2008/05/13 - 2008/05/24
34081位(同エリア45602件中)
明石DSさん
AM.7.37/ エレベータホールで窓の外を写す
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11日目:斉斉哈爾〜哈爾濱:5月23日(金)晴れ
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2008.平成20年5月23日(金)
■7時20分:斉斉哈爾の朝、良く寝た。
今回の旅の中で一番良く寝た。やはり疲れが溜まって来ていたのだろう。人生の三分の一以上は寝てるのだろうけど、命ある物は死ぬまで寝て食っての繰り返しで命を保っている。上手く作ったものだ。
草原の牛や羊は起きている間はずっと草を食い続けてるって感じがする。馬は草原で食っているというより動いているという感じだが・・・。植物は寝るのか?
7時44分:朝食を食う。
民航大厦の朝食はまあまあ良かったけど、中国料理はとっくに飽きているのでそこそこ食った。
8時45分:退房す。
セーターを着て、いつものように100円ショップで購入した下着と靴下を捨てての毎日だったのでリュックの中味は大分減った。シャツも古くなったのを着てきて捨てたし、トルコで買ったシャツはゴツクて着にくかったけど丈夫だった。捨てるのは偲びなかったが捨てた。
でもセーターは、今朝も着てるし明日も捨てずに日本に持って帰る。
諾門汗に共に行ったセーターだから。
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日本人の退房は綺麗んじゃ
掃除の仕事がなくなってスマンが
部屋が汚いのは心も汚いんじゃ
えっ・・・ホンマかいな? -
こんな三輪自転車に乗って
哈爾濱行きのバスターミナルに向いました・・・が
このおっちゃんも場所が分からず
一人で探し捲る羽目になりました
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■哈爾濱行きのバス乗り場。
哈爾濱行きの豪華バス乗り場というのが「05〜06:地球の歩き方」を見れば駅傍だったので、ぶらぶら歩いて行こうと出て行った。天気は良かったが風が強い。
ここ斉斉哈爾もあちこち工事中やビルの建設ラッシュで、空気は乾燥しているし風が強いと砂埃が凄い。この旅を通じてホンマ皮膚がカサカサになった。
歩いていると、ちょうど三輪自転車が来たのでそれに乗ることにした。“おっちゃん”に「哈爾濱行きのバス乗り場」と告げて・・・。おっちゃんは「知っている」と言いながら、駅近くまで行ったが探しているようで「ここにあったのに無くなっている」と言う。駅傍だったし自分で探せばすぐに分かるだろうと降りた。
三輪自転車のおっちゃん
52歳、3年前に退職してからこの仕事、稼ぎは一日50元(750円)前後、営業は午前4時〜午後4時頃まで・・・と、いっても全ては「随便=好き勝手」だそうだ。5歳の男の孫がいる。
そしてバスターミナルが有ったので、バスの運転手に聞いたら「ここを真っ直ぐ行けばある。百メートル先に・・」と言うので早速、歩いて向かったがそんなバス乗り場は見つからず、あちこちで人に聞いたけど分からなかった。
それなら鉄路で行こうと駅に行き窓口に並んで自分の番が来たので「哈爾濱まで次の列車で行きたい」と言ったが、すでにその分は売り切れなのか?はたまた?ようするに私の中国語レベルでは、窓内の女性服務員と意思疎通は難しい。
後ろに人が並んでいるし、服務員の邪魔臭そうな冷たい目線に粘る勇気もなくすぐに諦める。多分、哈爾濱行きのは午後(発)の分しかすでにないと言っていたような気がしたし・・・。 -
一時はバスを諦めて汽車の切符を買いに駅へ
でも汽車もすぐ次のは切符がないようで
やっぱりバスで行こうと探した・・・ら -
探し回った挙句、すぐ傍にあった。
さっきまで何回か、この前も通っていたはずだ
「灯台下暗し」っていうのはこのことだ
この写真で見ても、バスがなければ・・・。
そして私は大きなバスターミナルを想像していたので
これじゃあしゃあないなあ・・・と、納得す
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■10時20分:哈爾濱へ向かって出発。
そして又バス乗り場を探しに行く。な、なんとすぐ傍に有った。そこは何度も前を行き来したのに気付かなかった。聞いたみんなが「すぐそこにある」と言ってくれたように、すぐそこだった。でも気がつかないのも無理はない。そんなバス乗り場だった。確かに看板には「站前客運站」と有るが、普通の商店のような店構えでバスの駐車場も何もない。それに「站前客運站」の看板を見ても私にはすぐピンとは来ない。
ここが哈爾濱行きの豪華バス乗り場とは、笑ってしまう。でも当然だが「店?」に入ればちゃんとバスの切符を販売していた。バス料金は¥61元(915円)、4時間半以上乗ってもこの料金だ。汽車はもっともっと安い。定刻にバスは動き出したが、客は少なく数えれば6人だけ。こんなことは初めてのような気がする、記憶にない。きっと途中で満員になるのだろうと思っていたが、一人乗って来ただけで7人だけだった。 -
何だか人が集まっています。事故ってます
すぐに人だかりが出来ます
それは人間が多いからです、楽しみも少ないからかも? -
車窓の景色もどこともあまり大差なく
同じ写真を使いまわしているわけでは決してありません
何なら見比べて違いを見つけて下さい
間違い探しのように・・・。ヒマなら -
こんな景色、あんな景色
もっと満洲の大地を効率よく使って
地球規模の食糧危機に備えてもらいたいです
今も満州国が存在していたなら・・・と
そんな目で見、そんな気持ちで歩き続ける
旅でした -
高速道路途中で同じ会社のバス同士が停車し
互いの車掌が何かの受け渡しをしてたようです -
時間半のバスの旅ももうすぐ終点哈爾濱駅前に・・・。
渋滞は凄いです
地球温暖化にますます貢献著しい中国です
きっと地球滅亡なんて漢民族には関係ないと思います
地球の滅亡より、常に自分の滅亡が危機迫る
日本人には想像外の、過酷な歴史を生き抜いている
そんな個々人の集団が中国だと感じます -
哈尓濱に戻ったらホッとする
何故か?飛行機で日本へと通じているから
明日日本に帰ることが決まっているから
それに他ならない
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■3時12分:曼哈頓商務酒店に戻る
9日振りに戻って来た。フロントに行くと、服務員の姑娘とたまたま傍に居た掃除のおばちゃんの二人が私の姿に気付いて「帰って来たね」と言葉はなかったが、ニコッとしてくれた。その瞬間、「覚えてくれていたんだ」とちょっと感激する。
その姑娘は私がワンバの所在を聞いたら丁寧に紙に書いて教えてくれた彼女でもある。おばちゃんも何かと親切な世話好き“おばちゃん” だったから・・・。
押金¥200元を払って部屋に行く。14階6号室。そして、ちょっと休憩して出れる準備をしてから、14日の夜行で知り合ったUHさんに約束通り電話を掛けた。
約束のことも覚えてくれているが、どこでどう出会えば良いのか?電話の遣り取りとりで彼の言う場所は聞き取れず、私も是非会いたいと言う元気もなかったので「今後又機会があれば会いましょう・・・」と、告げた。
ならば彼が「そっちに迎えに行くからホテルの名前と部屋番号を教えてくれ」と言うので、伝えたら「30分後に行くから」ということで部屋で待つことになった。 -
UHさんのマンションは
想像通り豪華マンションが建ち並ぶ一角のだった
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■4時28分:UHさん宅にお邪魔する
UHさんは30分しないうちにやって来た。部屋に入ったが、すぐに彼の家に行くことになりタクシーに乗って向かった。哈爾濱市道里区河政街にUHさんのマンションは有った。この附近は開発区のようで高層の豪華マンション群がある地域だと思う。
家に行く前にスイカと瓜をUHさんは買った。
夜汽車の中でのUHさんの話では、奥さんと娘さんは海南島に住んでおりUHさんも冬は向こうで過ごすと言っていたのでここでは一人暮らしのようだ。部屋は2階で豪華マンションだった。調度品も含めて、綺麗に整理されリビングも広い。書斎には立派な机が置いてありUHさん自身の現役当時の写真が掲げてあった。
私が訪ねた数少ない中国人の住居の中では最高の部屋だった。スイカを切ってくれた。リビングのソファーに坐って私が「共産党員ですか?」と聞いたら、その返事は言葉ではなくゆっくりと「ウン」と言うかのように頷いた。汽車の中で私は彼に共産主義は好きか?と聞いたら首を左右に振っていた。
そして私が「共産党は最悪だ、私たち日本人にとって最も重要なのは機会の平等であり、結果の平等ではない」などと言うのを黙って聞いていたUHさんだったが。
農民の貧しさを何度も憂いているようなUHさんだが、そして彼の叔父さんが国民党員だったので、「自分が共産党員になるのが遅れた」とも言っていた。私は初めてれっきとした地位を得て富もある共産党員に出会い、その家庭を知ることが出来たような気がする。
UHさんがどの程度の地位だったのか知る由もないが、この家や家族の状況を見れば相応の立場だったろうと思う。退職後の今も時折、頼まれて仕事をしているとは言え何不自由ない生活のようだし・・・。ハワイや日本にも行ったことがあるようだった。
こんな中国のような階級社会では権力側に属し階級が上位の者たちにとっては、一体その人生とはどんな物だろう。同じ国の国民とは言え、自分たちとは全く違う世界に生きる者が大部分で、自分たちは選ばれし特別な者。
そしてそんな別な階級に暮らす者たちは下々の一般民衆を同情しても自分たちの立場だけは子々孫々までこのままで継承したい。そんな気になるのが当たり前かも。
そんな立場のUHさんだが、私の思想信条を知りながら哈爾濱での再会を約束したのはどんな気持ちを持ってのことなのか?今もってよく分からない。家には呼んでくれたが、休憩したあとすぐに「食事に行こう」と言うので出かけた。急に言われたので私は彼の家に斉斉哈爾で買った辞書と旅行記の為のメモを置いて来てしまった。 -
自宅近くでスカイを買うUHさん
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自宅マンションは部屋数も多く
立派な書斎にはUHさんの現役の頃の
写真が掛かっていました -
この店で食事をご馳走になりました。
哈爾濱の何処なのか全く分かりませんが
タクシーでホテルまでそんなに遠くなかったです
旅の終わりです
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5時25分:UHさん家族との会食
タクシーに乗って出かけた先はまったく何処か分からないが、着いたレストランにはすでに部屋が確保されUHさんの家族が集まっていた。二組の夫婦と子供たち計6人、そして私とUHさん、計8人での会食となった。
そうか、私と23日の再会を約束した時に、家族のみんなには私が来るかも知れないことは内緒にして、これを企画していてくれたのかと思った。先に来ていた6人は私が来ることは知らなかったようだが、UHさんも私からの電話が来ることは半信半疑だったのだろう。
先に待っていた家族を紹介してくれたが、中国語なので息子とその嫁、そして孫と言うのは分かったが、あとの二人はどんな関係なのか分からない。娘がいるというのは知っていたが息子がいたのは知らなかった。
息子の仕事はUHさんと同じらしい。息子さんも共産党員なのかも。息子さんの奥さんは小学校の先生だそうだが、こっちでは先生の給料は安いようだ。子供はまだ小学校1年生の男の子。もう一組の夫婦は40代くらだと思う。
娘さんは13歳で中学2年生のようだった。彼女に私が「どこの国が一番嫌いですか?」と聞いたら即座に「日本、だってそう学校で教えられているから・・・」と言うようなことを言っていた。その回答に私を含めみんなが笑った。その娘さんの両親は娘の反日意見に気を使ってか「我が家の電化製品は全部日本製です」と言っていた。
食事は鍋料理で、私の左横のUHさんの息子が気を使って私の皿に時折入れてくれた。酒も私は飲めないがビールで乾杯し、何度かUHさんに“飲んで”“飲んで”と注がれた。でもそんなに他のみんなも飲むような家族ではなかったようだ。
そしてUHさんが私からみんなに一日本人の話を聞かせたかったのか?会食の席には相応しくないかも知れないけどUHさんの意図で“日本の侵略”の話題になった。
そこで仕方がなく私はつたない中国語で言う羽目になった。「私たち日本人は中国こそ侵略国家だと思っています」「新疆ウィグル・チベット・内蒙古と」「世界中どこでも同じだと思いますが、隣国とは仲が良くないのは仕方がない。」
「一つの国にはその国の歴史があり、考え方がある。同じ歴史認識など共有することは無理で、互いに尊重するしかない」というような事をたどたどしく言った。
彼らの顔色も少し変わったけど、親父の手前か黙って聞いていた。UHさんも何も言わずにみんなに私のような日本人の考え方もあるということを家族に聞かせたいような雰囲気だった。汽車の中と違ってUHさんは最後まで寡黙な親父のようだった。
そして中国の印象も遠慮せずに言って下さいと聞かれたけど、中国語で言えるのは「街が汚い、便所が汚い」くらいで、自分が思っている中国の印象で、中国人にも聞いて見たいことが山ほどあるが何も聞けなく言えなかった。
そして、その時ほど自分の中国語レベルの低さと、この場に来たことを知らなかったとは言え後悔した。
互いに議論しようと思えば、ある程度の語学力をまず身に付けなければ話にならない。因みに中国の印象で私が言いたかったこと、そして彼らに聞きたかったことは・・・
「私が中国に年一回くらいのペースで来るようになって思うのは、どこの地方都市に行っても開発区のような所があり、やたらに道路を作ったり公園を整備したりしている。
私が思うには、そんな事業こそが地元の行政組織である共産党のそれぞれの役職にある者と業者との癒着の構図になっており、両者を儲けさせているような気がする。庶民の生活レベルの向上とは別次元の金の使い方のように思うが、実情はどうですか?」
それが私の最近の中国旅行で気になることであり、中国人に聞いて見たいことでもあった。やたらに公園とか箱物造りが多い。
7時4分:会食終わる。
デジカメ時間では1時間半くらい食べながら話をしていたのか・・・。彼らにとって、あんまり楽しいひと時ではなかったと思うけど仕方がない。こんな私を呼んだのだから(笑)。私ももっと中国語のレベルが上がるか、通訳がいるかしないと、一人だけではこういう席はしんどい。
まあ私にとっては良い経験をさせてもらったと感謝するだけだが。記念写真を撮って、私は一人タクシーに乗ってみんなの見送りを受けながらホテルへと戻った。
帰国後UHさんに日本のお茶のセットと、お礼の手紙、写真を添えて郵送した。郵送料は¥2,160円。一週間くらいで着くだろうとのこと。
そして早々にお返しの中国茶とUHさん宅に置いて来た「中国辞書」「メモがき」、それに手紙を添えて我が家に届いた。
早い。でも手紙は達筆で読めない。誰かに頼まなければ・・・。
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