2016/08/12 - 2017/08/08
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サンフランさん
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宗教都市、長い歴史ある京都、いや近畿地方と言ったほうがいいのかと思いますが、まだまだ日本古来の風習が残っています。そのひとつは地蔵信仰であり、地蔵盆という形で引き継がれています。大変暑い中、お盆の京都を歩きました。
8月中旬、お盆の頃となると京都の人は精霊を迎える準備をする。右京区の六道珍皇寺では、「六道参り」(8/7-10) として京都の人は精霊を迎える。そこには、京都の魔界の世界も! 歩いたほとんどの地蔵寺には 小野篁(たかむら)という人物が関わっていました。この 小野篁は昼間は宮廷に仕え、夜は冥界で閻魔大王に仕えたという平安時代の人物です。東山の清水寺の近く、六道珍皇寺に 小野篁が冥土に行き来していた井戸が残っています。その門前は「六道の辻」 とよばれる六道の入り口、または地獄の入り口なのです。
8月12日
六道珍皇寺におまいりする。六道珍皇寺は小野篁にゆかりの寺。小野篁は夜な夜なこちらの井戸から冥界に通い、閻魔大王に仕えていたとされる。
8月のお盆の季節に、京都では地蔵信仰の一環として、地蔵盆という風習がある。近畿地方にだけ残っている伝統で、東京で育ったものにとってとても興味がある。今年は、8月20・21日に行われたようだ。
8月16日
矢田寺におまいりして、その足で五山の送り火を見る。大変な夕立だった!
御精霊をお送りする京都の伝統行事です。昨年は東山の大文字を見たので、今年は左大文字へ
8月21日
東山区役所で区長の地蔵・地蔵盆の話しを聴く。
8月22、23日
六地蔵めぐりへ
京都の人々は各街道の入り口に平清盛が配した地蔵堂を廻り、家内安全を願う。大変な猛暑日夏さの中、23日、桂地蔵を最後に六地蔵めぐり達成。地蔵堂に安置される地蔵菩薩像は小野篁が一木から掘り出したものとされている。
8月24日
嵯峨薬師寺ではこの日だけ本堂が公開される。こちらも 小野篁にゆかりの寺。小野篁はこちらの井戸で冥界から戻ったとされる。
2017年8月8日
昨年行きそびれた六道まいりに
2017年8月12日
小野篁に関わるお寺がまだある!? 小野篁が建立した千本閻魔堂
千本通りのかなり北のほう、鞍馬口通りに近い引接寺を訪れてみました。
8月16日
5山の送り火
妙法にチャレンジ、残念ながら道に迷い「法」のみ
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
-
8月12日
六道参りには、一歩遅かったのですが、…
東大路通りから入った、松原通にはそこかしこに「六道参り」のポスターが! -
六道珍皇寺の門前
六道の辻は地獄へに入り口」とされているところ! 危うく、六道の辻から地獄へ落ちるところでした。
「この辺り一帯は葬送の地であった。門前のあたりが六道の辻と称して、地獄への入り口と
されていた。六道とは仏教で言う地獄など六つの冥界のことである。」 (村上健司。京都妖怪紀行)
平安時代、三年坂から清水寺の南西、大谷廟の裏にかけて鳥辺野と呼ばれる死者を葬る場所であった。徒然草第7段に兼好法師がつずった京都の2大葬送の地であった。」(蔵田敏明、京都・魔界への招待など) -
由緒
六道とは。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの冥界を示す。「五来重、宗教歳時記では語源は髑髏(どくろ)であるとする。つまりロとドの混用でドクロがロクドになったと説明している。古い時代には鳥辺野(とりべの)のあちこちに風葬された死者の髑髏が転がっていた。髑髏の辻すなわち「六道の辻」のおこりであろう。それは現世と他界の境に当たる場所であった。」(八木透、京都の夏祭りと民俗信仰) -
右手にある閻魔堂
小窓から中を覗ける。左に閻魔大王像、右に小野篁像。小野篁は実物大とされている。
「小野篁は6尺2寸(180CM)の大男であった」 (蔵田敏明、京都・魔界への招待)
この六道珍皇寺なるお寺は 小野篁が建立したとも言われています。 -
閻魔様はこの形相で! 写真などは、…
実は撮影は禁止であった。 -
左手には地蔵堂
このお地蔵様は、六道地蔵
この前が「賽の河原」 -
こちらが本堂です。ご本尊は薬師如来。
こちらで鐘をたたいてご精霊をお迎えするのであるが、… -
その鐘はこのなか!
-
本堂の右手奥に小野篁(たかむら)が冥界に通ったと言う井戸がある。
この右側の小窓からそれが覗ける。 -
怖いもの見たさで覗いてみた。あの井戸から小野篁は毎夜冥界に入った。
未だに冥土に通じているのか? -
お帰りは嵯峨の福生寺(廃寺となっている)であったとも書かれている。小野篁は冥界で閻魔大王に仕えたという。尚、閻魔大王は地蔵の化身であると言われている。その関係がわからない。
六道珍皇寺でお迎えしたご精霊は、矢田寺の鐘でお送りすることになっている。六道珍皇寺の「迎え鐘」に対し、矢田寺は「送り鐘」と呼ばれている。つまり、六道珍皇寺と矢田寺はセットになっている。 -
8月16日、夕刻
寺町京極の奥にある矢田寺(奈良の矢田寺の別院)にやってきました。ここも小野篁ゆかりの寺。 -
この日は送り鐘のお参りに来る方でにぎわっている。
-
この奥に地蔵菩薩がおられる。
鐘もたたかせていただいた。 -
矢田寺の地蔵菩薩は「代受苦(だいじゅく)地蔵」で火炎の中に立つ地獄地蔵。
-
しあわせ大日如来も祀られている。
-
「閻魔大王は前世の禍により、気の憂いを除く手立てを小野篁に尋ねた。篁は大和・矢田寺の満慶を紹介し、矢田寺に遣わされる。満慶は冥途に出かけ、閻魔大王に菩薩戒を授けた。大王が礼を与えるというと、満慶は地獄を訪れたいと申し出て許される。大王は、人々に代わり地獄の阿鼻城で責め苦を受ける地蔵菩薩を見せた。炎熱地獄で亡者を救出する一人の僧がおり、自らを地蔵菩薩であるという。地蔵菩薩は、釈迦の教えに従い、衆生の苦しみを慈悲により救っているという。僧は満慶に対し、娑婆に帰ったなら、地蔵菩薩像を造るようにと伝え、自らは衆生済度をすると告げた。満慶はその姿を写し、矢田寺の本尊としたという。」(矢田寺ホームページ)
-
矢田寺のお参りを済ませて、今日は、精霊を送る五山の送り火もある。
-
五山の送り火のこの夕方は、ものすごい夕立。中止かと思いつつ船岡山へ
大雨にもかかわらず大勢の人! 傘の上に点けられた火が見える。混雑と激しい雨で写真を撮るどころではない。見えるのは衣笠山の左大文字 -
船岡山をあきらめて、北大路を衣笠の交差点のほうへ
歩くこと小半時? まだ点いているか? 五山の送り火は20時から東山の大文字から順次点火される。
まだありました。衣笠山の左大文字です。 -
衣笠山の左大文字が目の前です。
です。 -
金閣寺の近くは近すぎて点線だ!
大きくなると、点線に見える。
折からの雨で既に消えているピットも -
近づく
散々な五山の送り火だった。東山のほうの大文字は点火できなかったらしい。 -
8月21日
京都のあちこちでは、辻地蔵の飾りつけされ、供物が置かれる。供物のなかには。「おけそく」と呼ばれる小餅がある。
九条河原町にて -
おけそくはお菓子屋さんで売られている。
-
東山区役所で地蔵盆の説明会に
東山区長の講義を聴くことにした。東山区にはまだたくさん地蔵盆が残っているらしい。
「東山区では90%の町内が地蔵盆を行う」(地蔵盆ハンドブック) -
「インドから中国を経て伝わった仏教には大地の恵みをもたらす『プリティヴィ』と言う女神がいた。この神様がお地蔵さんの前身と言われている。」
-
「仏教は2500年ぐらい前にインドで釈迦により開かれました。お地蔵さんは経典の中で『地蔵菩薩』という菩薩として生まれました。」
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「お地蔵さんは、衆生の身近なところで菩薩として人々を救うために活躍している僧侶です。」
-
「お釈迦さまは地蔵に衆生の救済を依頼した。」
「仏様(釈迦如来)のいない無仏世界で、五濁悪世のなかで衆生を救ってくれるのが地蔵菩薩だという。(十輪経)地蔵菩薩は代受苦(だいじゅく、変わって苦しみを受ける)の誓願をもつ仏として信仰される。」(下泉全暁、地蔵菩薩) -
「人は亡くなると、天の世界、人間の世界、畜生=人間以外の動物の世界、地獄の世界など6つの世界のどれかで生まれ変わります」
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「お地蔵さんは衆生が幸福になれるように誓願を行い、その実現のため活躍しています」
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「お地蔵さんは、多くの場合右手に『環のついた杖』、左手に『赤いよだれかけ』をつけています。」
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「お地蔵さんは全ての人を救い、その願いをかなえるためにさまざまな特技をもっています」
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「お地蔵さんは七世紀ごろインドから中国に渡って活躍しました。」
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「お地蔵さんは奈良時代に日本にやってきました」
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「平安時代の中ごろには皇族や貴族の間で地蔵信仰が始まりました」
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「平安時代の末期ごろからは一般人もお地蔵さん信仰をするようになり、今昔物語集などに、お地蔵さんの説話が作られました。
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「今昔物語集にはお地蔵さんが人々を救う様子を描いた32の説話が書かれています」
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「多くの説話には、将軍地蔵、田植地蔵、子育て地蔵などいろいろなお地蔵さんが登場して活躍しています」 -
「平安時代の終わり頃から、六波羅蜜寺などのお寺で地蔵講が行われ多くの人々が集まりました」
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「鎌倉時代になるとなくなった人は地獄へ行くと信じられるようになり、地獄で人々を救ってくれるという地蔵信仰が広がりました。お地蔵さんは、地獄では閻魔大王に変身して人々を救うと言う話しも広がりました。」
「地獄に入って、苦しむ衆生を救い、餓鬼道や畜生の世界に入っていき、その衆生を救うの
である。地蔵菩薩の12 の誓願
1. 地獄において衆生の苦しみを代わって受けよう
2. 飢えに苦しむ餓鬼に食を施そう
…..など」
(下泉全暁、地蔵菩薩) -
「平安時代からお釈迦様の教えがなくなる末法の世となり、人々は救いを得られなくなると信じられていました。」
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「室町時代、武士の間にも地蔵信仰が広がりました」
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「平安時代に小野篁という人が地獄で出会ったお地蔵さんの姿を覚えていて六体のお地蔵さんの像を作り、それが京都へ出入りする街道の入り口に置かれたという話しが広がり、六地蔵信仰や六地蔵めぐりが行われるようになりました」
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「小野篁は平安時代の活躍した人物で、和歌などのタレントに長け、超能力を備えていたと言われています。冥界に通って、閻魔大王に仕えたとされています」
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「江戸時代には幼い子供が賽の河原でこの世の親をしたって石を積んで塔を作ろうとする。そこに鬼が現れてそれを壊してしまう。地蔵菩薩が現れて子供を救うとされています。その話しが広まりました」それが子供の守り神であると言うゆえんであろうかと思います。
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「江戸時代の京都では、火事から街を守る火除け地蔵がたくさん置かれました」
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「江戸時代の京都の各町内の入り口には木戸があり、その近くにお地蔵さんが置かれて町内を守ってくれたそうです」
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「江戸時代には地蔵祭りが盛んに行われて、明治になると地蔵盆として行われるようになった」
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地蔵盆の行事
「地蔵盆では子供も大人も参加する行事が行われます」 -
「地蔵盆は京都を中心とする近畿地方で行われているほか、中部地方の一部でも行われています。このような風習はまもり、安心安全な通い合う楽しい街造りをしていただきたいものです。」とプレゼンは結んでいました。
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「地蔵盆は町内の安全、子供の安全、人々の安全、町内の人々の親睦を願っておこなわれています」
お地蔵さんの物語より
尚、地蔵盆は平成26年、京都をつなぐ無形文化遺産の指定を受けている。
プレゼンは東山区役所地域力推進室の発行資料による
イラストは京都女子大学家政学部生活造詣学科江口ゼミ三回生の製作 -
講義が終わってから近くの東山区役所にあるお地蔵さんでは僧侶によるおつとめが行われていた。
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区役所近くの町内の地蔵盆
お地蔵様は厨子の中におられるようだ! -
また幽霊子育て飴の前を通って、
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西福寺
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こちらも6道の辻にあって、平安時代からの古刹
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六波羅蜜寺へ
この寺は、鳥辺野のあちこちに風葬された死者を集めて弔った寺とされている。「6道の辻の西側にある西福寺でも空海が弔った。 空也は比叡山より下り、963年鴨川東岸に西光寺(のちの六波羅蜜寺)を建立し、野辺一帯に晒されている亡骸を供養して悪疫退散を願った」(蔵田敏明、京都・魔界への招待) -
地蔵如来は宝物館に置かれていた。左は東山区役所配布資料より
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妙順寺
こちらの地蔵菩薩も厨子に入っておられる。 -
東山区長からの情報で、宮川町4丁目では「数珠回し」があるとのこと
花街もこのときは全くの静寂、22日まではお休みらしい。 -
右手のお地蔵さんではない?
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歌舞練場の前に祭壇がしつらえてあります。
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宮四の地蔵盆の日程
地蔵盆もこのごろは週末に行われるらしい。 -
数珠回しが読経にあわせて始まりました。
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大人も参加します。
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数珠回しはつづきます。
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まだまだつづきます。
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花街にも外国人向け?の宿泊施設があります!
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宮七ではこれからお地蔵様の前で僧侶のお勤め
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暑いところご苦労様です。この辺は鴨川に面していて、洪水とかにお地蔵さんが活躍されるところがあるのでしょう。
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五条通りへでて、陶器祭りは終わっていました。
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五建ういろうの店
お盆とは無関係です。 -
京都駅の南側八条通りの一本南側の東寺通り、鳥居口町には住宅街がある。
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町内会館にお地蔵さんを祀っている。
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こちらは道路を遮断して、路端に祭壇を設けている。でも子供の姿がない!
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辻地蔵の中には全く飾られないものもある! ご出世には縁がない?
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大日如来を祀った地蔵堂
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化粧地蔵G
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8月22日
六地蔵めぐりへ
京都の人々は各街道の入り口に平清盛が配した地蔵堂を廻り、家内安全を願う。大変な猛暑日夏さの中、京都を歩く。
「地蔵菩薩の12 の誓願は、菩薩行の大道上にある。誓願を述べた後、地蔵菩薩は六道の衆生
のために6 種の身に分けることを表明する。
天道 預天賀(よてんが)地蔵
人道 放光王地蔵
修羅道 金剛瞳(どう)地蔵
畜生道 金剛悲地蔵
餓鬼道 金堂宝地蔵
地獄道 金剛願地蔵
この6体が六地蔵の由来。」
(下泉全暁、地蔵菩薩) -
まずは鳥羽地蔵へ
南区上鳥羽岩の本町93 浄禅寺、
西国街道に面する。 -
浄禅寺、なかなか立派な寺院です。
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六地蔵めぐりの参拝者は結構多いみたいです。大くすのきが門前に!
本堂の阿弥陀如来、ご本尊におまいりして、地蔵堂へ -
地蔵堂では参拝者が水塔婆を備えておられる水に浸して、お供えをする。もう1枚は家の門口に下げるらしいです。
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善男善女がお幡、水塔婆をお求めになる。
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ある参拝者、この炎天下の中、自転車で6箇所を1日で回るとのこと!
伏見地蔵へ回ろうか悩むところ? とにかく暑い! -
迷った上で、京阪電車の六地蔵駅から伏見地蔵に
伏見区桃山町西山24 大善寺、
奈良街道をお守りになる。 -
いつもは人影がない地蔵堂にもこの日にはこの参拝者
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左が六角堂
こちらに小野篁が一木から刻んだと言う地蔵菩薩が安置されている。 -
「当初は六体全てがこちらの六地蔵・大善寺に祀られていたが、平清盛の命により、各街道の入り口に置かれている。」
立て札は読みずらいが、そのようなことが書いてあります。奈良時代の705年の創建! -
こちらが水塔婆の供養場所!
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参拝者が続きます。
まだ昼過ぎですが、
暑さで今日はこれまで、.... -
8月23日
昨日に続いて六地蔵めぐりへ
朝、山科へやってきました。旧東海道に露店が準備中 -
こちらが四の宮の徳林庵の六角堂
山科区西宮泉水町16
こちらにも小野篁の地蔵菩薩が納められています。 -
こちらには、「後白河天皇の勅命により京の都6ヶ所に安置された」と書かれている。
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その地蔵菩薩のご尊顔を拝見することにしました。
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いつもは人ひとりいない六角堂にも大勢の参拝者が来るようだ!
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露店の準備も進んできました。この地蔵めぐりは夜にかけてもにぎわうのでしょうか?
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つづいてやってきたのは、鞍馬口の上善寺
北区鞍馬口寺町東入る、鞍馬口街道 -
こちらにも小野篁の地蔵如来の六体のひとつが安置されている。もちろんのこと浄土宗の寺。
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こちらにも露店の準備が
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地蔵団地もあります。
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六角堂はピカピカの新しい建物!
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地蔵菩薩を拝ませていただく。「白綱はお地蔵様の御手とつながっています」
あと2つです。昼を回ってしまいました。35度を超える猛暑です。 -
暑い中でやって来たのは、右京区の常盤地蔵、源光寺
右京区常盤馬塚町1
周山街道に面する。 -
中は6角堂
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お地蔵様のお姿はどうもうかがえない。
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あと一つは桂の桂地蔵。ここからどう行くのだろうか?
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分からぬまま太秦あたりを西へ
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暑い中を三条通りへでて渡月橋に来てしまいました。
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阪急嵐山駅
ここから2駅は阪急で -
桂地蔵
西京区桂春日町9 地蔵寺、山陰街道
ここが6地蔵の最後です。 -
6角堂はなく、ご立派な本堂!
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地蔵菩薩は本堂に安置されています。なぜか他の5つの地蔵菩薩より大きい!
お寺の方に聞いてみると、お色直しのときに調べたところ江戸時代の初期の年号が刻まれていたそうです。 -
なかなかお尊顔が拝めない
-
水向所にはもう人影はなし。
6地蔵めぐりもそろそろ終わり?
私はこれで6地蔵めぐりを制覇しました。 -
8月24日
相変わらずの猛暑の中、本堂の一般公開は8月24日だけという。こちらも小野篁のゆかりの寺で、結局、小野篁の名所めぐりになってしまった。小野篁(たかむら)が冥界に入った井戸は六道珍皇寺であったが、冥界から現世に帰る井戸は嵯峨?道町の福生(正)寺(ふくしょうじ)にあったという説がある。
「福生寺は明治時代に入って廃寺となり、1880?に薬師寺に合併され、このときに地蔵菩薩像を含めたいくつかの仏像が薬師寺に移された。浄土宗知恩院派に属する」(薬師寺ホームページ)
そこで地蔵めぐりも終わった8月24日、嵯峨へ出かけてみた。ところが嵯峨薬師寺がどこだか良くわからない。清涼寺のあたりで聞いてみたら「大覚寺の方でではないか」と言う人がいた。結局、大覚寺前のバス停にあった案内所で、清涼寺の境内にあることがやっとわかった。 -
たどり着いてみたら地蔵盆は三時からとのこと。
-
本堂前には、生六道(しょうろくどう)の碑が建てられている。
「生?道のあった福生寺は清涼寺から300メートルほど行ったところにある。その土地は竹やぶであったが、開墾されて農地となったときに7つの井戸が発見された。真ん中に一つの井戸があり、その左右に三つの井戸が並んでいた。左右6つの井戸はおそらく6道に通じるものであろう。この7つの井戸の背後には石の地蔵があり、番兵のように守っていた。嘗てはこの井戸でも精霊送りが行われていた。」(梅原猛、読売新聞「冥界とパイプを持つ仏」) -
本堂へ
今日だけ公開の本堂にはご本尊の薬師如来さま。どうやら左に居られるのが、お地蔵様、生?道地蔵菩薩像。 -
「小野篁は毎夜、東山の六道珍皇寺の空井戸より冥土に出かけて閻魔王を助け、朝になると嵯峨?道町の福正寺の空井戸よりこの世に戻るのが常であった。あるとき、地獄に行った小野篁は、猛火の中で苦しむ亡者を救い、その身代わりとなって焼かれておられる地蔵菩薩のお姿を見た。小野篁はその尊さに打たれ、そのお姿を彫刻して冥土の出口である福正寺にお祭りした。冥土からこの世に戻ることを『生まれる』と捉え、この出口を『生六道(しょうろくどう)』と言い、この地蔵菩薩を生六道地蔵菩薩というようになった」(薬師寺地蔵尊縁起)
-
前に供物が供えられている。「生御膳(なまごぜん)とは7種類の野菜を使用して帆掛け舟(かぼちゃの舟に湯?の帆)のようにしたお供えのことである。お精霊様がお帰りになるときの乗り物であろうと考えられている。」(薬師寺説明書)
-
こちらは小野篁の像?
小さすぎる。 -
こちらが小野篁の像
高さは50cmぐらいであるが、襟を立ててりりしいお姿! -
本堂前には地蔵盆法要のしつらえがされている。「本堂前にて一年間に回向した経木(水塔婆)を焚きご将来様の送り火を行う」(薬師寺説明書)
三時までは待てないので、これでお盆の地蔵めぐりは終わりとする。
夏もそろそろ終わり? 猛暑のこの夏は終わってほしい。 -
2017年8月8日
台風一過の猛暑の中、昨年、知ったときには遅くて伺えなかった六道まいりにやってきました。横断幕が張られています -
六道の辻にある珍皇寺に再びやってきました。
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山門を入るとこの時期、先祖の霊を迎える京都人でいっぱい。
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こちらの迎え鐘には長蛇の列ができている。
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閻魔堂も今日は開けられている。但し、撮影禁止
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近くの六波羅密寺でもご精霊を迎える方がおられるようだ。
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五条通りには、京阪五条から東大路にまで陶器市が立つ。
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真ん中辺りにある若宮八幡宮(陶器神社)は合わせてこの日は祭礼
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この神社、その割には静かだ!
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由緒をみれば、平安時代の創建とか! 応仁の乱で焼かれて、こちらに移動してきたのは江戸時代になってからのようだ。この辺は清水焼き発祥の地だそうだ。
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暑い中、露店を冷やかす人も多いようだ。
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高いものは数千円の高級品まで
窯の直販もあり。 -
六道の辻のちかく、この「ろくろ小路」清水焼のろくろかと思いますが、一説によると、これも髑髏が変わった地名とも言われている。つまりロとドの混用でドクロがロクロになった。六道の辻の鳥辺野のあちこちに風葬された死者の髑髏が転がっていた。(八木透、京都の夏祭りと民俗信仰)
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暑い中、四条まで歩いてきました。鴨川の岸では「七夕の夕」が開かれるようだ。
夕涼みには絶好。でも暑い!
とりあえずは行きつけの居酒屋で1杯 -
8月12日
小野篁が建立した千本閻魔堂
千本通りのかなり北のほう、鞍馬口通りに近い引接寺へやってきました。
折からご精励迎えの最中です。 -
いつもは静かな本堂にもたくさんの人影
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閻魔大王が公開されている。但し、本堂内の撮影はやはり禁止
閻魔大王様はこのようなお姿です。 -
奥に施餓鬼壇が設えられている。
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マキが売られている。これは仏壇に供えるものであろうか?
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塔婆の流し場が本堂裏にあります。
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このような紙(?)の塔婆が流される。
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そこには閻魔大王の化身である地蔵さまが並んでおられる。
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なぜかここに紫式部の供養塔がある。
1386年8月22日に僧円阿に勧進により建立された」と説明がある。 -
こちらが迎え鐘の鐘楼
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引接寺近くの菓子店にはお盆に合わせたお菓子が用意される。
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鞍馬口通りを東へ
京都で一番古い銭湯である船岡温泉 -
この構えで建物の内部の彫刻なども見る価値があるものらしい。温泉とあるが普通のお湯の銭湯で、京都・大阪には「温泉」という銭湯があるらしい。
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こちらは旧銭湯の建物をそのまま使ったカフェ?
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鞍馬口通りから堀川通りへ曲がった紫野の島津製作所に隣接したところに紫式部と小野嵩の墓所がある。
紫式部と小野篁がなぜ? ここに埋葬されているのであろうか?
紫式部は973~1031年、小野篁802~853年に生存した記録がある。お二人とも時代が違うので会ったことはなかった。全く接触はないはず! -
左が紫式部と右が小野篁の墓
たまたま墓守の方に出会いしました。この土地は大徳寺が保持しおられるとのこと。大徳寺の飛び地だそうだ。嘗ては雲林院の塔頭であった?毫院跡である。調べてみるとそれは、「雲林院に所属した寺院のなかでも?派な?であった。雲林院には常康親王が常住、堂宇多く、公卿の別邸も出来、中でも?毫院は?事と伝えられている。?燈国師が?徳寺の地領を寄付されたとき、?毫院を整理して、敷地とした。1582年豊?秀吉主君信?公の霊を弔うために総?院を建?された際、雲林院東南にあった?毫院を移転(廃却)、この時紫式部の供養塔が後醍醐天皇より千本えん魔堂へご寄付になられたと伝えられている。」 (紫式部通り会「むらさきの地誌」3?毫院跡 WEB PAGE)
そのとき紫式部供養塔(当時?三重?塔今は九重?塔)は千本えん魔堂へ移動させられ、墓のみがここに残った。
この地元で言われているのは、紫式部が小野篁を引き寄せた。当時、女子は宮廷以外では、極楽にいたることはなく、宮廷に通じていた小野篁を崇拝していたといっても言いようだ? -
「紫式部は藤原為時を父として973年頃に生まれた。名は不詳であるが香子といった可能性が多い。祖父も父も歌人、詩人であった関係から彼女も幼児より学芸に親した。999年藤原宣孝の妻となり、翌年娘の賢子を産んだが、1002年不幸にも夫を喪った。
1006年頃、内覧左大臣藤原道長の長女で一条天皇の中宮、彰子に仕え、候名を父の官名にちなんで式部と称した。式部は侍講として中宮に漢文学を教授する傍ら「源氏物語」の執筆に励みこの物語を完成した。「紫式部日記」を纏め上げた。晩年には引き続いて中宮の側近に仕え、また「紫式部集」を自選した。「源氏物語」は執筆当時から宮廷社会においてもてはやされて、その女主人公、紫の上に因んで紫式部と呼ばれた。没年は1031年とみなす説が有力である。……」
文学者の文章は修飾ばかりで読みにくい。
小野篁については何も書かれていない。 -
2017年5山の送り火
妙法と船と欲張ってみたものの北山で道に迷い
「法」のみとなった。 -
2018年8月16日
「妙」をまじかに
自動車教習所が解放されていた。 -
船へ急いだが、...
遅かった -
18年、北山大橋までたどりついたもののすぐ消えていった船
今年こそグッドポジションでと思い北大路駅から鴨川沿いを歩き、北山大橋からさらに北へ
観光協会のパンフレットはポイントを「北山大橋から北西」とあるだけ!
暗闇の中、北山大橋より上流の西加茂橋のたもとで待つこと30分
森の影に赤い点が
木の陰で何点かみえずらい -
急いで更に鴨川の堤防上を北上
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