2009/04/05 - 2009/04/05
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旅人のくまさんさん
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織田信長は、桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須に居城しました。徳川家康によって慶長14年(1609年)、清須から名古屋への遷府が指令され、清須城は名古屋城築城の際の資材として利用されました。名古屋城御深井丸西北隅櫓が『清須櫓』と呼ばれるのは、清須城天守の資材を元に作られたためです。
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鉄砲狭間がある白壁と染井吉野の光景です。後ほど『清州越し』のことを紹介しますが、廃城になった清洲城は、東西約45メートル、南北約123メートル(142メートルとする説もあります)、約5500平方メートルの広さでした。その城郭あとは次第に田畑に開墾され、文政9年(1826年)頃には東西38メートル、南北35メートルの1330平方メートルまでに狭まったようです。
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五条川沿いの桜並木の光景です。花見客で溢れていました。天守台址は、江戸時代は尾張藩が清洲城址として保存し、天保年間(1830〜1844年)に、清洲代官朝田藤三郎が城跡周辺に石垣を築き、次の代官荒尾喜蔵が周囲に松を植え、史跡保存に努めたとされます。
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イチオシ
桜の花で飾られた模擬天守の光景です。江戸時代には、清州城址に弘化年間(1844〜1847年)頃に、『右大臣織田信長公古城跡』の石碑、文久2年(1862年)に、『清洲城墟碑』が建立されました。
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今度は赤色の八重咲の里桜に飾られた模擬天守の光景です。明治維新後、通称御城山と呼ばれる清洲城跡一帯は、御料地として宮内省が管理することになりました。
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周りの建物も入れた、清州城の模擬天守の光景です。清洲城址を貫いて東海道線の線路が敷設されたのは、明治19年(1886年)のことです。今のJR清洲駅より1キロ程名古屋寄りに清洲駅が置かれましたが、明治39年(1906年)に廃止されました。地元では有志23名により、古城址の規模を拡大し、その存続を図るために『清洲古城跡保存会』が、明治30年(1897年)に設立されました。保存会により、御料地払下げの請願が提出されましたが受理されず、拝借願いを出して明治31年(1898年)から20年間の無料貸し渡しが許可されました。
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模擬天守の周りの建物光景です。清洲城の城主だった織田信長公には、大正6年(1917年)に正一位が追贈されました。また、大正7年(1918年)には、松井茂愛知県知事により提出された、『清洲城跡を補修して清洲公園を造成する案』が議会で可決され、大正9年(1920年)着工、大正11年(1922年)に竣工しました。
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由来が分からなかった三つ巴紋です。三つ巴の周囲に、16個の丸い突起があります。星を表すものでしょうか。
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ヤエベニシダレ(八重紅枝垂れ)桜らしい並木の光景です。ピンク色の花が見頃になっていました。
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ヤエベニシダレシダレ(八重紅枝垂れ)らしい桜の光景です。左手に赤い欄干の大手橋、その先に『清須ふるさとのやかた』の銅葺き屋根が見えています。
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ヤエベニシダレシダレ(八重紅枝垂れ)らしい花のズームアップ光景です。サトザクラ(里桜)の一種で、エドヒガン系の園芸品種です。
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イチオシ
同じく、ヤエベニシダレシダレ(八重紅枝垂れ)らしい花のズームアップ光景です。八重紅枝垂れは、『遠藤桜』、『仙台八重枝垂れ』、『仙台小桜』や『平安紅枝垂れ』とも呼ばれます。
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発掘調査で見つかったものか、模擬天守などと同じ時期に造られたものかは分かりませんが、古井戸の光景です。覆いも年代を経た竹筒を編んだものです。
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最初は、てっきり紅白の梅か桃かと勘違いした、里桜の花の光景です。模擬天守に相応しい花の飾りでした。
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白色系統の里桜らしい光景です。微かにピンク色が混じっていました。写真紹介をしながら、まだ梅や桃の花のことが頭に浮かびます。
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イチオシ
今度は、八重咲の桃色の里桜の花のズームアップ光景です。バックが暗くなってくれました。まるで飾り物のように綺麗な花です。
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紅白の八重桜で飾られた模擬天守の光景です。昭和63年(1988年)4月、清洲公園の対岸の地に清洲文化広場の整備の一環として、清洲城模擬天主の建設着工、芸能文化館を建築して清洲城黒木書院と芸能の間を設けると共に、大手門等の建築と日本庭園・土蔵の整備などが行われました。竣工したのは平成元年(1989年)4月でした。日本のバブル経済がはじける直前でした。
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模擬天守近くの庭園光景です。形だけと思われる鉄砲狭間らしい穴が開いた白壁が区域境にありました。
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同じく、模擬天守近くの庭園光景です。かなり立派な庭石が配置されていました。枯山水風の作庭でした。
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この辺りの庭園では、刈り込んだ庭木などがありました。基本的には、枯山水風の作庭でした。
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表面の凹凸が人為的揃えてありますから、野面積ではありません。ウチコミハギ(打ち込み接ぎ)辺りでしょうか、キリコミハギ(切り込み接ぎ)ではないようです。
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石垣の間から姿を現したトカゲです。まだ子供のようでした。絶好の隠れ場所で、餌獲り場所でもあるようです。
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花穂を伸ばして白い花を咲かせていた、アシビ(馬酔木)です。馬酔木の名前は、馬が葉を食べると毒に当たり、酔ったように、ふらつく木から付いたとされます。有毒成分は、グラヤノトキシンI(旧名アセボトキシン)等です。
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桜の花ではなく、アシビ(馬酔木)の花の落花光景です。木漏れ日の中で、風情のある光景でした。
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大きな庭石と、『茶席』の立看板があった建物の光景です。ここにも、紅白の里桜がありました。
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同じく、紅白の里桜と大きな庭石の光景です。『紅』の方は、赤というより桃色でした。
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鉄砲狭間で仕切られた先に見えた、本丸御殿風の建物光景です。『茶席』の立て看板があった建物の、破風光景です。
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鬼瓦と軒丸瓦のズームアップ光景です。鬼瓦の紋所は、信長の紋所で一番有名な木瓜(織田木瓜)紋でした。尾張守護の斯波氏より拝領した紋所とされます。『大手門』と呼ばれている建物だったようです。
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同じく、『大手門』と呼ばれている建物の光景です。大手橋に正対した場所に造られた門です。
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房状に咲いた白い花です。万葉集にも出てくるアシビ(馬酔木)の花のようです。ツツジ科アセビ属の常緑低木です。アセビとも呼ばれます。
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五条川の堤防式で咲いていた染井吉野の花です。満開と言ってよい咲き方でした。
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