2003/12/11 - 2003/12/14
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na1430さん
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5年前、突然体調を崩したが幸い手術によって秋にはほぼ完治し、12月中旬八重山諸島を旅行するまでに回復した。
最初の沖縄旅行は本島のみであったので、翌年沖縄の海を見たさに、八重山諸島など先島のツアーに参加した。初めて見る竹富島、小浜島など八重山諸島のサンゴ礁に彩られた海の色にすっかり魅せられ、それ以来この八重山諸島に3回足が向いてしまった。
しかし、いずれのツアーにも波照間島、与那国島が含まれておらず、いつか行きたいと思いつつも延び延びになり、大きな忘れ物をしている思いだった。病が癒え、さ〜て長い間の鬱憤を晴らすにはと思いをめぐらすこともなく、真っ先に浮かんだのが波照間、与那国島であった。かくして4回目の八重山諸島への旅となったものである。
与那国島へは石垣島から飛行機で40分ぐらいだったように思う。東シナ海、太平洋を渡る偏西風は強い。特に冬は強風のため欠航が多いと聞かされていた。この地方は台風銀座でよく欠航するが、台風はあらかじめ情報があり、ツアー参加者もその時は諦めがつくが、青空の下で欠航することがあると聞かされれば穏やかではない。幸い飛行機は飛んだ。
昼食後の最初の観光スケジュールは島の太平洋側にある海底遺跡の見学であった。この日さほど風はないように思ったが、波が荒く海底遺跡を見学する午後の船の出港は見合わせると連絡が入り、急遽食事は見学後に変更し乗船した。
太平洋の荒波が激しく押し寄せる中現地に到着し船底に入った。最初はガイドの説明に耳を傾けたが、胸元が怪しくなり船上に戻った。遺跡は石段があり、平坦な部分などそこに何かがあったことを思わせるものだった。その当時遺跡であるとの確証があったかどうか、極めてそれらしく見られていたのは確かである。現在はどうであろうか。研究は進んでいるだろうか。
八重山、宮古地方には琉球王朝時代悲惨な制度があった。人頭税である。宮古島のどの付近だったか忘れたが、観光バスで周遊していた時、あそこに見えるのが人頭石です。と教えられた。140センチぐらいの高さで、人がこの石より高いと人頭税の対象になったというのである。この人頭税の悲劇の痕跡が最も多いのは与那国島である。写真上でコメントをしたいと思う。
写真はないが、この島だけに高濃度の泡盛が製造、販売されている。日本国内では酒税法によって43度ぐらいだったと思うが上限がある。焼酎、泡盛のほかスコッチなど輸入品もすべて上限以内のものである。ところがここに60度を超える泡盛がある。沖縄が本土復帰に際し、この島だけに認められており、法律上はアルコール類に分類されているらしい。酒造工場が見学でき、試飲も出来るが、なめた瞬間口の中が焼け付く。ストレートで飲めるものではない。地元の冠婚葬祭にはこの泡盛が飲用されていると言う。
こんな度数の高い泡盛がと思うが、蒸留酒の製造過程で、澱粉、麦芽糖をアルコール発酵させ、原酒を蒸留する際、沸点の低いアルコールが先に蒸気化するので、最初に出てくる泡盛の濃度は90度を越すという。それから次第に濃度が下がる理屈で、濃度が高い泡盛ほど上質と言うことらしい。泡盛は味、香りも関わるように思うが、工場長の説明はそれとして、当然のことながらお湯、水などによって好みで割られて飲まれている。
与那国島は東西に横たわる島である。南側は太平洋の荒波をもろに受けるので、海岸線は断崖絶壁である。北側は東シナ海に面し、海岸線は比較的穏やかである。島の最西端は日本の最西端である。台湾はもうすぐそこである。
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久部良漁港
久部良漁港は島の西側に位置し東シナ海側にある。
カジキマグロ漁の基地である。
海底遺跡の見学船はこの港から出航する。 -
西崎の先端には日本最西端の灯台がある。
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海底遺跡見学船は久部良港を出航して西崎を廻り太平洋側を航行する。この付近から太平洋の荒波に洗われる断崖絶壁が続く。
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断崖絶壁が続く。
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西崎を過ぎると台地が続く。
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サンゴ礁が隆起した台地と断崖が続く。
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海底遺跡はもうもうすぐ。
この付近の断崖を良く見ると、一定の厚さの板状の岩石を積んだような断崖に見て取れる。
たまたま見学船の船長がかつてダイビングのガイドしていたおり、この遺跡を発見したと言う。当時大反響を呼び、一気に研究が進むようになった。
現在結論が出たかどうか分らないが、船底からはそれらしくは見えた。
石段だと言うところは、同程度の暑さの石が、石段状に積み重なっている。その付近に平坦部分もあった。船酔いで早々に船底から退避したので、それ以上の観察は出来なかった。
この断崖に続く海底であり、岩石と石段との関連がどうなのか興味深いところである。 -
太平洋側の断崖は続き、海岸線は打ち寄せる波とともに美しく、絶景である。
この日海は穏やかだと言うが、この島に高い山がない。太平洋、東シナ海から吹き付ける風は島を素通りする。 -
激しく波は打ち寄せる。
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台地はサンゴ礁が隆起したもので、耕地にはならない。
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荒波はいまも岩を砕き続ける。
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サンゴ礁が隆起した台地。
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太平洋側の海岸線はわずかに草が蔓延る程度。
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海岸線も荒々しい。
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荒々しい海岸と打ち寄せる荒波。
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2日目は曇り。
景観は一変する。 -
太平洋側の海岸
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サンニヌ台と呼ばれる付近。
海上の岩は軍艦岩と呼ばれている。 -
立神岩と呼ばれる巨岩が立っている。観光名所である。
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かつてNHKの大河ドラマで琉球の風が放映されたが、ロケはこの島でも行われた。記念碑である。
なおこの地点より西側に小さな入り江がある。この入り江の浜にフジテレビで「Dr。コトー診療所」というドラマが放映されていた。そのセットがいまも残っている。人気があり観光客のほとんどが立ち寄っている。最近BSで再放送されていた。 -
日本の最西端の碑
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日本の有人島の最西端はこの地である。
ちなみに最南端は八重山諸島の波照間島である。
小笠原諸島より南で、錯覚を起こしやすい。 -
大きな蘇鉄の木が植えられており、赤い実がいっぱい顔を覗かせていた。
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西崎の灯台である。言うまでもなく日本の最西端にある灯台である。西崎岬の頂上に立っている。
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日本で最後に夕陽が見える丘と言うことである。
最西端の碑とは若干離れている。
この島で一個しかないものはすべて、日本の最西端のものである。 -
琉球時代の悲劇は人頭税と言われている。
表紙で140センチぐらいに子供が成長すれば、琉球政府から人頭税が課せられる。人口が増えることは人頭税の負担が嵩み、この島にとって死活問題になる。
この写真は久部良バリといい、この谷の幅が3mぐらいあるが、妊婦にこの谷を飛ばさせ、越えない妊婦は谷底へ落ち絶命する。飛べた妊婦はこれにより流産するも命は助かる。生まれた子供は母親譲りの丈夫な子供が育ち、人頭税が増えることなく島は安泰と言うことらしい。
この旅行の数年前、イギリスにもこのような悲劇があり、この悲劇を研究している学者が訪れ調査をしたところ、人骨がなどその形跡を確認したと、地元ガイドの説明があった。 -
景勝地ティンダハナタにある案内板。
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この写真は祖納(そない)地籍が見下ろせるティンダハナタの景勝地である。
人頭税を徴収に訪れた琉球政府の役人を接待の上この景勝地に案内し、隙を見て役人を突き落としたという言い伝えがある。泥酔して転落死したと見せかけたと言うのであろうか。類推に過ぎないが、人頭税の悲惨さを物語っている。
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この農地はかつて人頭税対象の数を抑えるため、ある日突然集合命令が出され、時間までに集合できない者と、集合できてもこの農地に入れないものは、この島から追放されたというのである。どのくらいの広さの農地だったか失念したが、かなり狭いものだったらしい。
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島の最東端の東崎である。この岬全体が与那国馬の放牧地である。先端には灯台がある。太平洋と東シナ海を隔てる岬でもある。
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純血の与那国馬は普通の馬に比しかなり小さい。
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与那国馬 牧場へは入れるが、牛も放牧されており、特に足元には注意しなければならない。
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宿泊したホテルと言っても、民宿、旅館と言った類であるが、地元の研究会の人たちの奉仕による民俗舞踊が披露された。沖縄本島、石垣島など、ところ違えば踊り、曲想が違うようだ。与那国独特の言葉もあり、ここでしか聞き、見ることが出来ない民俗舞踊であった。
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民俗舞踊
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三線にあわせ、与那国島の民謡が聞くことが出来た。
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与那国島民俗舞踊
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民俗舞踊の最後は沖縄の踊りで、ホテルのおかみさんを先頭に踊りだした。
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与那国空港
午前便が終わると午後便まで施設に鎧戸が下りる。 -
祖納(そない)の市街地。
与那国には人口の集積地は3箇所あり、祖納地区は中心地。役場、学校などの公共施設がある。 -
この門の奥はお墓である。
沖縄のお墓には2種類ある。
破風墓と亀甲墓である。破風墓の最大のものは首里城の近くにある、尚家歴代王とその家族の墓、玉陵である。火葬をしないので、必然的にお墓は大きい。
那覇の近郊にある最近の破風墓は小さい物が多く火葬が行われていると思われる。
八重山地方のお墓は大きな物が目立つ。昔からの風習が残っているようだ。
驚いたのは与那国には亀甲墓が目立った。亀甲墓は破風墓に比べて数段大きい。亀甲墓は山の傾斜を使い造られているが、与那国では家一軒建てるより建設費がかかると言うから、並のものではない。
門の奥は大きな休憩所らしき建物があり、続いて亀甲墓があるとはガイドの説明だった。
埋葬方法については触れないが、お墓は家族、一族の団欒の場としての存在なのである。
ちなみにこのお墓は八重山諸島間を運行する船舶会社創業者一族のお墓らしい。
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「この木何の木,気になる木」ではないがなんとも不思議な木がホテルの敷地内にあった。
幹が何本かの根が絡み合ってるように見える。
沖縄にはこのような木が結構見られるが少し違うようだ。
沖縄にはガジュマルという木があり他の木に絡み付いて成長し、からまれた木はやがて絞め殺されてしまう。なんとなく幹だけ見ると似てる感じであるがどうだろうか。 -
ホテル敷地内の木
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ホテル敷地内の花
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この旅行記へのコメント (3)
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- さいたまさん 2015/06/16 21:28:44
- 懐かしい与那国島
- 現在の勤務の前の勤務の折、7回、与那国島に行きました。
懐かしいです。
また、機会があればぜひ行きたいです。
50ccのバイクを借りて、久部良岳にも行きました。
与那国島の旅行記を拝見させて頂き、約10年前のことを想い出しています。
有難うございました。
- na1430さん からの返信 2015/06/18 12:31:26
- RE: 懐かしい与那国島
- さいたま 様
お書き込みありがとうございます。
私はすでにリタイアして15年余になります。
30年余勤務した職場から、54歳の時、ある企業に片道切符をもらい、出向しました。出向して初めて迎えた、株主総会で役職を仰せつかり、前勤務先から転籍しました。
60歳を過ぎて体調異変にきずき、後継者を全勤務先に派遣願いを提出し、株主総会で完全に引継ぎ、前段の自由の身になりました。
さらに3年ほど過ぎて、ついに持病(心臓病)が発症し手術し幸い現在に至っています。
手術後初めての旅行で、与那国島に行ったので、思いで深い旅行でした。
沖縄へは何回も訪れましたが、初回以降はすべて八重山諸島です。
さて、さいたまさんはブログを拝見しますと、東南アジアが多いですね。お仕事の関係でしょうか。すべては拝見していませんが、そのなかで外貨両替でご苦労がされているようですね。
私も最初のヨーロッパでは、まだユーロは流通しておらず、ポンド、フランスフラン、スイスフラン、リラとその行く先ごとに通過が違い、面倒な思いをしたことがあります。(フランスのシャモニーでは隣接するスイスフランが使えましたが)
この時は米ドルをベースにしました。
外貨両替につきましては、米ドルをベースにされたのはよかったですね。
米ドルは国内ではどこの銀行で両替しても同じです。
日本のシステムは銀行の営業時間内は、刻々とインターバンクレートが変動しています。その日のレート変動の趨勢によって、翌日の適用インターバンクレートを現行三菱東京が朝10時に各為替銀行に通知します。
米ドルのレートの仕組みはインターバンクレート、これに1円加えたレートTTS(テレグラフィック・トランスファー・セリングレート)などが通知されます。一般個人の必要なキャッシュレートはインターバンクレートに3円、TTSは1円プラス、TTB(〜バイイングレート)は1円マイナス、キャッシュバイイングレート3円マイナスしたクォーテーションが店頭に表示されます。
これによると米ドルの場合、買ってすぐ売却すると1米ドルにつき6円の損が発生します。
新聞に表示されているレートはTTSが表示されています。
米ドル以外はインターバンクレートとTTSとの差はそれぞれ通貨によって異なります。
したがってTTSとキャッシュセリングレートとの差も銀行ごとに異なる場合があります。
国内で為替銀行以外で民間に両替所がありますが、両替時に両替手数料が発生しますのでレートに損得があっても為替銀行には手数料がありません。
キャッシュレートで米ドルは同レートですが、べドル以外の通貨は各銀行によってTTSにプラスされる金額が異る場合があります。
成田空港では三菱東京、三井住友がユーロ交換時同じだった記憶があります。(数年前ここと)
通貨の交換レートとTTSをお確かめられることをお勧めいたします。
na1430
- さいたまさん からの返信 2015/06/18 13:04:55
- メール有難うございました。
- na1430 様
両替に関する詳しいご教示有難うございました。
大変、勉強になります。
与那国島には、前会社に勤務していた頃は、何回も行く機会がありましたが、現在の公務員勤務になってからは行く機会がありません。
前会社勤務の前も、公務員でしたが、米国やヨーロッパに公私両面の旅行をしていました。
学生時代には、予算的に制約を受けていたので近間の東南アジアが中心でした。
1970年夏のベトナム戦争酣の頃に、ベトナムの戦時下の当時のサイゴンに行ったことをきっかけに、インドシナとの付き合いが始まりでした。
当時は、数次旅券も無く、外貨持ち出しが厳しく、渡航時に外国為替銀行の渡航費用証明が必須な時代でした。
VISA発給も厳しく、南ベトナムやラオスでは、外国人にはVISAを発給していませんでした。戦後賠償に従事していた建設会社から、副申書を出して貰い、入国できました。ノンノル政権下で、交戦中のカンボジアには、結局、入国できませんでした。
米軍機の発着が多かったタイのVISAも厳しかったです。
隔世の感がします。
70歳を前に、インドシナ半島の仕上げをしようと、毎年2回訪問しています。陸路のバス移動を主にしています。
旅行記を楽しく書いています。
さいたま でした。
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