2009/08/30 - 2009/09/30
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宮本 武蔵(みやもと むさし1584−1645年)は、江戸時代初期の剣豪で兵法家としても書画家としても逸材だった。
武蔵は、生涯で60回以上真剣勝負して敗れなかったといわれる。21歳の武蔵は京都の名門吉岡道場で試合し門弟6人を倒し当主の清十郎、弟の伝七郎をも倒した。面目をつぶされた吉岡一門は、清十郎の子、幼い又七郎を名目人に立て、弓、鉄砲も携えた70人以上の門弟たちで遺恨試合に臨んだのが1604年の「京都一乗寺下り松(さがりまつ)の決闘」だ。
武蔵は「一乗寺下り松」には背後の詩仙堂がある山腹から山道を駆け下り、一気に幼い名目人を斬り、混乱する吉岡一門を倒しながら逃げ去ったとされる。一乗寺の決闘は、武蔵の著述にはなく1776年に熊本藩の細川家の筆頭家老で八代城主、豊田景英が著した宮本武蔵の伝記・二天記(にてんき)に「京洛東北の地 一乗寺藪ノ郷下り松ニ会シテ闘フ」と記されている。
吉川英治(よしかわ えいじ1892−1962年)の「宮本武蔵」では下り松にくだる途中、八代神社で神頼みを思い立つが「さむらいの味方は他力ではない。死こそ常常の味方である。さむらいの道には、たのむ神などない」と神仏に頼ろうとした自分の弱さを悟り、自戒して決闘に向かい見事に一人で多勢に勝った。吉川英治は二天記を原資料の一つとしており創作的な部分もかなりあるだろうが、武蔵が敵の裏をかいてでも勝負には決して負けない剣豪であったことは間違いない。
神社の境内には決闘を見下ろしたであろう「下り松」が保存され決闘時の21歳の宮本武蔵像がある。
旧白川道の四つ角の八大神社境内地・一乗寺下り松には「宮本 吉岡決闘之地」と刻まれた石碑と四代目の一乗寺下り松の木が立っている。
一乗寺下り松は京都から比叡山、近江国へ至る交通の要衝であり1336年に楠木正成(くすのき まさしげ)が足利軍と対峙して、陣を構えたことを伝える石碑もある。
また一乗寺下り松には逸話が多く残っており「敦盛遺児伝説」では一の谷で戦死した平 敦盛(たいら の あつもり)の遺児が松の下に捨てられているのを法然上人が拾い上げ、立派な僧に育てあげたという。16歳の若さで熊谷 直実(くまがい なおざね)に討たれた平敦盛を哀れに思う人たちが語り伝えたものだろう。一乗寺下り松にまつわる歴史は興味深い。
(写真は現在の一乗寺下り松)
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八大神社参道の光景。
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八大神社参道の光景。
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八大神社参道の光景。
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八大神社参道の光景。
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八大神社参道の光景。
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一乗寺周辺の地図。
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八大神社参道の光景。
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八大神社参道の光景。
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八大神社参道の光景。
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八大神社参道の光景。
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四代目の一乗寺下り松と「宮本 吉岡 決闘之地」の石碑。
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四代目の一乗寺下り松(さがりまつ)。
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四代目の一乗寺下り松(さがりまつ)。
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「宮本 吉岡 決闘之地」の石碑。
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四代目の一乗寺下り松(さがりまつ)。
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一乗寺下り松周辺の光景。
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一乗寺下り松周辺の光景。
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一乗寺下り松周辺の光景。1336年、楠木正成が足利軍と対峙(たいじ)して、この地に陣を構えたことを伝える碑。
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一乗寺下り松周辺の光景。
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八大神社境内の光景。
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八大神社境内の光景。
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八大神社境内の光景。
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八大神社境内の光景。
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八大神社境内の光景。
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八大神社境内の光景。
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八大神社境内の光景。
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八大神社境内の光景。
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八大神社境内の光景。
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八大神社境内の光景。
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八大神社境内に掲示されている映画「一乗寺の決闘(1964年)」の写真。
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八大神社の拝殿。
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八大神社境内に掲示されている映画「一乗寺の決闘(1964年)」の写真。
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八大神社境内の光景。
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八大神社境内に掲示されている映画「一乗寺の決闘」の写真。
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八大神社境内の光景。
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八大神社境内に掲示されている映画「一乗寺の決闘(1964年)」の写真。
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決闘時の21歳の宮本武蔵像。2003年に武蔵の決闘から四百年を記念して建立された。
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宮本武蔵像の説明。
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決闘時の21歳の宮本武蔵像。2003年に武蔵の決闘から四百年を記念して建立された。
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一乗寺下り松(さがりまつ)の古木。
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一乗寺下り松(さがりまつ)の古木の説明。宮本 武蔵(みやもと むさし1584頃−1645年)の決闘の時代の前から1945年頃まで生きていたそうだ。
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一乗寺下り松(さがりまつ)の古木。
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一乗寺下り松の古木の説明。
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八大神社に隣接する詩仙堂。 武蔵は「一乗寺下り松」には背後の詩仙堂がある山腹から山道を駆け下り、一気に幼い名目人を斬り倒したとされている。
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八大神社に隣接する詩仙堂。
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八大神社周辺の地図。
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詩仙堂周辺の光景。
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詩仙堂周辺の光景。
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詩仙堂の説明。
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詩仙堂周辺の光景。
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一乗寺不動明王。
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一乗寺不動明王。
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野仏庵。写真の門は西園寺公望(さいおんじ きんもち1849−1940年)が新撰組に追われて京都府丹波町に身を隠した住まいの門を移したものとのこと。
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野仏庵の説明。
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野仏庵。写真の門は西園寺公望(さいおんじ きんもち1849−1940年)が新撰組に追われて京都府丹波町に身を隠した住まいの門を移したものとのこと。
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この旅行記へのコメント (2)
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- 三昧さん 2009/09/11 02:53:17
- 東映全盛期の頃の錦之助の武蔵ですね。
- さすらいおじさんさん、今晩は
勉強になりました。あの松は代が変われど、吉岡一門だけでなく いろんな
エピソードを見守ってきた松なんですね。
1955年の作品なんですか!私も生まれていましたが、子供心に3本立ての東映の映画館で見たのを記憶しています。
この写真を見ていると、左下の写真に中村錦之助、右上の写真に佐々木小次郎役の高倉健が写ってますね。時代劇は京都撮影所、現代劇は東京の大泉撮影所だったと思います。高倉健は、現代劇でしたが宮元武蔵の佐々木小次郎役でしか時代劇には出演していなかったと思いますが、どうでしょうか?
それにしても、懐かしい顔ぶれですね。入江、東山、木村、花沢、東野・・・岡田茉莉子がお通役と思っていましたが、あれは三船敏郎の東宝映画でしか?
- さすらいおじさんさん からの返信 2009/09/11 10:17:01
- RE: 東映全盛期の頃の錦之助の武蔵ですね。
- 黒鯛釣師さん
宮本武蔵 一乗寺の決闘のコメントをありがとうございます。
邦画にお詳しくて驚きました。出演者一人一人をご存知なのですね。私も子供の頃3本立て映画を見て育った世代ですが、出演者の顔と名前が一致しません。
お教えいただいた出演者で確認すると1955年版ではなく1964年版でした。1955年の「宮本武蔵 一乗寺の決闘」は宮本武蔵−三船敏郎、佐々木小次郎−鶴田浩二、お通−八千草薫、朱美−岡田茉莉子でした。
1964年版は宮本武蔵−中村錦之助 、佐々木小次郎−高倉健、お通−入江若葉 、朱実−丘さとみ でした。
旅行記も修正しました。ありがとうございます。
これからもお教えいただければ嬉しいです。よろしくお願いします。
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