2010/06/24 - 2010/06/24
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ムッシュさん
美濃路も後半戦。揖斐川を渡り、平地を関ヶ原方面を目指して西に、赤坂宿、垂井宿を巡ります。
【赤坂宿 第五十六宿(日本橋より430.7km)】
背後の金生山から産出される石灰や石材を搬出していた旧杭瀬川の赤坂港は、かつては数百艘(そう)の舟が出入りする水運の要衝として栄えた。現在、港跡に常夜灯が復元され、所々に続く古い町並みが宿場の風情を漂わせる。
本陣1、脇本陣1、旅籠17、問屋3があった。
【垂井宿 第五十七宿(日本橋より435.9km)】
美濃路の起点であり、交通の要衝として栄えた。現在も旅籠亀丸屋などいくつかの建物が現存し、宿場情緒をしのぶことが出来る。
*宿内は鍵状で古い町並みも見れる。
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揖斐川を渡ると左手に【小簾紅園(おずこうえん、和宮記念公園)】がある
説明版によると、小簾紅とは、和宮が呂久川(ろくがわ、旧揖斐川)を御座船で渡った時玉簾越しに眺められた、舳に立てた紅葉の一枝のことを指すという
この時の御歌が
「おちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」
その紅葉一枝はここ馬渕孫右衛門の庭のものであった。この庭の先が呂久の渡し跡である。広く、手入れの行き届いた庭園である。 -
揖斐川を渡り、土手沿いに少し下り降りたあたりに、
小廉紅園和宮公園がある。
和宮の歌
「落ちて行く身と知りながら
もみじの葉の人なつかしく
こがれこそすれ」
都から江戸に落ちる和宮の心情が読めます。
文久元年(1861年)10月26日皇女和宮一行は赤坂宿を出立し、昼前に呂久の渡しに到着し、大垣藩の用意した御座船で呂久川を渡河しました、 その折りに対岸の船年寄馬渕孫右衛門邸の紅葉(こうよう)しているもみじを見て一首詠んだのが上記歌碑の歌です。 -
同じ和宮公園内に【呂久渡船場跡の碑】がある。
昔は、呂久川がこの辺りを流れ渡船場があったようです。
「天正時代織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から美濃と京都の交通がひんぱんとなり赤坂-呂久-美江寺-河渡-加納の新路線が栄えた。
これが江戸時代の初期に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。
慶長十五年(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、十三を数え、中でも船年寄馬渕家には、船頭八人、助務七人が置かれていた。
その頃の川巾は、平水で90m、中水で120m、大水では180mに及んだといわれている。
文久元年(1861)には、皇女和宮親子内親王が中山道をご降嫁の折この呂久川を渡られ、その折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺めこれに感懐を託されて「落ちてゆく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」と詠まれた。
後に、和宮様のご遺徳をしのび、昭和四年(1929)この呂久の渡しの地に歌碑を中心とした小廉紅園が建設され昭和四五年(1970)には巣南町指定の史跡となった。
この地、呂久の渡船場は、大正十四年(1925)木曽川上流改修の揖斐川新川付替工事完成によりこの地より東へ移り現在の揖斐川水流となり長い歴史を閉じることとなった。
昭和四五年(1970)呂久渡船場跡碑建立。
瑞穂市 -
【中山道七回り半】 と読める。
京に向かって七つの曲がりとわずかな曲がりが一つあることを意味しています。 -
近鉄養老線の東赤坂駅付近の踏切にて
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白山神社を過ぎた通り沿いに記念碑が残る。
【史跡中山道一里塚跡(標石)】があります、池尻とも青木の一里塚とも呼ばれます、江戸日本橋より数えて110里目です。 -
【杭瀬川(くいせ)に掛る赤坂大橋】
壬申の乱(672年)で矢傷を負った大海人皇子(後の天武天皇)がここの川水で傷を洗ったところ治ったという
それで「苦医瀬(くいせ)川」と呼ばれるようになったとか
国道417号との合流もあり車多し。 -
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街道の掲示板
天武天皇元年(672年)壬申の乱で負傷した大海人皇子(後の天武天皇)が、この川で傷口を洗うと、たちまちに傷が癒えたところから苦医瀬(くいせ)川と当初呼ばれました。
【赤坂宿】は、かつて中山道六十九次の57番目の宿場町として栄え、東西に連なる町筋には、本陣・脇本陣をはじめ旅籠屋17軒と商家が軒を並べ、美濃国の宿場町として繁盛していました。
現在もその古い建造物や数多くの史跡が多く残されています。また、赤坂宿には谷汲街道・養老街道が通っており、分岐点である四ツ辻に道標が建てられている。
明治年間には杭瀬川の豊富な水量を利用した舟運交通が最盛期を迎え、赤坂宿の東端にある赤坂港が重要な役割を果たしていました。
本陣公園の案内板より -
【木曽海道六拾九次之内 赤坂 (広重)】
赤坂宿の東を流れる抗瀬川に架かる土橋を描いている。
橋の袂に傍示杭、その後ろは赤坂宿。
天武天皇元年(672年)壬申の乱で負傷した大海人皇子(後の天武天皇)が、この川で傷口を洗うと、たちまちに傷が癒えたところから苦医瀬(くいせ)川と当初呼ばれました。
広重は杭瀬川を川底の岩が露出した、浅川として描いていますが、本来は十分水深があり、ここには赤坂湊があり、揖斐川に通じる舟運がありました。
杭瀬川に架かる太鼓状の土橋の渡り詰めの右手に傍示杭「自是大垣藩赤坂宿」を描いています、ここが赤坂宿の江戸(東)口です、赤坂宿に到着です! -
橋の後方、【赤坂湊跡】
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【赤坂港跡】
史跡公園になっています。
昔、西美濃の産物や金生山の石灰など運ぶ水運交通の重要な要所で、かつては数百隻の船が出入りした。ここに往時をしのぶ常夜燈が残されている。
今は小さな川だが、江戸後期、明治の頃は流れも大きく、港として賑わった。
他では、谷汲山の巡礼者でにぎわった
この旧杭瀬川の赤坂港である古代では京都への物質集散の港として栄えていた。
先ほどの杭瀬川が、かつてはここを流れていたのである。洪水で現在の杭瀬川に流路が変わり今では、湧水が頼りの細い川となっている。
それでも、明治になっても出入りする船は500隻にも上ったとのこと
近くの金生山(きんしょうざん)で採れる石灰の積み出しが多かったという -
赤坂湊
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日時計
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【史跡赤坂宿御使者場跡(碑)】があります、
参勤の大名や公家通行の際、宿役人や名主が送迎を行った所です、ここが赤坂宿の京(西)口です。 -
史跡中山道赤坂宿本陣跡標石の後方に【和宮之碑】があります。
文久元年(1861年)10月25日、暮七ツ時(午後四時頃)皇女和宮は赤坂宿矢橋本陣に到着し、宿泊(五日目)しました。
翌朝五ツ時(午前八時頃)本陣を出立、彦根藩約1700名、大垣藩約1300名が警護し、その隊列は十町(1.1km余り)に及びました、大垣藩は皇女和宮通行の前後三日間の街道通行禁止、宿泊当日より翌日夕方まで焚き火、鳴り物を禁じました。 -
【赤坂本陣公園】
大名の参勤交代など通行の途次宿泊した高級旅館があった。今は建て物はない。
幕末の青年の志士 所郁太郎の国家社会に尽くした功績を顕彰した銅像がある。
皇女和宮を偲ぶ顕彰碑もたつ。
赤坂宿は杭瀬川の舟運や谷汲街道、伊勢に通じる養老街道を控え、大いに賑わいました。
天保14年(1843年)の頃、赤坂宿の宿内家数は292軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠17軒、宿内人口は1,129人、大垣藩領で宿高一千八十石、宿長は約796mでした。
赤坂宿本陣跡です、今は赤坂本陣公園になっています。
本陣の規模は間口24間(約44.4m)、敷地820坪、建坪239坪で、玄関門構えの豪勢なものでした。
当初馬渕太郎左衛門が勤め、寛永以降は平田又左衛門が代々本陣職を継ぎ、天明、寛政の頃は、しばらく谷小兵衛に変ったが、以後は矢橋広助が維新まで勤めました。 -
赤坂宿本陣
【本陣跡】
当所は、江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣であった。間口二十四間四尺、邸の敷地は二反六畝ニ十九歩、建物の坪数は、およそニ百三十九坪あり、玄関・門構えの豪勢なものであった。
寛永以降、馬渕太郎左ヱ門に次いで、平田又左ヱ門が代々本陣役を継ぎ、天明、寛政のころ暫く谷小兵衛が替ったが以後、矢橋広助が二代に及んで明治維新となり廃絶した。
文久元年十月二十五日、皇女和宮が、ここに泊した事は余りにも有名である。
昭和六十年八月 大垣市赤坂商工会観光部会 -
脇本陣跡
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【赤坂宿】
東 美江寺へ二里八町、西 垂井へ一里十二町
近世江戸時代、五街道の一つである中山道は、江戸から京都へ百三十一里の道程に六十九次の宿場があり、美濃赤坂宿は五十七番目に当たる。
大名行列や多くの旅人が往来し、また荷物の輸送で交通は盛んであった。
町の中心にあるこの四ッ辻は北に向う谷汲巡礼街道と、南は伊勢に通ずる養老街道の起点である。
東西に連なる道筋には、本陣、脇本陣をはじめ旅籠屋十七軒と商家が軒を並べて繁盛していた。
昭和五十八年三月 史跡赤坂宿環境整委員会 大垣市赤坂商工会 大垣市 -
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【旅館亀丸屋(西村家)】
宿場中程、安永6年に建てられた当時の建物は、枡形の角にあり、二階には鉄砲窓が街道に向け開口していた。宿場時代より200年、現在も旅館健在。
亀丸屋西村家は当時の姿を残して今も営業している貴重な旅館です
(0584-22-0209)。
安永六年(1777年)に建てられた間口五間(約9m)、奥行六間半(約11.7m)の母屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講、文明講の指定旅籠で、当時は南側に入口があり、二階に鉄砲窓が残る珍しい造りです。 -
【垂井宿本陣跡】
中山道垂井宿本陣跡碑があります、栗田家が勤め酒造業を兼ねました。
寛政十二年(1800年)の記録によると、建坪は178坪で、玄関や門、上段の間を備える広大なものでした。
本陣は、宿場ごとに置かれた大名や公家など重要な人物の休泊施設です。
ここは中山道垂井宿の本陣があったところで、寛政十二年(1800)の記録によると、建物の坪数は一七八坪で、玄関や門、上段の間を備える広大なものでした。垂井宿の本陣職をつとめた栗田家は、酒造業も営んでいました。
本陣の建物は焼失しましたが後に再建され、明治時代には学習義校(現在の垂井小学校)の校舎に利用されました。
垂井町教育委員会」 -
宿場の真ん中十字路左手に大きな鳥居がある南宮(なんぐう)大社の参道である
鳥居には、「正一位中山金山彦大神」と掲げられている
かつての美濃国の一宮である
鳥居を潜って、少し入ったところ右側に垂井の泉がある。垂井の地名の由来となった泉です。
背後の寺院は玉泉禅寺です。 -
【樹齢800年の大ケヤキのある玉泉寺】
大鳥居から参道を約120m入ると、右手に垂井の地名由来となった垂井の泉があります、天然記念物樹齢約八百年の大ケヤキの根元から今もコンコンと湧き出ています。
天平十二年(740年)美濃行幸中の聖武(しょうむ)天皇も立ち寄り、平安の歌人藤原隆経(ふじわらのたかつね)は
「昔見し たる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける」と詠うより嘆いています。
傍らに芭蕉句碑
「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」があります、
今も地元のご夫人達が野菜を洗っています。垂井の泉は岐阜県名水五十選で県指定天然記念物です。 -
垂井の泉
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芭蕉が、奥の細道紀行の2年後、垂井の本龍寺に冬籠りした。
その時の句。
「”葱しろく 洗いあげたる 寒さかな”」
とこの泉で詠んだ。 -
【垂井の清水】は生活用水
気持ち良さそうに洗濯してる女性。日常なのですね。
今も地元のご夫人達が野菜を洗っています。垂井の泉は岐阜県名水五十選で県指定天然記念物です。 -
【垂井の大ケヤキ】
垂井の泉の傍らにあり、樹齢800年。高さ20m。 -
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【広重 垂井 木曽海道六拾九次之内 ?井】
広重は垂井として宿内から京方面を見て、雨が降る西見付の景を描いています。
両側の石垣の上に土塁を築いた見付や手前に茶店の様子をシッカリ描写。
そして松並木の中から現れた参勤の大名行列を出迎える、宿役人。
広重としては珍しく誇張せずにリアリティーを追求して描いており、傑作の一つといわれています。
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