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11*5 イギリス ロンドン////<br />俺が今日の早朝に出発の為、宿の皆が昨日の夜から明け方にかけて、一緒に飲み明かしてくれた!なんて俺は幸せなんだ!皆、眠たいはずなのに…。皆とも相当仲良くなったし、友達の関係にもなれたと思う。だから別れは本当に寂しい…。連絡先も交換したし、カナダにも遊びに来てくれるって言ってたし、別れじゃないね!//それにしても眠い〜、オールして、朝5時に宿を出た!今日はロンドンへのフライトだか、トルコの空港へ行くトラムが来ない!ヤバイとあせっていたら、フランス人老婦人とたまたま会い、行き先が一緒だったので、一緒に行った。凄く親切で、搭乗手続きの場所迄調べてくれた。本当に俺はお世話になりっぱなしだ…。何とか飛行機には間に合ったが、イギリスに着く迄は完全に爆睡で、いつの間にかロンドンに着いていた。入国審査は今までにないくらい厳しく、いろいろと職務質問された。他の人はすぐ終わるのに、俺だけ何で〜って思ったよ!行った国を事細かに聞かれたり、トルコに何日いて、何処に泊まって何したとか、ロンドンで何で宿をとってないんだ!とか。イギリスに着いてとりあえずガイドブックを見て、国際HOSTELを見つけた!空港からロンドン市街迄、遠いよ〜、うたた寝しながら着いた。迷いながらもHOSTELに無事に到着。25ポンド、HOSTELなのに高いな〜。眠いし、疲れてたのでとりあえず二泊することにした。マイクロプェーブが使える事なので、スーパーに行き冷凍食品を買い、昼飯を食べたが、トルコから来ると物価が高く感じるよ〜。そーいえばお金も大分減ったな〜…。昼ご飯を食べたらとりあえず大英博物館に行った。いろんな国の歴史的展示場が在って楽しかった。疲れたので、HOSTELのバーでビールを飲みながら日記を書いている。帰国迄、残り二日だが、観光したい気持ちも起きない。ブルガリアらへんからなんかやる気がないのかな〜、疲れたのかな?明日はちゃんと観光するぞ!<br /><br /><br /><br /><br /> 歴史 <br />ロンドンの街の起源はローマ帝国によるブリタニア支配にまで遡る。ローマ人はイングランドを征服し、43年にはテムズ川北岸、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)にあたる場所にロンディニウムを建設してこれをブリタニアの首都とした。街を建設したのはローマ人だが、それ以前にこの地域周辺にはケルト人が居住しており、ローマによる初期の植民の跡が残されている。61年には女王ブーディカに率いられたケルト族がロンディニウムを襲撃し、ローマ人から都市を奪還した。現在のシティにある遺跡からはこの争いによるものと見られる焼け焦げた木材などが出土している。その後2世紀頃には防衛のため、テムズ川岸を除く街の三方に市街壁が巡らされた。およそ4万人の人口を擁していたシティを中心として、市内はローマとブリタニアの交易で活況を呈し、現在のウェストミンスター地区にあたる地域も独立した集落が形成されており、現在のフリート・ストリートおよびストランド・ストリートによって結ばれていた。しかし4世紀からは衰退し、5世紀初めにはローマ人は撤退。代わってアングロ・サクソン人がこの地方を征服した。初代のセント・ポール大聖堂は、サクソン人の司教によって604年に建設されたとされる。9世紀後半、アルフレッド大王がこの地をウェセックスの首都とする。その後、イギリス史は空白期間が続く。<br /> 中世 <br />ウェストミンスター寺院11世紀半頃ウェセックス最後の王となったエドワード懺悔王は、ウェストミンスターに大修道院のウェストミンスター寺院と王宮のウェストミンスター宮殿を建設した。1066年にイングランドを征服したノルマンディ公ギヨーム2世は、ウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として即位し、ウェストミンスター宮殿を住まいとした。以後、ウェストミンスター宮殿を中心とするシティ・オブ・ウェストミンスターは政治と宗教の中心地となる。一方、シティはこの頃すでに自治機能を有する商業都市に発展しており、ウィリアム1世はロンドン塔などの要塞をシティの東西に建設して市民を威圧した。しかし経済力のあるシティは、12〜13世紀に市長を選出する権利や独自の法廷をもつ権利を獲得、14世紀半ばからは市参事会を選出し、王権から独立した高度な自治都市として独立を保持した。<br /> 急成長期 <br />1666年、ロンドン大火が発生して市内の家屋のおよそ85%が焼失した。16世紀にヘンリー8世のもと、宗教改革が進展する中で修道院解散に伴いシティ内外で没収地の開発が進んだ。これにより、多くの人口を許容できるようになったロンドンは、当時の経済発展とあわせ急激に成長し始めた。シティとウェストミンスター間には市街地が成長して両者は一体化し、17世紀中期には人口50万以上、さらに半世紀後には70万人以上が居住している。1566年、エリザベス1世が王立取引所を開くとシティの重要性は急速に増大する。街の発展にともなって貧困層が流入し、これが王権への抵抗勢力になることを恐れた女王は、1580年に市門の外3マイル以内に新たに建物を建築することを禁じる布告を出した。しかし、町の拡大を法令で阻止することが不可能なことはやがて明らかとなる。大火後に再建されたセント・ポール大聖堂1665年のペストの大流行では10万人近い人々が死亡したとされる。翌年1666年にはシティのパン屋から出火した火の手が市壁に囲まれた地の3分の2まで広がり、辺りを灰と化させたロンドン大火が起こった。これは当時、ロンドンのほとんどの建造物が木造だったこと、道路の幅が狭過ぎもらい火によって火の手を広めたことが、火災の規模を拡大させた理由とされる。更地となったロンドン中心部をかつての雑然とした町から、パリのような壮大な都市に生まれ変わらせる好機として、クリストファー・レンは新たに都市計画を構想した。しかし、この構想は都市の整備によって土地を失うことを恐れた地主達が、利己的に建物を建設したことによって計画倒れに終わった。だが、レンは大火が再び発生するのを未然に阻止するための法制度整備に努めた。その結果、1667年の再建法では新築建造物には石と煉瓦のみを使用するよう定められた。再建されたシティは、かつて木造建築が雑然としていた町並みとは全く異なるものとなり、市街中心部は石造に一新して不燃化され、民間投資によって標準化された住居建築群が建造され、かつてレンの構想した都市程ではないが道路も拡幅された。18世紀にはセント・ジェームズ・パークからリージェンツ・パークに至る大通りが敷かれ、街路沿いにピクチャレスクな建物が整然と並ぶ景観が形成された。さらに1760年代には中世からの市壁と門も取り壊されている。<br /> 産業革命 <br />19世紀から20世紀にかけて産業革命を経験したロンドンはさらに発展を遂げ、19世紀初頭にかけて橋が増設され、テムズ川南岸が発展。東部や南部には大きな工業地帯が形成され、東部のロンドン港(ドックランズ)は世界有数の港湾となった。1863年には世界初の地下鉄が開業するなど、交通機関も発達して市街地はさらに拡大した。1888年、ロンドン州の発足によってそれまで別々の町だったシティとウェストミンスターを含む現在のインナーロンドンが、初めて行政区域としてまとまった。19世紀にロンドンの人口は爆発的に増加し、20世紀初頭には人口が440万人を超えたが、それと同時に下水道設備の不備や貧困地域の拡大などの現代的な都市問題が深刻化した。特に大気汚染が深刻で、石炭の煤煙によるスモッグの発生により「霧の都」と揶揄された。この問題は20世紀以降に労働者階級の地位向上によって大きく改善されたが、今なおロンドン南部のテムズ川南岸や東部のイースト・エンドなどには貧困者の多い地区が存在し、旧植民地諸国からの移民流入もあいまって問題は継続されている。20世紀になるとエベネザー・ハワードの提唱した「明日の田園都市」が世界的な反響を呼び起こし、その理論に基づいてロンドン郊外に世界初のニュータウンであるレッチワース(人口32000人)が建設された。<br /> 二度の世界大戦 <br />空襲を受けたロンドン第一次世界大戦ではドイツ軍の飛行機や飛行船による攻撃対象となり、さらに第二次世界大戦の初頭にはドイツ空軍の爆撃を受けて数千人が死亡した。<br />1940年9月7日から1941年5月10日にかけて、ザ・ブリッツとよばれるはげしい爆撃を受けて数万人が死傷し、ロンドン塔は北側が破壊され、大英博物館では18世紀と19世紀の新聞3万巻が失われた。国会議事堂は図書館、下院、上院が甚大な損害を被った。ギルドホールは内装の一部が焼け、オールドベイリーとして知られる中央刑事裁判所は北東の角が破壊された。さらに、セント・ポール大聖堂やバッキンガム宮殿、ランベス宮殿、セント・ジェームズ宮殿も被害を受けた。またドイツ空軍の爆撃機による空襲がバトル・オブ・ブリテン以後に下火になった後にも、同軍によるV1飛行爆弾、V2ロケットによる攻撃を受け大きな被害を受けた。戦後の復興は労働力不足のため一時期滞ったが、大ロンドン計画にもとづいて推進され、都心部に郊外区域を加えたロンドンを統括する行政府として大ロンドン議会が設置され、1950年代末までにほとんどが復興し、重要な歴史的建造物が修復された<br /> 世界の金融市場へ <br />シティはロンドン証券取引所やロイズの本拠地で、世界有数の金融都市である。1960年代以降イギリス経済は低迷し、それに伴いロンドンも移民層や労働者階級を中心に失業者が増加して街は荒廃し犯罪率が増加した。1980年代に保守党のサッチャー政権は大幅な犠牲を払って規制緩和や産業構造の改革、国有事業の民営化、ドックランズ再開発など施策を遂行した。経済は少しずつではあるが息を吹き返してゆき、国内金融機関の退場を引き換えにしてロンドンは世界有数の金融市場としての地位を確立した。<br /> 現在 <br />再開発によって活気を取り戻したカナリー・ワーフの摩天楼群1990年代以降には金融に加え観光や情報産業、デザイン産業なども活気を呈しており、ドックランズのカナリー・ワーフ以後、超高層ビルの建設が相次いでいる。荒廃したロンドンは完全に過去のものとなった。近年では地価の高騰に悩むなど往年の繁栄を取り戻している。1980年代以降に連続して発生したIRA暫定派によるテロは収束したが、2005年7月7日にはイスラム過激派によるロンドン同時爆破事件が発生している。近年増加しているイスラム系移民と従来の住民間との対立も発生するなど、国際都市特有の問題の解決に注目が集まっている。2005年には2012年に開催される第30回オリンピック誘致に成功した。1908年および1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催であり、同一都市としては史上最多となる。2012年には、ヨーロッパで最も高い310m(アンテナを含む高さ)のシャード・ロンドン・ブリッジ(ロンドン・ブリッジ・タワー)が完成する予定

とりあえずロンドンへ  イギリス ロンドン

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2009/11/05 - 2009/11/05

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kawabekentarou

kawabekentarouさん

11*5 イギリス ロンドン////
俺が今日の早朝に出発の為、宿の皆が昨日の夜から明け方にかけて、一緒に飲み明かしてくれた!なんて俺は幸せなんだ!皆、眠たいはずなのに…。皆とも相当仲良くなったし、友達の関係にもなれたと思う。だから別れは本当に寂しい…。連絡先も交換したし、カナダにも遊びに来てくれるって言ってたし、別れじゃないね!//それにしても眠い〜、オールして、朝5時に宿を出た!今日はロンドンへのフライトだか、トルコの空港へ行くトラムが来ない!ヤバイとあせっていたら、フランス人老婦人とたまたま会い、行き先が一緒だったので、一緒に行った。凄く親切で、搭乗手続きの場所迄調べてくれた。本当に俺はお世話になりっぱなしだ…。何とか飛行機には間に合ったが、イギリスに着く迄は完全に爆睡で、いつの間にかロンドンに着いていた。入国審査は今までにないくらい厳しく、いろいろと職務質問された。他の人はすぐ終わるのに、俺だけ何で〜って思ったよ!行った国を事細かに聞かれたり、トルコに何日いて、何処に泊まって何したとか、ロンドンで何で宿をとってないんだ!とか。イギリスに着いてとりあえずガイドブックを見て、国際HOSTELを見つけた!空港からロンドン市街迄、遠いよ〜、うたた寝しながら着いた。迷いながらもHOSTELに無事に到着。25ポンド、HOSTELなのに高いな〜。眠いし、疲れてたのでとりあえず二泊することにした。マイクロプェーブが使える事なので、スーパーに行き冷凍食品を買い、昼飯を食べたが、トルコから来ると物価が高く感じるよ〜。そーいえばお金も大分減ったな〜…。昼ご飯を食べたらとりあえず大英博物館に行った。いろんな国の歴史的展示場が在って楽しかった。疲れたので、HOSTELのバーでビールを飲みながら日記を書いている。帰国迄、残り二日だが、観光したい気持ちも起きない。ブルガリアらへんからなんかやる気がないのかな〜、疲れたのかな?明日はちゃんと観光するぞ!




歴史
ロンドンの街の起源はローマ帝国によるブリタニア支配にまで遡る。ローマ人はイングランドを征服し、43年にはテムズ川北岸、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)にあたる場所にロンディニウムを建設してこれをブリタニアの首都とした。街を建設したのはローマ人だが、それ以前にこの地域周辺にはケルト人が居住しており、ローマによる初期の植民の跡が残されている。61年には女王ブーディカに率いられたケルト族がロンディニウムを襲撃し、ローマ人から都市を奪還した。現在のシティにある遺跡からはこの争いによるものと見られる焼け焦げた木材などが出土している。その後2世紀頃には防衛のため、テムズ川岸を除く街の三方に市街壁が巡らされた。およそ4万人の人口を擁していたシティを中心として、市内はローマとブリタニアの交易で活況を呈し、現在のウェストミンスター地区にあたる地域も独立した集落が形成されており、現在のフリート・ストリートおよびストランド・ストリートによって結ばれていた。しかし4世紀からは衰退し、5世紀初めにはローマ人は撤退。代わってアングロ・サクソン人がこの地方を征服した。初代のセント・ポール大聖堂は、サクソン人の司教によって604年に建設されたとされる。9世紀後半、アルフレッド大王がこの地をウェセックスの首都とする。その後、イギリス史は空白期間が続く。
中世
ウェストミンスター寺院11世紀半頃ウェセックス最後の王となったエドワード懺悔王は、ウェストミンスターに大修道院のウェストミンスター寺院と王宮のウェストミンスター宮殿を建設した。1066年にイングランドを征服したノルマンディ公ギヨーム2世は、ウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として即位し、ウェストミンスター宮殿を住まいとした。以後、ウェストミンスター宮殿を中心とするシティ・オブ・ウェストミンスターは政治と宗教の中心地となる。一方、シティはこの頃すでに自治機能を有する商業都市に発展しており、ウィリアム1世はロンドン塔などの要塞をシティの東西に建設して市民を威圧した。しかし経済力のあるシティは、12〜13世紀に市長を選出する権利や独自の法廷をもつ権利を獲得、14世紀半ばからは市参事会を選出し、王権から独立した高度な自治都市として独立を保持した。
急成長期
1666年、ロンドン大火が発生して市内の家屋のおよそ85%が焼失した。16世紀にヘンリー8世のもと、宗教改革が進展する中で修道院解散に伴いシティ内外で没収地の開発が進んだ。これにより、多くの人口を許容できるようになったロンドンは、当時の経済発展とあわせ急激に成長し始めた。シティとウェストミンスター間には市街地が成長して両者は一体化し、17世紀中期には人口50万以上、さらに半世紀後には70万人以上が居住している。1566年、エリザベス1世が王立取引所を開くとシティの重要性は急速に増大する。街の発展にともなって貧困層が流入し、これが王権への抵抗勢力になることを恐れた女王は、1580年に市門の外3マイル以内に新たに建物を建築することを禁じる布告を出した。しかし、町の拡大を法令で阻止することが不可能なことはやがて明らかとなる。大火後に再建されたセント・ポール大聖堂1665年のペストの大流行では10万人近い人々が死亡したとされる。翌年1666年にはシティのパン屋から出火した火の手が市壁に囲まれた地の3分の2まで広がり、辺りを灰と化させたロンドン大火が起こった。これは当時、ロンドンのほとんどの建造物が木造だったこと、道路の幅が狭過ぎもらい火によって火の手を広めたことが、火災の規模を拡大させた理由とされる。更地となったロンドン中心部をかつての雑然とした町から、パリのような壮大な都市に生まれ変わらせる好機として、クリストファー・レンは新たに都市計画を構想した。しかし、この構想は都市の整備によって土地を失うことを恐れた地主達が、利己的に建物を建設したことによって計画倒れに終わった。だが、レンは大火が再び発生するのを未然に阻止するための法制度整備に努めた。その結果、1667年の再建法では新築建造物には石と煉瓦のみを使用するよう定められた。再建されたシティは、かつて木造建築が雑然としていた町並みとは全く異なるものとなり、市街中心部は石造に一新して不燃化され、民間投資によって標準化された住居建築群が建造され、かつてレンの構想した都市程ではないが道路も拡幅された。18世紀にはセント・ジェームズ・パークからリージェンツ・パークに至る大通りが敷かれ、街路沿いにピクチャレスクな建物が整然と並ぶ景観が形成された。さらに1760年代には中世からの市壁と門も取り壊されている。
産業革命
19世紀から20世紀にかけて産業革命を経験したロンドンはさらに発展を遂げ、19世紀初頭にかけて橋が増設され、テムズ川南岸が発展。東部や南部には大きな工業地帯が形成され、東部のロンドン港(ドックランズ)は世界有数の港湾となった。1863年には世界初の地下鉄が開業するなど、交通機関も発達して市街地はさらに拡大した。1888年、ロンドン州の発足によってそれまで別々の町だったシティとウェストミンスターを含む現在のインナーロンドンが、初めて行政区域としてまとまった。19世紀にロンドンの人口は爆発的に増加し、20世紀初頭には人口が440万人を超えたが、それと同時に下水道設備の不備や貧困地域の拡大などの現代的な都市問題が深刻化した。特に大気汚染が深刻で、石炭の煤煙によるスモッグの発生により「霧の都」と揶揄された。この問題は20世紀以降に労働者階級の地位向上によって大きく改善されたが、今なおロンドン南部のテムズ川南岸や東部のイースト・エンドなどには貧困者の多い地区が存在し、旧植民地諸国からの移民流入もあいまって問題は継続されている。20世紀になるとエベネザー・ハワードの提唱した「明日の田園都市」が世界的な反響を呼び起こし、その理論に基づいてロンドン郊外に世界初のニュータウンであるレッチワース(人口32000人)が建設された。
二度の世界大戦
空襲を受けたロンドン第一次世界大戦ではドイツ軍の飛行機や飛行船による攻撃対象となり、さらに第二次世界大戦の初頭にはドイツ空軍の爆撃を受けて数千人が死亡した。
1940年9月7日から1941年5月10日にかけて、ザ・ブリッツとよばれるはげしい爆撃を受けて数万人が死傷し、ロンドン塔は北側が破壊され、大英博物館では18世紀と19世紀の新聞3万巻が失われた。国会議事堂は図書館、下院、上院が甚大な損害を被った。ギルドホールは内装の一部が焼け、オールドベイリーとして知られる中央刑事裁判所は北東の角が破壊された。さらに、セント・ポール大聖堂やバッキンガム宮殿、ランベス宮殿、セント・ジェームズ宮殿も被害を受けた。またドイツ空軍の爆撃機による空襲がバトル・オブ・ブリテン以後に下火になった後にも、同軍によるV1飛行爆弾、V2ロケットによる攻撃を受け大きな被害を受けた。戦後の復興は労働力不足のため一時期滞ったが、大ロンドン計画にもとづいて推進され、都心部に郊外区域を加えたロンドンを統括する行政府として大ロンドン議会が設置され、1950年代末までにほとんどが復興し、重要な歴史的建造物が修復された
世界の金融市場へ
シティはロンドン証券取引所やロイズの本拠地で、世界有数の金融都市である。1960年代以降イギリス経済は低迷し、それに伴いロンドンも移民層や労働者階級を中心に失業者が増加して街は荒廃し犯罪率が増加した。1980年代に保守党のサッチャー政権は大幅な犠牲を払って規制緩和や産業構造の改革、国有事業の民営化、ドックランズ再開発など施策を遂行した。経済は少しずつではあるが息を吹き返してゆき、国内金融機関の退場を引き換えにしてロンドンは世界有数の金融市場としての地位を確立した。
現在
再開発によって活気を取り戻したカナリー・ワーフの摩天楼群1990年代以降には金融に加え観光や情報産業、デザイン産業なども活気を呈しており、ドックランズのカナリー・ワーフ以後、超高層ビルの建設が相次いでいる。荒廃したロンドンは完全に過去のものとなった。近年では地価の高騰に悩むなど往年の繁栄を取り戻している。1980年代以降に連続して発生したIRA暫定派によるテロは収束したが、2005年7月7日にはイスラム過激派によるロンドン同時爆破事件が発生している。近年増加しているイスラム系移民と従来の住民間との対立も発生するなど、国際都市特有の問題の解決に注目が集まっている。2005年には2012年に開催される第30回オリンピック誘致に成功した。1908年および1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催であり、同一都市としては史上最多となる。2012年には、ヨーロッパで最も高い310m(アンテナを含む高さ)のシャード・ロンドン・ブリッジ(ロンドン・ブリッジ・タワー)が完成する予定

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  • 入国にてこずった。いろいろ聞かれたよ。。。

    入国にてこずった。いろいろ聞かれたよ。。。

  • 赤い電話ボックス<br /><br />日本で電話ボックス、見なくなりましたね。。<br />なんか寂しい

    赤い電話ボックス

    日本で電話ボックス、見なくなりましたね。。
    なんか寂しい

  • 大英博物館<br /><br />世界最大の博物館のひとつで、古今東西の美術品や書籍など約700万点が収蔵されている(うち常設展示されているのは約15万点)。収蔵品は美術品や書籍のほかに、考古学的な遺物・標本・硬貨やオルゴールなどの工芸品、世界各地の民族誌資料など多岐に渡る。イギリス自身のものも所蔵・展示されている。余りに多岐にわたることから、常設展示だけでも一日で全てを見ることはほぼ不可能である。<br />世界中の博物館との連携による巡回展計画や途上国の博物館への技術協力なども進められている。教育計画も充実しており、学校との連携した教育計画、家族向け教育計画、成人向け教育計画、障害者や移民・亡命希望者など社会的弱者のための教育計画などがある。また、「アジア美術修了証書」という大学院修士課程水準の教育過程も博物館教育計画の一環として提供されている。<br />来館者の約56%が外国人観光客といわれている。このため各国語版の案内書も充実しており、入り口脇や屋根中庭(グレート・コート)にある販売店では公式案内書が販売されているが、この中には日本語版(£6)も見られる。

    大英博物館

    世界最大の博物館のひとつで、古今東西の美術品や書籍など約700万点が収蔵されている(うち常設展示されているのは約15万点)。収蔵品は美術品や書籍のほかに、考古学的な遺物・標本・硬貨やオルゴールなどの工芸品、世界各地の民族誌資料など多岐に渡る。イギリス自身のものも所蔵・展示されている。余りに多岐にわたることから、常設展示だけでも一日で全てを見ることはほぼ不可能である。
    世界中の博物館との連携による巡回展計画や途上国の博物館への技術協力なども進められている。教育計画も充実しており、学校との連携した教育計画、家族向け教育計画、成人向け教育計画、障害者や移民・亡命希望者など社会的弱者のための教育計画などがある。また、「アジア美術修了証書」という大学院修士課程水準の教育過程も博物館教育計画の一環として提供されている。
    来館者の約56%が外国人観光客といわれている。このため各国語版の案内書も充実しており、入り口脇や屋根中庭(グレート・コート)にある販売店では公式案内書が販売されているが、この中には日本語版(£6)も見られる。

  • 大英博物館の起源は、古美術収集家の医師ハンス・スローン卿の収集品にさかのぼる。<br />医者であり、個人としては当時最大の博物学的収集品を持つ収集家であったハンスは遺言で彼の死後、収集した美術品や稀覯書8万点の収蔵品を総合的に一括管理し一般人の利用に供することを指示した。管財人達はイギリス議会に働きかけ、議会はすでに国に所有されていたコットン蔵書と売りに出されていたハーレー蔵書を合わせて収容する博物館を設立することを決定した。博物館の設立には宝くじ売り上げがあてられることになり、1753年に博物館法によって設立され、一般向けには1759年1月15日に開館した。初代館長は著名な医者で発明家でもあったゴーウィン・ナイト(Gowin Knight)。<br />当初はモンタギューハウスで開設していたが展示品が増えるにつれて手狭になり、1823年にジョージ4世が父親から相続した蔵書を寄贈したことが契機となってキングズライブラリーが増設された。1857年には6代目館長(主任司書)アントニオ・パニッツィのもとで、現在も大英博物館を象徴する建造物となっている円形閲覧室が中庭の中央部に建設された。<br />しかし収蔵品の増加に追いつかないため、1881年に自然史関係の収集物を独立させた自然史博物館がサウス・ケンジントンに分館として設立された。

    大英博物館の起源は、古美術収集家の医師ハンス・スローン卿の収集品にさかのぼる。
    医者であり、個人としては当時最大の博物学的収集品を持つ収集家であったハンスは遺言で彼の死後、収集した美術品や稀覯書8万点の収蔵品を総合的に一括管理し一般人の利用に供することを指示した。管財人達はイギリス議会に働きかけ、議会はすでに国に所有されていたコットン蔵書と売りに出されていたハーレー蔵書を合わせて収容する博物館を設立することを決定した。博物館の設立には宝くじ売り上げがあてられることになり、1753年に博物館法によって設立され、一般向けには1759年1月15日に開館した。初代館長は著名な医者で発明家でもあったゴーウィン・ナイト(Gowin Knight)。
    当初はモンタギューハウスで開設していたが展示品が増えるにつれて手狭になり、1823年にジョージ4世が父親から相続した蔵書を寄贈したことが契機となってキングズライブラリーが増設された。1857年には6代目館長(主任司書)アントニオ・パニッツィのもとで、現在も大英博物館を象徴する建造物となっている円形閲覧室が中庭の中央部に建設された。
    しかし収蔵品の増加に追いつかないため、1881年に自然史関係の収集物を独立させた自然史博物館がサウス・ケンジントンに分館として設立された。

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