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2010年8月6日(金)<br /><br />グラーツのハウプト広場(ハウプト・プラッツ)は、1160年発祥とされているが、情報交換の場、交易の場として、集落の中心が自ずから形成されたのだろう。<br /><br />南側に建つ市庁舎は、1550年に始まると言われる。<br /><br />その後増築、改築が重ねられ、現在の姿が出来たのは1887年とされる。<br /><br /><br />広場の中心には、1878年に建立されたヨハン大公の銅像が際立っており、それを取り囲む四人に女性像は、シュタイヤマルク領を流れる四大河川のシンボルとのことだ。<br /><br />ヨハン大公は、ゼメリング鉄道建設の推進者としても、知られている。<br /><br />広場を取り囲む建物の壁には綺麗な装飾を施されており、一番目立つルエックハウスは、1690年に建てられたものだ。<br /><br /><br />目指す「武器博物館」は、ハウプト広場から歩いて直ぐだった。<br /><br />この道にはトラムの線路が通っているが、線路ギリギリの歩道にレストランのテーブルとテントが置かれていて、電車が走ったら風でテーブルが揺らぎそうなほどだ。<br /><br />このような光景はフランスのグルノーブル(だったと思うが?)でも見たような気がするが、トラムと市民の日常生活の場がこんなに密接なのは、日本では考えられない。<br /><br /><br />武器博物館は、オスマントルコの襲撃に備えるため、17世紀中葉に造られた。<br /><br />13世紀末に始まったオスマントルコは、勢力圏の爆発的拡大を続け、ヨーロッパを脅かす存在となる。<br /><br />当時ヨーロッパの最前線としてオスマントルコの進出を防いだのは、この地方だった。<br /><br />オスマントルコがウィーンを包囲したのは、第一次1529年と第二次1683年の二回とされるが、この当時ハプスブルグ領は常時オスマントルコ来襲の脅威にさらされていたと思う。<br /><br /><br />今武器博物館になっている武器庫が建設されたのは、第一次来襲と第二次来襲の間で、このような武器の蓄積が、必死の思いでなされていたのだろう。<br /><br />この武器博物館の最大の意味は、当時の恐怖を今に伝えることだろうと考える。<br /><br /><br />四階建ての博物館は、小銃をずらりと並べた棚が床いっぱいに並んでいて、私が1943年に旧制中学校に入学して、学校の武器庫を見たときの驚きを思い出す。<br /><br />敗戦を二年後に控えた時代だが、ほぼ学生数に近い数の小銃が揃っていた。<br /><br />一年生で持った銃は「村田銃」で、明治13年製と記憶している。<br /><br />重いうえ、肩への当たりが厳しかったが、国防の一翼に参加しつつある実感を覚えて、緊張した。<br /><br /><br />二年生になると「三八銃」になり、これは明治38年製と聞いた。<br /><br />「村田銃」より、ずっと持ち易かった。<br /><br />こうした銃の扱いは「教練」の時間に習った。<br /><br />しかし実弾射撃は、もう少し高学年になってからでないと、体験できなかった。<br /><br /><br />写真は「ソフィーさんのマイページ」(訪問54カ国、文章1,590件 写真6,770枚)、にあります。<br />http://4travel.jp/traveler/katase/<br /><br />スイスの写真が美しい「片瀬貴文さんのマイページ」(文章625件 写真2,400枚)<br />http://4travel.jp/traveler/takafumi/<br /><br />ブログの作成日順に並んでいる、文章主体の「片瀬貴文の記録」(文章1,650件)<br />http://blog.alc.co.jp/d/2001114<br /><br />(片瀬貴文)<br />

世界遺産の街グラーツ【12】武器博物館はオスマントルコ来襲時の恐怖を伝えている

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2010/08/06 - 2010/08/06

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ソフィ

ソフィさん

2010年8月6日(金)

グラーツのハウプト広場(ハウプト・プラッツ)は、1160年発祥とされているが、情報交換の場、交易の場として、集落の中心が自ずから形成されたのだろう。

南側に建つ市庁舎は、1550年に始まると言われる。

その後増築、改築が重ねられ、現在の姿が出来たのは1887年とされる。


広場の中心には、1878年に建立されたヨハン大公の銅像が際立っており、それを取り囲む四人に女性像は、シュタイヤマルク領を流れる四大河川のシンボルとのことだ。

ヨハン大公は、ゼメリング鉄道建設の推進者としても、知られている。

広場を取り囲む建物の壁には綺麗な装飾を施されており、一番目立つルエックハウスは、1690年に建てられたものだ。


目指す「武器博物館」は、ハウプト広場から歩いて直ぐだった。

この道にはトラムの線路が通っているが、線路ギリギリの歩道にレストランのテーブルとテントが置かれていて、電車が走ったら風でテーブルが揺らぎそうなほどだ。

このような光景はフランスのグルノーブル(だったと思うが?)でも見たような気がするが、トラムと市民の日常生活の場がこんなに密接なのは、日本では考えられない。


武器博物館は、オスマントルコの襲撃に備えるため、17世紀中葉に造られた。

13世紀末に始まったオスマントルコは、勢力圏の爆発的拡大を続け、ヨーロッパを脅かす存在となる。

当時ヨーロッパの最前線としてオスマントルコの進出を防いだのは、この地方だった。

オスマントルコがウィーンを包囲したのは、第一次1529年と第二次1683年の二回とされるが、この当時ハプスブルグ領は常時オスマントルコ来襲の脅威にさらされていたと思う。


今武器博物館になっている武器庫が建設されたのは、第一次来襲と第二次来襲の間で、このような武器の蓄積が、必死の思いでなされていたのだろう。

この武器博物館の最大の意味は、当時の恐怖を今に伝えることだろうと考える。


四階建ての博物館は、小銃をずらりと並べた棚が床いっぱいに並んでいて、私が1943年に旧制中学校に入学して、学校の武器庫を見たときの驚きを思い出す。

敗戦を二年後に控えた時代だが、ほぼ学生数に近い数の小銃が揃っていた。

一年生で持った銃は「村田銃」で、明治13年製と記憶している。

重いうえ、肩への当たりが厳しかったが、国防の一翼に参加しつつある実感を覚えて、緊張した。


二年生になると「三八銃」になり、これは明治38年製と聞いた。

「村田銃」より、ずっと持ち易かった。

こうした銃の扱いは「教練」の時間に習った。

しかし実弾射撃は、もう少し高学年になってからでないと、体験できなかった。


写真は「ソフィーさんのマイページ」(訪問54カ国、文章1,590件 写真6,770枚)、にあります。
http://4travel.jp/traveler/katase/

スイスの写真が美しい「片瀬貴文さんのマイページ」(文章625件 写真2,400枚)
http://4travel.jp/traveler/takafumi/

ブログの作成日順に並んでいる、文章主体の「片瀬貴文の記録」(文章1,650件)
http://blog.alc.co.jp/d/2001114

(片瀬貴文)

旅行の満足度
3.0
観光
3.0
  • グラーツの市役所前には<br />次々に結婚式が行われているようだ

    グラーツの市役所前には
    次々に結婚式が行われているようだ

  • 街には道化師も頑張り出した

    街には道化師も頑張り出した

  • 次々に新しいミュージッシャンが現われる<br />コインがいくらあっても不足する

    次々に新しいミュージッシャンが現われる
    コインがいくらあっても不足する

  • 落ち着いて緑がある<br />家々の中庭

    落ち着いて緑がある
    家々の中庭

  • 昼食にやって来た<br />宮廷御用達パン屋<br />「Edeggar-Tax」

    昼食にやって来た
    宮廷御用達パン屋
    「Edeggar-Tax」

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