2008/05/13 - 2008/05/24
35709位(同エリア47231件中)
明石DSさん
朝の7時の散歩
伊敏橋を対岸まで渡る
満洲時代は、ここに興安橋が架かっていた
セーターにウィンドブレーカー、手袋という真冬の格好で歩く
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9日目:海拉爾〜斉斉哈爾へ:5月21日(水)晴れ
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2008.平成20年5月21日(水)
■6時55分:伊敏河河川敷の散歩に出る。
6時前に起きて準備をする。今日は三泊した海拉爾賓館を退房する。朝の風景は歩く人たちの服装がまちまちで面白い。厚着の高齢者の散歩風景にジャージ姿の中学生の通学風景、そして春の装いの人たちも・・・。私はセーターの上にウィンドブレーカーを着て手袋を嵌めて真冬の格好での散歩だ。
この朝の散歩は7時20分からの朝食までの散歩で伊敏橋を向こう側まで歩き、また引き返してきただけだが・・・。地図にはこの橋は「伊敏橋」となっているが橋の欄干のネームプレートが両側とも外されていた。
この辺は午前3時過ぎに外は明るくなっているようだし、日が沈むのも遅い。白布仁が教えてくれたが、黒龍江省の北の端、内蒙古自治区のすぐ東隣でロシアとの国境の街「漠河:Mo he」という北緯53度に位置する町は6月10日〜7月15日くらいの間、白夜が続き観光客でホテルは満員になるそうだ。また行って見たい場所が出来た。6月20日頃が一番良いと言っていた。国境の街だし・・・。
8時20分:散歩に出る。
朝食を食べ、荷物を整理したが、まだリュックを部屋に置いたまま散歩に出た。今回の旅を通じ空港以外で日本人らしき者には遭遇していない。ホテルが日本人旅行者が泊まるような所ではないということもあるのだろうが・・・基本的には日系企業も少なく、観光地でもないからだろう。哈爾濱は日本人も多いはずだが出会った記憶は無い。そこらを歩いてはいるのだろうけど・・・。
ホテルを出て伊敏橋を渡らずに川沿いを北に歩いた。川向こうは中層住宅の建設ラッシュでこっち側はまだ古いレンが作りの民家がひしめき合って並んでいる。当時この地で暮らしていた日本人が「ハイラル桜」と呼んでいた花?がそこここに桜のような可憐な花を咲かせていた。残念ながらこの花がそうだと断言は出来ないが、でも5月という時期と言い、この花の姿、形といい・・・。
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伊敏橋の上から北側方向を写す
河の中州は昔もこんな感じだったのだろうか? -
伊敏橋を渡りきってホテルを写す
さあ、ホテルで朝食を食べてから出直そう -
この花は海拉爾サクラでは???
何の確証もないけど
見たらそんな感じがして・・・です
当時も5月に咲いていたそうですから
それとも満洲里と同じ「梅」? -
伊敏河の西側河川敷を呼倫橋を目指して歩く
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川沿い左側にはこんな住宅街がひしめき合っています
厳寒の冬をここで過ごすのか・・・。 -
正面の橋が新しい、呼倫橋です
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右:呼倫橋、左:旧呼倫橋
街の一番北側に鉄橋が架かり
その次が呼倫橋だ。橋を渡った正面の区域に
23師団司令部をはじめ軍関係の施設が集中している
この旧呼倫橋を軍人や家族が往来していた
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■8時49分:呼倫橋
伊敏橋から河川敷をトロトロ歩いて30分も掛けて呼倫橋に行った。海拉爾で買った市内地図を見れば伊敏河が海拉爾市内の中央を南北に流れ海拉爾駅は西側にある。
市内地図では伊敏河に掛かる橋としては、一番北側から↓
?鉄橋
?呼倫橋
?伊敏橋(昔は興安橋)
?中央橋(昔は伊敏橋)
?海拉爾大橋
?貝爾橋、六つの橋が架かっている。
・・・・・・
?海拉爾:断橋
そして一番南側の貝爾橋の南側に並んで海拉爾断橋がある。18日の夕方、ノモンハンから海拉爾に到着した時に見た断橋の場所が分からなかったが、帰国後の今「Google Earth」で見たら一目瞭然に分かった、凄い。
そして、要塞の中に展示している昔の地図を写真で見れば、当時の海拉爾の地図が何ヶ所かにあった。それを見れば、橋の名称は残っていても場所が今と変わっていた。
呼倫橋に行ったら、その北側に並んでもう一つ橋があった。Web頁見ていたのは、この写真の説明に「伊敏橋と手前に旧興安橋」と書いてあったので、てっきりこれが満洲時代の日本人が作った興安橋かと思っていたが、橋のプレートには旧呼倫橋と書いていた。
1937年着工〜1939年完成で、今は1999年に完成した新呼倫橋が並んでいるが、旧呼倫橋として歩行者専用の橋となっていた。
この橋を歩きながら、この橋こそ日本人が行き来し満洲国の発展を夢見ながら日々暮らしていたのか・・・と、感傷に耽りながらゆっくりと歩いた。あちこち補修しながらも昔の面影をそのまま残す橋である。橋上から見渡す360度の風景は、建物以外は当時のままなのだろう。
当時の興安橋は、昔の海拉爾の地図では今の伊敏橋の場所に興安橋として架かっていた。昔の興安橋はすでにない。そして現在の中央橋が昔の伊敏橋だった。無論当時の伊敏橋はすでになくみんな新しい橋になっている。唯一残るのが旧呼倫橋だけだ。海拉爾だけではなく地名や橋の名前が変わるので戸惑うことが多い。
「満州国」
今は確かに漢族の支配する中国の一部と言っているが元々漢族の領土、国境は万里の長城で自ら示している。今の中国は1949年に新たに出現した国であり今の中共政府が言う領土に歴史を遡っての正当性など欠片もない。ここは蒙古だし、満洲だとも言える。日本も当時の世界の価値観に基づいて満州国を建国し実質的に統治していた。その事実があるだけで、それ以外に何ら問題は無い。それが私の認識だ。
旧呼倫橋を往来し、又、伊敏河の西側のレンガ作りの家がひしめく路地裏を歩いた。舗装も無く風が吹けば砂埃が舞い上がり、空気を気持ち良く吸えない。肌はカサカサになり老ける。そこら中にゴミが散乱し、いつも思うのは「何でこんな汚いままで平気なんじゃ・・・」と、不思議な気がする。これが文化の違いってものなのだろうが・・・。
電柱や壁にペタペタと貼り付けてある求人ポスターを見るのが面白いし、貴重な情報源だ。特に給料を見るのが参考になる。一ヶ月¥1200元、「ふ〜ん、18000円ほどか・・・」。ちょっと以前は600元、800元もざらに見かけたが、最近は何処でも1000元以上も多い。
就業時間は朝の8時〜夜7時まで、「ふ〜ん、11時間か、昼休みは?」と見ながら、海拉爾の下の上か?中の下?くらいの労働環境を知る。 -
この欄干の低い呼倫橋を毎日行き来し過ごしたのだろう
小松原中将も、辻政信も渡ったに違いない
そして厳寒を過ごし、春秋を過ごし
満洲の未来を信じていたのだろう
雄雄しい大日本帝国の時代を生きた
そんな幸福な一時期があったのだ -
呼倫橋の東側から西側を写す
欄干傍でスッポンを売る者一人 -
一体何時からここに坐り
一体何時までここに坐る
最後まで見届けたいが、残念ながら
売れる気配もなく
買う者がいるとも思えず
見届ける気力なし -
伊敏河の伊敏橋と呼倫橋の間は
西側の川沿いにこういった住宅街がひしめいていた
下町というのか貧民街というのか?
ゴミ収集車は来ないのか?
・・と、いつも汚さに文化程度を思う
貧しさと汚さはイコールではないはずだ・・が -
写真より実際の現場はもっと汚い
それに匂いもあるし・・・。
空気を吸いたくないと思う。乾燥しているから
ゴミも埃も一緒くたになって空中に舞う
それを吸う・・・のは嫌だ・・けど
息が詰まって死ぬのはもっと嫌だから
仕方がない -
トラックが走れば砂塵が舞う
マスクして歩く女性がいるが
もう少し家の周囲を綺麗にしょうと思わんか・・・と
小奇麗に着飾り澄ました顔して家を出てくる
“女たち”にいつも軽蔑の眼差しを向けてしまう
なんやねん、そのちぐはぐは??? -
情報源:求人広告
海拉爾の柴油車(Chai you che=ディーゼル車)修理工
月給¥1200元(¥18,000円)
工作時間早8時〜晩7時・・・11時間労働か
平成20年:海拉爾の一職種の求人広告です -
陸橋から海拉爾駅構内を写す
線路の補修作業のようだが
一体、この中で何人が働いているのでしょうか?
これも中国の現実です
しばし立ち止まり見ていましたが、変化なく
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10時2分:海拉爾賓館を退房す。
これが日本人の退房だと部屋を整理整頓し出て行く。そして日々段々軽くなってきたリュックを担ぎ駅に向かって歩いた。海拉爾駅の表に出るには線路を越える陸橋を渡って行く、その陸橋の上から線路補修作業をする工人たちのたむろする写真を写す。
一体働いている者はこの百人くらいの工人の中の何人なのか?ほとんどが坐っているか立ってボサーとしているだけやん。ホンマ写真を見て数えるのも一興だ。
そして駅で荷物を預けた。さあ、これから先ず19日に行った北山陣地跡に再度向かう。 -
中国は人口が多いと言う事が良く分かります
-
海拉爾要塞遺跡に再度訪れる
ソ連軍兵士の像が立っている
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■10時42分:関東軍海拉爾地下要塞
北山陣地跡へ(門票:20元)再度の見学。
19日行った時は工事中なのか?博物館に入れなかったが、今日は何故か?一旦断られ掛けたけど、他に中国人の団体も入っていたようで入れてくれた。それもソ連軍の軍服?を着たような女性ガイド付である。その辺の事情がようわからん・・・けど。そして展示物の写真もまだ規定がはっきりしていないようで結局「随便:好きなように」って言ってくれた。
まだ、この場所全体が大規模な工事中で、完成の暁には戦争遺跡公園として華々しくオープンしそうだ。ノモンハンの巨大な博物館と言い、此処と言い、中国全土でこんな馬鹿げたことに金を使い捲っているのだろう。史実と全く関係のない偽物だらけには辟易するが。でも博物館内の展示写真は有り難かった。私にとっては貴重な写真が多くあり、元に戻ったデジカメで展示している写真を取り捲った。
当時の建物、街並み、厳寒期の日本軍の訓練風景などなど興味深い物が多数あった。
11時20分:7号地下要塞(7号洞口)に入る。二日前にも入ったし、その時も写真を写したがフラッシュも光らず、シャッターも中々下りずピンボケばかりだった。でも今日はデジカメも復活し快調だからここでも取り捲る。中国人野朗(おっさん)たちと一緒だったが「小日本鬼子:シャオリーベングイズ」と言う言葉が何度か聞こえていた。「俺は日本人だけど何か文句でも・・・」と言っても彼らは笑顔で反応しただろうけど・・・。
この中の写真に海拉爾駅近くの農墾医院内の旧日本軍の建物の写真があり、その説明に「日本関東軍独立混成第80旅団司令部」と書いてあった。壁には所々当時の日本語の注意書きが鮮明に残っている。「火の用心」「暖房用貯水槽(飲用を禁ず)」「瓦斯に閉ぢよ」この「瓦斯に閉ぢよ」という日本語は今と違うなあ・・・である。一体何や?中国人の仕業とちゃうやろな?
「被鉛線に触れるな」とか、まだまだ他にも書いてあった。何度見ても立派な地下要塞だ。63年前確かに日本軍兵士は此処に居た。この中の182号室は、第80旅団長・野村登亀江少将の司令官室だった。
武運長久と書いた大きな日の丸の旗が掲げてあり、日本刀が机の上に飾ってあった。これらは白布仁曰く、「中国が全部装飾したもので当時の部屋を忠実に再現していない」と言っていたが、それにしては日本人が見ても中々気の利いた飾り付けにしてくれている。
最近のこういった中国の戦争遺跡は、余りに馬鹿げた日本軍の稚拙で残虐、嘘丸出しの展示は少なくなったように感じる。本物の写真やこういった本物の遺跡は、それだけで日本人の真実の一旦が伝わってくる。写真で見る当時の日本軍人の凛々しい姿、要塞の堅固で精密さを目の当たりにしたら、しょうもない漫画で描いたり、作り人形での残酷描写は中国人自身の恥を晒すだけというのが分かってきたのだろう。
やはり今日の地下要塞の中も少し居るだけで凍えるように寒くなる。中国人のおっさんたちも興味の度合いが私と違うし、「早く出ようぜ」と寒がっていた。北山陣地遺跡は中国側の名称は河南台陣地と書いているのもある。ここにある地図は当時のと比べて名前が違っているのもあるので特定するのが難しい。それに同じものが違う名称で呼ばれていたり・・・と、名前がいろいろあったりで把握し難い。尚、海拉爾で買った地図には「侵華日軍海拉爾要塞遺跡」と書いている。 -
前回は入れなかった博物館
工事中のようだが・・・中国人一行が入っていた -
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皇居に向かって遥拝をする日本軍兵士
ラクダがいるのが興味深い -
要塞を守備する日本軍兵士
冬の軍服姿が良く分かる
結構当時の貴重な写真が有った
この時は博物館内部も写真はOKだった -
ソ連軍の軍服を着た専属ガイドの女性
グループごとに付き添って説明してくれる -
満洲時代の海拉爾市内地図
参考になります
橋の名前と場所が今と違います -
地下要塞の案内はまたガイドが変わった
博物館も工事中だし、周囲はまだまだ整備中だ
こういった女性ガイドも研修中かもしれない
愛国主義教育に一体どれだけ金を注ぎ込んでいるのか?
そこらじゅう戦争遺跡を公園化し、拡大している感じがする
その最たるものが「南京屠殺紀念館」なのだろう
難儀な漢民族である -
展示物も以前に比べて確かにマシにはなっている
だから尚のこと、日本軍人の成した事が凄いことで
日本軍の軍人たちがますます凛々しく見える
服装から立ち姿や、態度など写真にどうしても現れる
例えば国民党軍などと並べて展示していれば一目瞭然だ -
展示を見入る中国人一行
731部隊や万人抗と言った
日本軍の残虐性を展示するコーナーだ
これは奴らの趣味の領域であり、必須なのだろう
まあ「拷問絵図」「殺戮漫画」のような類は見かけなくなった -
ここで終戦間際から18日くらいまでソ連軍と死闘を演じた
この地下要塞内での戦闘の有無は知らないが
コンクリート壁の傷が弾痕あとのようにも見える -
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地下要塞内の兵士たちの宿舎
忠実な再現なのか否か?分からない -
第80旅団:野村登亀江司令官室
日の丸を掲げ、きれいに飾っているのには驚いた -
60年以上前の日本人が書いた日本語が
時を超えてこの地を訪れる日本人に訴え掛ける
「後に続く者を信じている」・・・と
私に聞こえるのは、何時でも どこでも、その言葉だ。
何時の日にか、英霊の方々から
「信じるに足る日本人」と言われるように・・・ -
今はまだまだ腐ったままだけど
国家が危急存亡の崖っぷちに追い込まれた時
必ずや父祖の勇気を思いお越し、後に続くと信じる
それだけが私の拠り所である -
固定式:重機関銃要塞と説明にあった
北山陣地の地上にも要塞を各所に設けている
この高台でソ連軍を迎え撃ち死闘を演じた
この要塞もその弾痕が生々しく今も残っている
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12時37分:要塞遺跡を出る
そして遺跡と周囲の景色を堪能しながら入場門に向かっていたら、ちょうど綺麗なグリーンの通路があり一歩そこに足を入れたら“ズぼっ” と靴がめり込んだ。ついさっき左官が模様入りの歩道を慣らしたすぐあとのようだった。柵もなく注意書きも何もないので知らずに歩こうとした。“しまった”と思っても後の祭り、周囲を見たら誰も居ない。すぐに足を抜き、歩く方向を反転し遠回りして出入口に向かう。
正直に告白し謝罪する気持ちにならず。また何を言われるか分からない。弁償しろと言われるかも?笑って許してくれるかも?であるが、どっちにしろ「逃げるが勝ち」という選択をした。そして出口に無事に到着、でも出入り口が閉じていた。私の右足の靴はグリーン色に染まっている。
そして門のすぐ横の管理事務所を澄ました顔でノックした。お姉さんが扉を開けて出てきたので「出て行くから門を開けて」と頼んだ。彼女の目が私の足下に行かないように彼女の目を見ながら・・・。すぐに笑顔で開けてくれて取り敢えずは無事に脱出。
門前の広い駐車場にはタクシーも何もいなく、迷うことなく街方向に向かって坂道を足早に歩き出した。「歩いても30、40分で行ける」と成吉思から聞いていたし・・・。そして大きな道に出たらすぐにタクシーが来たので乗った。脱出成功! -
要塞内部
破壊され弾痕も残る -
無数の弾痕あとがある
ここで日本軍兵士が壮絶な戦死を遂げたのだろう
心からご冥福を祈る -
地上の要塞もあちこちに残っている
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戦車壕がどこまでも繋がっている
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交通壕もある
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侵攻するソ連軍を迎え撃つ兵士の心境を思う
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敵情観測用の要塞
完全に破壊されていた -
今までの石碑
1996年6月7日との碑文にある
この石碑は写真で見ていたが
いまは片隅に残されていた -
遺跡を離れ
右の靴は緑色に染まったままだが
振り返って写す -
このケンタッキーで海老のホットドックを食べてたら・・・。
女性に声を掛けられビックしたが
ノモンハン村の山丹だった
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■1時14分:友誼大厦のある中心部で昼飯を食う。
タクシーの運転手に友誼大厦まで行くように頼んだ。そして先日、ガイド見習いの喬宇とジュースを飲んだケンタッキーフライドチキンの店でホットドックセットを頼み食った。こっちのケンタッキーはマクドナルドのような感じでついホットドックを頼んでしまう。
前で悩んでいたら姑娘にこれ新しいメニューですと勧められそれを頼む。海老のホットドックだった。それにポテトとコーラ、計26元(390円)
一人テーブルに坐って食べ掛けていたら、若い女性から声を掛けられた。その瞬間は「知ってるが思い出せない人」だった。誰だった?と、最初は兆紅と勘違いしていたが、一呼吸置いて思い出した。18日に世話になったノモンハン村の山丹だった。
向こうから良く声を掛けてくれたものだ。通路を挟んで隣の座席に私に背を向ける体制で山丹が坐り、向かいに山丹のお母さんが坐っていた。ノモンハンからお母さんもここ海拉爾まで出掛けて来ているのだ。ノモンハン〜海拉爾は220kmもある。
山丹が私のテーブルに来てくれ少し話をした。
山丹も独身で、東旗に暮らしている。成吉思の話では、地元の公務員でちょっと出世したようだ。山丹は三人兄弟の長女、すぐ下の妹は、大学を卒業後就職浪人をしながら役所の上級職を目指しているようだ。
彼女たちの父親がモンゴル語の教師であり、妹はモンゴル語の翻訳・通訳の仕事を望んでいると言う。弟は内蒙古自治区の省都:フフホトの有名大学の学生。蒙古族が暮らすノモンハン村のエリート家族なのだろう。
住所や電話番号を書いたメモを渡してくれた。その時は、何も約束しなかったが帰国後彼女にホルステン河で写した二枚の写真と、我が家の家族の写真と手紙を添えて新巴爾虎左旗の彼女の勤め先に送った。
午後2時
山丹は先にお母さんと出て行った。山丹のお母さんは「ありがとう」と一言日本語を言って・・・。ケンタッキーを出て正陽路を探して歩く、昔の海拉爾の写真に正陽街が中心街のようだったのか賑わう写真が有った。今の正陽路も友誼大厦から程近い、でも今はちょうどその通りの両側を全部壊して再開発するようだった。両側は広く瓦礫になっていた。
この附近にもまた新しい公園を作っていた。中央付近に将軍の馬に乗ったドデカイ彫刻を鎮座させ、これぞ、幹部の金の成る木なのだろう。その作り掛けの公園に、またも見つけた落とし穴、モザイク模様のように穴が開いている。
公園だと言うのに子供が落ちることは想定しないのだろうか?全ては落ちた者の注意不足ってことだ。旅行者には要注意の代物である。
その次は西大路を南に歩き、今は呼倫貝爾学院の敷地内にある成吉思に聞いていた旧興安北省の建物?に行く。確かにそこにそれらしき建物が残っていた。今も使われているようだが建物の外観とは裏腹に随分寂れている。
この近くで珍しい求人票を見つけた。「高級女服務員、月薪(Yue xin=月給)2、3万元=日本円、30、45万円」、例えこれが風俗業だとしても、こんなにとんでもない高級になるのだろうか?それとも他に一体どんな仕事のことだろう? -
友誼大厦から東大街を歩き
正陽街へ向う -
正陽街は満洲時代の中心街だったようだが
今は道路を挟んで広い範囲で最開発中のようだ
瓦礫通りになっていた -
中国名物落とし穴
モザイク状の落とし穴
こんな模様の落とし穴は初めて見ました
ここで幼児を遊ばせていると
神隠しにあいます -
この公園に落とし穴があります
-
呼倫貝爾学院
この敷地内に旧興安北省の建物あり -
旧興安北省の建物
・・・と、思える建物発見す
説明も何もなく -
西大街を駅まで歩きます
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高級女服務員募集の貼り紙
月給:3,4万元とは、一体どんな仕事を?
日本円:30万円〜45万円
高級売春婦かも? -
海拉爾駅に戻る:駅の左側の旧東清鉄道駅舎
1903年:建立 -
最初、駅名をロシア人が「海浪」と間違えて書いらしい
直ぐに訂正されたが文字は残っている -
またやって来ました
海拉爾神社跡
もうすぐ夜汽車に乗って斉斉哈爾に向います -
海拉爾神社
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松原公園
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ロバの荷馬車も活躍します
でも海拉爾で見たのは三日間で
この一頭だけです -
「美国加州牛肉百大王」
哈爾濱で食ったのと同じ味
同じチェーン店でした -
駅の陸橋を渡りながら、夕陽を見て
ホロンバイルに沈む夕陽を見に行こうと思いました -
満洲里方向の草原の夕陽
午後7時32分:撮影
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■7時2分:海拉爾の大草原に沈む夕陽を見に行く
海拉爾駅の表玄関に行く陸橋の階段を下りようとしたら、正面に沈んで行こうとする夕陽があった。それを見て、大草原に沈む夕陽を見ようと思い立ち駅前のタクシーに頼む。
この司機(Si ji=運転手)がやり手だった。騙された訳ではないが、失敗した。私の意を汲んで走り出したのは良いが、私は阿木古朗方面に走って欲しかったのに満洲里方面に彼は行った。こっちは確かに道路が整備されて距離は走れるのだろうけど、大草原の真ん中ではなく邪魔な物が一杯ある道だった。案内標識とか、フェンスとか、人工構造物がある道だった。走れども走れども・・・・。
その内、太陽は地平線近くなったが、その辺りに雲が多く隠れてしまった。
7時34分:引き返す
運転手は元鉄路員、嫁さんは今も鉄路員(国鉄職員)。家を二軒持ち、亭主の月収が¥4000元(60,000円)、妻が¥1500元(22,500円)。合計月収:82,500円。それに一軒を学生6人に一ヶ月¥1000元(15,000円)で貸している。全部合わせて¥97,500円也。この辺りでは高収入家族なのだろう。
国鉄職員は汽車代は今も無料らしい。彼も夫だから無料?OBだから無料?だと言っていた。子供はダメらしい。全国何処でも無料だと言っていたが真偽は分からない。
戻って来たメーターは110元ほどだったが¥100元でいいからとまけてくれた。でもホントは百元でも高い。こんな時は、「草原まで往復幾ら?」と言うことで乗った方が安い。この場合なら80元も出せば十分だったろう。こんな駆け引きも私の旅の内なのだ。 -
ホロンバイル草原の夕陽
100元(1500円)の費用を要す -
N58次・斉斉哈爾行き
サラバ海拉爾
9号車:軟臥
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8時頃から駅構内で斉斉哈爾行きを待つ。
構内の待合室をウロウロするのも面白い。えらい騒ぐ声がすると思って駆けつけたら喧嘩が終わって双方息を荒げている最中だった。殴りあったのか?押し合いだったのか?誰も血は出ていないし、顔面の腫れもない。ただ双方まだ「ハア、ハア・・・」と足下定まらず。仲間が引き止めていた。
30代の兄貴2、3人連れと20代の二人連れくらいのようだった。鉄道警察の身体のデカイおっさんが来たが、双方お構いなしに罵り合っている。警官も止めるでもなく、理由を聞く風でもなく、見ながら立っていた。前にもこんな光景を見たが、その時も警官が何が何でも止めさせるという感じではなかった。
もうちょっと早く気が付いていれば迫真の場面が見れたかも知れないが、その他大勢の汽車待ちの野次馬は別段、普通に見てる。売店の女性たちもすぐ前でやっている罵声など気に留める様子はあまりない。慣れているのかも・・・。喧嘩の片方が乗車する時間に迫られて、ホームの方向に去り一件落着、と思ったら又引き返してきて啖呵を切って凄んで見せたが、それだけで又ホームに去った。
中国は汽車の移動がバスなどに比べて安い。だからいつも汽車は満員になる。今回も成吉思に頼んでいたので簡単に手に入ったが、自分で窓口に行って買う気はしない。切符を見れば値段は¥133元となっている。成吉思は手数料、67元も取っている。普通は40、50元が相場だろうけど。何かを安くすれば他で少しでも辻褄合わせをしようとするのだろう。
10時51分:N58次・斉斉哈爾行きの汽車に乗る
サラバ海拉爾。9号車:軟臥。17号下鋪、17号だったが、客室服務員の友達のような者がいたようで、21号に変更させられた。そのくらいは彼らにとって自在なのだろう。客より友達を優先する。
部屋は若者二人の三人だけだった。二人は知り合いのようだったが友人でもないような・・・。夜も遅いし話すこともなく、それぞれがベットに横になった。一人は大慶まで行くとのこと。
さあ、明日の朝は斉斉哈爾に着く。眠れぬ夜を過ごそう・・・。
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