2008/11/12 - 2008/11/12
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後村上天皇(ごむらかみてんのう1328−1368年)は、南北朝時代の第97代、南朝第2代天皇。
奈良の吉野・吉水神社(よしみずじんじゃ)、大阪の住吉大社の南、大社の歴代宮司の津守氏の住之江殿(正印殿)の中、石清水八幡宮などを行宮(あんぐう・かりみや)とした。
1333年鎌倉幕府が滅亡し、父・後醍醐天皇(ごだいごてんのう1288−1339年)が建武の新政を始めた。1335年に足利尊氏(あしかが たかうじ1305−1358年)が新政から離反し後醍醐天皇らは吉野へ逃れて南朝を成立させた。後村上天皇は1339年に後醍醐天皇から譲位され即位した。
八幡市の後村上天皇行宮には1352年に数ヶ月滞在し、南朝の楠木正成(くすのき まさしげー1336年)の3男・楠木正儀(くすのき まさのり−1389年)とともに北朝の足利尊氏、足利義詮(あしかが よしあきら1330−1367年)らと戦っていた。南朝は京都奪還を目指して戦うが足利義満(あしかが よしみつ1358−1408年)の将軍就任後の1368年に後村上天皇は住之江殿で崩御。南北朝時代は戦いの連続で後村上天皇は住まいを転々とせざるを得なかった。天皇の行宮所といっても神社内の粗末な建物だったのだろうと想像している。
後村上天皇行宮跡の碑は八幡市の観光ガイドにも掲載されておらず、住宅の間にひっそりと建っている。
(写真は後村上天皇行宮跡の碑)
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皇族の八幡行宮跡の碑。
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後村上天皇行宮跡前の光景。
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皇族の八幡行宮跡の碑。
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後村上天皇行宮跡前の光景。
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後村上天皇行宮跡の碑。
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後村上天皇行宮跡前の光景。
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後村上天皇行宮跡の碑。
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後村上天皇行宮跡の碑。
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石清水八幡宮の摂社、高良神社の境内。
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放生川にかかる安居橋。
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石清水八幡宮の摂社、高良神社の境内。
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放生川沿いの光景。
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石清水八幡宮の摂社、高良神社の境内。
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放生川沿いの光景。
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石清水八幡宮の摂社、高良神社の境内。
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放生川沿いの光景。
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石清水八幡宮の摂社、高良神社の境内。
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放生川沿いの光景。
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石清水八幡宮の摂社、高良神社の境内。
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放生川沿いの光景。
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石清水八幡宮五輪搭。航海記念塔(こうかいきねんとう)と呼ばれている。
京阪八幡市駅から南へ徒歩5分、神応寺総門の左にある五輪石塔が「航海記念塔」。
重要文化財で高さは6.08m、幅2.44mの日本最大規模で、下から地輪、水輪、火輪、風輪、空輪とのこと。石清水八幡宮の宮寺だった旧極楽寺の境内に建立されたもので廃寺となって、石塔だけが残った。石塔建立の起源や作者は不明だが、言い伝えが残されている。
八幡神を九州の宇佐八幡宮から勧請した大安寺の僧、行教の墓だといわれているが、平安時代の末期に摂津国、尼崎の豪商が入宋貿易帰途の海上で 大シケにあい、石清水八幡宮に祈り無事に帰国できたことを感謝し、1171−1174年の間に建立したものとも伝えられている。以後、船乗りたちが航 海の無事を祈願に訪れるようになったことから「航海記念塔」と呼ばれるようになった。
鎌倉時代末期、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の蒙古襲来に際して西大寺の僧、叡尊が石清水八幡宮で祈ったところ、神風が吹いて 元軍が敗れ去り、叡尊は彼等の供養をするため建立したともいう。 -
石清水八幡宮五輪搭の説明。
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石清水八幡宮五輪搭。航海記念塔(こうかいきねんとう)と呼ばれている。
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