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足利市内に戻ってきて、織姫神社にまずは向かったのですが時間的に鑁阿寺のほうを先に回らないと間に合わないので車を織姫神社において、歩きで鑁阿寺へ向かいました。周辺の駐車場が開いているかわからなかったためにそうしたのですが、鑁阿寺に車を乗り入れることもできるし、太平記記念館にもおくことができるので平日ならそちらの方がいいかも。<br /><br />ということで、15分くらいで堀が見えてきます。鑁阿寺は周囲を堀に囲まれた造りです。下の写真の方向に行けば表門に出られたのですが、間違って左に行ってしまいました。<br /><br />さて、本題です。<br />鑁阿寺の寺号は正しくは『金剛山仁王院 法華坊鑁阿寺(こんごうさんにおういん ほっけぼうばんなじ)』と称します。足利氏の氏寺であり、本尊は大日如来を奉ります。<br />足利氏二代目の義兼が建久七年(1196)に屋敷として使っていたここの邸内に持仏堂【堀内御堂(ほりのうちみどう)】を建てて、守り本尊として大日如来を祭ったのが始まりとされています。三代目の義氏が堂塔伽藍を建立し足利一門の氏寺としました。開山は義兼の持僧であった理真和尚です。<br /><br />樺崎八幡宮の所で書き忘れましたが、義兼は源氏の祖である八幡太郎義家の孫・足利義康の子になります。このため源姓足利氏を名乗ります。義兼は幕府の重臣として力が大きくなってくると共に身の危険を感じるようになっていたようです。源頼朝が将軍直轄の主系統を重視する政治性と猜疑心の強い人間性を持っていたためか、義経の死(1189)の後に高野山に入って出家してしまいました。僧名は法華房鑁阿(ほっけぼうばんな)を名乗りました。<br /><br />義兼の出家に関しては伏線があります。ある時、義兼は所用により鎌倉に出仕していました。半年程して帰ってくると妻の時子の腹がふくらんでいます。侍女・藤野の話によると、義兼の宿敵であった足利忠綱と密通を交わした上に妊娠したとのこと。<br />怒った義兼は厳しく時子を問い詰めましたが時子は「身に覚えのない事、疑うのであれば私のお腹を裂いてください」と言うばかりで、ついに自害してしまいます。そこで腹を割り裂いてみると出てきたのはなんと血を吸って太った無数の蛭(ヒル)です。義兼は己を深く恥じるとともに真相を探ります。すると時子の腹が膨らみ始めたのは、春の花見の時分に、藤野が汲んできた古井戸の水を飲んでからだという話。井戸を調べてみると、目に見えるか見えないかの小さな蛭が無数泳いでいました。これが腹の中で血を吸って育ったことになります。全ては藤野の計略でした。時子の侍女であると同時に、義兼の寵愛を受けていた藤野は時子を失脚させて義兼の愛を独占しようとしたのです。義兼は藤野の足を二頭の牛の角に縛って牛裂きの刑に処しました。それ以降この井戸を使う事を禁じて鑁阿と号し出家したと伝えられています。この井戸は今も開かずの井戸として本堂横にあります。怖いので写真はなしです(ーー;)<br /><br />寺周囲は土塁と堀をはりめぐらしていて、ほぼ正方形の形をとっています。敷地面積は4万平方メートルに及び、鎌倉時代の武家屋敷様式を誇ります。創建当初は高野山の末寺として、その後は醍醐寺の末寺となり、あわせて長谷寺の直末(じきまつ)寺でしたが、昭和二十六年に5末寺を率いて独立寺となり、現在は真言宗大日派の本山となっていて、地元の人達には『大日様』と呼ばれ親しまれています。<br />

足利巡り2008、『鑁阿(ばんな)寺』

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2008/01/14 - 2008/01/14

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フロッガー

フロッガーさん

足利市内に戻ってきて、織姫神社にまずは向かったのですが時間的に鑁阿寺のほうを先に回らないと間に合わないので車を織姫神社において、歩きで鑁阿寺へ向かいました。周辺の駐車場が開いているかわからなかったためにそうしたのですが、鑁阿寺に車を乗り入れることもできるし、太平記記念館にもおくことができるので平日ならそちらの方がいいかも。

ということで、15分くらいで堀が見えてきます。鑁阿寺は周囲を堀に囲まれた造りです。下の写真の方向に行けば表門に出られたのですが、間違って左に行ってしまいました。

さて、本題です。
鑁阿寺の寺号は正しくは『金剛山仁王院 法華坊鑁阿寺(こんごうさんにおういん ほっけぼうばんなじ)』と称します。足利氏の氏寺であり、本尊は大日如来を奉ります。
足利氏二代目の義兼が建久七年(1196)に屋敷として使っていたここの邸内に持仏堂【堀内御堂(ほりのうちみどう)】を建てて、守り本尊として大日如来を祭ったのが始まりとされています。三代目の義氏が堂塔伽藍を建立し足利一門の氏寺としました。開山は義兼の持僧であった理真和尚です。

樺崎八幡宮の所で書き忘れましたが、義兼は源氏の祖である八幡太郎義家の孫・足利義康の子になります。このため源姓足利氏を名乗ります。義兼は幕府の重臣として力が大きくなってくると共に身の危険を感じるようになっていたようです。源頼朝が将軍直轄の主系統を重視する政治性と猜疑心の強い人間性を持っていたためか、義経の死(1189)の後に高野山に入って出家してしまいました。僧名は法華房鑁阿(ほっけぼうばんな)を名乗りました。

義兼の出家に関しては伏線があります。ある時、義兼は所用により鎌倉に出仕していました。半年程して帰ってくると妻の時子の腹がふくらんでいます。侍女・藤野の話によると、義兼の宿敵であった足利忠綱と密通を交わした上に妊娠したとのこと。
怒った義兼は厳しく時子を問い詰めましたが時子は「身に覚えのない事、疑うのであれば私のお腹を裂いてください」と言うばかりで、ついに自害してしまいます。そこで腹を割り裂いてみると出てきたのはなんと血を吸って太った無数の蛭(ヒル)です。義兼は己を深く恥じるとともに真相を探ります。すると時子の腹が膨らみ始めたのは、春の花見の時分に、藤野が汲んできた古井戸の水を飲んでからだという話。井戸を調べてみると、目に見えるか見えないかの小さな蛭が無数泳いでいました。これが腹の中で血を吸って育ったことになります。全ては藤野の計略でした。時子の侍女であると同時に、義兼の寵愛を受けていた藤野は時子を失脚させて義兼の愛を独占しようとしたのです。義兼は藤野の足を二頭の牛の角に縛って牛裂きの刑に処しました。それ以降この井戸を使う事を禁じて鑁阿と号し出家したと伝えられています。この井戸は今も開かずの井戸として本堂横にあります。怖いので写真はなしです(ーー;)

寺周囲は土塁と堀をはりめぐらしていて、ほぼ正方形の形をとっています。敷地面積は4万平方メートルに及び、鎌倉時代の武家屋敷様式を誇ります。創建当初は高野山の末寺として、その後は醍醐寺の末寺となり、あわせて長谷寺の直末(じきまつ)寺でしたが、昭和二十六年に5末寺を率いて独立寺となり、現在は真言宗大日派の本山となっていて、地元の人達には『大日様』と呼ばれ親しまれています。

  • 鴨がいっぱいいます(笑)

    鴨がいっぱいいます(笑)

  • そして、今回はこの薬医門から境内へ。

    そして、今回はこの薬医門から境内へ。

  • 鑁阿寺のいちょうは多宝塔の前に立っています。2本の株が融合した木ですが、2本合わせて一つの樹冠の形を形成しています。推定樹齢は650年超だそうです。

    鑁阿寺のいちょうは多宝塔の前に立っています。2本の株が融合した木ですが、2本合わせて一つの樹冠の形を形成しています。推定樹齢は650年超だそうです。

  • 表門の太鼓橋は橋の長さが7.8m・幅約3.4mの屋根付きのケヤキ造りの木橋です。この太鼓橋は、安政2年(1855)に再建されたものですが屋根がある形式は全国的に見ても珍しい物です。

    表門の太鼓橋は橋の長さが7.8m・幅約3.4mの屋根付きのケヤキ造りの木橋です。この太鼓橋は、安政2年(1855)に再建されたものですが屋根がある形式は全国的に見ても珍しい物です。

  • 鐘楼堂の前には細長い北山杉が。大晦日には鐘を突く人手行列ができるそうです。

    鐘楼堂の前には細長い北山杉が。大晦日には鐘を突く人手行列ができるそうです。

  • 表門。すぐ奥が楼門です。楼門は鑁阿寺山門になります。室町時代の永禄七年(1564)、室町幕府十三代将軍・足利義輝が再建しました。

    表門。すぐ奥が楼門です。楼門は鑁阿寺山門になります。室町時代の永禄七年(1564)、室町幕府十三代将軍・足利義輝が再建しました。

  • 楼門をくぐると本堂が見えてきます。

    楼門をくぐると本堂が見えてきます。

  • 右手に鐘楼堂。

    右手に鐘楼堂。

  • そして左手に多宝塔。鑁阿寺の多宝塔は江戸時代初期 の元禄五年(1692)、江戸幕府五代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院尼が再建しました。

    そして左手に多宝塔。鑁阿寺の多宝塔は江戸時代初期 の元禄五年(1692)、江戸幕府五代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院尼が再建しました。

  • 逆光だったので、裏側から。

    逆光だったので、裏側から。

  • 大御堂(本堂)。建久七年(1196)持仏堂として建造され、守り本尊として大日如来を祀ってあります。

    大御堂(本堂)。建久七年(1196)持仏堂として建造され、守り本尊として大日如来を祀ってあります。

  • 一切(いっさい)経堂。応永十四年(1407)建立の経堂です。二代目足利義兼が創建しました。中のお経が納められている棚は八角形になっていて回転式だそうです。中には一切経を二千巻あまり所蔵しています。<br />宝永五年(1708)には屋根が修理されたそうで、これらの修理や改修で現在の経堂は鎌倉や室町の様式を主軸に江戸期の様式も混ざった建物になっていました。近年では昭和九年の改修の時に黄土色の土壁色に塗られていましたが、最近の修復工事によって創建当時の姿である白壁に柱や梁は朱色に復元されて鮮やかな色彩のものとなりました

    一切(いっさい)経堂。応永十四年(1407)建立の経堂です。二代目足利義兼が創建しました。中のお経が納められている棚は八角形になっていて回転式だそうです。中には一切経を二千巻あまり所蔵しています。
    宝永五年(1708)には屋根が修理されたそうで、これらの修理や改修で現在の経堂は鎌倉や室町の様式を主軸に江戸期の様式も混ざった建物になっていました。近年では昭和九年の改修の時に黄土色の土壁色に塗られていましたが、最近の修復工事によって創建当時の姿である白壁に柱や梁は朱色に復元されて鮮やかな色彩のものとなりました

  • 本堂左には不動堂。足利義兼の創建とされています。文祿元年(1592)、生実御所国朝によって修理されました。本尊である不動明王は千葉県の成田山より勧請したもので、興教大使の作といわれています。

    本堂左には不動堂。足利義兼の創建とされています。文祿元年(1592)、生実御所国朝によって修理されました。本尊である不動明王は千葉県の成田山より勧請したもので、興教大使の作といわれています。

  • 弘法大師に挨拶して表門から足利学校へ向かいます。

    弘法大師に挨拶して表門から足利学校へ向かいます。

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