2010/10/01 - 2010/10/01
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ムッシュさん
【彦根城見学】フォト21枚目まで
井伊家の居城、国宝の彦根城を訪問。ひこにゃんには会えませんでしたが、彦根城から琵琶湖の眺めは素晴らしく、殿様気分を味わえました。
【旧東海道歩き】
高宮宿 第六十四宿(日本橋より476km)。
多賀大社の鳥居前町で宿中央に一の鳥居が立つ。宿内人口は本庄宿に次中山道第二。古い家並みが残り、ベンガラ格子や卯建を持つ家が多くみられる。
愛知川宿 第六十五宿(日本橋より483km)
無賃橋が架けられていた愛知川の東岸にある宿。
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彦根城は、琵琶湖岸近くに位置し、その外堀は琵琶湖に繋がっていて、船の出入りが可能でした。
地図の左上は、琵琶湖です。正方の外堀の中に城郭が立つ。
城郭は、次のフォト参照願います。 -
こちら彦根城閣の平面図です。真ん中の帯状の黄色部分が城内です。
【彦根城】
この彦根城は、慶長5年(1600)井伊直正が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田光成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601)上野の国高崎城から佐和山城へ移ってきた。
その後直正は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死し、慶長8年(1603)その子直継が父直正の遺志をうけて彦根城の築城に着手した。時の将軍家康は特に奉行を差し向け、7ヶ国12大名にも応援させ、元和8年(1622)現在の彦根城が完成、築城をはじめてから実に20年の年月を要したもので、城地面積約0.25Km2(75,800余坪)周囲約4Km(1里)高さ約50mの彦根山に築城した平山城である。
昭和26年(1951)に彦根城天守閣をはじめ天秤櫓・太鼓門櫓・三重櫓・佐和口多門櫓を重要文化財に指定され、さらに同27年(1952)には天守閣を国宝に、同31年(1956)には彦根城一帯を特別史跡に、同38年(1963)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。また、新日本観光地百選の一つとして琵琶湖八景「月明彦根の古城」として知られている。 -
中堀を背にたつ時計塔。
文字盤が旧漢字です。城下町らしい。
中堀の沿道にたつ松並木は、47本あったことからいろは松と呼ばれる。 -
【琵琶湖八景の碑】
一.暁霧(ぎょうむ) 海津大崎の岩礁 二.涼風(りょうふう) 雄松崎の白汀
三.煙雨(えんう) 比叡の樹林 四.夕陽(ゆうよう) 瀬田石山の清流
五.新雪(しんせつ) 賤ヶ岳の大観 六.深緑(しんりょく) 竹生島の沈影
七.月明(げつめい) 彦根の古城 八.春色(しゅんしょく)安土八幡の水郷 -
内堀にかかる表門橋。これから彦根城に登城します。
この石垣を抜け、受付に行きます。
【表門橋】
明治初期の写真や当時の文献を参考に、3年の歳月をかけ平成16年2月、現代に蘇った。(観光案内) -
琵琶湖八景の記念碑
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表門橋から内堀を眺める。掘割が美しい。ここは、桜満開時期は、水に映り大層な美景でしょう。
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本日は、ゆるキャラ”ひこにゃん”は休暇です。
資料館前広場には、ひこにゃんの立看板がお出迎えしてる。
【表御殿】
ここは彦根藩主の藩庁であったところでここで藩の政治がおこなわれ、また藩主が日常生活をおくりました。 -
上の方に城が覗けてます。
【登り石垣】
彦根城は全国的にも珍しい「登り石垣」が5ヶ所に築かれている。石垣に向かっつて左側が溝状に窪んでいるのは「竪堀」で、登り石垣とともに斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれた。かつてこの石垣の上にはさらに瓦堀が乗っていた。登り石垣は豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮出兵の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城」みられ城郭遺構です。日本では洲本城(兵庫県)や松山城(愛媛県)など限られた城にしか見ることはできません。(説明板より) -
【廊下橋】といわれ、非常時には落とし橋になる。これは鐘の丸と本丸を行き来できる橋。
【天秤櫓(重要文化財)】
この櫓は豊臣秀吉が創築した長浜城大手門を移築したといわれるもので、丁度天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばた。この形式はわが国城郭のうち彦根城ただ一つといわいる。嘉永7年(1854)に中央部から西方の石垣を足元から積み替えるほどの大修築があり、東半分の石垣がごぼう積みであるのに比べ西半分は落し積みになっている。(説明版より) -
左右に天秤櫓を有する門である。日本の城郭でこの形式のものは彦根城だけである。
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向こうの山は、石田光成の居城、佐和山です。
東軍(徳川方)が勝利し、井伊家は佐和山城を貰い受けたが、彦根の湖岸に下りて、彦根城を建立した。 -
【彦根城】
琵琶湖八景のひとつ。
いくつもの屋根様式を巧に組合せた美しい曲線の調和をみせ、どっしりとした牛蒡(ほう)積と呼ばれる石垣の上に、三階三重の天守がそびえてる。
緑の小高い丘に三層白亜の天守をいだき、二重の濠に囲まれた城郭は彦根藩井伊家35万石の居城として立つ。当時のままの姿を残してる。
元和8年(1622年)に20年の歳月をかけて完成。唐破風、千鳥破風、火灯窓をつけた華やかな天守は国宝、彦根の象徴。
石垣と内濠、中濠を持ち、城郭が往時のまま現存する全国でも数少ない名城として名高い。本丸から見上げる天主閣は堂々としてる。
【天守】
3層3重の天守。規模は比較的小振りだが、屋根は「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」を多様に配しており、2階と三階には「花頭窓」3階には高覧付きの「廻縁」を遡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せている。この天守は大津城(大津市)の天守を移築したものと伝えられている。(説明板) -
天主閣の最上階へは、今では考えられないほどの急階段。これを上り切ると
琵琶湖が眺めれる。 -
遠方は伊吹山
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天主閣の石垣を見上げる。
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天主閣から降りてきて、西の丸から見た天主。
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【鳳翔台(茶室)】
玄宮園内の築山に建つ趣ある建物。藩主が客人をもてなすための客殿。 -
【玄宮園】
楽々園の東隣に造られた井伊家の旧下屋敷の大名庭園。名前の興りは、唐の玄宗皇帝の離宮にならったもので、その造りは近江8景を取り入れたということから八景亭ともいわれる。
池、泉回遊式の優雅な庭園で、四季折々の風情があり、池越しに眺める彦根城は絵を見ているようです。
正にこの写真です。茶室越しで、池面に映っている。
【玄宮園】
大池泉回遊式の城郭庭園で延宝5年(1677)第4代藩主井伊直興が造営した。
中国湖南省洞庭湖の瀟湘八景にちなんで選ばれた近江八景や、竹生島・沖の白石になぞらえて築庭されたもので、中国唐時代の玄宗皇帝の離宮からその名をとった。江戸時代初期の作庭を今に伝える名園で、昭和26年に国の名勝に指定されている。(説明板より)
玄宮園は、四代藩主井伊直興が延宝五年(1677)に、中国の湖南省洞庭湖(どうていこ)の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景、竹生島や沖の白石などをを模してつくられた約6300坪の大池泉回遊(だいちせんかいゆう)式の旧大名庭園である。
大きな池に突き出すように臨池閣(りんちかく)が立ち、築山には鳳翔台(ほうしょうだい)がある。この鳳翔台は、彦根藩の賓客をもてなすための客殿で、ひなびた趣のある建物 である。 -
国宝彦根城近くの金亀公園(こんき)に立つ【井伊直弼像】
井伊直弼は彦根生まれ、その活動は、「花の生涯(舟橋聖一作)」です
江戸時代末期、開国を強力に推進し、桜田門外の変に倒れた彦根藩主として大老を全うした。
「開国を英断し、大偉業成し遂げた」とある。
勅許を得ずして日米条約を結んだことで、攘夷派の急先鋒だった水戸藩らの憤激を買い、暗殺された。
人間的には、居合や茶道に通じ、家督15万両を領民に分配した名君である。 -
NHK大河ドラマ第一作として披露された
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彦根城天守
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入場券
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お城の案内図(パンフレットより)
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「あふみの海磯うつ波のいく度か
御世にこころをくだきぬるかな」
【井伊直弼の歌碑】
*安政7年(1860)正月(同年3月18日万延と改元)直弼は正装姿の自分の画像を御用絵師狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて井伊家菩提寺の清凉寺に納めたと伝えられる。
*この歌は琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように世のため幾度となく心を砕いてきたことを幕府大老として国政に力を尽くしてきた心境をあらわしている。直弼はこの二カ月後の3月3日、江戸城桜田門外で凶刀に倒れた。(説明板) -
ここから中山道街道歩きに戻ります。
高宮宿に向かいます。 -
【木之本分身地蔵(大北の地蔵さん)】
お地蔵様は石造が一般的であるが、この大北地蔵はめずらしく木彫りに彩色されたものである。側には明治三十三年四月の記で、「木之本分身地蔵菩薩」と書かれた石柱があり、木之本の淨信寺にある眼病のご利益で名高い木之本地蔵の分身といわれている。しかし、その由来等についての古文書は残念ながら不明である。
高宮街づくり委員会 -
【高宮神社】
布惣跡の向いに高宮神社があります、高宮宿の氏神で、縁結び、夫婦和合、開運厄除けの神です、明治三年(1870年)の大水害で、多くの旧記が流され沿革は殆ど判っていません、拝殿と本殿の間に正徳三年(1713年)の建立と思われる古い石灯篭を残しています。
高宮神社の春期例大祭は高宮の太鼓祭として知られ、毎年四月に行われます、高宮十七町より一町が神輿、八町が太鼓、全町が鉦(かね)を繰り出します、なかでも胴回り6メートルの大太鼓は圧巻です。
随神門横の笠砂園に嘉永三年(1850年)建立の芭蕉句碑「をりをりに 伊吹を見てや 冬籠」があります。
この句は芭蕉四十八歳の時、伊吹山麓にあった大垣藩士で門人であった宮崎千用(せんよう)宅に立ち寄った時に詠んだ句です、 ここで冬を迎える為、雪囲いを立て、風除けを作って冬籠り(ふゆごもり)をしました。
【高宮神社】
明治三年の大洪水で、多くの旧記が流され沿革は殆ど判っていない。拝殿と本殿の間には正徳三年(1713)のものと思われる古い石灯篭が残っている。
また、「高宮の太鼓祭」として知られる春期例大祭は毎年四月に行われ、高宮十七町より一町が神輿、八町が太鼓、全町が鉦を曳く。なかでも胴回り6メートルの大太鼓は圧巻である。
高宮街づくり委員会 -
【多賀大社一の鳥居】
高宮鳥居前交差点の左に多賀大社一の鳥居が聳えています、多賀大社はここから南東約3.7kmの地に鎮座しています、多賀大社は平安時代に編纂された延喜式に記載された古社です。
この一の鳥居は寛永12年(1635年)建立の石造明神鳥居です、多賀大社社殿が元和元年(1615年)火災で焼失し、寛永年間(1624~45)に再建され、その際に建立されたものといえます。
多賀大社の祭神は伊勢の天照大神の親神にあたるところから「お伊勢に参らばお多賀に参れ、お伊勢はお多賀の子でござる」と謡われ、延命長寿の神、縁結びの神として崇敬をあつめました。
秀吉は母大政所の延命を祈願し、春日局は徳川二代将軍秀忠の病気平癒を祈願し、多賀信仰が盛んになり「伊勢へ七度、熊野へ三度、お多賀さんへは月詣り」と大層賑わいました。
【多賀大社鳥居(一の鳥居)】滋賀県指定有形文化財(昭和40年8月9日指定)
多賀大社から西方約四キロメートルの表参道の面して位置する石造明神鳥居は、同社の旧境界域を示している。
多賀大社の創立は、奈良時代に完成した「古事記」や平安時代に編纂された「延喜式」にも見られる。
「一の鳥居」は社蔵文書に「寛永十二年三月鳥居着工」の記述があり、社殿が元和元年(1615)の火災の後、寛永年間に造営されているので、この時に建立されたものと考えられる。
この鳥居は円柱を内転びに建て、頂上に反り返り付きの島木とその上に笠木をのせ、やや下がったところに貫を通して、中央に額束を据える明神鳥居形式で、現存する鳥居の中で最も多い形式の一つである。
県下の石造鳥居としては、構成する部材は太く、均整がとれて古式を示し、また、最大のものであって、建立年次が明らかな点で貴重な遺構である。
平成十三年三月 滋賀県教育委員会
柱の右に見える常夜灯
【常夜燈〕
大鳥居の脇に高さ6m、底辺の一辺3.3mの正方形をなす大きな石造りの常夜燈である。
燈明を灯す小窓までは、石造りで十三段の階段がついている。
常夜燈は、暗くなった多賀道に明かりを灯し、道行く人々や多賀大社に参詣する人々が安心してお参りできるための、今の街灯にあたる。
古くは一対で建立されていた。
高宮街づくり委員会 -
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小林家住宅前に【俳聖芭蕉翁旧跡紙子塚(かみこつか)碑】があります。
貞享元年(1684年)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は粗末な扱いを受け、自分が横になっている姿の絵を描いてこの句「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」をしたためました。
紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は芭蕉と知ると新しい紙子羽織を贈り、その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて紙子塚と命名しました。
庭に翁が着ていた紙子羽織が埋めてある。 -
【浄土真宗本願寺派三光山円照寺】
明応七年(1498年)高宮氏の家臣北川九兵衛が剃髪して仏門に入り、仏堂を建立したのが始まりです。
境内に家康腰懸石があります、慶長十九年(1614年)大阪冬の陣に向かう、家康は駿府を出立し、佐和山から永原に向かう途中、ここで休息しました。
元文五年(1740年)の火災で本堂は焼失しましたが、その後、九年の歳月を費やし再建されました。 -
【むちん橋】
徒歩渡しで有ったが、架橋により無料で通行できた。近江商人の募金で架けられたという。 -
【むちん橋の地蔵堂】
宿並を進み犬上川を無賃橋(現高宮橋)で渡ります、橋手前の右手に天保三年(1832年)建立のむちん橋碑があります、碑には「むちんはし」「無賃橋」と刻まれています。
碑の奥にむちん橋地蔵尊が安置されています、傍らにむちん橋地蔵尊由来記があります。
【むちん橋地蔵尊由来記】
昭和五十二年(1977)むちん橋の橋脚改修工事の際、脚下から二体の地蔵尊が発掘された。
近隣の人々と工事関係者は、これこそ江戸時代天保三年(1832)最初に架橋された「むちん橋」の礎の地蔵尊に違いないと信じ、八坂地蔵尊の御託宣を得て橋畔を永住の地とし、お堂を建立「むちん橋地蔵尊」と名付けてお祀することにした。
以来、河川・交通安全並びに町内の守り本尊として多くの人達の信仰を集めている。
平成十一年八月建之 むちん橋地蔵尊奉賛会 -
著作権フリー作品「木曽街道六十九次」の画像を使用してる。
【歌川広重 木曽海道六十九次 高宮】
通常は水無川。川を歩いて渡る風景を描いている。雨になれば、人取り川に変わる。
天保の初め、彦根藩はこの地の富豪藤野四郎兵衛、小林吟右衛門、馬場利左衛門等に架橋を命じました、彼等は一般の人々から浄財を募り、天保三年(1832年)に竣工させ、渡り賃を取らなかったところからむちん橋と呼ばれました。
広重は高宮として、松並木を左右に配置し、西から見た渇水期の犬上川、そして橋脚だけのむちん橋を中央に描いています。
その先には常夜燈が立ち、高宮宿の宿並みが続き、遠景に伊吹山を描いています。
画面の手前に二人の婦人を描いています -
【彦根市中山道のモニュメント】
彦根市モニュメントがあります、三本の石柱の上に麻を背負った婦人、菅笠を被った旅人、そして近江商人の像が乗っています。
彦根市から出る側にはまたおいでやす、入る側にはおいでやす彦根市と刻まれています。 -
愛知川宿と高宮宿の中間にある【石畑(愛の宿)の道標】
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【石畑一里塚碑】
中山道一里塚の郷石畑碑があり、一里塚が縮小されて復元されています、石畑の一里塚跡です、江戸日本橋より121里目です。
並びに石畑(間の宿)碑があります、石畑は高宮宿と愛知川宿の中間に位置し、間の宿として発展し、立場茶屋がありました。
石畑の地は文治元年(1185年)屋島の合戦で弓の名手として名を馳せた那須与一の次男石畠民武大輔宗信が那須城を築き、この地を支配しました。 -
豊郷駅入口近くにあるのが、【伊藤忠兵衛翁碑】の有る公園です。
隣には、伊藤長兵衛家屋敷跡もある。これらは、みんな現在の伊藤忠商事と関係があります。
伊藤長兵衛家屋敷跡です、五代目長兵衛は紅長で商品の仕入に携わり、全国への行商は弟の初代伊藤忠兵衛が受け持ちました。
若林長次郎は十六歳でこの伊藤長兵衛商店に丁稚奉公入りし、二十二歳で六代目伊藤長兵衛(初代伊藤忠兵衛の兄)の養子となり、長兵衛の次女と結婚し、七代目伊藤長兵衛を襲名しました。
長兵衛は伊藤忠商事を合併し、丸紅商店を設立して初代社長に就任しました、後に私財と自宅敷地の大部分を寄付して豊郷病院を開設しました。 -
【伊藤忠兵衛屋敷跡】
今は伊藤忠兵衛記念館になっています、伊藤忠商事、丸紅の創始者初代伊藤忠兵衛が暮らし、二代目忠兵衛の生家です。
明治三十六年(1903)初代が他界すると、八重夫人は十七歳の次男を二代目忠兵衛に指名するも、役職に就かせず丁稚扱いで一から叩き上げました。
【七代目(1868~1941) 伊藤長兵衛翁の偉業】
犬上郡河瀬村大字犬方の若林又右衛門の二男として生まれ、幼名は長次郎。16歳で伊藤長兵衛商店にはいり、22歳のとき六代目伊藤長兵衛の養子となり、1892年その次女やすと結婚、その翌年七代目長兵衛を襲名した。そして先代が創業(1872)した伊藤長兵衛商店を順調に発展させ、1921年これに伊藤忠商店を合併して株式会社丸紅商店を設立し、初代社長に就いた。
翁は仏教の信仰心厚く、人間愛また深く、正義・公正・質素・倹約を生活信条として企業家としても成功し、1925年自ら巨額の浄財と敷地の大部分を寄付して豊郷病院を創設した篤志の人としても世の尊敬を集めた。
この駐車場はそのご子孫の所有地であったが、1997年に財団法人豊郷病院へ寄付されたものである。 財団法人 豊郷病院 -
【江州音頭発祥地碑】(千樹寺)
江州音頭は今から400年前の織田信長の兵火で燃えた観音堂を作り直した時に村人の楽しみとして、また仏教を広める手段として村人を集めて手踊りをさせ、歌はお経の中から面白くアレンジしてみんなで踊ったんだって。
その後毎年七月一七日には盆踊りとして周りの村の人達も巻き込んで流行。
【観音堂(千樹寺)と盆踊り 江州音頭発祥の起源】
天正十四年(西暦1586年)今から四百五年前、藤野太郎衛門常実が兵火(永禄十一年五月七日織田信長の)後の観音堂を再建して、其れ竣成せし、遷仏式を挙しが、旧暦七月十七日であった。
当日余興にと、仏教に因む造り人形を数多く陳列し、又仏教弘道の一手段として、地元の老若男女を集め手踊りをさせ、又、文句は羯諦羯諦波羅羯諦(かっていかっていはらかってい)。波羅僧羯諦(はらそうかってい)。等(時の住職根與上人)経文の二、三句を節面白く歌いつつ、手振り、足振り揃えて、多くの人で円陣を作り踊らせ、来観の群衆もあまりの楽しさに参加して踊ったと伝えられる。
その後、毎年七月十七日、盆踊りを催し、枝村観音の踊りは遠近の人々で益々多くなった。
弘化三年、藤野四郎兵衛(良久)は、観音堂を改築して、その遷仏供養に古例の踊りを催せしが、特にこの時、種々の花傘とか華美なる扇子を持ちて踊らせ、音頭(音頭取・桜川大竜)も陣新なる文句を作り、益々好評を博し、その後他村の社寺は勿論、他共同の祝事には此、手踊りを催すこととなり、今では、毎年八月十七日観音盆には、扇踊り、日傘踊りを踊り好評を博している。
竣工 平成三年十月 -
【愛知川宿 又十屋敷・豊会館】
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【群分地蔵堂】
宿場北入口に祀られた境界の目印
郡分地蔵堂前に愛知川宿北入口標石があります、愛知川宿に到着です! -
歌川広重の画「恵智川(愛知川)」の碑
愛知川宿の入口です。
愛知川は豪雨となると「水無川」一転「人取り川」にかわる。 -
愛知川は恵智川、越知川、愛智川とも書かれ、地名は宿の西外(はず)れを流れる愛知川に由来しています。
愛知川は中世東山道時代からの宿駅で、近江麻布の生産及び集散地として栄え、東海道土山宿への御代参街道を控え、大いに賑わった宿でした。
天保14年(1843年)の頃、愛知川宿の宿内家数は199軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠28軒、宿内人口は929人で宿長は五町三十四間(約607m)でした。 -
【広重 木曽海道六拾九次之内 恵智川(愛知川)】
文政十二年(1829)愛知川宿の成宮弥治右衛門忠喜(ただよし)が四人の同志とともに、彦根藩に架橋を申し出て、天保二年(1831))に竣工しました。
この橋は渡り賃を取らないところから無賃橋(むちんばし)と呼ばれました。
橋入口の標示には「むちんはし はし銭いらず」と描かれてる。
成宮家には西園寺藤原実丈(さねたけ)の歌「旅人の あわれみかけて むちんばし ふかき心を 流す衛知川(えちがわ)」が家宝として残されています。
広重は恵智川(愛知川)として、この無賃橋を画面中央に描いています。
画面左手の遠景に西国三十三所のうち三十二番目の札所観音正寺(かんのんしょうじ)がある観音寺山、無賃橋袂の標柱には「むちんはし はし銭いらす」と記され、橋上には天秤を担ぐ近江商人を描いています。 -
【愛知川宿の本陣跡】
現在は繊維会社の倉庫。
日本生命愛知川営業部の辺りが西沢本陣跡です、建坪百四十二坪で門構玄関付でした、皇女和宮三日目の宿所となりました。 -
【八幡神社前の鳥居と高札場跡】
八幡神社本殿は、寛文11年(1671年)に大阪の大工八衛門が宮屋甚兵衛に建てさせた。向拝には湖東地方にはめずらしい唐破風を設けている。
養老年中(717~23)の創建です、聖徳太子がこの地で物部守屋との戦いに際し、身の安全を祈願し、神託により当社に身を潜めて難を免れたといいます。 -
【料亭”竹平楼”】
宝暦8年(1758年)創業、230年を誇る老舗の料理屋。
明治11年、岩倉具視、大隈重信、井上馨、山岡鉄舟らを隋員とした明治天皇巡行の小休所となり、座敷に玉座が残されてる。
元旅籠竹の子屋です、建物は文化庁登録有形文化財で、今は鯉のあめ煮の名店です。
四代目平八の時に竹の子屋の屋号から「竹」と平八から「平」をとり竹平楼と改称しました。 -
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【愛知川常夜灯】
祇園神社境内にある高さ2mあまりの堂々たる常夜灯 -
近江八幡に向かう標識。
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五個荘のそばやさん。
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五個荘のそばやさん。
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五個荘のそばやさん。
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