fish/album/10520770/
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
さて今日のお散歩は、地下鉄3号線の宝安興路駅から。
1号出口から出て、東横浜路を歩きます。 -
東横浜路は入り口から洗濯物ががんがん干してあって、なかなかいい感じ。
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路地裏に寄り道しながら、東横浜路をてくてく。
-
多倫路に到着★
○ 多倫路93号
1920年頃建設されたコンクリート混合建築。七君子(国民党により逮捕され投獄された青年活動家7名)のひとり、王造時の住宅。 -
○ 多倫路90号
○ 沈尹黙(1883-1971)
新文化運動の先駆者のひとりで、詩人であり書道家。1946年より1971年春になくなるまで、虹口の海倫路504号に定住。 -
○ 多倫路85号
1930年頃の建築。日本洋風時期の建築で、西洋と東洋の特徴を持つ。 -
○ 内山完造(1885-1959)
内山書店の店主。魯迅の親友であった。1916年から1947年まで虹口に住んでいた。 -
イチオシ
○ 多倫路66号 「薛公館」
1920年頃、薛氏によって建てられ、薛公館とも呼ばれている。
戦時中は、日本海軍武官府が置かれていた。 -
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隣の建物も、ツタが絡まってとてもいい味を出していました。
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イチオシ
○ 多倫路59号 「鴻徳堂」
レンガとコンクリートの混合建築。1928年竣工。
上海唯一の中国寺院方式の基督教会。 -
多倫路でこの建物だけが中国風で目を引きました。
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○ 茅盾(沈徳鴻)
新文化運動巨匠のひとり。卓越した文学家であり、社会活動家であった。
1920年代から1940年代の間に、3度虹口に住んだ。 -
魯迅の像ももちろんあります。
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○ 四川北路1915号 「公琲珈琲館址」
1929年魯迅が発表した「革命珈琲店」の中に出てくる喫茶店が、公琲珈琲店。左翼作家と地下党の集会の場であり、左翼聯盟の集会はいつも公琲珈琲店の2階で行われていたという。
現在はもともとの建物が取り壊され、新しく建てられた建物の地下に公琲珈琲館という名前の喫茶店が出来ている。 -
魯迅の小説に出てくる咸享酒店の上海支店。
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こちらが多倫路の起点(数字が小さい方)。
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また路地裏へ迷い込んでみました。
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多倫路は5年ぶり位にきたのですが、随分変化していました。今回の散歩は路地裏の方が楽しかったです。
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○ 多倫路123号 「老電影珈琲館」
ここでお茶でもしようと思ったのですが、なんとドラマの撮影に使われるということで、11日から16日まで入れないとのこと。残念。
外観の写真を撮っていたら、ドラマのカメラマンのおっさんに話しかけられました。「この角度で撮ってみろ」とか「灯りを入れろ」とか「樹も少し入れろ」とかアドバイスをもらいました…笑 -
そしておっさんが見本で撮ってくれた写真はこの2枚。
上手なのかよくわかりませんが、おっさん的にはこの構図が良かったんだろうな。 -
レトロなポスト。
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顔みたい。
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○ 景雲里
1925年に建てられた、木骨レンガ造りの住宅街。1920年代、30年代には、魯迅、陳望道、茅盾、葉聖陶、馮雪峰、周建人、柔石など、文化人がここに住んでいた。 -
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○ 多倫路145号 「中華芸術大学学生宿舎」
1920年頃建てられ、以前は中華芸術大学学生宿舎として使われ、1989年からは左聯記念館としても使われていた。上海開港から20世紀初頭にかけて、多くの建築に用いられた外廊式スタイルの建築。アーチ部分や柱部分に西洋建築の特徴が見られる。 -
○ 永安里
木骨レンガ構造で、前半部分は1925年に、後半部分は1945年以降に建てられた。新しい方式の集合住宅。 -
再び路地裏に誘われて…
何だか和風な建築を発見しました。 -
そしてふとその隣の建物を見たら、新婚さんが写真撮影中。なかなか演技力ありますね。建物もいい感じで、2人に似合ってました。
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多倫路よりは、その周辺の路地裏が面白いです!!
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再び多倫路。
2階に毛沢東像を発見。 -
以前来た時はもっと古めかしい感じの骨董やさんが沢山ありましたが、今は雰囲気ががらっと変わってました。
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イチオシ
もう一度振り返って永安里を見てみます。ずらーーって感じ。
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○ 多倫路189号 「趙世炎寓所」
上海工人第三次武装起義副総指揮を務め、1927年には中国共産党江蘇省委員会代理書記を務めた。1927年7月2日、この地で逮捕された。 -
○ 多倫路240弄4号 「新中国刷社」
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一旦、左翼作家聯盟会址記念館の前を通りかかって、さらに路地裏へ。
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とにかく路地裏が面白いです。
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イチオシ
自転車撮ってみました。
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イチオシ
さらに奥に行ってみました。
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もっと奥に行こうかと思いましたが、いつまで経ってもきりがないので、ここらへんで記念館まで戻りました。
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○ 多倫路201弄2号 「左翼作家聯盟会址記念館」
中国左翼作家聯盟会は中国共産党によって旗揚げされた、魯迅を筆頭とする革命文学団体。1932年この地で成立し、1936年春に解散した。
記念館の入場料は無料。暇なので中に入ってお勉強しました。左翼作家たちが集って会議を開いた場所(左翼会が成立した場所)も当時のままに展示されています。2階は主にパネル展示でした。 -
路地裏の犬。
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○ 多倫路208号
1920年代、広東人陳仲篪によって建てられた。外観はヨーロッパルネッサンス様式。 -
○ 四川北路2023弄35号 「湯公館」
隣の多倫路210号の建物と同じ様式の建築。戦時中は日本軍によって軍官宿舎として使用されていた。戦後は、湯恩伯の所有となり、「湯公館」とよばれるようになった。のちに湯儀がここに住んだ。1949年初め、湯儀は湯恩伯らと蜂起しようとしたが失敗に終わり、裏切りにあってこの場所で逮捕された。 -
さらに路地裏を歩いてみました。
豊楽里という昔ながらの住宅街。 -
イチオシ
豊楽里という名前の路地裏がいくつもあって、それぞれ住宅街を形成していました。
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太陽社成立址を発見。
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○ 多倫路210号
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○ 多倫路215号
1924年、広東商人李観森によって建てられた。のちに、汪兆銘による南京維新政府行政院長だった梁鴻志や、日本海軍陸戦隊司令部に占領された。 -
お昼ごはんは、多倫路にあった虹東という韓国レストランで、ユッケジャン(28元)をいただきました。在上海の韓国人向けの情報誌があって、久しぶりに韓国語の練習…笑
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○ 多倫路250号 「孔公館」
1924年に建てられた。戦後は、孔祥熙の住居となり、「孔公館」とよばれた。
建築の外観と内部は、イスラム・スペイン建築の様式。彫刻や彩色にアラブの模様が用いられている。 -
さて、多倫路散歩も終わり。次は日本人が多く住んだという山陰路に行きます!
次の旅行記に続きます。
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