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5月6日(土)、コラート(F8ik^), ピマーイ (rb,kp)<br />この町の正式な名称は舌を噛みそうなナコンラーチャシーマー(o8iik^lu,k)であるが、タイの人々は古くから呼びなれている「コラート」と、親しみをこめて呼んでいる。この町はイサーン地方の入り口の都市で、且つ一番古くから開けた町である。人口もウドンタニに次いで多い。コンケーンからは約200キロ、高速バスで3時間も掛からない。<br /><br />今朝もゆっくり起き、朝食前にタラートを散歩。朝の市場は買い物客で混んでいる。その中に混じって黄色い衣を纏った托鉢僧が何人かボールを抱えて売り場を廻っている。まだ十代の若い僧だ。売り子はボールの中に野菜を入れたり、食料を入れたり、又買い物客が喜捨したり、買ったばかりの食材を惜しげもなく渡したり、とタイ人の宗教観がよく観察できた。<br /><br />若い僧らは、各寺院から遣わされ今日一日の食事を托鉢しているのか、ボールが一杯になるとスタスタとどこかへ立ち去って行った。毎日繰り返される朝の行事。この町のこのタラートでは何百年に亙って繰り返されているに違いない朝の托鉢。きっと飢饉の時も、戦争の時も変わらず繰り返されてきた光景。庶民の間には仏法僧が深く根付き、自然の姿で息づいているようだった。<br /><br />バスは昼前にコラート・ターミナルに到着。又インフォーメーションで今晩の宿泊先を尋ねたところ、ターミナル近くにボートと言うホテルがあるとの事。途端にツクツク客引きが50バーツと言って寄ってくる。当方近くは分っているので30バーツと提示すると、客引きは何を考えてか、「モーターサイ、モーターサイ」と言ってバイクの方へ案内する。何のことはない、モーターサイクルのタイ語表現で、バイク便のこと。<br /><br />初めて乗るバイクに重心の間合いが取れず、背中に背負ったリュックの重みで、後ろに振り落とされそうになるが、両手で必死にバーを握り、ほうほうの体で僅か5分程度の乗車を経験する。一旦ホテルに荷物を下ろし、再びターミナルまで戻り今日の目的地ピマーイに向う。<br /><br />ピマーイはコンケーンからコラートへ来る国道上の途中にあり、バスを乗り換えればコラートに来なくても直接行くことも可能。<br /><br />コラートの北40−50キロ付近で東に折れる地方道に入り、そこからは10キロ位の距離である。イサーンは貧しいと聞いていたが、この辺りかなり裕福そうな住宅も並んでいて、田畑も緑濃い。放牧されている牛などもチェンマイ方面のよりは肥えている。<br /><br />車掌の合図でバスからはピマーイの街中の停留所で降ろしてもらい、昼食のレストランを探したが余りパッとしない。有名な観光地であるとしても外国からのお客さんは大型バスでやってきて、サッと見学してサッと立ち去る。この街自体には用はなくどこか途中のモダンなドライブインで食事など取るのだろう。<br /><br />ここには地元住民を相手にする様な薄ら汚れた感じの食堂が2軒ばかりあるだけで、どちらも似たり寄ったり。その内の1軒に入り、何か分らず「カオ・ソーイ」と言ったら言葉が通じて、ソーメン様の細い麺をスープに入れたものを出してきた。<br /><br />今朝バイキングで充分腹ごなししてあるので、昼はこんな程度の麺で上等。しかしここもランパーンの街中の食堂、チェンマイのバス・ターミナルの食堂と同様、ハエの多さにはげんなりする。地元民相手の食堂は大体がこんなものと諦める。<br /><br />さて食後、今次タイ旅行の目玉の一つであるピマーイ遺跡を訪問する。この遺跡はクメール様式の寺院で、当時この町がアンコール帝国、現在のカンボジアに統治されていた頃の建造物で、アンコール・ワットと瓜二つと言われている。域内は回廊で囲われ、正門を入ると綺麗に刈り込れた芝生の先にシンメトリックな石造の城門が前方に壁を作り、その後方に3つの石柱が立ち塞がっている。<br /><br />この遺跡は今から1000年前、最初にヒンドウ寺院として建立され、後クメール様式の仏教寺院に改修され、その後遺跡となったものである。1000年前の人々が歩んだと同じように今磨り減った石畳を歩き、同じ光景を眼前にしている。広大な敷地の中、当時も今と同じ様に静寂だったに違いない。<br /><br />廃墟になってから既に800年、幾多の風雨に晒されながらも人が神に祈ることの精神性を今に伝えていた。内陣の中央の塔の真ん中に仏陀、シッダルタの印相を結ぶ像があり、クメールがこの地から去って後も、地元、タイの人々は以前と変わらぬ祈りを捧げてきたのだ。仏教の普遍性でもあった。<br /><br />正門を出たところに幾つか小さな土産店があるが規模は小さく、外国からの団体客もそれ程来ないのかも知れない。少し離れた場所に雑貨店があり、中から若い女性が日本語で話しかけてきたが、話を聞くと、彼女はコンケーン大学工学部を卒業し、大学で日本語を勉強したとのことだった。<br /><br />年の頃まだ25−6歳のうら若い女性が、工学部出身というからには相当頭が良い筈だが、こんな田舎の流行らない店の店番をしているとは随分もったいない話で、バンコクへでも出たら直ぐにでも日本企業に就職できると内心思ったが、彼女は彼女なりにここにいる理由があるのだろう。<br /><br />日本に住んだことのある芸能人と同じ位流暢な日本語を話す彼女とタイのこと、ピマーイのこと、日本のことどもを話し、しかしこんな田舎に於いてでも日本語に遭遇するとは、日本語も随分国際的になったものだと内心驚きもし、誇らしくもなった。一体どれ位のタイ人が日本語に興味を持ち勉強しているか、クラスに何人の日本語専攻生徒がいたか等聞き漏らしたのは残念だった。<br /> <br />

タイ・ラオス3000キロの旅(29)コラート、ピマーイ。

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2007/04/24 - 2007/05/08

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ちゃお

ちゃおさん

5月6日(土)、コラート(F8ik^), ピマーイ (rb,kp)
この町の正式な名称は舌を噛みそうなナコンラーチャシーマー(o8iik^lu,k)であるが、タイの人々は古くから呼びなれている「コラート」と、親しみをこめて呼んでいる。この町はイサーン地方の入り口の都市で、且つ一番古くから開けた町である。人口もウドンタニに次いで多い。コンケーンからは約200キロ、高速バスで3時間も掛からない。

今朝もゆっくり起き、朝食前にタラートを散歩。朝の市場は買い物客で混んでいる。その中に混じって黄色い衣を纏った托鉢僧が何人かボールを抱えて売り場を廻っている。まだ十代の若い僧だ。売り子はボールの中に野菜を入れたり、食料を入れたり、又買い物客が喜捨したり、買ったばかりの食材を惜しげもなく渡したり、とタイ人の宗教観がよく観察できた。

若い僧らは、各寺院から遣わされ今日一日の食事を托鉢しているのか、ボールが一杯になるとスタスタとどこかへ立ち去って行った。毎日繰り返される朝の行事。この町のこのタラートでは何百年に亙って繰り返されているに違いない朝の托鉢。きっと飢饉の時も、戦争の時も変わらず繰り返されてきた光景。庶民の間には仏法僧が深く根付き、自然の姿で息づいているようだった。

バスは昼前にコラート・ターミナルに到着。又インフォーメーションで今晩の宿泊先を尋ねたところ、ターミナル近くにボートと言うホテルがあるとの事。途端にツクツク客引きが50バーツと言って寄ってくる。当方近くは分っているので30バーツと提示すると、客引きは何を考えてか、「モーターサイ、モーターサイ」と言ってバイクの方へ案内する。何のことはない、モーターサイクルのタイ語表現で、バイク便のこと。

初めて乗るバイクに重心の間合いが取れず、背中に背負ったリュックの重みで、後ろに振り落とされそうになるが、両手で必死にバーを握り、ほうほうの体で僅か5分程度の乗車を経験する。一旦ホテルに荷物を下ろし、再びターミナルまで戻り今日の目的地ピマーイに向う。

ピマーイはコンケーンからコラートへ来る国道上の途中にあり、バスを乗り換えればコラートに来なくても直接行くことも可能。

コラートの北40−50キロ付近で東に折れる地方道に入り、そこからは10キロ位の距離である。イサーンは貧しいと聞いていたが、この辺りかなり裕福そうな住宅も並んでいて、田畑も緑濃い。放牧されている牛などもチェンマイ方面のよりは肥えている。

車掌の合図でバスからはピマーイの街中の停留所で降ろしてもらい、昼食のレストランを探したが余りパッとしない。有名な観光地であるとしても外国からのお客さんは大型バスでやってきて、サッと見学してサッと立ち去る。この街自体には用はなくどこか途中のモダンなドライブインで食事など取るのだろう。

ここには地元住民を相手にする様な薄ら汚れた感じの食堂が2軒ばかりあるだけで、どちらも似たり寄ったり。その内の1軒に入り、何か分らず「カオ・ソーイ」と言ったら言葉が通じて、ソーメン様の細い麺をスープに入れたものを出してきた。

今朝バイキングで充分腹ごなししてあるので、昼はこんな程度の麺で上等。しかしここもランパーンの街中の食堂、チェンマイのバス・ターミナルの食堂と同様、ハエの多さにはげんなりする。地元民相手の食堂は大体がこんなものと諦める。

さて食後、今次タイ旅行の目玉の一つであるピマーイ遺跡を訪問する。この遺跡はクメール様式の寺院で、当時この町がアンコール帝国、現在のカンボジアに統治されていた頃の建造物で、アンコール・ワットと瓜二つと言われている。域内は回廊で囲われ、正門を入ると綺麗に刈り込れた芝生の先にシンメトリックな石造の城門が前方に壁を作り、その後方に3つの石柱が立ち塞がっている。

この遺跡は今から1000年前、最初にヒンドウ寺院として建立され、後クメール様式の仏教寺院に改修され、その後遺跡となったものである。1000年前の人々が歩んだと同じように今磨り減った石畳を歩き、同じ光景を眼前にしている。広大な敷地の中、当時も今と同じ様に静寂だったに違いない。

廃墟になってから既に800年、幾多の風雨に晒されながらも人が神に祈ることの精神性を今に伝えていた。内陣の中央の塔の真ん中に仏陀、シッダルタの印相を結ぶ像があり、クメールがこの地から去って後も、地元、タイの人々は以前と変わらぬ祈りを捧げてきたのだ。仏教の普遍性でもあった。

正門を出たところに幾つか小さな土産店があるが規模は小さく、外国からの団体客もそれ程来ないのかも知れない。少し離れた場所に雑貨店があり、中から若い女性が日本語で話しかけてきたが、話を聞くと、彼女はコンケーン大学工学部を卒業し、大学で日本語を勉強したとのことだった。

年の頃まだ25−6歳のうら若い女性が、工学部出身というからには相当頭が良い筈だが、こんな田舎の流行らない店の店番をしているとは随分もったいない話で、バンコクへでも出たら直ぐにでも日本企業に就職できると内心思ったが、彼女は彼女なりにここにいる理由があるのだろう。

日本に住んだことのある芸能人と同じ位流暢な日本語を話す彼女とタイのこと、ピマーイのこと、日本のことどもを話し、しかしこんな田舎に於いてでも日本語に遭遇するとは、日本語も随分国際的になったものだと内心驚きもし、誇らしくもなった。一体どれ位のタイ人が日本語に興味を持ち勉強しているか、クラスに何人の日本語専攻生徒がいたか等聞き漏らしたのは残念だった。

  • かつてクメール王国の副都(首都はアンコール)として栄えたピマーイ。今は綺麗な歴史公園として整備されている。

    かつてクメール王国の副都(首都はアンコール)として栄えたピマーイ。今は綺麗な歴史公園として整備されている。

  • スコータイに匹敵するような有名な観光地だからやってくる日本人の数も多い。

    スコータイに匹敵するような有名な観光地だからやってくる日本人の数も多い。

  • アンコール様式のクメール寺院である。

    アンコール様式のクメール寺院である。

  • ピマーイ正面のワットの前で。

    ピマーイ正面のワットの前で。

  • タイ・クメール、永遠の歴史の中にピマーイ遺跡はあった。

    タイ・クメール、永遠の歴史の中にピマーイ遺跡はあった。

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