2008/11/12 - 2008/11/14
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さすらいおじさんさん
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星田妙見宮の参道近くに徳川家康(1542−1616年)が本能寺の変(1582年)の時、三河に逃げ帰る途中に潜んだと伝わる竹薮がある。
織田信長(1534−1582年)が京都本能寺で明智光秀(1528−1582年)の謀反で攻められ自害した時、家康は少人数の近臣とともに堺に滞在中だった。光秀軍に狙われる危険から脱出して急いで三河に戻ろうとした家康は、深夜星田に着き薮の中に身を潜めたといわれる。家康は村の長・安井氏に山城方面に出る間道に精通している道案内人を出すように依頼、平井家の2名が道案内を買って出て、家康は山城経由で伊賀から三河に無事脱出できたといわれている。
1615年大坂夏の陣の際には徳川方は星田を宿営地にした。徳川家康は因幡矢橋城主市橋長勝(いちはし ながかつ1557−1620年)の進言で星田の村の長・平井三郎右衛門清貞宅を陣所としたが本能寺の変(1582年)の時に家康を助けたことが評価されたと伝えられている。清貞方では本宅から10間(18m)ほど北の5間(9m)四方ほどの一室を整えて家康の来宅に備えていたそうだ。
出陣の際に平井家には火入れ、小鉢類、湯呑茶碗など、家康使用の品々が与えられている。
徳川家康への協力により、市橋家には近江西大路陣屋で2万石の所領と河内の星田に1300石余の所領が与えられ、平井家は市橋家領の庄屋になったそうだ。
市橋家8代当主で近江仁正寺藩第7代藩主・市橋長昭((いちはし ながあき1773−1801年)が寛政年間(1789―1801年)に星田を訪れた際、徳川家康に協力して信頼を得た市橋長勝の功績を称える碑を建てようと立案、相模国小田原藩第7代藩主大久保忠真(おおくぼ ただざね1782−1837年)筆の「神祖営址之碑」 を1805年に建てた。この碑は「徳川家康の星田の陣の碑」として平井家の一角にひっそりと残っている。
(写真は徳川家康の星田の陣の碑)
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