2009/09/30 - 2009/10/04
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てんてん60さん
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早朝9:30福江港入港、24Hレンタカー借りて雨の中をまずは楽しみにしていた堂崎教会を訪問した。市内を離れると人、車は極端に少なくなり異国の雰囲気が漂い始めた。20分近く走ったら奥浦湾の入江に佇む赤レンガ造りの教会が見える。ゴシック様式の天主堂は明治41年五島初の本格的洋風建造物として建てられた。堂崎教会の歴史は五島キリシタン史の象徴であり、そこには①出会い②受難③復活の3つのテーマが要約されている。
【堂崎の歴史ーあらすじ】
明治6年フレノー神父が上陸、野外ミサを行い千人が参加した。同年12月24日夜、信者は堂崎の浜辺を埋め尽くし松明は海に映え荘厳なキリスト降誕祭を祝った。
明治10年フレノー神父は専任の下五島巡回宣教師となり、明治12年仮聖堂を建立。明治13年にはマルマン神父が任命を受け着任、住民の生活苦の実態を知り救済に乗り出した。修道女の形態としての保母養成を始めた。教会、修道院、養成所の運営が始った。明治21年ペルー神父が赴任した。信者の増加を見て教会堂を新しく立て替える事を決意した。明治37年堂崎天主堂建築に着工し、明治41年現在の天主堂が完成した。(日本26聖人にささげられる)
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奥浦湾の入江に佇む赤レンガの教会が見える。
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教会(天主堂)入口。現在はキリシタン資料館となっている為、拝観料300円が必要。
しかし天主堂は、単なる資料館でなく、定期的に儀式、祭式が行われている。見学者には常に聖域としての環境保全を求めています。(内部は撮影禁止です) -
入江に面した天主堂(引き潮時には砂浜となる)
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玄関アーチが優しく迎えてくれます。
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正面全景。裏山から聖母マリア様が見つめておられる
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見事なゴシック様式の教会です。山の緑と潮の香に心洗われ、五島のキリシタン450年に及ぶ祈りが響きます。
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塔の部分
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裏山のマリア像
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微笑んでおられるマリア様
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教会の前庭にはリコリスの花が咲いていました。
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天主堂正面の庭に佇むマルマン神父とペルー神父と子供達「自由と愛の使者・復活の夜明け」
信仰の自由が認められや五島に宣教師が来島。
神父の宣教と福祉活動の創始を記念するもの。 -
神父像の横に「聖ヨハネ五島殉教像」
伝道師を志ながら19歳で大阪にて捉えられ(1597年)長崎まで33日間の道程を耐え忍び、西坂において、他の信者、神父、25名とともに十字架上で殉教した。(聖26聖人の一人)
この像は、死の直前、神に祈りを捧げる瞬間をとらえたものであると言われており、その強い信仰心は世界の聖者として、全キリスト教徒の尊敬の的となっている。 -
アルメイダの宣教碑・出会いの日
ザビエルの鹿児島上陸ののち、五島にはアルメイダとロレンソがキリスト教を伝えた。
彼らは、時の領主、宇久純定の招きにより城中でキリストの教えを説き、多数の者を洗礼に導いた。
この碑は、島の人々とキリスト教との「出会い」を記念するものである。 -
碑の詳細コメント文
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「クルス地蔵」前庭の聖ヨハネ五島十字架像の横に安置されている。
隠れキリシタンは、この石の塊を表向きは地蔵として祀り、心の中ではキリスト像、マリア像に見立てて、密かな祈りを捧げていた。
天主堂の資料館には数多くの隠れキリシタンにまつわるものとか、殉教の歴史品、聖ヨハネ五島にまつわる品々、キリスト教伝来と宣教資料が保存されている。 -
浦頭教会
堂崎に向う途中の丘の上に立つ教会である。
明治21年民家を改造した聖堂が建設されたが、狭くなり昭和25年その聖堂を取り囲んだ形で増設。しかし五島の信仰の拠点であった堂崎教会が古くなり、統合的教会建設する必要から昭和43年現在の教会が建てられた。
教会堂イメージは「ノアの箱舟」と言われている。
教会玄関横には、聖パウロ像と聖ペテロ像が迎えてくれる。 -
教会内部
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祭壇
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会堂後方の2階部分は聖歌隊席となっている
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聖歌隊席のステンドグラス
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