1964/02 - 1964/02
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kojikojiさん
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生まれて2歳6か月でスキーを始めることになってしまいました。生まれて初めての困難との戦いだったのかもしれません。場所は谷川温泉ホワイトバレースキー場で、宿泊は共同通信社の谷川保養所です。これ以降20代になるまで毎年のように家族でスキーに行く事になりました。小学生のころは1月15日の成人の日の前後の5日間くらいは家族旅行だったので、母が学校まで迎えに来て早退するのが常でした。学校でも問題にならない昭和40年代の良い時代でした。昭和40年代は空前の登山ブームがあり、夏に登山をする人は冬になるとスキーに行くという時代でした。なので冬のスキーと言っても夏山の延長のような服を着てスキーをしている人が多かったです。スキーのブーツも紐を編み上げる登山靴のようなもので、バックルタイプはほぼ皆無だったので足首が固定されずに骨折や捻挫をする人も多かったです。スキーの板もまだ木製で、ビス止めのエッジでした。ビンディングも踏み込み式などは無く、つま先を固定する金物と踵(かかと)にワイヤーをひっかけるタイプでした。ストックはほとんどが竹製で、リングは皮で固定されていました。手袋もウールのミトンなどで、ほとんど防寒の機能はありませんでした。まあ、寒さとの戦いのような娯楽でした。この当時は各地のスキー場の積雪情報が新聞の夕刊に掲載され、現在よりも平均して数メートル積雪量も多く、気温も低かったです。
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル
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池袋から赤羽線で赤羽に出て、上越線で水上駅に向かいます。この当時はJRではなくて国鉄の時代です。
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宿泊したのは父の勤めていた共同通信社の谷川保養所です。この当時の建物はチロル地方のロッジのような外観でした。ただ宿泊する部屋のほとんどは和室でした。
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瀟洒なロッジ風の建物で好きでしたが、現在では普通のビルのような建物になってしまいました。また当時は豪雪地帯でしたが、近年は雪が減っているようです。当時の新聞の夕刊の積雪情報では天神平で積雪4メートルなんて当たり前のようでした。
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吹き抜けになった食堂には大きな暖炉もありました。朝食の御櫃や食器の一つ一つが懐かしいです。
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この奥は浴室があり、温泉に浸かったのもこの保養所が初めてだったのかもしれません。小さい頃はお湯の出るライオンの顔が怖かったです。
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終身雇用制が当たり前だった時代ですので、社員同士の旅行も当たり前だったようです。私を抱っこしているのは母の妹で、母は生まれてすぐの弟とお留守番です。
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さあ初めてのスキーです。真っ赤なディズニーの101匹わんちゃんのつなぎです。木製のスキー板に皮のバンドで長靴なのですぐに脱げてしまいます。
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保養所の裏側は現在駐車場になっていますが、ほとんど傾斜の無いところですがロープトゥが設置されていました。
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通常のチェアリフトに比べて簡素な構造であるロープトゥは、設置や管理の負担が少なく、零細のスキー場では重宝されていました。ロープ(rope)は「綱」、トゥ(tow)は「牽引」を意味し、モーターの付いた円盤と受けの滑車の間に綱(ケーブル)を渡し、ぐるぐる回る綱につかまってスキーを滑らせながら山を登るという装置です。乗るにはある程度のスキー技術が必要で腕力も必要なので意外に難しかったです。
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まあこんな子供は普通に歩いて坂を登るしかありません。
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父はファインダーを傾けて滑っているように見せようとしたのでしょうか。良く見るとただ立っているだけで、交差したスキー板がどうにもならないようです。
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トボガンの方が楽しそうです。トボガン(Toboggan)はカナダのエスキモー民族であるインヌや、インディアン部族のクリー族が使う簡単な作りの橇(そり)で、雪上遊具としても用いられます。
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これは父の会社の方が出張の帰りに買ってきたものだったと思います。さすが通信社だけあって、海外の珍しいものが家にあったり、航空会社のバックもJALをはじめPANAMなどが家にありました。
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これが人生最初の挫折でしょう。この時の困難を乗り越えて現在の自分があるのかと思うと感無量です。
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トボガンに乗ったままホワイトバレースキー場にやってきました。
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いっちょ前にゴーグルなんてしています。
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昭和の少年はほっぺが真っ赤です。寒いのであんまり楽しくなさそうです。
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この数年前トニー・ザイラーが「黒い稲妻」と呼ばれていたころです。「赤い稲妻」と呼ばれていました。
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もう完全に飽きてしまっていますね。
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ご機嫌ナナメになってきています。
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ホワイトバレースキー場の姿は現在と変わっていないようです。第2リフトのチャンピオンコースへ行くには10年ほどかかりました。
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第1リフトに乗るまではこの後4年ほどかかりました。
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一番下のロッジホワイトバレーの前です。この建物は現在のものと同じです。叔母と一緒に何度スキーに行ったでしょうか。
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ロッジの中でお昼です。バヤリースの灰皿も懐かしいですが、ローヤルクラウン・コーラがレアです。ジョージア州コロンバスの薬剤師クラウド・A・ハッチャーが開発したコーラ味のソフトドリンクで、RCと略されることも多いです。世界シェアはコカ・コーラとペプシに続く3位ですが、数字は大きく水を空けられています。
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もう自分で滑るのは諦めて、抱っこしてもらっています。
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父と叔母といろいろなところを旅しました。
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そろそろ保養所に帰るのでニッコリです。ロッジの下に降りると風が吹かないので寒さを感じません。
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現在は駐車場になっている所から登りかけた橋の所です。
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ここから浅間神社までずっと下り坂です。
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保養所の前にまたスキーを履かされました。
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寒く無いのでご機嫌のようです。
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国鉄の水上駅の前も懐かしいです。保養所の近くには金盛館という高級温泉旅館がありますが、泊ったことはありません。銀座の天麩羅屋さんの天一が経営している美術館も保養所の横にあるのですが、営業時間が合わずにまだ入れず仕舞いです。
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