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足利学校は日本最古の学校と言われています。堂の中央には孔子坐像、右には、足利学校の創立者とされる小野篁、左に徳川家康の神位を祀っています。<br /><br />足利学校の創設については、国学の遺制であるとか、小野篁(おののたかむら)・藤原秀郷の曽孫の人間・足利義兼・上杉憲実(のりざね)などの創設等多様にあります。<br /> 実際に一時衰えていた学校の再興に尽力し、歴史的にも明らかとなってくるのは鎌倉にいた関東管領の上杉憲実が応永二十六年(1419)関東管領の職を継いで以来だと言われています。『尚書正義(しょうしょせいぎ)』20巻を初めとして『毛詩註疏(もうしちゅうそ)』・『礼記(らいき)正義』・『春秋左伝註疏』などを寄進したことと、禅宗五山のうち鎌倉の円覚寺の僧であった快元を初代庠主(しょうしゅ)という学校長職に招くなどしました。憲実の以後もその子憲忠、子孫にあたる憲房も父祖の志を受けることによって、書籍を学校に寄進するなど、学校のために尽くしたと言われています。<br /><br />代目の庠主九華(きゅうか)の代になると学校はますます盛んに栄えたそうです。当時は3000人超の生徒が学んでいたといわれ、足利学校はヤソ会の宣教師フランシスコ=ザビエルによって天文十九年(1550)インドのゴア政庁に「坂東(関東)に大学あり」と報告されました。ザビエルは「日本国中最も大にして、もっとも有名な坂東の大学」とも世界に紹介しています。<br />また、永禄三年(1560)には小田原の北条氏政が金沢文庫の宋版(そうばん)『文選』を寄進しました。そのころの足利学校では儒学を中心に易学・兵学・医学などが講義されていました。後に田代三喜・曲阿瀬道三という有名な医師が育ち、日本の医学の発展にも尽くしました。<br /><br /><br />徳川氏による天下統一が実現した江戸時代、泰平の世が訪れると足利学校は郷学(ごうがく)として近くの村等から豊かな家の子弟たちが入学して、漢学の手ほどきを受けたと伝えられています。<br />やがては貴重書を保管する文庫としての役割が学者によって注目されることとなり、数多くの学者や文人たちが学校を訪ねたそうです。中世における足利学校のなごりを示すものといえば、年の初めに学校から幕府にあてて提出された年筮(ねんぜい)と呼ばれる書簡だけとなっています。江戸時代末期頃には足利学校は坂東の大学としての役割を終える事となり、明治五年に廃校となりました。<br /><br />昭和五十七年の「史跡足利学校跡保存整備事業」によって、平成二年の12月に足利学校の復元が行われ、江戸中期ごろの姿を佇ませるものとなりました。毎年、11月23日には孔子を祀る儀式「釈奠(せきてん)」が催されています。<br /><br />ここで、時間切れ。。。織姫神社に戻る事にしました。 <br /><br /><br />

足利巡り2008、『足利学校』

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2008/01/14 - 2008/01/14

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フロッガー

フロッガーさん

足利学校は日本最古の学校と言われています。堂の中央には孔子坐像、右には、足利学校の創立者とされる小野篁、左に徳川家康の神位を祀っています。

足利学校の創設については、国学の遺制であるとか、小野篁(おののたかむら)・藤原秀郷の曽孫の人間・足利義兼・上杉憲実(のりざね)などの創設等多様にあります。
 実際に一時衰えていた学校の再興に尽力し、歴史的にも明らかとなってくるのは鎌倉にいた関東管領の上杉憲実が応永二十六年(1419)関東管領の職を継いで以来だと言われています。『尚書正義(しょうしょせいぎ)』20巻を初めとして『毛詩註疏(もうしちゅうそ)』・『礼記(らいき)正義』・『春秋左伝註疏』などを寄進したことと、禅宗五山のうち鎌倉の円覚寺の僧であった快元を初代庠主(しょうしゅ)という学校長職に招くなどしました。憲実の以後もその子憲忠、子孫にあたる憲房も父祖の志を受けることによって、書籍を学校に寄進するなど、学校のために尽くしたと言われています。

代目の庠主九華(きゅうか)の代になると学校はますます盛んに栄えたそうです。当時は3000人超の生徒が学んでいたといわれ、足利学校はヤソ会の宣教師フランシスコ=ザビエルによって天文十九年(1550)インドのゴア政庁に「坂東(関東)に大学あり」と報告されました。ザビエルは「日本国中最も大にして、もっとも有名な坂東の大学」とも世界に紹介しています。
また、永禄三年(1560)には小田原の北条氏政が金沢文庫の宋版(そうばん)『文選』を寄進しました。そのころの足利学校では儒学を中心に易学・兵学・医学などが講義されていました。後に田代三喜・曲阿瀬道三という有名な医師が育ち、日本の医学の発展にも尽くしました。


徳川氏による天下統一が実現した江戸時代、泰平の世が訪れると足利学校は郷学(ごうがく)として近くの村等から豊かな家の子弟たちが入学して、漢学の手ほどきを受けたと伝えられています。
やがては貴重書を保管する文庫としての役割が学者によって注目されることとなり、数多くの学者や文人たちが学校を訪ねたそうです。中世における足利学校のなごりを示すものといえば、年の初めに学校から幕府にあてて提出された年筮(ねんぜい)と呼ばれる書簡だけとなっています。江戸時代末期頃には足利学校は坂東の大学としての役割を終える事となり、明治五年に廃校となりました。

昭和五十七年の「史跡足利学校跡保存整備事業」によって、平成二年の12月に足利学校の復元が行われ、江戸中期ごろの姿を佇ませるものとなりました。毎年、11月23日には孔子を祀る儀式「釈奠(せきてん)」が催されています。

ここで、時間切れ。。。織姫神社に戻る事にしました。


  • 入り口、入徳門です。入ってすぐ右に受付があって入館料を払います。学校の歴史の沿革を流すビデオが隣の施設で見れます。<br /><br />入徳門は寛文八年(1668)の創建です。天保十一年(1840)に入徳の額が掲げられました。<br />

    入り口、入徳門です。入ってすぐ右に受付があって入館料を払います。学校の歴史の沿革を流すビデオが隣の施設で見れます。

    入徳門は寛文八年(1668)の創建です。天保十一年(1840)に入徳の額が掲げられました。

  • 学校門のほうへ。学校門も寛文八年の創建。<br /><br />写りこんでるのは自分です(笑)

    学校門のほうへ。学校門も寛文八年の創建。

    写りこんでるのは自分です(笑)

  • 学校門をくぐると左に遺蹟図書館。この図書館は足利学校が廃校になった後の明治三十六年(1903)に開設され、書物等を保管して現在に引き継いでいます。昔の教科書などを見ることができます。<br /><br />現在の建物は大正四年(1915)に建てられました。

    学校門をくぐると左に遺蹟図書館。この図書館は足利学校が廃校になった後の明治三十六年(1903)に開設され、書物等を保管して現在に引き継いでいます。昔の教科書などを見ることができます。

    現在の建物は大正四年(1915)に建てられました。

  • そして杏壇(きょうだん)門へ。こちらも寛文八年創建。<br /><br />明治二十五年(1892)に町の大火の際に飛び火によって門扉が焼けてしまい、同30年代に再建したとされています。<br /><br />杏壇とは、孔子が弟子達を教えた所に杏の木が植えられていたことに由来する物です。

    そして杏壇(きょうだん)門へ。こちらも寛文八年創建。

    明治二十五年(1892)に町の大火の際に飛び火によって門扉が焼けてしまい、同30年代に再建したとされています。

    杏壇とは、孔子が弟子達を教えた所に杏の木が植えられていたことに由来する物です。

  • そして、孔子廟(聖廟)。聖廟(せいびょう)とは孔子を祀った場所のことです。<br />江戸幕府四代将軍・足利家綱の時に造られました。中国明朝時代の聖廟を模して造られたと伝えられています。

    そして、孔子廟(聖廟)。聖廟(せいびょう)とは孔子を祀った場所のことです。
    江戸幕府四代将軍・足利家綱の時に造られました。中国明朝時代の聖廟を模して造られたと伝えられています。

  • 杏壇門の脇にある松。これは字降松(かなふりまつ)と呼ばれています。<br /><br />読めない字や意味のわからない言葉などを紙に書いてこの松の枝に結んでおくと、翌日にはふりがなや意味がついていたことからこう呼ばれるようになったと伝えられています。

    杏壇門の脇にある松。これは字降松(かなふりまつ)と呼ばれています。

    読めない字や意味のわからない言葉などを紙に書いてこの松の枝に結んでおくと、翌日にはふりがなや意味がついていたことからこう呼ばれるようになったと伝えられています。

  • 庭園を通り越して菜園場(サエンバ)へ。ここで日々の食事に必用な野菜などを育てていたそうです。

    庭園を通り越して菜園場(サエンバ)へ。ここで日々の食事に必用な野菜などを育てていたそうです。

  • 衆寮(しゅりょう)。学生が書物を書き写したり生活をしていた場所です。

    衆寮(しゅりょう)。学生が書物を書き写したり生活をしていた場所です。

  • 衆寮内部。

    衆寮内部。

  • そして庫裡(くり)へ。ここは学校の台所でした。食堂などがあった場所です。今は資料館として、そして方丈への入り口です。

    そして庫裡(くり)へ。ここは学校の台所でした。食堂などがあった場所です。今は資料館として、そして方丈への入り口です。

  • 庫裡にて。書物等が展示されています。

    庫裡にて。書物等が展示されています。

  • そして方丈(ほうじょう)へ。ここは学生への講義や学校行事が行われ、来客の座敷としても使われていました。

    そして方丈(ほうじょう)へ。ここは学生への講義や学校行事が行われ、来客の座敷としても使われていました。

  • 孔子様たちがお出迎え。

    孔子様たちがお出迎え。

  • 方丈から南庭園です。

    方丈から南庭園です。

  • 書院の方へ。スクエアな箱庭です。

    書院の方へ。スクエアな箱庭です。

  • 北庭園。こちらは亀のように見える水際として造られています。

    北庭園。こちらは亀のように見える水際として造られています。

  • 書院。庠主の書斎です。庠主の接客や学生への個人授業が行われていました。<br /><br />ここの窓から見る北庭園の景色は四季折々楽しめるそうです。入るのは禁止でした(;´▽`A``

    書院。庠主の書斎です。庠主の接客や学生への個人授業が行われていました。

    ここの窓から見る北庭園の景色は四季折々楽しめるそうです。入るのは禁止でした(;´▽`A``

  • 庫裡を出て、南庭園を通ります。方丈を外から見るとこんな感じ。

    庫裡を出て、南庭園を通ります。方丈を外から見るとこんな感じ。

  • 庭園の砂にも模様が描かれています。が、荒らされています(笑)

    庭園の砂にも模様が描かれています。が、荒らされています(笑)

  • 北庭園と南庭園、共に築山泉水(つきやまさんすい)式庭園です。南庭園は鶴が羽ばたくように見える水際の造り。

    北庭園と南庭園、共に築山泉水(つきやまさんすい)式庭園です。南庭園は鶴が羽ばたくように見える水際の造り。

  • 裏門です。こちらの門は学生や一般人の通用門として使われていました

    裏門です。こちらの門は学生や一般人の通用門として使われていました

  • お稲荷様もあります。

    お稲荷様もあります。

  • 狐様。

    狐様。

  • 子像。

    子像。

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