2009/12/04 - 2009/12/04
305位(同エリア507件中)
ムッシュさん
馬籠宿を出発、南下して落合宿に向います。
落合宿 第四十四宿(日本橋より335km)
美濃路最東端の宿場。島崎藤村の「夜明け前」のモデルになった稲葉屋など、今も古い町並みが残っている。「木曽路を出てここに出れば、まず我家に帰り着きたる心地する」と貝原益軒は表現。急に空が広く感じられる。
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後ろを振り返れば、今下ってきた山の斜面に、遠く馬込宿の家々(フォトの上部の住宅地)が望めます。
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【馬籠城跡解説】があります。
天正12年(1584年)秀吉方の島崎重通(藤村の祖)が守備しましたが、上陣馬に布陣した徳川勢の大軍の前に、城を捨て妻籠城に撤退しました。
徳川の世になると馬籠城は廃城となり、この地は丸山とも城山とも呼ばれるようになりました。
「この辺りの地名を「丸山」とも「城山」ともいい、ここには今から五百年ほど前の室町時代から「馬籠城(砦)」があったことが記されている。
戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣秀吉傘下の木曽義昌の治めるところとなる。
天正十二年(1584)三月、豊臣秀吉・徳川家康の両軍は小牧山に対峙した。秀吉は徳川軍の攻め上がることを防ぐため、木曽義昌に木曽路防衛を命じた。義昌は兵三百を送って、山村良勝に妻籠城を固めさせた。馬籠城は島崎重通(島崎藤村の祖)が警備した。
天正十二年九月、徳川家康は、飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。三軍は妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り馬籠の北に陣地を構えた。
馬籠を守っていた島崎重通はあまりの大軍襲来に恐れをなし、夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城へ逃れた。このため馬籠の集落は戦火から免れることができた。
今、三軍の陣地を敷いた馬籠集落の北の辺りを「陣場」という。
慶長五年(1600)、関が原の戦いで天下を制した家康は、木曽を直轄領としていたが、元和元年(1615)尾州徳川義直の領地となり、以後戦火のないまま馬籠城は姿を消した。」 -
【やあー、見てみたいなー!】
ここは、子規公園。別名サンセットポイントだって。
ここに、立つと広々とした美濃の平地が見渡せます。
でも、朝ですので、とても夕日は見れませんが、想像するだけでも結構素敵かも。
信州サンセットポイント百選で、 中津川が一望です、馬籠上陣場にあった島崎正樹の歌碑は正に、この景を讃えた歌です。
公園には正岡子規句碑「桑の実の 木曾路出づれば 麦穂かな」があります、
喀血した子規は明治22年(1889年)木曽路を経由して松山に帰郷しています -
【これ誰の?】
公園には正岡子規句碑
「桑の実の 木曾路出づれば 麦穂かな」 があります、
喀血した子規は明治二十二年(1889)木曽路を経由して松山に帰郷しています。 -
天保13年(1842年)建立芭蕉句碑
「送られつ送りつ果ては木曽の穐」
貞享5年(1688年)芭蕉が門人の越智越人(おちえつじん)を伴って信州姥捨山の月見と善光寺参りを兼ねて中山道を旅し、更級紀行の中に納めた句です。
美濃地方には芭蕉を祖とする美濃派の俳人達が多くいました。 -
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【新茶屋一里塚(北塚)】
街道の両側に「一里塚」が昔の姿で残っている。
江戸幕府は街道整備の一環として一里を三十六町と定めて、一里ごとに道の両側に土を盛って塚を築き、塚の上には榎または松を植えて、旅の行程や駄賃・運賃の目安とした。現在中山道では殆どが失われており貴重な遺構である。
右側の塚の前には「信濃・美濃 国境」の石碑が建っている。
新茶屋の一里塚は天保~安政時代(1830~1860)には立木は右(江戸より京)に松、左は無しでしたが今回、整備にあたり右に松、左の榎を復元しました。
平成六年二月 文化庁 岐阜市 中津川市 -
【藤村木曽路の碑】
「是より北木曽路・藤村老人」と刻む
江戸に向って、いよいよ木曽路です。との意味。
江戸に向うと、海抜801mの馬籠峠に向って登ります。
でも、我らは、京に向っているので、下りです。
京に向って、ここで木曽路は終わりです。
十曲峠を下り広々とした美濃の平野へと街道は続く。
あれ?侍がいる?(我が仲間、この装束で歩いています) -
木曽路の南の入口で、美濃と信濃の国境であった
「ここは長野県と岐阜県の境、木曽路の入り口にもあたる。昭和十五年(1940)七月、当時六十八才だった藤村が、地元の要請によって揮毫したものである。藤村は六十才ころから自らを「老人」と記すようになった。
この碑は藤村記念館の落成十周年を記念して、昭和三十二年(1957)十一月に藤村記念館建設の実行母体である「ふるさと友の会」によって建立された。 -
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これは、【一里塚古跡】
国境碑の並びに昭和32年(1957年)建立の一里塚古跡碑があり、両塚共現存しています、江戸日本橋より数えて83里目です。 -
落合宿へ向って石畳の下り坂へ続く。
それでは美濃路を歩き始めましょう、一里塚先を斜め右の新茶屋遊歩道に入ります、この分岐点には木製道標「←馬籠宿 2.0km/落合宿2.0km→」があります、新茶屋遊歩道は石畳道になっています。
新茶屋旧道は平成十七年(2005年)の越県合併の記念事業として120m間を落合石畳遊歩道(新茶屋遊歩道)として整備されました。
【新茶屋遊歩道入口の説明板】
平成17年2月、当市は恵北地区6町村と長野県山口村との越県合併により新中津川市として誕生し、中山道の宿場も中津川宿、落合宿、馬籠宿の三宿場となりました。この場所から旧長野県堺までの約120m間を合併記念事業により、落合石畳遊歩道(新茶屋遊歩道)として整備しました。
平成17年10月 中津川市 -
なんじゃもんじゃの杜
先に進むと左手に「なんじゃもんじゃの杜碑」があります、往時この地の村人達はこの木の学名が分からず、「ナンジャモンジャ」と呼んでいました。 -
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著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用してる
【木曽海道六拾九次之内 落合 (広重)】
落合川に架かる落合橋を渡った先の落合宿を描いている。
急坂を下り落合川を下桁橋で渡ります、落合川は恵那山に源を発し、同じく恵那山を源とする湯舟沢川を上流で吸収し、流末は木曽川に落合います。
広重は落合として落合川に架かる下桁橋(落合橋)、先の御判形坂(下の枡形)、そして落合宿の宿並を描いています、遠景の山並は恵那山です。
下桁橋は往時大橋、落合橋と呼ばれ、少し下流に架橋されていました、しかし洪水により度々流失した為、寛保元年(1741年)から神坂湯舟沢経由の新道が開削されましたが、悪路で約1.8kmも遠回りでした。 -
【落合宿】
天保14年(1843)で人口370名、総家数75軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋14軒。
落合宿は、江戸へ八十二里十二町(約323Km)、京へ五十二里九町(約205Km)の位置にある。町の長さは三町三十五間(約390m)、家数75軒を数えた。
宿の町筋の中央には用水が流れ、町の中程に本陣と脇本陣(共に問屋兼務)があり、本陣井口家は尾張藩徳川家給人の千村氏(久々利方)、脇本陣塚田家は同給人の山村氏(木曽方)の庄屋も兼ねていた。江戸方町筋の入口には、道が直角に曲げられた桝形がつくられ、往還の真中に常夜燈もあった。
文化元年(1804)・十二年(1815)の二度の大火は宿に大きな打撃を与えた。しかし、現在も本陣井口家、梲(うだつ)・格子のある民家や江戸方の十曲峠と石畳、京方の与坂付近には江戸時代の面影を随所にとどめている。
中津川市教育委員会
【中津川宿と落合宿】
市内には約15Kmの中山道が東西に延び、中津川と落合の二つの宿場町があります。
両宿の距離は中山道の宿場の中では、一番短く約一里(約3.9Km)。
中山道六十七宿全部整備されたのが十七世紀の終わり頃とされていますが、両宿場とも新たに造られた宿駅ではなく、江戸幕府が成立する以前に宿の形態(村落)がすでに整えられていました。 -
【落合宿の高札場跡地の碑】右側の石柱です
左の細い道が中山道。手前の県道を斜めに横切ると落合宿の集落です。落合では高札を御判形と呼んでいたと云う。 -
かわいい常夜灯
44番目の宿場落合宿の入口には、今でも常夜灯が残されていた。寛政4年(1792年)に作られた常夜灯とのこと。
「落合宿には昔、防犯を兼ね各戸順廻りの燈明番により火の災難から救われようと祈願しながら、ほのかな明かりがともされていた四基の常夜燈がありました。
現在は四基とも移設され、この寛政四年(1792)に建立された上町の立派な常夜燈はすぐ前の道の中央にあったといわれています。あとの三基のうち一基は善昌寺の境内、二基はおがらん公園の愛宕社に移されています。文化年間(十八世紀はじめ)に二回も大火に見舞われたことは、落合宿に多くの常夜燈があったことが要因と考えられます。」
中津川市・中津川市観光協会 -
宿場内の街道
落合宿は美濃路の東端にあたり、難所十曲峠を控え大いに賑わいました、三と六の日に六斎市が開かれ、火縄が名物で水中でも消えないと評判でした。
天保14年(1843年)の頃、落合宿の宿内家数は75軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠14軒で、宿内人口は370人と小宿でした。
宿長は約390mで、宿並は東から横町、上町、中町、下町で構成され、宿並みの中央には幅二尺の用水が流れていましたが、明治天皇通行に際し片側に寄せられました。
東の枡形を右折(白色矢印)すると右手に寛政四年(1792)建立の秋葉山常夜燈があります、宿内には四基の秋葉山常夜燈がありましたが、明治十三年(1880)の道路整備の際、善昌寺に一基、愛宕社に二基が移設されました。 -
落合宿脇本陣跡
塚田家が脇本陣を勤め、問屋そして尾張徳川家給人山村氏(木曽方)の庄屋を兼ねました、敷地内には飢饉に備え、穀物を備蓄した郷倉がありました。 -
これは、立派!
本陣跡地に立つ家。 -
【落合宿の本陣跡(石柱)】
加賀の前田家から贈られたという門を伝える本陣跡は、今も住みながら保存されている。
右手に落合宿本陣跡(石柱)があります、井口家が代々本陣を勤め、問屋、そして尾張徳川家給人千村氏(久々利方)の庄屋を兼ねました。
本陣門は文化12年(1815年)の大火後に加賀藩前田家から火事見舞いとして寄贈されたものです、幕末皇女和宮は上段の間で休息しました。
本陣門脇には明治天皇落合御小休所碑があります、明治13年(1880年)巡幸に際に休息所となりました。
幕末、妻籠、馬籠、落合の三宿に分宿した水戸天狗勢はこの落合宿に集結し、隊列を整え中津川宿へ向かいました。
「本陣の起源は、室町幕府の将軍足利義詮が上洛の際、その宿舎を本陣と称したときからといわれている。
本陣が、真にその職能を発揮するのは、江戸時代に入り参勤交代の制度が実施されてからである。本陣は主として公家、大名など身分の高い人の宿泊所であったので、門、玄関、上段の間を備えていた。
落合宿本陣井口家は、代々本陣を務めると共に、問屋、庄屋も兼務し、宿の業務の運営を行う指導的な家柄で、名字帯刀を許される礼遇を受けた。
明治十三年(1880)に大改修されているが、正門を始め、上段の間、小姓の間等が今もそのまま保存されている。
改修のときに現在の位置に移設された正門は、文化元年(1804)の落合宿の大火の後に、加賀の前田候より贈られたものといわれている。
明治天皇御巡幸、また和宮御降嫁に際し、御小休の栄に浴している。」
昭和五十四年四月、中津川市の史跡に指定。
中津川市観光協会 -
落合宿の説明板
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振り返り、遠望するは、馬籠峠方面です。
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