2009/07/02 - 2009/07/02
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ぼすとんばっぐさん
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日本美術史や日本建築史を紹介する本に、ほぼ登場すると思われる揚屋建築の‘角屋(すみや)’。粋なデザインがあちこちに施されていて面白い!また、円山応挙や与謝蕪村の襖絵、池大雅の書も見ることが出来ます(レプリカではなく、本物)。
昔から、何故か建物を見学すると楽しくてハジケます。(かといって詳しい知識があるわけではない。)
前から行きたいと思いながら、なかなか足が運べませんでしたが、今回、ようやく行ってきました。
●角屋もてなしの文化美術館
http://www16.ocn.ne.jp/~sumiyaho/
通年OPENしているわけではなく、会期は限られています。館の方の話を聞いていると、桜の時期に来るのが風情があって良い気がしました。一度見学する価値はあると思うのですが・・・ただし、ただし・・・見学料金は相当高いで〜す(泣)(この見学料が、行くことを躊躇させていた。)
※下記詳細については、角屋のパンフレットとHP、館の方のお話を参考にして記載しました。
-
角屋のすぐ近くにある石碑「東鴻臚館跡」。
この島原付近は、平安時代に栄えた東鴻臚館跡になるらしい。
東鴻臚館跡は、渤海国の使節に限られた一流の海外交易施設で、平安時代の由緒ある接待の場が、時が流れて江戸時代に、島原のもてなしの場として蘇ったことは意味深いという内容のことが書かれている。
ちなみに、明治以降、歓楽街は業務内容で「花街」(歌や舞を伴う遊宴の街。歌舞練場がある。)と「遊廓」(歌や舞、宴会なしの歓楽街)の二つに分けられ、島原は「花街」になるとのこと。
また、文化活動も盛んで、江戸中期には「島原俳壇」がここで形成される。 -
角屋の前にある石碑
「長州藩志士 久坂玄瑞の密議の角屋」。
幕末になると、多くの勤王の志士たちが角屋を利用し、また軍用金調達の為、豪商たちをここに招いて密議をしていた。
久坂玄瑞(吉田松陰の義弟)もそのうちの一人で、度々仕向けられる暗殺者の目を避けながら、角屋で潜行密議をしたらしい。(後に「蛤御門の変」で壮絶死。)
そして、この角屋は新撰組も良く利用していたとのこと。敵対する者同士がひとつ屋根の下に・・・というコワイ状況も度々あったよう。(店側は鉢合わせにならないように気を配ったのだそう。) -
角屋は、島原開設当初から残る唯一の揚屋建築として、
1952年に国の重要文化財に指定。
美術館としては、1998年4月からOPEN。
‘揚屋’とは、現在の料理屋、料亭にあたるものといわれる。太夫や芸妓は揚屋では抱えない。‘置屋’というところが抱え、そこに派遣依頼をして宴会場へ呼ぶ。
この辺りのシステムがどうこう、ということはさておき、とにかく建物として一見の価値があると思う。 -
角屋の表側。
揚屋建築の特徴は、
◎大きな台所(庫裏と同規模)が備わっている。
◎大きな座敷と、その座敷に面した広い庭を備え、更にその広い庭には必ず茶席を設けている。
これらが必要とされるので、中はかなりの広さ。 -
当時の角屋の入口。
島原に角屋が建てられたのは1641年。
この1641年は、この花街が官命により、六条三条町からここ島原へ移転した年。つまり、この花街自体は移転のずっと前、豊臣秀吉の公許を得た1589年から別の場所で栄えていて、角屋の歴史も16世紀末頃から始まっている。
※ちなみに島原という名前はニックネームのようなもので、ここの正式地名は「西新屋敷」。移転命令が急で、その際の騒動が島原の乱に似ていたことから「島原」と呼ばれることになったとのこと。
島原で300年以上、それ以前からは400年以上の歴史を持つ角屋。その間、多くの著名人たちがここを訪れたらしい。
与謝蕪村、池大雅、円山応挙、司馬江漢、歌川広重、歌川国貞、桂小五郎、久坂玄瑞、坂本竜馬、伊藤博文、大隈重信、西郷隆盛、新撰組など・・・。
この入口は今は封鎖され、美術館としての入口が左側に別に設けられている。 -
中へ入り、内側から見た当時の角屋の入口。
入口前に掛けられているのは、角屋の暖簾。
本来は中戸口(内用の玄関。後で出てくる台所用入口。)に掛けられるものだが、観覧の為にこの場所に展示。 -
角屋の家紋は「蔓三つ蔦(つるみつづた)」。
この暖簾は2008年に新調したものだが、‘奈良晒(ならさらし)’という伝統技術を持ってつくられたとのこと。
左上の木の部分には、駕籠が引っ掛けられていたらしい。 -
そして、上の写真すぐ左の柱にある新撰組の「刀傷」痕。
新撰組がつけた刀傷は、2階の青貝の間でも見られる。ここで乱闘があった際の傷跡ではなく、‘はらいせ’の傷跡であったようだと、館の方話していた。
当時の角屋にとっては大迷惑だったと思うが、今はこの傷跡を見に多くのファン来るらしいので、後世で償いをしている!? -
当時の入口を入ってきた客人は、右手にある玄関から座敷へと入る。
座敷の中は後ほど。
鮮やかな角屋の赤壁は、社寺の書院や客殿に使用された高級赤壁と同じものらしい。ここは並みの建物ではない、ということを示したのではないかと、館でもらったパンフレットには書かれている。
ここは、幕末の有名人が敵味方入り混じって密議をしたところ。言い換えれば密議が出来たところ。客からの信用性も高く、スタッフの教育レベルも相当高かったに違いない。先ほどの入口を入り、ここで宴会をすること自体が、外から見ると格上の別世界・・・という自覚とプライドが高級赤壁にも表れているということかな。 -
当時の入口正面には、台所へ通じる中戸口が見える。
先ほどの家紋入りの暖簾は、当時はこの入口に掛けられていたらしい。 -
中戸口前にある、家紋入りの用水桶。
-
そして、中戸口前には2本の「槐(えんじゅ)」の木が植えられている。
槐は縁起の良い木といわれているらしく、縁起の良い門をくぐる、という発想で2本サイドに植えられたのかな? -
それでは中へ入って、ひとまず先に台所を見学・・・と、その前に、この入口の構え、どこかで見覚えが・・・?
そう、これは鳥居の形。ここでも縁起を担いでいる。 -
台所の入口前に置かれている「三宝荒神」。
台所の神様を祀る飾り竈(かまど)らしい。 -
台所入口にある家紋入りの衝立。
-
台所の入口と調理場の様子。
揚屋の台所はとにかく広い!
ここで、まず50畳。
外から見た赤壁の派手な印象と、中の印象は全然違う。台所全体は素朴な民家風に作られている。 -
調理場の天井。
昔は換気扇が無かったから?とても高い?! -
壁に飾られた注連飾り。
ここでも縁起を担いでいるのかな。形が面白い。 -
沢山並んでいる釜戸。
ここで調理をし、釜戸の向こう側の畳座敷に出来あがった料理を並べていったらしい。 -
そして、角屋の建物へはここで靴を脱いで上がる。
(美術館入口には無料ロッカーも有) -
先ほど釜戸越しに見た畳の台所。
この広さも50畳。先ほどの調理場&入口を合わせると、この民家風スペースは何と合計100畳!どの宴会場よりも台所がダントツに広い。
この畳の上に出来あがった料理が並べられたようだが、きっと、この台所は当時は戦場。
それに対応する為、つまづかないように、土間と畳の間は段差を無くしたバリアフリー仕立て。
照明具は「八方」と呼ばれる天井から吊り下げる行灯を使用。まるで、現在も家庭にある電気照明のような形をしているが、これは種油で明かりを灯したらしい。
下に火の気のものを置くと危ないので、防火対策として上から吊るされたらしいが、このせいもあってか、大きな火事が出ることはなく、角屋は現在もこうして残っている。
続いて、中央右奥にある帳場へ。 -
帳場にあった鮒の絵。
角屋は一見さんお断り。宴会の支払いは現金ではなく掛け払いで、この帳場で宴会代金を帳簿に記録したのだそう。 -
沢山ある神棚と箱階段。
このあたりは町中の商家と全く変わらないらしい。
そして、その奥には・・・ -
西郷隆盛が角屋で使用した「たらい」が展示されている。
実は、角屋は太平洋戦争時、戦況の悪化に伴い解体されることが決定していた。(空襲による延焼防止の為)
しかし、京都市の担当者が角屋を視察した際、この西郷隆盛が使用した「たらい」を見つけ、この建物が明治維新のゆかりの遺構ということを理解し、取り壊しはひとまず延期となった。そのうち終戦を迎え、結局角屋は解体を免れたらしい。
おそらく角屋には他にも著名人物ゆかりの品が複数ある中で、何故この「たらい」だけ特別に公開展示をしているのか・・・西郷隆盛という名前以外に、角屋の解体の危機を救った「たらい」ということで展示をされているのだと思う。
(詳細については右下の解説文より) -
刀箪笥。
刀箪笥は客人から預かった刀を保管しておく場所で、今のロッカーにあたるらしい。
玄関にある刀掛けで一旦預かり、その後刀箪笥に仕舞う。 -
そして、玄関にある刀掛はあちら。
手前上にある焦げ茶色の箱は提灯入れ。
台所の見学は終了。
それでは、今度は客用玄関側から宴会座敷を見ていくことに。 -
先ほどの客用玄関。
左側に見えるのは台所の格子窓。 -
この格子窓から来客の様子を伺える。
-
客用玄関を入ると正面に見えるのは、先ほどの刀掛。
角屋は刀の持込み禁止。
客人は宴会場へ向かう前にここで刀を預けなければならない。預かった刀は先ほどの刀箪笥に保管される。この保管にも大変な神経を使ったのだろう。
刀をここで預けるのに、何故、2階には新撰組の刀傷があるのか・・・新撰組は見回りと称して良く角屋に顔を出したようだが、刀を手放さない者もいたようだ。 -
刀掛の後壁には、家紋の蔦が模様の様に描かれている。家紋はこの先もいたる所に登場。
→手元のメモに「紋」と書いていたので蔦紋と勘違いしていました。
後日調べると、桐の紋のようです。五三鬼桐紋でしょうか? -
玄関を入って右手にある展示室。角屋の所蔵品がガラスケースに展示されている。ガラスケース内の撮影は不可。
もとは何の部屋だったのだろう。 -
そして少し気になった、この部屋の欄間。
こんなシンプルな欄間は初めて見た。
細かい彫り物は一切なく、中央に彫刻されているだけ。余白を活かすというには、余白が多すぎる気がするが・・・もしかして、これは宙に浮かぶ雲??良くわからないが何だか面白い。 -
一つ目の宴会場、玄関から一番近い「網代の間」。
網代天井が広がる、赤壁が妖艶な28畳の座敷。
襖絵は長谷川等雲の「唐子の図」。
今はわかりにくいが、当時は赤壁に似合う立派なものだったのだろう。
他の宴会場においても、襖絵のほとんどは煤けて黒ずんでいる。煤けている原因は行灯の蝋燭にあったらしい。室内を明るくするには、たくさんの蝋燭が必要になり、結果、油煙で部屋は真っ黒になってしまったのだそう。
この角屋の夜の明かりについて、 司馬江漢の日記には「燭台数十、昼の如く照らす」と書かれているらしい。 -
天井に数本ある丸太は1本約8m北山杉。
天井が低いので網代のインパクトを強く感じる。
私の写真が下手過ぎてすみません。
奥の障子がぼやけているが、特に上の障子の5本×5本の組子はかなり珍しいのだそう。
角屋は障子の組子が面白い! -
網代の間の棚。
ここには違い棚と呼ばれるものがない?
斜めにつくられていて、これは桂離宮と同じ仕様になっているとのこと。桂離宮 名所・史跡
-
この柱は松の大木皮付。
そして、床は松の大節木。(松の木の節目が模様のようになっている。)
どちらも天然の形や模様をそのまま活かし、楽しんでいる。 -
床の間に飾られていた掛け軸。
客人が描いたものかな。 -
付書院。火燈窓(上枠が花形になっている窓)が付いている。欄間は網組の障子。パッと見るとモダンな印象を受けた。
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軒下も網代仕様。
しかし、網代の間の網代天井よりもスモールバージョンにして、わざと変化をつけている。 -
網代の間から見える坪庭。
宴会で酔っ払えば、この庭で酔い冷ましをしたのかな。確かどの宴会場でも、外の風にすぐ当たれるように設計されていたような気がする。 -
「網代の間」から、今度は「松の間」へ移動。
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「松の間」は角屋一の大座敷で広さは43畳。
しかし、1925年に火事で松の間の一部が消失し、翌年すぐに再建されたが、再建された部屋ということで、この部屋だけ重要文化財から外されている。
重要文化財ではないので、この部屋だけ空調設備が整えられ快適。 -
襖絵は、岸連山筆の「金地桐に鳳凰図」。
金地の襖には桐の木にとまる鳳凰と、そのもとに飛んでくる鳳凰が描かれている。雄と雌になるそうだが、どちらが雄で雌なのかはっきりとはしていないらしい。(鳳凰は想像上の生き物なので) -
この絵は幕末に描かれているが、別の場所に保管されていたので、火事の被害は無い。また、座敷に出されていたわけではなかった?みたいで、煤の被害も無く、とても綺麗な状態。戦後、この松の間の襖絵として飾られることになった。
館の方の話によると、角屋では岸派の作品を気に入っていたらしい。2階にも岸派の作品を見かけた。 -
「金地桐に鳳凰図」の上に掲げられている書、薩摩藩士筆の「蓬壺生春酒」。額縁もおしゃれ。
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松の間の欄間。
彫られている模様は全て家紋。
そして模様は家紋だが、どの欄間も全て違うパターンで彫られている。同じ欄間はない。 -
釘隠しも家紋・・・と思ったが、葉っぱが4枚あるので違うかも知れない。
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2階にも金色の壁紙が貼られていたが、同じく大人しい金。キンキラの金をわざと派手さを落とす加工をして(手間を加えて)、大人しめの金色に仕立て上げている。これは館の方が言うには、お役所に目を付けられないようにする目的があったのだそう。(華美なものは禁止の世の中だった)
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付書院の欄間は、松の間だけに「松葉」模様の組子になっている。
(この写真ではブレて全くわからないですね ^^;) -
松の間にあった衝立。
岸良筆の「布袋図」。 -
上の「布袋図」の衝立枠。
この枠を良く見ると龍が模様のように繋がっている。朱漆の枠に雲龍(雲に乗って昇天する龍)が貝で装飾。
400年前の琉球王朝で作られた琉球螺鈿らしい。
値打ち物! -
蔦紋の形をした襖の引き手。
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松の間の襖ではないが、こちらの引き手も細かい。
中には昇竜。 -
降龍。
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新撰組の芹沢鴨が暗殺される直前に宴会をした場所でも知られる「松の間」。
芹沢鴨は角屋を気に入っていたらしく、水戸藩に詫び証文を返すことになった際にも、場所を角屋に指定している。(その後、店で大暴れをして角屋の店主に喧嘩をふっかけたという記録が残っているようですが。)
そのお気に入りの角屋での宴会後、芹沢鴨は壬生の八木邸で暗殺されてしまう。 -
話は再び建物へ。
― 揚屋建築の特徴、大きな宴会場に面した広い庭をつくり、そこに茶室を設ける ―
角屋は、夜から営業が始まる料理屋・・・ではない。
‘角屋で遊ぶ’ということは、日の明るい内から夜の宴会席まで、丸1日をかけて遊ぶということを指したらしい。
昼間は座敷から庭を眺めながら、俳諧や和歌などの文化交流をし、また、庭に設けているお茶席で風流を楽しむ。そして日が暮れてから沢山の行灯に灯りが点り始め、夜の宴会が始まる。
夜の太夫たちを招いた歌舞音曲の遊宴だけではなく、文化サロンとしての役割も果たしていたらしい。特に、角屋の七代目は与謝蕪村の弟子だったらしく、(七代目は「徳野」という俳名を持つ)、当時盛んだった島原俳壇のサロンの場にもなった。そういった事情もあり、与謝蕪村と角屋の関わりは深かったらしい。ここで俳諧の教室も開いていたとのこと。 -
「都林泉名勝図会」に登場する松の間の庭。
「都林泉名勝図会」は、江戸時代の京都の名園を紹介する旅行ガイドブック。京都は既に人気観光名所だった為、この本はベストセラーになり、京名所として知られた。
特に絵の右下にある臥龍松(がりょうまつ)が有名だったらしい。 -
臥龍松と白砂の枯山水。
この臥龍松は広重や国貞の浮世絵にも描かれたらしい。
(このことが、更にこの松を有名にした。)
当時の臥龍松は枯れた為、現在は2代目とのこと。
本来は1本の木の枝がこのように広がり、珍しがられたらしい。まだ若木なので数本で当時の姿を再現しているとのこと。
初代は左奥に根元の部分だけが残っている。 -
松の間の庭にある茶室三軒のうち二軒。
右の茶室が「曲木亭(きょくぼくてい)」
(表千家宗匠覚々斎好/重要文化財)
高床式に造られていて、面白いことに手前には障子や壁が無い。今でいうオープンカフェのような茶室だったそう。
左の茶室は「清隠斎(せいいんさい)茶席」
(薮内竹心門/重要文化財)
薮内竹心門の安富常通(やすとみつねみち)清隠斎が建てたものを角屋へ移築したらしい。 -
奥に見えるのが「曲木亭」で、その更に奥に「清隠斎茶席」がある。
-
窓から少し見えるのは三つ目の茶室「囲いの間」。
(表千家宗匠了々斎好/重要文化財?聞いていないので不明)
この後に出てくる「青貝の間」の1階部分にあたる。(非公開?なのか見学は出来ず。)
流派もタイプも時代も異なる三つの茶室。
茶室が三つも備わっているということ自体が大変珍しく、角屋の特徴でもあるとのこと。
豪華な角屋。ここで丸1日遊ぶには相当な額が必要になり、少々のお金持ちではここを利用することは出来なかったらしい。だからこそ、久坂玄瑞は身元がわからない暗殺者から身の安全を守る為、豪商をひきつれて、この角屋を選んだのだろうか。 -
松の間へ戻り、この障子を開けると渡り廊下へ出る。
-
この渡り廊下は屋形船に見立てて作られ、この下にも枯山水の庭が小さく作られている。
松の間で酔っ払った人は、この枯山水の庭に浮かぶ屋形船の上で風に当たり、酔い覚ましをしたらしい。粋な話?。 -
2階には1階より小さめの部屋が複数ある。
角屋の座敷の本当の面白さは2階にあると思う。
(2階に比べると1階はノーマルに思える)
部屋ごとにテーマがあり、全てデザインが異なる。
寺社仏閣ではなく、揚屋だからこそ出来たように思える斬新な部屋。この意匠から見ても、赤壁と同じく、ここが単なる飲んで騒ぐ宴会場だけではなく、格別の時間を過ごすところだった、という様子を感じ取れると思う。
ただし、2階の見学は予約制で料金はまた別になり、追加¥800。2階だけの見学は出来ないので、結局は1階と合わせて¥1,800の見学料。た、高い!美術館としては、これは高すぎるっっ。
角屋に来て2階を見学せずに帰るのは、角屋の醍醐味を知らずして帰るようなもの・・・と言い切ってもおかしくないと思うので、もう少し安くならないのだろうか。この¥800は修繕費に回されるのか良くわからないが、高い理由を何らかで示してくれないと、ちょっと納得がいかない。
2階の見学は約45分ほど。案内人の方が説明をしながら部屋を見せてくれる。2階は写真撮影は不可。 -
・・・2階を見学する価値は十分あると思う。しかし価値は人それぞれ。果たして¥800を支払って見学するべきか・・・という方は、印刷物の2階の部屋写真を借りたのでご参考下さい。
「緞子の間」
襖や障子の腰に‘蜀江形’の緞子を張っていることから「緞子の間」。二階の主座敷になる。
床の間に柱がないのも面白い。そのせいか、壁面が横にずっと繋がって見えて、すっきりと広々とした空間を感じる。釘隠は七宝で、これを釘隠に用いることは大変珍しく粋なことだったそう。
また、この部屋の障子の組子も面白い。
付書院の障子は‘立涌模様’。他の障子も似たような形をした菱形模様になっているが、それぞれ微妙に形が変えられていた。統一感はあるが、同じにはしない。それがこの建物の心意気。
※角屋のパンフレットから転写。 -
「桧垣の間」
天井、障子が桧垣組になっている。
天井は網代天井のような形をしているが違う、板で桧垣組にされたもっと大胆な天井。
そして、ユニークなのは天井だけではない。右側の波打っている障子も個性的。縦の組子が湾曲しているだけなのに、障子そのものが立体的に波打って見えるから面白い。また、左右へ移動をすると、この障子に‘動’を感じる。目の錯覚を楽しむように作られた粋な障子!
更に、この部屋の襖絵は与謝蕪村筆の「夕立山水図」(写真には写っていない)。そして、その襖絵の上には池大雅の書、「春夜洛城聞笛」が掲げられていた。与謝蕪村も池大雅も好きな私にとっては、これは嬉しい組み合わせ。
ただ、残念なことに煤焼けで襖絵については、ほとんどわかりにくい。そして更に残念なことに、後の時代にこの襖絵に筆が加えられたらしく、この「夕立山水図」は重要文化財にはなっていないとのこと。だが、貴重なものであることには違いない。
蕪村は他にも梅の間を飾る襖絵「紅白梅図」を描いていて、そちらは重要文化財に指定されている。この襖絵はその後、4曲1隻の屏風に仕立て直され、角屋の1階で展示されている。
この部屋には更に、蕪村よりもっと古い絵がある。
写真奥の地袋の絵だが、島原に移転するずっと前、角屋の歴史が始まった頃から既にあったらしい。角屋では一番古い絵ではないかと言われているそうで、他は煤で真っ黒だが、この中央の絵だけは現代の技術で修復されている。(修復には相当な費用がかかる)
※写真は、家にある‘元禄時代(世界文化社)’の図録から転写。 -
角屋ではどうしても障子に目が行くと思う。
普通の障子(正方形の組子)はここにはない。
こういう障子の意匠は、寺社仏閣では見かけることがあっても、揚屋ではほとんど見かけなかったらしい。
写真は八景の間の障子。(この部屋は非公開なので資料だけ。)
少しだけ、他の部屋について。
◎「御簾の間」
襖絵は、山田我山筆の「総御簾の絵」。
御簾の絵で周りを囲まれ、平安貴族になった気分になれる部屋。この絵の主役は、ここで宴会をしている人たち。襖の隣にある座敷入口には本物の御簾がかけられ、絵と本物が一体化している。地袋には石田幽汀筆の「金地花鳥の絵」。
◎「扇の間」
この部屋は大胆で格好良い!
天井には58枚の扇面が模様のように貼られている。この扇面は今でいうサイン色紙のようなものだったらしい。岸駒など、角屋を利用する著名人に書画などを描いてもらったそう。
壁は浅葱色の九条土、襖絵は源氏物語で釘隠は源氏香。古典の名作が江戸のモダンで蘇る。
また、「緞子の間」「御簾の間」「扇の間」の3部屋は続いていて、部屋間の襖を取り払うと、1つの大宴会場にもなる。個性の強い部屋同士が1つに!?とも思うが、表側の障子の組子は3部屋全て同じ仕様になっているので、この障子が一体感を果たす役目をしている。
そして「扇の間」には舞台が設けられ、大宴会場になっても、一番後ろの座敷からも見えるように高くつくられていた。しかし、この舞台はかなり狭い。押し入れの中段を少し広くしただけのようで、当時の舞台での動きがとてもお上品だったことが想像出来た。
◎「馬の間」
小さい部屋だが、ここには円山応挙筆の「少年行の図」の襖絵がある。実は一度、円山応挙に絵の依頼をしたが断られたらしい。それから年月が経ち、繁盛を続けた角屋が再度依頼をしたところ、今度はOKが出たとのこと。つまり、一流の絵師に襖絵を描いてもらえるほどに格が上がったらしい。
◎「草花の間」
襖絵は山田我山筆の宗達風彩色四季の草花。
この部屋は、控えの間のようなもの。それでも、宴会場へ入るまで待っているお客の目を楽しませる為、可愛い草花が沢山描かれていた。
※家にある‘元禄時代(世界文化社)’の図録から転写。 -
そして、見学が出来る最後の部屋「青貝の間」。
この部屋は角屋の中でも代表的な部屋になると思う。壁や建具、部屋の至るところが青貝の螺鈿細工になっている。
特に螺鈿細工の壁・・・これは日本中探しても、角屋でしか見られないらしい。また、この壁を作る技術を持った人は現代にもいるかどうか。壁をつくる職人さん(左官)の傑作だと、作った本人も自覚していたのか、壁に螺鈿細工で自分の名前をサインしている。また、角屋の主人がそのサインを許していることから、この出来栄えには双方かなり満足をしていたに違いない。
今は煤で完全に茶色になってしまっているが、当時の色は扇の間と同じく浅葱色。つまり、綺麗なブルー・グリーン。コンセプトは海に光る貝??それは単純な私の妄想として、相当綺麗な部屋だったと思う。
また、螺鈿細工だけではなく、襖絵は岸駒筆の「山水図」、天井はがまむしろ、ギヤマンが嵌め込まれた窓、下の写真の扇型の障子窓も見られる。
そして、床の間の右側の柱には、ざっくりとした刀傷が二か所。新撰組らしいが、天井に傷がないことから、かなり腕の立つ者の仕業ではないか・・・とのこと。
この部屋にはベランダがあり、春には八重桜の木を眺めることが出来る。ここを見学するベストシーズンは桜の時期かも知れない。
※家にある‘日本美術史(美術出版社)’の本から転写。 -
青貝の間にある扇型の障子窓。
※家にある‘元禄時代(世界文化社)’の図録から転写。
見学料が高いので、¥1,800を支払っても見学したいという人は、建築や日本美術、新撰組が好きなどという理由で、角屋に興味のある人に少し限られるような気がしてしまう。
見学を終えた感想としては、日本ならではの、くすぐられるような粋なセンスをあちこちに感じるので、是非多くの人に日本の良さをここで再確認して欲しいと思った。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- pounamuさん 2011/01/26 15:18:57
- 詳しい紹介、ありがとうございます〜!
- 初めまして!
先日、日帰りで京都を訪れ、角屋にも興味があったのですが、今の時期はオープンしてないとのことで残念に思っていたところです。
たくさんの写真と詳しい解説、とても楽しく拝見しました。
当時の華やかさ、豪華さを伺うことができました。
当時、角屋で遊ぼうと思ったら、いくらくらいかかったんでしょうね〜。
ワタシも近いうちにチャンスを見つけて訪問してみたいと思います。
ありがとうございました。
pounamu
- ぼすとんばっぐさん からの返信 2011/01/27 12:25:24
- RE: 詳しい紹介、ありがとうございます〜!
- pounamu さま
メッセージと投票、ありがとうございます!
自分用のメモとしても残そうと、少々、長くなってしまった旅行記ですが、
読んでいただいて大変嬉しいです。
角屋、建物に遊び心が感じられて面白いですよ☆
私は、日本人て粋だなぁ、と改めて感じました。
しかしほんと、いくら必要だったんでしょうね〜。ちょっと知りたい。
是非、一度行ってみて下さい。オススメ致します♪
ぼすとんばっぐ
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