2009/09/19 - 2009/09/19
141位(同エリア1201件中)
みにくまさん
今年の9月は5連休があるということで、巷ではシルバーウィークと呼ばれています。
私たちのシルバーウィークは、海外とか国内でも遠くに行くとかではなく、近県の”城めぐり”ということになりました。
その第一弾がこちら「彦根城」です。
◎ シルバーウィーク城めぐり
⇒彦根城
犬山城
岐阜城
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いろは松
この松の道沿いに真っ直ぐ行くと佐和口で、左に行き中堀沿いに進むと京橋口があります。
どちらからでも登城できますが、私たちは真っ直ぐ佐和口に向かいました。 -
いろは松
表門橋に向かう中堀の沿道の松並木で、47本あったのでこの名が付けられた。現在は33本(補植13本)残っている。
この松は土佐松で、地上に根を張り出さず人馬の往来の邪魔にならないので、わざわざ高知から移植されたものである。 -
佐和口多聞櫓 重要文化財
「いろは松」に沿った登城道の正面に佐和口があり、その桝形を囲むように築かれているのが佐和口多聞櫓です。
写真では左右に櫓が広がっていますが、そのうち左翼に伸びているのが、重要文化財である佐和口多聞櫓です。
右翼の櫓は明治初年に解体され、現在の建物は昭和35年に開国100年を記念して復元されたコンクリート造りの建物(開国記念館)です。 -
佐和口多聞櫓 重要文化財
「多聞」の名は、戦国武将松永久秀の多聞城で初めて築かれたことに由来すると伝えられています。
佐和口の多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度屈折する長屋となっており、内部は7つに区画されています。
櫓の左端には2階2重の櫓が立っていますが、右端は不自然に途切れ、石垣のみの空き地が広がっています。ここにはかつて、2階2重の櫓門が桝形を見下ろすように架かっていましたが、明治初年に解体されてしまいました。空き地はその名残りです。 -
佐和口多聞櫓 右翼
現在はこの建物の中は、開国記念館となっています。 -
佐和口多聞櫓 右翼
石垣はもともとのものなのでしょう、歴史を感じさせます。 -
佐和口多聞櫓 桝形
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馬屋 重要文化財
この馬屋は、全国の近世城郭に残る大規模な馬屋として例がなく、国の重要文化財に指定されています。
建立年代は明らかではありませんが、元禄年代(1688〜1703)頃と考えられています。 -
馬屋 重要文化財
馬屋の建物はL字型をしており、佐和口門櫓に接する東端に畳敷の小部屋、対する西端近くに門がある他は、すべて馬立場と馬繋場となっています。
その数21。21頭もの馬を収容することができました。馬屋はさらに売店方向に伸びていたようですが、現在は復元されていません。 -
馬屋 重要文化財
この馬屋は藩主などの馬を常備した場所で、こうした馬屋の他にも、表御殿の玄関脇には客用の馬屋があった他、ケヤキ御殿やお浜御殿などの下屋敷には、馬場があって馬の調教が行われていました。 -
馬屋 重要文化財
馬に関する役職として馬役がありました。
彼らは藩主の馬の日常的な管理・調教を行うとともに、藩主やその子弟、そして藩士に馬術を指南しました。
馬屋の馬たちも彼ら馬役によって維持され、藩主などに供されていたのです。 -
馬屋 重要文化財
サラブレットより小さな江戸時代の馬
ここに再現された馬は、現在私たちがよく目にする競走馬のサラブレット種等にくらべ、一回り小さな馬だったと伝えられています。
当然、パワーもスピードもサラブレットとは比べ物にならないくらい貧弱で、実際に戦闘に参加することはほとんど無かったと考えられます(もっぱら移動用)。
今日でも、一部に残る木曽馬などが、江戸時代に使われていたと言われています。 -
佐和口多聞櫓 重要文化財
先ほど外から見た佐和口多聞櫓ですが、こちら側から中に入れるようになっています。
無料で見られますので、時間があれば是非。 -
佐和口多聞櫓 重要文化財
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佐和口多聞櫓 重要文化財
佐和口多聞櫓の壁は、防火や防弾のために厚い土壁になっています。
また敵が攻めよせる外側は、壁を二重に造って一段と厚くしています。その厚さは30センチを超えています。 -
佐和口多聞櫓 重要文化財
2階への階段。
見学者は2階には上がれません。 -
佐和口多聞櫓 重要文化財
波打つ壁。
建物の外面は、柱などを土壁で完全に塗り込める「大壁造り」、内面は柱を見せる「真壁造り」となっていますが、内面でも貫の部分は塗り込められているため、内壁の表面が波打っているように見えます。 -
佐和口多聞櫓 重要文化財
鉄砲狭間。
写真のような四角の狭間のほか、△のものもありました。
通常は四角が矢狭間、三角は鉄砲狭間と呼ばれていますね。 -
佐和口多聞櫓 重要文化財
佐和口多聞櫓から、いろは松の通りを眺めたところです。 -
琵琶湖八景 月明 彦根の古城
琵琶湖八景(びわこはっけい)とは、琵琶湖周辺に存在する八つの情景を特に選んだもので、近江八景に対抗して選定されたとか。この他に彦根八景というのもあるようです。
月明 彦根の古城
涼風 雄松崎の白江
新雪 賤ヶ岳の大観
煙雨 比叡の樹林
深緑 竹生島の沈影
夕陽 瀬田・石山の清流
暁霧 海津大崎の岩礁
春色 安土・八幡の水郷 -
表門橋
彦根城は内堀に面して5つの門が開いています。その中で正面を意図して築かれたのが大手門と表門です。
この表門橋の先に、表門がありました。
現在は左右に石垣を残すのみとなっていますが、かつては内堀に接して外門の高麗門があり、その内を鉤の手に曲げて内門の櫓門が築かれていました。 -
彦根城博物館
テーマ展
”井伊家伝来の馬具”
彦根城といえばひこにゃんですが、実はこの時すぐに天守の方に行っていたら、ひこにゃんに会えたかもしれないです。
でも私たちは博物館の方が気になってしまい、結局ひこにゃんには会えずじまいでした。
ちょっと残念(T_T)
代わりといってはあれですが、ひこにゃんのハリボテと記念撮影〜。 -
彦根城博物館
江戸時代の彦根藩の政庁であった表御殿を復元したもので、昭和62年彦根市市制施行50周年を記念して彦根城博物館として開館しました。
井伊家に伝わる多数の美術工芸品や、能や茶器の愛蔵品、古文書の展示のほか、表御殿の中央に占める能舞台や藩主が日常生活を営んだ「奥向き」は、御座の間や茶室、庭園が復元されており、館そのものが博物館として楽しめます。
国宝”彦根屏風”を所蔵、毎年春に展示され、能舞台では春と秋に能が催されています。 -
国宝・風俗図(彦根屏風) 複製
原本は、代々彦根藩主であった井伊家に伝来したため「彦根屏風」の名があり、江戸時代風俗図の傑出した作品として高く評価され、国宝に指定されています。
★ この博物館では、フラッシュ撮影を禁止する表示はありましたが、通常の写真撮影に関しては制限が無く、自由に撮影することができました。
普通は博物館や美術館と言ったら、玄関のところから”館内撮影禁止”と書かれているのが、日本での常識ですが、ここは非常に寛容です。
日本の博物館や美術館が、写真撮影に対して厳し過ぎるのが問題だということは前から指摘しているとおり。
ここ彦根城は、世界遺産への登録を目指しているくらいですから、写真撮影の常識に関しても、世界標準に添うよう努力しているのかもしれません。 -
1 黒漆塗橘紋鞍・鐙 江戸時代
(くろうるしぬりたちばなもんくら・あぶみ)
総体を黒塗りとし、井伊家の家紋である橘を金蒔絵で両輪の中央に据えています。
このタイプのものが式正(しきしょう)の鞍とされ、公の場で用いられました。
現存する井伊家伝来の式正の鞍は、合計14背あります。
★ この時の特別展は「井伊家伝来の馬具」ということで、鞍・鐙を重点的に撮影してきました。 -
2 黒漆塗竹蒔絵鞍 江戸時代
(くろうるしぬりたけまきえくら)
馬に乗るには、種々の道具を必要としました。
人が座る鞍(くら)と足を乗せる鐙(あぶみ)がその中心を成しますが、鞍がずれないように馬に結びつける紐類(面懸(おもがい)・胸懸(むねがい)・鞦(しりがい))や、鞍の上や下に敷く革や布類(鞍褥(くらしき)・したぐら)、鞍と鐙をつなぐ紐(力革)など、さまざまです。 -
馬具
左から、轡(くつわ)・しおで・鞭・馬柄杓(まびしゃく)・障泥(あおり) -
9 黒漆塗葵紋鞍・鐙 江戸時代
(くろうるしぬりあおいもんくら・あぶみ)
総体を黒漆塗りとし、両輪の中央に金の蒔絵で葵紋を置いています。
その紋から、徳川将軍家からの拝領品と推定されますが、拝領の時期については不明です。 -
10 黒漆塗葵紋菊蒔絵鞍・鐙 江戸時代
(くろうるしぬりあおいもんきくまきえくら・あぶみ)
寛政9年(1797)、将軍家世子徳川家慶(後の12代将軍)の元服式において、加冠役という、家臣中最も重要な役をつとめた井伊家11代直中が、無事役を果たした後に拝領した馬と馬具一式。
加冠役は、井伊家当主が代々受け継ぐもので、役の度に馬と馬具とを拝領しました。
長寿の象徴の菊は、武運長久の願いを込めて武具や馬具によく使われる意匠。 -
11 金梨地葵紋牡丹蒔絵鞍・鐙 桃山時代
(きんなしじあおいもんぼたんまきえくら・あぶみ)
文政12年(1829)井伊家12代直亮が、11代将軍家斉から拝領したもの。
家斉の嫡孫家定の宮参りの後、井伊家の上屋敷に立ち寄る儀礼が無事済んだことへの返礼として贈られました。
牡丹は、富貴の象徴として好まれた意匠で、大輪の花を華やかに咲かせています。 -
12 葵紋黒羅紗鞍覆 江戸時代
(あおいもんくろらしゃくらおおい)
鞍覆は、鞍壺(鞍橋の、騎者が腰を下ろすところ)から鐙にかけて、雨や日照り等に備え、時に装飾用として、覆い被せた布帛(ふはく)や毛皮の類のこと。
この鞍覆は、拝領の鞍置き馬の鞍と鐙にかけられたもの。
巨大な葵紋が、将軍家の威光を感ぜしめたことでしょう。 -
13 黒漆塗銀唐花文蒔絵移鞍・壺鐙 江戸時代
(くろうるしぎんからはなもんまきえうつしぐら・あぶみ)
移鞍は、朝儀使用の唐鞍を簡略化したもの。
通常は、内は朱塗り、外は黒塗りとするのみで、この鞍のように加飾するのは珍しいことです。
これは元治元年(1864)長州藩兵が京都諸門で幕府軍と交戦した禁門の変で彦根藩が活躍したことに対し、井伊家14代直憲が禁裏から拝領した品。
轡・鞍褥・力革・腹帯・差縄・手綱など、騎乗に必要な一式がそろっています。 -
14 黒漆塗橘紋竹蒔絵鞍 桃山時代
(くろうるしぬりたちばなもんたけまきえくら)
総体を黒塗りとし、竹と橘紋を金の平蒔絵で表した鞍。
竹は両輪に太い幹をのぞかせ、鞍の曲線に沿ってしなやかに枝を伸ばし、その先には橘紋が表されています。
重なり合う葉の数枚に色合いの異なる蒔絵粉を撒き、竹の節には金箔を小さく切った金貝を置いて、煌めきのアクセントを作っています。 -
15 黒漆塗橘紋蜀江文蒔絵鞍 江戸時代
(くろうるしぬりたちばなもんしょっこうもんまきえくら)
両輪の外側に起伏を設けない海無鞍と呼ばれるタイプの鞍。
両輪の外側の面全体に、蒔絵と金貝で蜀江文を表し、内側は梨地とします。蜀江文とは、八角形と小さな四角形を繋げた吉祥の文様で、ここでは八角形の内に4弁の花菱をあしらっています。
蒔絵粉の色合いの違い、蒔絵と金貝の質感の違いにより、蜀江文に多様な表情が生まれ、渓懸地で表された橘紋とともに、典雅な印象を醸し出します。 -
16 金梨地枝橘紋蒔絵鞍・鐙 江戸時代
(きんなしじえだたちばなもんまきえくら・あぶみ)
大ぶりの実をつける橘枝をモチーフにしたもの。
金銀の実は、高蒔絵で表されています。右の端に橘の太い幹が見え、鞍の曲線に沿って左へと枝を伸ばしています。
枝の先は山形を越えて内側まで伸び、居木先に表された枝橘も絵柄が連続するなど、鞍として使用する際の絵柄のつながりが強く意識されています。
鐙にも枝橘文を配し、その紋板に透かした橘文と合わせ、統一されたデザインが見どころです。 -
17 青貝微塵橘紋蒔絵鞍・鐙 江戸時代
(あおがいみじんたちばなもんまきえくら・あぶみ)
微塵のように細かく砕いた貝を、両輪の外側一面や鐙の外面に撒いて研ぎ出した変り塗。
月が光を反射し、全体に青みがかって見えます。
鞍と鐙の内側の面は梨地ですが、鞍の厚みの部分や居木先、橘紋には、内面の梨地より粒の大きな金粉を交えた梨地が見られます。
貝の煌めきに、蒔絵粉の大きさの違いで微妙に変化する梨地の煌めきが加わり、瀟洒な仕上がりとなっています。 -
18 朱変り塗橘紋蒔絵鞍 江戸時代
(しゅかわりぬりたちばなもんまきえくら)
黒地に朱色で、全体に汀の入り組んだ州浜のような不安定に楕円が連なる文様を表し、ところどころには短冊のような長方形の文様が見えます。
中央には金の平蒔絵を用いた橘紋。黒と赤と金の色の取り合わせが、落ち着いた味わいを生んでいます。 -
19 銀地七宝衽文鞍 江戸時代
(ぎんじしっぽうちぎりもんくら)
総体は銀の沃懸地で、両輪の外側中央に赤と青に色分けした七宝製の衽文を置きます。
内側中央には金の平蒔絵で衽文ふたつを並べ、居木先は金蒔絵の七宝繋文。
一般には丸く2段階に刳る手形が、切り込みのように作られ、その周囲に飾り金具のような装飾を蒔絵で表しています。
しおでは、流水に上り藤紋の銀象嵌。全体に華奢な作りの1背です。 -
井伊の赤備え
江戸時代には代々彦根藩主であった井伊家では、甲冑や旗指物など軍備のすべてを赤色としていました。
この赤づくめの軍団は「井伊の赤備え」と呼ばれ、勇猛なことで知られていました。
藩主から家臣にいたるまで、すべての甲冑は朱漆塗で、兜に金色の天衝をつけるように定められていました。
藩主は天衝を脇立とし、家臣は前立とする決まりでした。 -
朱漆塗紅糸威本小札二枚胴具足 江戸時代
(しゅうるしぬりべにいとおどしほんこざねにまいどうぐそく)
井伊家14代直憲が所用し、明治4年(1871)に、招魂社(現在の護国神社)へ奉納した具足です。
元来は11代直中の召替え具足であったのを、直憲が藩主となった際に、自分のものとしたようです。
大名の財政事情が悪化していた幕末には、このような「お下がり」も珍しくはありませんでした。 -
太刀
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能面
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能舞台
博物館の中央に建つ能舞台は、江戸時代の寛政12年(1800)にこの場所に建てられた由緒ある舞台です。
時の藩主は井伊直中。能役者を積極的に召し抱え、演能が盛んに行われていた時期でした。 -
能舞台
戻ってきた能舞台。
この能舞台は、表御殿が取り壊された後、井伊神社境内に移され、その後井伊家か彦根市に寄贈されて、昭和25年(1950)には沙々那美神社境内へ移築、さらに昭和38年(1963)に護国神社境内へ曳家により移されました。
そして昭和62年(1987)博物館の建設を機に本来あった場所、彦根城博物館へと移築復元しました。 -
お茶席
一服 500円
10:00〜15:30
能舞台の隣に設けられているお茶席です。 -
表御殿奥向の復元
表御殿は、彦根藩の政務や公式行事を行う「表向」の空間と、藩主などが日常生活を営む「奥向」の空間からなっていた。この奥向を中心に、江戸時代後期の姿さながらに復元した。
復元にあたり、奥向の平面を描いた古絵図や発掘調査の成果が活用されたほか、壁・障子・ふすま・柱・床そして天井にいたる部屋ごとの仕様を模型のように表現した「起こし絵」や、庭園をみおろすように細かく描いた鳥瞰図が大変役立った。 -
天光室
藩主が用いた茶室。 -
つくばい
みにくま君も休憩しています(*^_^*) -
御座之御間・御次之間・西之間
藩主が生活をした居間。 -
庭園
池を中心とした池泉庭園で、藩主の居間である「御座之御間」から観賞することを主眼に、庭に降りて散策できるよう園路が作られています。
庭園を描いた絵図により復元しました。
盛りだくさんな要素によって構成された技巧的な庭園です。
枝垂れ桜や蘇鉄、松などの樹木は、古絵図から樹種を判断して植栽しました。
右手の大きな手水鉢や池対岸の雪見灯篭も、古絵図から再現しています。 -
坪庭
建物と建物の間には、坪庭と呼ばれる小さな庭があります。狭いスペースですが、花木が植えられ、池が作られています。
「奥」での生活に、季節感と潤いを与えていたことでしょう。 -
坪庭
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御亭(おちん)
藩主がゆっくりくつろぐ場所。
御亭は、表御殿の中で唯一の2階建ての風雅な建物です。
御亭の起こし絵図には、床の間の壁は「西円寺壁」と書かれていました。これは米原市西円寺の赤土を使った壁で、こちらにも再現しました。 -
柳題和歌漢詩集 江戸時代 重要文化財
柳を題とする歌人の和歌と詩人の漢詩を収録したもの。和歌は井伊直弼、漢詩は別人の手で記されています。
巻末に列挙された人名は、柳を題とする作品を描いた絵師と推測され、まさに柳尽くし。
直弼は若い時からしなやかな柳に理想の姿を見、庭に柳を植え、自分の号や花押に柳の語を用い、著書名にも柳の文字を入れるなどの入れ込みようでした。 -
彦根城博物館
これで博物館の見学は終わり。
今回は博物館の展示品のほんの一部を紹介しました。
全体ではかなりの展示品があるので、ここをじっくり回ろうと思ったら、数時間かかるかもしれません。
なかなか見応えのある博物館でした。
では、引き続き彦根城の攻略に戻ります。 -
登り石垣
彦根城には、全国的にも珍しい「登り石垣」が5か所に築かれています。
登り石垣は、文字通り山の斜面を登るように築かれた石垣で、斜面をよく見ると、高さ1mほどの石垣が鐘の丸に向かって伸びているのが分かります。
石垣の向かって左側が溝状にくぼんでいるのは「堅堀」で、登り石垣とともに斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。かつてはこの石垣の上に、さらに瓦塀が乗っていたようです。
登り石垣は、秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城」において顕著に見られる城郭遺構です。
日本では洲本城(兵庫)や松山城(愛媛)など限られた城にしか見ることができません。 -
石段
彦根城天守へ登る山道は4か所ありますが、その石段は非常に登りづらいと言われています。
もともと城への石段は、万一敵が攻め入った場合、歩調が乱れ一息で登れないよう、意図的に不規則に造られているものです。 -
石段
お寺の屋根のように、最初はゆるやかな登りが、登るにつれて斜度が急になり登りにくくなったり、踏み幅や踏み高を微妙に違わせ一定にせず、敵に対しては足元に注意を向けながら登らせ、上から攻撃しやすくしているのです。 -
天秤櫓 重要文化財
天秤櫓は、大手門と表門からの道が合流する要の位置に築かれた櫓です。
秀吉が創築した長浜城大手門を移築したと言われています。 -
天秤櫓 重要文化財
この櫓は上から見ると”コ”の字型をしており、両隅に2階建ての櫓を設けて中央に門が開く構造となっています。
その姿があたかも両端に荷物を下げた天秤のようであることから、江戸時代より天秤櫓と呼ばれています。
このような構造の櫓は、我が国の城郭で他に例が無く、均整のとれた美しさに加え、城内の要の城門としての堅固さも感じさせます。 -
天秤櫓 重要文化財
右側の石垣=牛蒡積み
天秤櫓はおよそ400年の長い年月の間に、幾度か修理を重ねてきました。
中でも嘉永7年(1854)の修理は大規模で、建物のみならず石垣まで積み替えています(左側の石垣)。
積み替えの行われていない右側の石垣は、越前の石工たちが築いたと伝える築城当初の「牛蒡積み」。 -
天秤櫓 重要文化財
左側の石垣=落し積み
左手の石垣は、幕末の大修理の際に積み替えた切石の「落し積み」です。 -
天秤櫓 重要文化財
それにしても、美と堅固さを兼ね備えた芸術的な櫓ですねー。
石垣が左右で違うのは、幕末という藩の財政が厳しい時期の修復ということも影響しているのでしょうか。
今となってはこのバランスの中のアンバランスな一面も、ある種の芸術のように映りますが、当時としては防衛という絶対条件を満たすために必死だったのでしょう。 -
井伊の赤備え
井伊隊の甲冑武者が城内を見回っておられました。
話しかければ気軽に写真撮影も応じてくれていたみたいですが、私たちは横から撮影させてもらっただけ。
日本ではこういったコスプレ?の方々が、金を取ることはありませんが、海外では勝手に写真を撮ると、金を請求されるじゃないですかー。
そのイメージが強くて、なんか話しかけづらい癖が付いてしまいました。 -
天秤櫓 重要文化財
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天秤櫓 重要文化財
門の前には橋が架けられていますが、いざとなったらこの橋も落してしまうんでしょうね〜。
そうしたら、さらにこの門を突破するのは難しくなりそうだ。 -
太鼓丸
天秤櫓を越えても、まだ続く登り階段。
このあたりは太鼓丸と呼ばれる場所です。 -
天秤櫓 重要文化財
天秤櫓は内部が公開されているので、さっそく入ってみたいと思います。 -
天秤櫓 内部
天秤櫓は廊下橋を中心に左右対称と言われているが、左右の窓に違いがある。
両端の2重櫓は、右(東)が江戸に、左(西)が京の都に正面を向けた時代背景を反映した形で建てられている。 -
天秤櫓より
窓の格子木は、弓や鉄砲等で敵陣を広く狙えるように菱形の木材を使用している。 -
天秤櫓より
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時報鐘
この鐘は、12代藩主井伊直亮の弘化元年(1844)に鋳造したもので、当初鐘の丸にあった鐘の音が城下の北の隅にとどかなかったので、現在地に移した。現在は午前6時・9時・正午・午後3時・6時と1日5回突いている。 -
太鼓門櫓 重要文化財
本丸にそびえる天守を目の前にした最後の門が太鼓門櫓です。門櫓の南には「く」の字に曲がった続櫓が付設されています。
この門櫓は、建物の背面の東壁面が解放され、柱間に高欄を付1間通りを廊下にしています。櫓にはたいへん稀な例で、一説には名称となっている「太鼓」が櫓の中に置かれ、その太鼓の音が広く響くための工夫とも考えられていますが、明確ではありません。 -
太鼓門櫓 重要文化財
長い間、太鼓櫓は彦根城築城以前に彦根山の山上にあった彦根寺の山門を移築したものだと考えられてきました。
太鼓門の門の柱に古い釘穴がたくさん残っており、その釘穴を納札を打ちつけた痕跡と考えて、彦根寺山門の移築説が生まれ、広く流布したようです。
しかしこの説は、昭和31〜32年の解体修理工事によって否定されました。解体修理に伴って実施された建物部材調査により、移築前の建物もまたどこかの城の城門であったことが判明したのです。
しかもかつての城門は規模が大きく、それを縮小して今日の太鼓門櫓としていました。
ただ、どちらの城の城門だったのかは、今も謎のままです。 -
太鼓門櫓 重要文化財
こちらの櫓も、一部ですが内部が見学できるようになっています。 -
太鼓門櫓 重要文化財
櫓の内部。 -
天守 国宝
彦根城と城下町の建設は、今からおよそ400年前の慶長9年(1604)に始まり、20年近い歳月を経て完成しました。その中心をなしたのが、天守のある本丸です。
現在の本丸には天守の建物しか残っていませんが、かつては藩主の居館である「御広間」や「宝蔵」そして「着見櫓」なども建っていました。 -
天守 国宝
昭和32〜35年にかけて行われた解体修理により、墨書のある建築材が発見され、天守の完成が慶長12年(1607)ころであることが判明しました。
また建築材を克明に調査した結果、もともと5階4重の旧天守を移築したものであることも分かりました。
彦根藩主井伊家の歴史を記した「井伊年譜」には、「天守は京極家の大津城の殿主也」とあり、彦根城の天守が、大津城の天守を移築した可能性が考えられています。 -
天守 国宝
トップ写真。 -
天守 国宝
天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成されています。
規模は比較的小ぶりですが、屋根は「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓」、3階には高欄付きの「廻縁」を巡らせるなど、外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。 -
天守 国宝
みにくまの記念撮影。
この付近の地面をよく見ると、礎石が多数確認できます。
これは藩主の居館であった「御広間」のもので、このあたり一帯に建物が広がっていたのをうかがい知ることができます。
御広間は、後期工事で山裾の広大な地に「表御殿」が建立されるまで、その機能を維持しました。 -
天守 国宝
瓦には井伊家の家紋「彦根橘」の文様が見て取れます。
また唐破風に描かれている金色の装飾も、彦根橘です。 -
天守 国宝
角度が悪いのでしっかりと見えませんが、しゃちほこが乗っていました。 -
天守 国宝
天守に隣接する附櫓に、天守への入口があります。
ちなみにこの附櫓も国宝に指定されています。 -
天守の下からの眺め
今までは見えませんでしたが、ここからだと琵琶湖がすぐそこに見えます。 -
附櫓内部
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天守内部
この中はかなり暗いです。
そして、私が今までに行ったことのある城、大坂城・名古屋城・姫路城などと比べると、かなり小さく感じます。 -
天守内部
天井。
使われている木材は、四角に加工された角材のほかに、ほとんど加工されていない丸材(?)も組み合わされています。 -
天守内部
かなり気をつけて登り降りしないと危険なくらい急で狭い階段です。
城を本来の姿で保存しようと思うと、こうなってしまいますね。 -
天守内部
ダイナミックに使われた梁。
四角、丸、八角形、中には原木の形のまま使われているものも。 -
天守内部
城の防衛施設である、矢狭間と鉄砲狭間。 -
天守内部
城の最上階は展望台になっていることが多いですが、彦根城では廻縁を解放していませんでした。
パッと見て分かる通り、手すりがとても低いので、事故が起こることを憂慮してのことでしょう。 -
天守からの眺め
すぐそこに、大きく広がる琵琶湖が見えました。 -
天守内部
天守内部には様々な城に関係した展示品が並べられていました。 -
天守内部
何なのかは分かりませんが、このような展示品も。 -
天守 国宝
天守の後方(西側)から撮影しました。 -
西の丸三重櫓 重要文化財
彦根城内には、天守の他にも2棟の3階建物がありました。そのうちの1棟が現存する西の丸三重櫓で、もう1棟は明治初年に取り壊された山崎曲輪の三重櫓です。
西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置しており、さらに西に張り出した出曲輪との間に設けられた深い堀切(尾根を切断して作られた空堀)に面して築かれています。
堀切の底から見上げる三重櫓は、絶壁のようにそそりたっており、西の搦め手方面からの敵に備えた守りの要でした。 -
西の丸三重櫓 重要文化財
三重櫓には天守のような装飾的な破風などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗りとし、簡素な中にも気品のある櫓となっています。
この建物は浅井長政の居城であった小谷城の天守を移築したとの伝えがありますが、昭和30年代に行われた解体修理の際には、そうした痕跡は確認できませんでした。
同時に解体修理によって、柱や梁などの部材の8割近くが江戸時代後期の嘉永6年(1853)に実施された大修理で取り替えられていることが判明しました。
今日見ることのできる三重櫓は、築城当初ではなく江戸時代後期の姿と言ってもよいでしょう。 -
西の丸三重櫓 内部
この櫓も内部の見学ができるようになっています。
三重櫓の3階部分は、監視と見張り用に窓が設けてあり、1・2層は攻撃用として城外側だけに窓があります。 -
西の丸三重櫓 内部
鉄砲狭間から外を眺める。 -
西の丸三重櫓からの眺め
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西の丸三重櫓 内部
上層への階段。
立ち入り禁止の張り紙がありました。
上に行くことはできません。 -
西の丸三重櫓 内部
瞑想するみにくま君とちびくま君(・o・) -
西の丸三重櫓 大堀切 出郛
出郭には馬出しの機能がありました。
「井伊年譜」には、この出郭の石垣は、石工集団として知られる穴太衆が築いたと伝えられています。 -
出郭から見た西の丸三重櫓
-
出郭
石垣が複雑に絡んだ道。 -
山道
登城した時とは反対側の坂道です。
こちらもけっこう急な坂道で、歩き難く作られています。 -
内堀
黒門付近の堀です。
南西方向。 -
内堀
北方向。
この先でのんびり釣りをしている方がいらっしゃいました。 -
黒門
門と言っても、どっしり重厚な門があるわけではなく、案内所みたいなのが置かれているだけでした。
石垣の大きさから推測すると、かつてはかなり大きな門があったのではないかと思わせます。 -
玄宮園(名勝)
城の北東にある大名庭園の「玄宮園」に来ました。
本来はこの玄宮園に隣接する形で「楽々園」があるのですが、この時は工事中ということで中に入れませんでした。
この玄宮園と楽々園をあわせ、「槻御殿(けやきごてん)」と呼ばれていました。 -
玄宮園(名勝)
槻御殿は、延宝5年(1677)、4代藩主井伊直興により造営が始まり、同7年に完成しました。
昭和26年には、国の名勝に指定されています。 -
玄宮園(名勝)
玄宮園の名は、中国の宮廷に付属した庭園を「玄宮」と言ったことから命名されたと考えられます。 -
玄宮園(名勝)
この場所からは池とお城を見ることができました。
池の先に見える数寄屋造りの建物は「八景亭(古くは臨池閣)」と呼ばれています。 -
玄宮園(名勝)
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玄宮園(名勝)
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屋形船
お昼くらいから1時間おきくらいのスケジュールで運航しているみたいでした。
私たちがここを通りかかったのは13時でしたが、この便は満席になっていました。 -
屋形船
★ おしまい ★
やっぱり城を攻略するのは楽しい。
下の方から徐々に登って行く時に、どうしても城攻めの、または籠城戦のシミュレーションを無意識のうちにしてしまいます。
城攻めと言えば、今公開中の映画「バラッド 名もなき恋のうた」でその様子を忠実に再現されています。
映画の戦闘シーンなどを観ていると、史実に基づかない適当なイメージで作ってあるものが多いですが、この映画はちょっと違います。どこが違い、どこがしっかりと考証されているのかというのは、かなり勉強しないと分からないかと思いますが。
それはそうと、シルバーウィークの城攻略第一弾は終了です。
次は犬山城を攻撃します!
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この旅行記へのコメント (6)
-
- Rさん 2009/10/11 13:37:21
- 彦根城
- みにくまさん、こんにちは♪
今月末大阪に行くのですが、その帰りに彦根城を見に行こうかという話になり旅行記にお邪魔しました。
見どころがたくさんですね〜。
小さい頃は祖父母に連れられてよくお城巡りをしました。
恥ずかしながらその頃はあまり歴史も知らず、お城を見ても
「大きいな〜」くらいにしか思っていなかったのです。
大人になった今見るお城はまた違った感じ方ができるかもしれませんね。
少し彦根城のことも勉強してから行こうと思います。
Rita
- みにくまさん からの返信 2009/10/11 23:26:56
- RE: 彦根城
Ritaさん、こんばんは〜。
彦根城は、世界遺産に登録されるかもしれない文化遺産なので、さすがに見所が多いですね。
また、博物館を中心に、周辺にも観光できそうなところがいろいろありましたよ〜。
子供の頃に見る城と、今見る城では、やっぱりかなり見方が変わってきますね。
当時は単に建物の外観を楽しむだけでしたが、今は歴史背景や登場人物なども分かっているので、自ずと楽しみ方が変わってきました。
彦根城にはその施設ごとに、かなり詳細な説明のパンフレットが置かれているので、全部集めてしっかり勉強すれば、彦根博士になれますよ(*^_^*)
私のつたない旅行記が、少しでも参考になれば幸いです。
では〜(^_^)/
-
- Elliott-7さん 2009/09/25 00:35:17
- 毎度訪問ありがとうさんです・・・
- みにくまさん
いつもいつもマイページ訪問ありがとさんです、
このたびは国宝。彦根城。。。。いやー堪能しましたよ!
この城は是非行きたいと思っていたので、よくわかりましたよ、
全部みるとなるとかなり気合を入れなくてはあきませんなー
特に、”波打つ壁”は、四国高松城にもあったので懐かしく
拝見しましたよ、
いやー、勉強になりました。ありがとさんです・・・・
from Elliott-7
- みにくまさん からの返信 2009/09/25 00:58:06
- RE: 毎度訪問ありがとうさんです・・・
Elliott-7さん、こんばんは〜。
こちらこそ、度々訪問いただき、ありがとうございます<(_ _)>
彦根城旅行記、先ほどやっと完成しました(^o^)/
いろいろとデータを書き込むのは大変な作業ですが、城は私の好きな題材なので、それほど苦にならなく作成できました。
この後、引き続き2か所のお城を攻略していきますので、お楽しみに〜(*^_^*)
今回の旅行で、日本にある国宝4天守のうち3つを攻略したので、最後の松本城も、攻略したいところですが(ちょっと遠いのが難点・・)
それ以外にも日本にはたっくさんのお城がありますね〜。
行きたいところもいっぱいです。
どうして城って、行くとこんなにワクワクするんですかね〜(*^_^*)?
では〜(^o^)/
-
- KazuKotaさん 2009/09/23 18:07:06
- 彦根城 行ってみたい城の一つです。
- みにくま さん
こんにちは、
彦根城は、篤姫で取り上げられ、井伊直弼と
関連が有るんだと思って、いつかは、行ってみたい
お城の一つでした。
引き続き、旅行記作成を楽しみにしております。
ではでは
- みにくまさん からの返信 2009/09/23 20:10:39
- RE: 彦根城 行ってみたい城の一つです。
KazuKotaさん、こんばんは〜。
彦根城は井伊直弼に関係が深いお城ですね。
篤姫で取り上げられたんですか〜、私たちはNHKの大河ドラマをほとんど見ていないので分かりません・・。
現在彦根城は、世界遺産への登録申請をしているみたいなので、もし登録されれば、観光客がたくさん訪れる人気観光地になるかもしれませんね。
では〜旅行記作成頑張ります(^O^)/
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