2010/06/25 - 2010/06/25
150位(同エリア253件中)
ムッシュさん
いよいよ近江の境に近くの関ヶ原宿を過ぎれば今須宿(国境)になります。琵琶湖にも近づいてきました。
関ヶ原宿
今須宿 第59番宿(日本橋より????)
本陣1、脇本陣2、旅籠13、問屋7。
中山道美濃十六宿の最西端の宿場
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垂井は西に関ヶ原を控え、交通の要衝でもありかつては美濃の中心であった。
中山道が、丁度国道21号とJR鉄道を越える陸橋からの眺め。 -
【垂井の一里塚跡】
もうすぐ関ヶ原宿という境近くに、垂井の一里塚跡が残っています。
又、この辺りに浅井長政が陣を構えた地。
中山道全線でも2ヶ所しかない国の史跡に指定された一里塚。
日守の茶所の並びに垂井の一里塚の南塚をほぼ完全に残しています、江戸日本橋より数えて112里目です。
中山道で国の史跡に指定された一里塚はここと、板橋志村の一里塚だけです。
【垂井一里塚】 史跡(昭和5年10月3日指定)
徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1604)に主要街道に一里塚の設置を命じた。これにより、江戸日本橋を基点として一里(四キロ弱)ごとに、五間(約九メートル)四方、高さ一丈(約三メートル)、頂に榎を植栽した塚が道を挟んで二基ずつ築かれた。
垂井一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残っている。
旅人にとっては、人夫や馬を借りる里程を知り、駄賃を定める目安となり、その木陰は格好の休所となった。
国の史跡に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区志村のそれと二か所だけであり、交通史上の重要な遺跡である。」 -
これより関ヶ原町の道標。
中山道を直進しますが、町全体が合戦の古戦場関連史跡だらけですので、歴史好きな方は、町を散策するといいかもね。 -
【野上七つ井戸】
歴史街道の公園になっている。
ここに、松並木の説明やら、六部地蔵尊が立ててある。
木曽川水系の平木川を平木川橋で渡ると右手に野上七つ井戸があります。 -
【旧中山道の野上の
松並木】
天然記念物に指定され保護してる。関ヶ原宿の東の入口あたり。
松並木になります、往時は松、杉、楓の並木が続いていましたが、近年虫害や台風などによって、減少の一途をたどっています。
そのため町では、天然記念物に指定し、防虫対策や補植により、その保護につとめています、街道に松並木は必須です、よろしくお願いします。
山内一豊は関ケ原の合戦の際、垂井の一里塚と桃配山の間の中山道沿いに布陣し、南宮山の西軍に備えました。 -
【六部地蔵】
松並木が石畳風舗装路になると、左手に六部地蔵があります、宝暦十一年(1761年)この地で亡くなった諸国行脚の六部を供養したものです、痛みのひどい病にご利益があり「六部地蔵 歯痛治りて 礼参り」と大事にされてきました。
【六部地蔵】
六部とは「六十六部」の略で、全国の社寺などを巡礼して、旅をしながら修業している「人」ということで、厨子を背負って読経しつつ行脚中の行者が「宝暦十一年頃」(1761年)この地で行き倒れて亡くなられたので里人が祠を建てお祀りされたといわれております。
この六部地蔵さんは、「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」と読まれているように、痛みのひどい病気をなおすことで名を知られています。
関ヶ原町 -
JR関ヶ原駅
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関ケ原は、昔も今も変わらぬ交通の要衝として歴史の上に大きな足跡を残してる。
古くは壬申の乱の戦場となり、不破関所が置かれた。慶長5年の関ケ原合戦は有名である。
家康が天下の実権を握り中山道が整備されると、ここに関ケ原宿と今須宿駅が置かれた。関ケ原は北国脇往還、伊勢街道の分岐点で宿場が賑わった。
天保14年では、両宿合わせて46軒の旅籠屋があり、そこには飯盛女が置かれて旅人の旅情に答え人馬と相まって反映した。 -
著作権フリー作品「木曽街道六十九次」の画像を使用
【広重 関ヶ原 木曽海道六拾九次之内 関ヶ原】
関ケ原宿の宿長は十二町四十九間(約1.4km)で、宿並は京方面から西町、仲町、公門町、東町で構成されました。
広重は関ケ原の歴史には触れず、西町辺りから東を向いて、のびりとした茶屋風景を関ケ原として描いています。
茶屋の藁屋根の軒には名ぶつさとうもち(牡丹餅)と描かれた提灯が吊り下がり、そばきり、うどんの看板を掲げ、店内には商っている傘、扇、草鞋を描いています。 -
関ヶ原町のマンホール
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関原宿の【脇本陣跡】
宿並を進むと大垣共立銀行の並びが脇本陣跡です、相川家が勤め、建坪は七十九坪でした。国道21号に面し、現在相川家に門のみ立っている。
往時は、脇本陣、問屋、旅籠も営み賑わった場所。
【至道無難禅師誕生地・関ヶ原宿脇本陣跡】
慶長八年(1603)本陣職相川家に生まれ、愚堂国師の門下となった禅師は、臨済宗妙心寺派の江戸前期の高僧です。
禅師は国師の法を継ぎ、宗勢拡大に寄与され、江戸禅宗界に名声を博しました。
なお寛文二年(1662)創業の日本橋の白木屋元祖大村彦太郎とは従兄弟の間柄で、彦太郎の精神的糧は禅師から得られたと言います。
当家は後脇本陣を勤め、この門はその面影を伝えるものとして貴重です。
関ヶ原町 -
【西首塚碑】
梨の木川を小さな梨の木橋で渡ると右手に西首塚があります。
東首塚と同様にこの地の領主竹中重門が徳川家康の命により、戦死者を埋葬した高さ2m、周囲30mの塚です。
関ヶ原合戦で死んだ武将の首を埋めたところである
【西首塚】
関ヶ原合戦戦死者数千の首級を葬った塚である。
この上に江戸時代から十一面千手観世音および馬頭観世音の堂が建てられ、附近の民衆の手によって供養がされている。
関ヶ原町教育委員会 -
【不破の関跡】
庭内には歌碑あり、古くから和歌や俳句などにも歌われている。
「人住まぬ 不破の関屋の 板庇 あれにし後は ただ秋の風」(藤原良経)
「秋風や 藪の畠も 不破の関」(松尾芭蕉)
不破の関は672年の壬申の乱後に設置。789年には機能停止。芭蕉がおとづれた1684年当時は、芭蕉句を読むほど跡形も無くなっていただろう。
街道に戻って進むと左手に不破関守跡があります、ここが不破関(ふわのせき)跡です、壬申の乱以後に設けられた関で、破れ不(ざ)る関を意味するところから不破と命名されました。
東山道の美濃不破関は東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発関(あらちのせき)とともに古代律令制下の三関(さんげん)の一つです。
百三十年続いた不破関は延暦八年(789)桓武天皇の代に廃止されました、以降は代々三輪家が関守を勤めました、この不破関を境に関東、関西と分かれます。
関守館の裏に回り込むと、三輪家末裔の関月亭庭園があります、不破関は平安時代の歌枕で知られました。
【不破関跡】(新説明板) 町・県指定史跡(昭和44年6月21日、昭和45年4月7日指定)
東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発関とともに、古代律令制下の三関の一つとして、壬申の乱(672年)後に設けられたとされています。
延暦八年(789)に停廃されて後は関守が置かれ、平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡の情景がしきりと記されてきました。
関ヶ原町
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これより【今須宿】
今須宿は中山道美濃路西端の宿場で、妙応寺の門前町として発展し、琵琶湖から美濃への物資流通で賑わい、問屋場は7軒ありました。
今須宿並は東から門前、仲町、西町の三町で構成され、宿長は十町五十五間(約1.2km)でした。
天保?年(1843年)の頃、今須宿の宿内家数は464軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠13軒、宿内人口は1,784人で幕府領(大垣藩預り)、宿高千五百石でした。 -
著作権フリー浮世絵作品「木曽街道六十九次」の画像使用してる。
【歌川広重名所絵。木曽街道69次。今須宿】
広重は今須としてこの國境の景を描いています。
近江側の茶屋近江屋と美濃側の茶屋両国屋の間に江濃両国境と記された傍示杭を描いています。
一説によると義経の愛妾静御前がここに泊まると、向いの旅籠から家来の江田源蔵の声が聞こえ、寝ながらに義経の居る平泉に連れて行ってもらえないかと懇願したところ、快諾を得たといいます。
この國境を挟んで二十五軒の集落があり、美濃側の五軒は美濃訛(なま)りを話し、貨幣は金(江戸は金本位)でした。
それに対して近江側の二十軒は近江訛で話し、貨幣は銀(大阪は銀本位)であったといいます。 -
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関ケ原町今須にある妙応寺
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この溝が【国堺モニュメント】です
現在も県境となっている小さな溝。「近江と美濃の国堺」「滋賀県と岐阜県の国境」
江戸時代もこの小溝は一尺五寸(約50cm)しかなかった。ここは夢物語の里である。 -
【寝物語の里】
左に斜めに見える小溝が、近江と美濃の境。(国境)
家を並べていたので、寝ながら美濃と近江の人が会話ができた伝説の地、寝物語の里。
「壁越に寝ながら他国の人と話し合えた」と書かれた寝物語の由来も納得できる風景だ。
寝物語の里碑があります、寝物語の由来碑には太田道灌の歌「ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに」が刻まれています。 -
美濃国と近江国の国境である。国境は中細い溝であった
この溝を挟んで両国の蕃所や茶屋があり寝ながら他国の人と話が出来たので
【「寝物語の里」】とも言われていた
【寝物語の由来】
近江と美濃の国境は、この碑の東十メートル余にある細い溝でした。この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われています。また、平治の乱(1159)後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも、「源義経を追って来た静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられています。
寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていますし、広重の浮世絵にもここが描かれています。
「ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに」太田道潅
平成四年一月 滋賀県米原市
野ざらし紀行の芭蕉が熱田からの帰りここで詠んだ句が
「正月や 美濃と近江や 閏月」とか
ここで国境(くにざかい)の溝を渡ってこれからは近江路となる。 -
【芭蕉句碑】
「正月も 美濃と 近江や 閠月」
貞享元年十二月、野ざらし紀行の芭蕉が郷里越年のため、熱田よりの帰路、二十三日ころこの地寝物語の里今須を過ぐるときの吟
昭和五十三年二月建之 芭蕉翁顕彰會
「今須、山中を過ぎて」と芭蕉が記したとおり、県境から五分歩くと今須(関ケ原町)、さらに2km先の山中の集落を抜け、1km歩くと不破の関にたどりつく。
「正月も 美濃と近江や 閏月 はせを(左の句碑)」
左から2番目の石柱 野ざらし芭蕉道 年暮れぬ笠着て草鞋はきながら はせを
更にこの右に、石碑「おくのほそ道」の一部を記載がある。
「行春や鳥啼魚の目は泪 蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ 芭蕉」 -
【金毘羅大権現永代常夜燈】
元は問屋場前にあったものです。
文化五年(1808年)京の問屋河内屋は大名の荷を運ぶ途中ここ今須宿付近で、紛失し途方に暮れていました。
そこで金毘羅大権現を一心に祈ったところ、無事に荷は出てきました、そのお礼に建立したのがこの常夜燈です。
関ヶ原町 -
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【柏原宿の町並み】
「伊吹山の麓にして、名産に伊吹もぐさの店多し」(木曽図名所図会)。
今も変わらず広重が描いた「伊吹堂亀屋左京」がもぐさを商っている。 -
【柏原宿本陣跡】
南部辰右衛門が勤め年寄を兼ねました。間口は両隣を合せた広さで、屋敷は526坪、建坪は138坪でした、建物は皇女和宮通行に際して、新築されました。
徳川家茂が宿泊したことあり。
【柏原宿本陣跡〕
本陣は、大名・幕府役人・宮家・公家・高僧他貴人が利用する公的休泊施設である。
柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣役を務めている。間口はこの家の両隣を合せた広さで、屋敷は五百二十六坪、建坪は百三十八坪あった。建物は皇女和宮宿泊の時、新築されてと云われる。
明治になり、柏原小学校前身の開文学校はここに創設された。
その後建物は明治中期に岐阜県垂井の南宮神社宮司宅へ移築された。 -
柏原宿の問屋役庄屋は、映画監督吉村公三郎氏の実家です。
東の庄屋跡です、吉村武右衛門が勤めました、吉村公三郎の祖父が最後の庄屋を勤めました。
【中山道 柏原宿】フォト案内板より
ここ柏原宿は、お江戸日本橋より中山道六十九宿(草津宿で東海道と合流)の内六十一番目になり、約百十二里(一里は約3.9キロメートル)、京までは約二十一里のところにある。
江戸時代は、随分栄えたもので、宿場としての業務も、かなり苦労が多かった様である。
幕末広重画く柏原宿の看板は、何と言っても「伊吹もぐさ」の老舗伊吹堂で、現在の建物そのままである。当時「伊吹もぐさ」を商う店は十指に余り、中山道有数の宿場名物となっていた。現在は一軒だけとなっている。
柏原宿は、規模が大きく、六十九宿中宿高で四番目、宿場の長さ十三丁(1420メートル)は十番目、戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮(彦根市)に次ぐ宿場である。
しかも旅籠屋(旅人たちの宿屋)は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず二十二軒もあった。
現在、一軒も残っていないのは残念である。
本陣、脇本陣は、それぞれ一軒、問屋(人馬、荷物の継ぎ立て一切を行う)は、当宿には六軒(開宿当時は二十軒を数え、幕末になると、普通各宿多くて三軒までなのに、関ヶ原から番場までの五宿は、それぞれ六、七軒あった)、その問屋を補佐する年寄(村役人)は八軒あり、造り酒屋も一時は四軒もある盛況であった。
この宿は、古くより東町・市場町・今川町(箕浦と言ったこともある)及び西町の四町からなり、宿場機能の中枢は、市場町でした。一つの宿場に四社も氏神があるのはそのためである。柏原の総社は、野瀬の神明神社である。
又お寺の多いことでも有名で、ひと頃は三十ヶ寺を越え、現在も十五寺と三堂がある。
中世京極道誉の随臣、箕浦氏が四百年柏原を守った居館跡(柏原箕浦城跡)、近世徳川家光により創建された柏原御茶屋御殿跡(地名として残る)等がある。
宿場からは外れるが、織田信長が宿泊した成菩提院は、天台談林三箇随一と言われた名刹で、盛時には、六十坊を数えたと言う。国指定重要文化財等豊富である。
また、宿場の東約十三丁の地に江濃国境があり、有名な寝物語の里(長久寺)がある。この様な柏原宿であるが、しだいに昔の面影が消え、今にも忘れ去られようとしている。
平成五年三月 柏原宿整備調査委員会 米原市教育委員会
「吉村公三郎実家」前の案内板より -
著作権フリー浮世絵作品「木曽街道六十九次」の画像使用してる。
【広重 木曽海道六十九次之内 柏原】
この亀屋の商い風景を描き、右端に福助人形を配しています。柏原宿の名産は、伊吹艾(もぐさ)であった。広重は宿場にあった数軒の艾屋の中で最も有名な亀屋を描いている。もっとも柏原の艾屋は全て屋号の頭は亀屋だそうだ。この「かめや」は艾の販売の他に茶屋と旅籠も経営していた。
木曽路名所図会に「此駅は伊吹の麓にして名産伊吹艾(もぐさ)の店多し」と著しています、伊吹山は良質な蓬の葉(よもぎのは)が自生し、これを加工するとお灸(きゅう)に用いる艾(もぐさ)になりました。
最盛期には十数軒の伊吹もぐさ屋が亀屋の屋号で軒を連ねていました、亀屋の六代目松浦七兵衛は江戸に出て伊吹もぐさの名声を高めました。
吉原の遊女に「江州柏原伊吹山の麓の亀屋佐京の切りもぐさ」という唄を教え込み、毎夜宴席で歌わせ、伊吹もぐさの宣伝に努めました。
亀屋のシンボル福助人形は働き者の番頭で、店を繁盛させた功労者です、シッカリものの番頭さんと遊び人の旦那、落語の世界ですね! -
【柏原宿 もぐさや 伊吹堂】
創業三百数十年。「伊吹堂亀屋佐京店」は、現在も伊吹山麓特産であるもぐさを販売してる。
次は、
中山道 No42 いよいよ近江路へ。柏原宿を経て清流の宿醒ヶ井宿へ
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