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高校の英語の先生が版画家になりました。棟方志功(むなかたしこう)が版画を志すきっかけになったのは川上澄生の作品を見て影響されました。説明版からです。【川上澄生(かわかみすみお)は1895年(明治28年)、神奈川県横浜市に生まれました。幼少時に一家は東京に移り、その後は青山学院で学生時代を過ごしました。1917年(大正6年)、父の勧めでカナダのヴィクトリアヘ渡航し、アメリカのシアトルをへてアラスカヘ渡り、鮭(さけ)罐詰(かんづめ)工場で働くなど、約1年間の海外生活をへて帰国しました。1921年(大正10年)、栃木県立宇都宮中学校(現・宇都宮高等学校)に英語教師として赴任し、その頃から本格的に木版画制作に励みました。】続く

「鹿沼市(かぬまし)立川上澄生(かわかみすみお)美術館」栃木県鹿沼市睦町287-14

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2010/05/03 - 2010/05/08

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しんちゃん

しんちゃんさん

高校の英語の先生が版画家になりました。棟方志功(むなかたしこう)が版画を志すきっかけになったのは川上澄生の作品を見て影響されました。説明版からです。【川上澄生(かわかみすみお)は1895年(明治28年)、神奈川県横浜市に生まれました。幼少時に一家は東京に移り、その後は青山学院で学生時代を過ごしました。1917年(大正6年)、父の勧めでカナダのヴィクトリアヘ渡航し、アメリカのシアトルをへてアラスカヘ渡り、鮭(さけ)罐詰(かんづめ)工場で働くなど、約1年間の海外生活をへて帰国しました。1921年(大正10年)、栃木県立宇都宮中学校(現・宇都宮高等学校)に英語教師として赴任し、その頃から本格的に木版画制作に励みました。】続く

交通手段
自家用車

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  • 小さいけど、豪華に見える美術館です。大人300円、高校大学生200円、小中学生100円。

    小さいけど、豪華に見える美術館です。大人300円、高校大学生200円、小中学生100円。

  • 玄関前の「へっぽこ先生」自画像が玄関前に飾られてあります。

    玄関前の「へっぽこ先生」自画像が玄関前に飾られてあります。

  • 館内にあった自画像の原本。

    館内にあった自画像の原本。

  • 流石(さすが)鹿沼市、皐(さつき)の花に囲まれています。躑躅(つつじ)かな?

    流石(さすが)鹿沼市、皐(さつき)の花に囲まれています。躑躅(つつじ)かな?

  • 美術館は工場跡地にあり、市立図書館、鹿沼商工会議所、ハローワーク鹿沼、屋台が展示してある鹿沼市文化活動交流館等と同じ敷地にあります。

    美術館は工場跡地にあり、市立図書館、鹿沼商工会議所、ハローワーク鹿沼、屋台が展示してある鹿沼市文化活動交流館等と同じ敷地にあります。

  • 立川上澄生美術館入口

    立川上澄生美術館入口

  • 今回見学を誘発されたパンフレット

    今回見学を誘発されたパンフレット

  • 受付兼入場券売り場

    受付兼入場券売り場

  • 川上澄生氏が描いた南蛮好みの絵。トランプの箱の表紙です。

    川上澄生氏が描いた南蛮好みの絵。トランプの箱の表紙です。

  • 代表作《初夏の風》です。棟方志功(むなかたしこう)が版画を志すきっかけになった作品だそうです。

    代表作《初夏の風》です。棟方志功(むなかたしこう)が版画を志すきっかけになった作品だそうです。

  • 代表作「初夏(はつなつ)の風」説明版の続きです。【代表作《初夏の風》は棟方志功(むなかたしこう)が版画を志すきっかけになった作品として知られています。太平洋戦争に突入すると教職を辞し、妻の実家のある北海道へ疎開。苫小牧中学校(現・苫小牧東高等学校)で英語を教え、約4年後の1949年(昭和24年)、再び宇都宮へ戻り、栃木県立宇都宮女子高等学校の英語講師となりました。おもに南蛮や文明開化をテーマに、木版画を始めとしてガラス絵や焼絵、革絵(かわえ)など多岐にわたって取り組み、とどまることのない創作意欲を発揮しました。退職後は創作活動に専念し、1972年(昭和47年)、77歳で逝去しました。】<br />

    代表作「初夏(はつなつ)の風」説明版の続きです。【代表作《初夏の風》は棟方志功(むなかたしこう)が版画を志すきっかけになった作品として知られています。太平洋戦争に突入すると教職を辞し、妻の実家のある北海道へ疎開。苫小牧中学校(現・苫小牧東高等学校)で英語を教え、約4年後の1949年(昭和24年)、再び宇都宮へ戻り、栃木県立宇都宮女子高等学校の英語講師となりました。おもに南蛮や文明開化をテーマに、木版画を始めとしてガラス絵や焼絵、革絵(かわえ)など多岐にわたって取り組み、とどまることのない創作意欲を発揮しました。退職後は創作活動に専念し、1972年(昭和47年)、77歳で逝去しました。】

  • 受付周りとパンフレットから作品のご紹介をします。

    受付周りとパンフレットから作品のご紹介をします。

  • パンフレットから「栄吉利国ろんどん東印度会社之図」1963年(昭和38年)“栄吉利”とは“イギリス”の事です。<br />

    パンフレットから「栄吉利国ろんどん東印度会社之図」1963年(昭和38年)“栄吉利”とは“イギリス”の事です。

  • いただいたパンフレット

    いただいたパンフレット

  • 「じゃがたらぶみ」1941年(昭和16年)“じゃがたら文”の事で「gula家ののほほ〜んな日々、by gula_id」「http://jalan2.exblog.jp/8327887/」さんのブログに下記の説明がありました。 <br />【1639年鎖国政策により江戸幕府はヨーロッパ人の父親と日本人の母親に生まれた混血児をインドネシアのジャカルタへ追放。ジャカルタが当時ジャガタラと呼ばれていたため、彼らが寄越してきた手紙をジャガタラ文という、と資料館にはありました。】だそうです。<br />

    「じゃがたらぶみ」1941年(昭和16年)“じゃがたら文”の事で「gula家ののほほ〜んな日々、by gula_id」「http://jalan2.exblog.jp/8327887/」さんのブログに下記の説明がありました。
    【1639年鎖国政策により江戸幕府はヨーロッパ人の父親と日本人の母親に生まれた混血児をインドネシアのジャカルタへ追放。ジャカルタが当時ジャガタラと呼ばれていたため、彼らが寄越してきた手紙をジャガタラ文という、と資料館にはありました。】だそうです。

  • 「南蛮人上陸」

    「南蛮人上陸」

  • 「HARAISO」“HARAISO”とはキリシタン用語で「天国」の意味だそうです。美術館のHPに説明がありました。<br />

    「HARAISO」“HARAISO”とはキリシタン用語で「天国」の意味だそうです。美術館のHPに説明がありました。

  • 「安土の信長」

    「安土の信長」

  • 「カピタン人」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からです。【カピタン(甲比丹、甲必丹、加比旦)とは江戸時代、東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者「商館長」のこと。元はポルトガル語で「仲間の長」という意味があり、日本は初めにポルトガルとの貿易(南蛮貿易)を開始した為、西洋の商館長をポルトガル語のCapit&amp;atilde;o(カピタン)で呼ぶようになった。その後ポルトガルに代わりオランダが貿易の主役になったが、この呼び名は変わらなかった。本来オランダでは商館長のことをOpperhoofden(オッペルホーフト)と呼ぶが、日本では使われなかった。】なるほど!<br /><br />

    「カピタン人」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からです。【カピタン(甲比丹、甲必丹、加比旦)とは江戸時代、東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者「商館長」のこと。元はポルトガル語で「仲間の長」という意味があり、日本は初めにポルトガルとの貿易(南蛮貿易)を開始した為、西洋の商館長をポルトガル語のCapit&atilde;o(カピタン)で呼ぶようになった。その後ポルトガルに代わりオランダが貿易の主役になったが、この呼び名は変わらなかった。本来オランダでは商館長のことをOpperhoofden(オッペルホーフト)と呼ぶが、日本では使われなかった。】なるほど!

  • 「波囲み南蛮図D」

    「波囲み南蛮図D」

  • 「横浜」

    「横浜」

  • 2階「南蛮好みの川上澄生展」会場

    2階「南蛮好みの川上澄生展」会場

  • パンフレット

    パンフレット

  • パンフレット

    パンフレット

  • 川上澄生先生の本人の写真もありました。

    川上澄生先生の本人の写真もありました。

  • 1階では「鹿沼ゆかりの版画家富樫金弥(とがしきんや)展」を開催していました。本人がおり展示物を前に説明会を実施していました。なんと70歳から版画を初めました。現在82歳、生涯学習をまざまざと実感しました。少々ご紹介します。<br />

    1階では「鹿沼ゆかりの版画家富樫金弥(とがしきんや)展」を開催していました。本人がおり展示物を前に説明会を実施していました。なんと70歳から版画を初めました。現在82歳、生涯学習をまざまざと実感しました。少々ご紹介します。

  • 70歳まで何していたか、額縁の製作家だそうです。ある祝賀会の帰りのバスの中で版画教室を知り入会して始めたのが、版画の始まりだそうです。

    70歳まで何していたか、額縁の製作家だそうです。ある祝賀会の帰りのバスの中で版画教室を知り入会して始めたのが、版画の始まりだそうです。

  • これが版画?思わず立ち止まりジッと見つめる作品でした。「黒川能」

    これが版画?思わず立ち止まりジッと見つめる作品でした。「黒川能」

  • 「夕映えの日光連山」

    「夕映えの日光連山」

  • 「夏来る(日本海)」

    「夏来る(日本海)」

  • 「流れ」

    「流れ」

  • 「春近し」

    「春近し」

  • 「早春」

    「早春」

  • 「浅い春」

    「浅い春」

  • 「春光」

    「春光」

  • 「田植えの頃」

    「田植えの頃」

  • 奥様でしょうか一緒に記念撮影をしていました。元気にまだまだ作品を発表して欲しいですね。

    奥様でしょうか一緒に記念撮影をしていました。元気にまだまだ作品を発表して欲しいですね。

  • 川上澄生美術館から東側を見ると、鹿沼市の中央を流れる黒川があります。川には“鉄橋”のような橋が架けられています。東側には帝国繊維株式会社鹿沼工場(現役)があります。川上澄生美術館の敷地一体は帝国繊維株式会社と前進の帝国製麻株式会社の敷地であり、両工場を結ぶ橋の遺構がこの“鉄橋”で残骸が残っています。この会社は麻(大麻)の繊維を加工する工場で鹿沼の歴史を垣間見ることが出来ます。鹿沼は麻栽培と加工で発展しました。西側の一体は鹿沼市によって再開発され、現在倉庫だけ残されています。

    川上澄生美術館から東側を見ると、鹿沼市の中央を流れる黒川があります。川には“鉄橋”のような橋が架けられています。東側には帝国繊維株式会社鹿沼工場(現役)があります。川上澄生美術館の敷地一体は帝国繊維株式会社と前進の帝国製麻株式会社の敷地であり、両工場を結ぶ橋の遺構がこの“鉄橋”で残骸が残っています。この会社は麻(大麻)の繊維を加工する工場で鹿沼の歴史を垣間見ることが出来ます。鹿沼は麻栽培と加工で発展しました。西側の一体は鹿沼市によって再開発され、現在倉庫だけ残されています。

  • お昼は旨い蕎麦を食べました。「佐野屋(さのや)」栃木県 鹿沼市 天神町1855

    お昼は旨い蕎麦を食べました。「佐野屋(さのや)」栃木県 鹿沼市 天神町1855

  • 「にらそば」600円、粟野(あわの)の「宮入そば」がテレビで放映されました。お店の名前は通称「にらそばや」と言われるほどにらそばが有名です。“にら”と“そば”はぴったり合うんですよ!

    「にらそば」600円、粟野(あわの)の「宮入そば」がテレビで放映されました。お店の名前は通称「にらそばや」と言われるほどにらそばが有名です。“にら”と“そば”はぴったり合うんですよ!

  • “たぬき”が「冷やしたぬき」と頼んだ気がします。酔って忘れた!!

    “たぬき”が「冷やしたぬき」と頼んだ気がします。酔って忘れた!!

  • 入店時は満員でした。一段落した後です。

    入店時は満員でした。一段落した後です。

  • 観光用に出来ているお店ではありません。地元の方が普通に来て普通に食べる普通のお店です。かざりっけなし。一度お試しあれ!

    観光用に出来ているお店ではありません。地元の方が普通に来て普通に食べる普通のお店です。かざりっけなし。一度お試しあれ!

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