2009/05/12 - 2009/05/23
32117位(同エリア47424件中)
明石DSさん
サラバ虎頭
5:15:12
虎頭の朝、5時15分
天気は快晴のようだ
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9日目:虎頭〜密山へ
5月20日(日)晴れ
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2009.平成21年5月20日(水)
■さあ、虎頭から密山へ
朝、5時過ぎに起床、カーテンを開ければ青空が広がっていた。8時半の出発時間まで早速、散歩に出る。
まだ虎頭駅跡を見ていないことに気付き、地図を見てそこに向って行った。駅舎跡は牧野氏の著作「戦跡に祈る」によれば、2004年の時点ではウスリー河畔に「しゃれた駅舎跡や日本軍の船着場跡が残っている」と書いてある。
地図で見た場所付近にそれらしきレンガ作りの建物があったので、てっきりこれだと思って、その隣にある小さな河川警備の若い兵隊に聞いたら「違うだろう」と言う。後から王○松に確認すれば良いと思って、その奥に歩いて行った。
ウスリー河沿いに北西方向に歩くと森林公園に続く道がある。その道を歩いたが、この道が多分昔の虎林鉄道の線路が敷設されていた鉄路跡の道だと思う。虎頭要塞に掲げられていた地図に線路が記入されていたが、その場所だった。そして道幅もちょうどそのようで方向も同じだった。
しかし、やぶ蚊の大群にまつわりつかれ途中で引返した。そして8時半の出発の準備に虎頭賓館に戻った。
お湯も出なく、朝食もなく、他に宿泊客の姿も見なかった虎頭賓館。それでも経営が成り立つのか?外観は奇麗だし、ここで働く数人?は、そんな状況など何処吹く風、のんびりしている。
暖房はなかったが厚い布団が用意されて寝心地は良かった。ウスリー河のすぐ傍だし何ら不満はない。
押金100元を受け取り「再見!」と言って、玄関を出た。
-
5:55:16
これがもしや虎頭駅?
違いました -
6:15:18
奇麗な道だと思っていたら
鉄道の線路跡でした -
6:24:54
歩いていてもやぶ蚊の襲撃が凄くて
奴等は血に餓えてます
引返して来ました
前方はウスリー河です
http://www.youtube.com/watch?v=4ntBADdCbk0&feature=player_embedded -
7:54:50
湯の出ないシャワーが形だけ
外見は奇麗な虎頭賓館 -
7:54:56
あの二つの魔法瓶には感謝
湯が冷めず、いつも熱々
文句は何もありません
虎頭に来られる方は是非ご利用を -
虎頭駅跡
8:06:12
旧虎頭駅はここだった
何故か?兄貴と一緒に
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■虎林へ
8時ちょっと過ぎた時間だったが、王○松はすでに待っていた。でも車が違うし二人で来ていた。私は訳が分からないが、こういうことも今まで何度もあったし、これが中国の旅である。
昨日、王○松の車に忘れたままになっていたセーターや小さなリュックは、その車に積んであった。それをバックに積めて一つにし、後部座席に置いて私は助手席に坐る。ほぼ30分早い出発だ。
そして王○松も後ろに坐っていた。今でも、「何でやねん?」と事情が掴めないが、王○松の実の兄貴だった。仕事を兄貴に譲ったのなら、一緒に虎林まで行かなくてもここで説明すれば良いのだが、何故か?虎林まで一緒で王○松は後部座席で寝ていた。
車は兄貴の車だった。そして、虎林に向う前に「虎頭駅跡を見たい」と言うと、兄貴が「分かった」と言ってすぐに連れて行ってくれた。ウスリー河畔だったが、そこは今ではコンクリートを敷き詰めた更地になっていた。私が「何時?こうなったの・・・」と聞いたら「2〜3年前」と言っていた。
場所も地図で示された場所だし、一件落着。
8時6分
そこからすぐに三人乗りで虎林へと向う。
この辺りの道路標識はロシア語も併記されていた。ロシア人の姿は見かけなかったが・・・。林口を起点として虎頭まで繋ぐ虎林鉄道の跡地を道路にしたというだけに、鉄路のように一直線に伸びる道を虎林に向った。
ちょうど65kmを信号なしで1時間足らず、9時1分に到着。兄貴は弟より飛ばす。100元を運転していた兄貴に渡そうとすると、後ろを指差し弟に渡せと促された。よう分からんけど、言われるままに弟に渡し二人に礼を言って別れた。
王○松という運転手を紹介されたのもそうだし、充実した虎頭の旅だった。 -
8:06:16
虎頭艇組の隣 -
8:06:32
「戦跡に祈る」牧野弘道(著)によれば
平成16年夏には「しゃれた駅舎」が残っていたそうだ
今は奇麗に更地になったままだ -
8:11:48
「二戦終結地」
と書かれている虎頭鎮の門を出て虎林へ
この門から虎林までは62kmと記されていた -
8:46:14
鉄路跡の道は真っ直ぐ虎林に伸びる -
8:50:34
道路表示にロシア語が併記されている -
9:01:16
虎林駅到着
兄貴の車の方が汚かったでぇ -
虎林
9:10:44
虎林駅前で客を待つオートバイ三輪車
色も統一されている
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■虎林から密山へ
虎林駅に向って左側にあるバスターミナルに入り密山行きの切符を買う。次の密山行きは、9時50分発だった。虎林から密山まで111公里:km。
それまで駅周辺を散歩する。この街は朝鮮族が多いのか、朝鮮族と看板に書いていたり“狗肉店”と言う犬の肉を食わせる店が結構あった。リュックを担いだまま小さく一周してターミナルに戻り、9時34分には車内に坐っていた。
この虎林のバスターミナルも空港のような搭乗口があり、出発10分くらい前に検票があり、駐車場に停まっているバスに向う。しかし、その時私はこの検票を待たず、勝手にバスに乗った。何故かと言えば、検票があったり無かったり、ターミナルによって違うから。
切符も窓口で買わなくとも先にバスに乗って、バスが動き出してから車掌から買ったりと、場所によって様々だ。だからここも適当で良いだろうと思って勝手に坐っていた。そしたら出発真近になり、係員がバスに来て「何番と何番の者はいるか?」と呼びかけたので、私は慌てて返事した。
そしてら係員が来て私のバスの切符を取り上げ持って行ってしまった。それで確認したんだろうけど、切符を持っていかれて不安になった。でも結局、以後何も言われることはなく無事に密山に着いたけど。その時は2〜3人の客しかいなかったが、出発の時刻になるとほぼ満員になる。 -
9:12:22
駅左側にある客運站 -
9:13:46
駅前で朝から野外ビリヤードに興じる
今日は水曜日やけど仕事は? -
9:16:56
狗肉店、犬を普通に食ってます -
9:20:10
虎林の街角風景
虎林には第11師団(善通寺)の司令部が置かれていた
沖縄の軍司令官として戦死した牛島満中将もこの地にいたことがある -
9:21:58
虎林駅前
いつもどこでも駅前にはたむろする人たちがいる -
9:33:06
このバスに乗って密山へ -
バスで密山へ
9:54:06
虎頭行きバスも此処から
二日前に乗って虎頭に行きましたが
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■バスに乗って密山へ
中国のバスの車中は無論どこでも携帯使い放題、ルールはない。あちこちから着信メロディーが聞こえ、その都度デカイ声でしゃべっている。私には何を話しているのかさっぱり分からないが、他の乗客はその話を聞かされながら乗っている。
バス道は時折踏み切りを渡りながら鉄道・虎林線とずっと並行して走っていた。満洲時代の東安省は、居留民の密度の濃い地域だったそうである。敗戦後、ソ連の侵攻から逃れて満洲の在留邦人が、この線路を目安に、林口から牡丹江、図們から北朝鮮を目指し避難して行ったようだ。
その単線の鉄路がすぐ傍に見えてることが多かった。水田ありは畑地あり、丘陵や緑の木々に蔽われた山々を右に左に見ながらバスは一目散に進んだ。綏芬河から来る時に通った同じ道を密山まで引返す。
9時50分に虎林を出発し、50分後の10時38分に幹線から路地に入って一度トイレ休憩で停車した。そこが何処なのか?分からないが三分の一くらいの乗客がそこで下車した。しかし終始不思議だったのは、方位磁石を取り出して何度確認してもバスは北東に向っていた。
帰国後、地図を見ても、どう考えても虎林から密山は南西方向である。何故?北東方向?逆に間違って磁石を見ていたとしか考えられない。でも車中で方向がどうにも気になり、何度も磁石の針の青い色が付いたほうが北だと確認し確かめたはずだった。今もって不思議としか思えない。 -
10:01:06
バスは今日も満員御礼 -
10:21:56
田植え準備中の水田が広がる -
10:36:56
ここは停留所なのか三分の一くらい降りました -
10:55:24
広大な畑地広がる風景 -
11:01:18
鉄道とつかず離れず並走している -
11:47:32
密山市内に入ったようです -
密山
11:49:22
オートバイ三輪に乗って
3元:45円
おっちゃん御免な
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■密山にて
12時前、デジカメ時間では11時50分頃密山に到着。
密山は「戦跡に祈る」によれば、『満洲時代は東安省の省都で、関東軍の第五軍司令部が置かれ、のちに沖縄で玉砕する第24師団(熊本)も駐屯していたから兵隊さんであふれるまさに軍都といってよかった。』とある。
牧野氏も父親が少将の頃、昭和十五年三月東安に第五軍参謀長として赴任し、家族もそれを追って東安に来たとのこと、牧野氏5歳のころである。そんな東安に着いた。
ちょうど2時間のバスの旅だった。この密山(東安)の情報も少なく、到着したが地図もなくこの町の大きさも何も分からない。只、バスの終点手前で密山駅が見えたので、駅の近くでバスを降りたことは分かった。
さあ、今日の宿は密山市安定街168号にある密山興亜酒店(MI SHAN XING YA JIU DIAN)。一体どこにあるのか当然の如くさっぱり見当も付かない。近いのか遠いのか?ヒョッとして今降りたこの場所のすぐ傍なのかも?ちょうどその時、すぐ近くに玩具のような三輪タクシーが居たので声を掛ける。
「興亜酒店を知ってるか?」と運ちゃんに聞いたら「知っている」と言うので「多少銭?幾ら?」と問えば「3元:45円」と言うので乗った。乗って5分もしない内に三輪タクシーは止まり、「ここだ」と言う。でも周囲を見渡してもそれらしき物がなく、私は怒ったように「興亜酒店は無いやろ」と憮然としながら降りた。
そして、そこに止まっていたタクシーに「興亜酒店に行きたい」と言うと「ここがそうだ」と、又言われた。それでもう一度見直すと確かに興亜賓館という看板が二階に掛かっていた。さっき三輪の運ちゃんも「ここのニ楼だ」と言っていたし、と思って曲がって行くと興亜酒店の玄関らしきものが目に入った。
さっきの三輪タクシーの運ちゃんには悪いことしたと思いながらもホッとし、二階に上がって行った。複雑な間取りで二階に行ってもフロントが二ヶ所になっている。一ヶ所の方には誰も居なかったので奥にあるフロントに向った。ここでも予約は完璧で私のことはすぐに分かってくれた。
外見は訳の分からないホテルだが、中はそこそこ奇麗で私には十分満足だった。そしてフロントのお姉さんというより叔母さんに早速、私の明日の予定である密山〜牡丹江までのタクシー貸し切りの為に良い運転手を紹介してくれと頼んだ。
そして途中の麻山站付近の麻山事件の自決現場と、彼らが入植していた東海站周辺の哈達河村に立ち寄りたいことを説明した。このフロントの叔母ちゃんが気が利く人で、私の旅の目的をスムーズに理解してくれて話はトントン拍子に進んだ。「今からすぐに運転手を呼ぶので彼が来たら二人で相談して値段を決めてくれ」とのこと。
そして、ちょうどホテルに着いたのが12時を少し回っていたので、オバちゃんは「食事はまだか?」と聞いてくれた。「まだだ」と答えると、このホテルは安くて旨いからと適当に注文してくれた。そして、今日は興凱湖(こうがいこ)に行きたいと言うと、それも運転手に伝えてくれていた。
そして部屋に入り、興凱湖に行く支度をして、後は昼飯を食いながら、もうすぐ来るであろう運転手を待つ為にフロントに向う。そしてフロント横の団欒室のような場所で待っていると食事を運んでくれた。トマトと玉子をとじたものと豆ご飯を持って来た。旨かった。スープを追加で注文したが、もうコックが引揚げて帰ってしまったからと・・・お湯を持ってきてくれた。
ちょうど食べ終わった頃、私のテーブルにタクシーの運転手が来た。若い男の運転手だった。名前は依○国:29歳。三歳の子供の父親で、嫁さんは子供が小さいので専業主婦ということだった。そのテーブルでの商談となった。そこにフロントのオバちゃんと、さっきまで話をしていたオバちゃんが加わり四人での商談になってしまった。
横でフロントのオバチちゃんが、私に代わって、しきりに説明してくれる。有りがた迷惑だと最初は思っていたが、そうでもなかった。とにかく外野の声がうるさかったが、この依○国も若いけど、こういう交渉には慣れているようで、私の質問に間髪居れず回答をする。
そしてメーンの明日の牡丹江まで費用を交渉する前に、今からの興凱湖行って1時間くらい観光して、又戻って来る往復の包車費用を先に確認したら「150元」と言うので、それは納得の価格だった。
それを確認してから私が「この密山〜牡丹江まで多少公里?何キロ?」と聞いたら、彼は即「300公里、600元」とさりげなく、その距離に対しての値段を聞きもしないのに言ってきた。内心私は300キロ600元か?300キロなら400元でも良さそうだけど、内心まあええか、であった。
そして、「哈達河村、麻山の二ヶ所に立ち寄りそれぞれ1時間づつブラブラと、そこで見て歩きたい、そして確実にそこに行けるように、現地の人たちに聞いてくれ・・・」と言う条件をプラスしての最終的な包車費用を聞いた。
依○国はしばらく考える。その“マ”がいつものことであるが私含めて、外野席のオバちゃん二人も興味津々な一瞬だ。彼の口から発した価格は「800元」だった。牡丹江で権香玉に「旅行社の車をチャーターしたら幾ら?」と聞いた時、その場で彼女は会社に電話して聞いてくれた。その価格は¥1200元、無論ガイドなしでの車のチャーター費用である。
だから、その返事を聞いて私は、“まあええか”で、右手を差し出し「行・シン、OK」との返事をし、みんなの緊張の瞬間がほぐれる。まあこれでも同じ中国人相手より相場は高いだろうけど、“ぼったくられる”ことはないと自分では思っている。でも???敵は一枚も二枚も上手だろうなあァ〜・・・。 -
11:56:42
密山興亜酒店は分かりにくいホテル
建物の格好、雰囲気、ホテルとは気付かない -
12:10:28
内部の構造もややこしいけど
奇麗 -
12:18:56
532号室
こんな部屋でした -
12:38:28
玉子とトマト、旨かった。
ここで今日の興凱湖行きと
明日の牡丹江までの交渉をしました -
密山
13:40:10
穆稜川
灌漑用水として分岐され
田畑を潤す水となっているのだろうけど
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■密山口岸へ行く
そして、早速、興凱湖に行くことになった。階下に降りて行くと又中国ならではのドラマが待っていた。そこに待っていたのは別の運ちゃんで、依○国曰く「彼が今からも、明日も彼が行く。」と言うことである。その彼は一見してサングラスを掛けた兄ちゃん風の運ちゃんだった。
そりゃあ彼が交渉に来れば、客も一歩引いてしまうのだろう。そのしゃべり口調からして・・・。慣れない中国旅行ならこれだけで疲れるが、私は大分慣れたから、“又か”そうかと思うだけである。それぞれに役割分担があって稼ぎも分け合っているのだろう。
依○国の自宅近くなのか途中で彼は降り、サングラスの運ちゃんと二人になった。彼の名前は于○国、40歳、19歳で結婚し、今二十歳の息子が一人、大慶の大学に行っている。奥さんは、私が泊まる興亜酒店で働いているとのこと。成るほど、それでこうなったのかと納得。
しかし、この于○国は、見かけによらないところも、見かけ通りのころもある男だった。
見かけによらないのは、仏教徒だからと、肉類は一切口にしないようだ。そして速度は出さない。追い越されても構わずにマイペースで走る。お蔭で乗り心地は、この旅通じて一番良かった。そして、何も言わずともガイド役を買って出て案内してくれた。
まず最初に穆稜川で車を停車し、写真を撮ったり、ゆっくり見せてくれた。
この川も、その川幅から見ても大河のはずが水量は著しく少ない。その上、潅漑利用にやたら利用され、あちこちに水路が枝分かれし分岐されている。そりゃあこれだけ沢山に分岐されれば水量もより少なくなるだろう。今は、かろうじて水があるが若しもっと干上がったら一体この辺りの水事情はどうなることか?見て、ゾッと感じるところがあった。
2時17分
それから次は密山口岸(中露国境)に連れて行ってくれた。頼んでもいなかったし、私が知らなかった場所だ。でも国境には興味津々の私なのどで有り難かった。でも彼は、「ここで待っているから一人で見て来い」とは言わない。私に平気で二人分の門票を買わせて並んで入って行った。
説明したいことがあったようで、それは世界最短、最小の国境に架かる橋「白ling河橋」のことだった。今では立派な道路がロシア方向に向って伸びているが、門は閉ざされ人影はなかった。只、この最小の橋を見に来るのか、観光客風の人はチラホラいた。 -
13:41:12
時期的にどうか分からないが
どう見ても穆稜川の水量は少ない -
13:54:10
こんな道を走って興凱湖へ向う -
14:16:20
密山口岸(国境)
東寧・綏芬河・虎頭・虎林
全部、ロシアとの国境の街でした -
14:19:24
こんな所に世界最短の国境に架かる橋があったとは・・・。
向こう側はロシア -
-
14:20:22
世界最短最小の橋とはこれだ・・・そうだ
なるほどこんなちいちゃいのが
国境に架かかっていたなら
世界最小も頷ける -
14:20:44
今は厳重封鎖のようです? -
14:23:50
密山口岸にて、于○国さん
今日と明日の二日間お世話になりました
仏教徒でベジタリアンです
速度控え目安全運転です -
興凱湖
14:32:12
興凱湖の手前のゲート
入場券が必要/20元
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「遥かなる黒龍江」小林静雄(著)より:抜粋
密山の戦い
密山には、廟嶺警備隊・歩兵第369連隊第二大隊岩井大尉以下約700名が守備していた。東翼興凱湖の当壁鎮監視隊第6中隊46名の第二望楼は、8月9日午前二時艦砲射撃で破壊され、かなりの死傷者を出したが石上見習士官は第一、第二の望楼の兵と紅眠哈の6名を合わせて当壁鎮で守備についた。
西翼宗大院監視隊(第4中隊約70名)は早朝攻撃を受け、東山監視哨に後退した。9日午後東安師団司令部の作戦会議に、岩井大尉も参加し、10日0時を期して各中隊は東安に後退することになった。
かくして、1939年以来築城の行われた廟嶺陣地は、まったく戦闘が行われないまま放棄された。
///////////////////////////以上・抜粋終わり
■興凱湖(ハンカ湖)に到着
いよいよ興凱湖へ
手前にゲートがあり入場券を買わされるが、興凱湖に向うのにパスポートも身分証明書の提示も不要だった。
この興凱湖は、中国側が面積の四分の一、北側部分に直線的な国境線が引かれているようだ。1860年の北京条約までは全体が清国の領土だった。
そして昭和20年の12月にはソ連軍の捕虜となった日本人が捕虜となり、興凱湖の湖畔で強制労働をさせられている時、凍結した興凱湖を満洲国に向って逃亡し、その後無事に日本に帰還した者もいる。
興凱湖へのゲートをくぐる時、門票を買わされた。于○国は「タクシーは門票は不要だろ!」と盛んに喚いていたが、あっさりと無視され二枚分20元×2=¥40元を請求される。幾らタクシー代の包車費用が¥150元でも、門票だけで二人分60元。中国は結構この門票が、食事代などに比べると高いことが多い。
ゲートから駐車場までの距離が分からないし、二人で入って行った。そして駐車場に着いて、私が于○国に「一人でボチボチ見に行ってくるから、ここで待っていてくれ」と言うと「門票も二人分買ったし、一緒に行くから」と、何度か言ってくれたが、一人で行きたかったので断った。それがガイドしたい于○国には気に入らないようだったが・・・。
駐車場からは全く興凱湖が見えないので、どんな湖だろうと思いながら歩いて行った。興凱湖が前方に開けるところに行ったら、海と同じ風景が広がっていた。
興凱湖のデーター↓
ほぼ円形の構造湖で、北に小興凱湖があり、その水位があがるときには両湖はつながる。面積3800平方キロメートル、標高69メートル、最大深度10メートル、平均深度4.2メートル。11〜4月は結氷する。
琵琶湖の面積が「670.33平方キロメートル」だから約6倍くらいか。デカイ。海のように湖岸に波が打ち寄せていた。この湖が凍ってロシアと繋がっている風景も壮観だろう。水は澄んではいない。湖畔には観光地なのか、少ないけどチラホラ人もいた。
我、興凱湖に来る。20分ほど湖畔に佇み、車に戻った。
4時過ぎにホテルに一旦戻る。
于○国と、戻る途中明日の出発の時間について、彼がもっと早く出発しようと言う。今日の密山の天気は31度の夏日。昨日19日の虎頭は冬だった。朝はセーターを着てその上にウィンドブレーカーを着ての出で立ちだったのに・・・。
密山は昨日から急に暑くなったようだ。そんなことを理由にしながら、于○国は早く出ることを勧めてきた。私も、この密山には、この後、東安事件のあった駅に行くのが目的だけで他に資料もなく、早く出ることに同意した。時間は朝の4時でも5時でも、何時でも良いから電話してくれとのことで、携帯番号を聞いた。 -
14:43:16
この先に興凱湖が広がっている -
14:49:20
冬期は凍結す -
14:57:14
多くはないが遊びに来ている人もチラホラ -
14:59:16
凍結した興凱湖を渡って逃亡を成し遂げ
日本に生還した元関東軍兵士の話もある
http://www.youtube.com/watch?v=BhhzBKloWdc&feature=player_embedded -
密山駅
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■東安駅
興亜酒店の532号室でちょっと休憩し、東安駅に向って出て行く。
バスで来る時に、駅の方角と近いことが分かっていたので、後ろを振り返りつつ駅方向と思う方へ歩いた。途中一度人に聞いたが、間違っていなかった。ここもロシア国境が近く、駅周辺の繁華街にはロシア語の看板が目立っていた。ロシア人の姿はそんなに見かけなかったが。
密山站到着は午後4時50分
昭和20年8月10日、この東安駅で爆破事件が起った。
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東安駅爆発事件(密山駅)
「戦跡に祈る」牧野弘道(著)・19頁より抜粋
東安駅に着いた避難列車は、開戦初日の9日午後3時ごろ虎林周辺の避難民800余人を乗せて牡丹江に向けて虎林駅を出発した。列車は何度も止まって東安駅に着いたのは夜の10時頃。駅舎に最も近い一番線ホームに停車したが、他のホームの列車は次々と発車していくのに、なぜかこの避難列車は止まったままで夜が明けた。
その内駅員が駅舎に火を放ち、その余熱で一番線ホームの列車にはいられなくなる。避難民たちは中央のホームの東安周辺の避難民や最後に脱出する駅員たちのために仕立てられた避難列車に乗り移った。約30両のほとんどが無蓋貨車だった。すぐ発車するはずだったのが、長い連結の上に避難民を満載していたためかなかなか発車できない。
爆発が起きたのは8月10日午前7時頃。一番外側の13番線ホームに野積みにされていた約30トンの爆薬に、撤退する軍が火をつけたのだ。混乱の中で、避難列車はすでに発車したと勘違いしたらしい。次々と誘爆を起こし、その爆風が避難列車を襲った。
虎林近くに入植していた石川県出身者が中心の黒咀子(こくそこ)開拓団員だけでも死者行方不明158人を出しており、死傷者数百人というだけで正確な犠牲者数は今に至るまで不明のままである。
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http://kojima.boy.jp/page007_1_mituzan_syougen.html:より一部抜粋
「密山駅爆破事件」の弾薬に点火をしたと言う元兵士(藤田年樹さん)の証言。↓
「駅司令部の最後の任務は、駅に積んであった幾種類かの弾薬を侵攻するソ連軍に利用されないように爆破し処理することであった。それは戦場においては当然のことであった」「導火線に火をつけ、すぐに最終列車に乗りこんで出発すれば、列車が駅を離れた後に爆発し、避難民も軍も巻き込まれないという計画であった」
藤田氏の証言は将校が一人、下士官としての藤田さん。兵数名に軍属としての電話交換手の近在の開拓団のお嬢さんが二名の7名であったと記憶を語られた。今まで東安駅の関係者も弾薬に火をつけた軍の関係者についての委細を知る人はいなかった。憲兵と言うのが今までの通説であった。
運命の最終列車
「上官の命令で指令部員が点火」
「ところが計画通りに発車しない!現地人の機関士は「蒸気が出ない。列車が進まない」という。なれぬ満語のやりとりの数分後、天をつくような大爆音がとどろき、ものすごい爆風に襲われた」という。
「とんでもないことになったと思った。後方の五、六両は吹っ飛んで、多くの人が死傷した。砲弾は次々と誘爆し、三度ほど大爆発を起こした」
東安駅まで集結したものの、汽車に乗れずに徒歩で勃利街を目指して歩く人々にも、遠くから爆発音と湧き上がるきのこ雲が望見できたという体験談を読んだ記憶がある。そのくらい凄まじいものであった。
「列車は屋根のない無蓋車で、火の粉は頭上に降りそそいだ」
「生き残った人たちは、誘爆が続くのを恐れ、「早く列車を出せ」と必死でした。これ以上の被害者を出してはいけないと、負傷者を救護せずに出発。非情な対応と思われるでしょうが、「極限の状況では最善だった」と今でも自分の心に言い聞かせています」
「列車は残りの十両ほどで出発し、夕方ごろには三十〜四十キロ先の駅に着きましたが、ソ連軍機の機銃掃射に遭い機関車が大破しました」
その後は新京まで南下して、進駐のソ連軍により武装解除をうけて抑留され、シベリアから後に帰還された。
/////////////////////////////以上・抜粋終わり -
密山
16:46:06
台湾風情
駅前の路上にて
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■密山にて
この駅で64年前に起った悲劇も忘れ去られ、今や何の痕跡も認めることも出来ない密山駅。駅に向って右隣に、まるで旧駅舎なのか?と思わせる建物があった。公安派出所として使われていたが、当時の駅舎は「駅員が駅舎に火を放ち」とあり、それに大惨事となった大きな爆発が起ったのだから残っているはずもなく。
しかし一見したらあまりにもそれらしいので、駅内に入り切符売り場の窓口越しに隣の建物は「老火車站ですか?」と聞いたら、その駅員は「そうだ」と返事をした。でも、東安事件に関してのどの回想記にも今の密山駅は写真で紹介されているが隣の建物には誰も何も触れていない。
権香玉にも問い合わせたが、「調べてみる」との返事をもらった。そして、その後「旧東安駅舎は残っていない」との回答をもらう。
2009年・平成20年5月20日(水)午後5時の夕方の東安駅は、まだ青空が広がり平和な日常が営まれていた。犠牲になった多くの方々のご冥福を祈る。
そんな駅前を後にして、ブラブラ周辺を散歩していたら「東安街」という名前の付いた通りを見つけた。当時『東安市には、一般日本人9000名、軍家族600名が居住していた。』そうである。今はすっかり面影なく、通りの名前に昔の東安を想う。一体どんな風景だったのか・・・。
6時21分・夕食を食う
拉麺屋に入る。壁に貼っているメニューをしばらく眺めて、麻ラ麺(5元:75円)を頼む。出て来たのはスープが真っ赤のこれぞ激辛麺だった。味は良いけど私には強烈な激辛で中々食えない。汗が滲み出てくる、麺の歯ごたえも味も良くて一気に食いたいのだが無理だ。そして、何とか麺のほとんどを食ったが汁はほとんど残した。
でもこの店の麺が美味しかったので、もう一杯「冷麺」を頼んだ。出て来たのはやはり美味しい冷麺(4元:60円)だった。二杯で135円の旨い麺を食った。密山旅行者にお勧めの店だが、どこにあったのか?さっぱり分からないけど。
二杯のラーメンで腹を膨らし食後の散歩に、又駅に向う。すでに7時前になっていた。すでに陽は西の空に沈んではいたが、まだ明るさが残り、日中31度だった今日の密山も涼しさが戻っていた。
しばし駅前で往時を偲び、せっかくの旅の思いに耽る。なんて書けば神妙に犠牲者のことを思っているかのようだが・・・さにあらず。どこでもここでも全くの口先だけの慰霊を誤魔化す方便でしかない。あ〜ご先祖さま、犠牲者の皆様、こんな私に罰を当てないで下さい
駅を背にして興亜酒店に戻り密山の一日は終わった。
さあ、明日は早朝から哈達河村、麻山を経て牡丹江に戻る。300キロの移動だ。そして旅もあと残り三日となった。 -
16:47:00
ロシア人客が目当てなのか?
ロシア語の看板も多くあった
肝心のロシア人は見かけないけど
どないしましてん
綏芬河はロシア人の買い物客で潤ってまっせ -
16:53:58
密山駅
昭和20年8月10日午前7時頃
弾薬処理の爆発に巻き込まれ多くの方がここで亡くなった
ご冥福を祈ります -
16:59:16
駅の右隣の建物
昔の駅舎か?と、思ったが、違うかった。
駅舎に火を放ち、大爆発も起ったのだから
残っているはずもなく
なんやねんこりゃあ -
17:07:04
密山を荷馬車が行く
いつまでもこの光景が続きますように
勝手ながら願う -
17:13:58
東安街
東安という名称が今も残っていた
満洲時代ここは東安だった -
18:14:44
密山の公衆トイレ
どこもで一律、5毛(7円)ですね -
18:16:12
ドアは付け忘れているのではありません
一応仕切りがありますが -
18:21:36
このラーメン屋でラーメンニ杯食いました -
18:25:28
麻拉麺5元(75円)
美味かったけど涙と汗で食い切れません -
18:38:40
冷麺4元(60円)
「馬かった牛負けた??」
↑こんな言葉知ってますか?
私が子供時ちょくちょく耳にし使ってました -
18:49:24
さらば
夕暮れの東安駅前
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