![部屋からソフィスカヤ寺院広場を写す <br /><br />今朝も早くから行進訓練をしてるようだ <br /><br />23日にこの曼哈頓商務酒店で戻ってくるぞ <br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br /><br /><br />3日目:哈爾濱〜満洲里へ:5月15日(木)晴れ<br /><br /><br />--------------------------------------------------------------------------------<br />2008.平成20年5月15日(木)<br /><br />■7時57分:曼哈頓商務酒店を退房<br /><br /><br />まずい朝飯を食いに行く。この安ホテルにもロシア人が泊まっておりロシア人男女7,8人が揃って朝食を食べていた。中年女性はみんな太っている。オバハンになったら太らないとシベリア流刑になるそうだ? <br /><br />ロシア人女性の携帯が鳴ってなって話しをしていた。まず「ダー」と言い、最後は「ハラショー」と言って電話を切っていたふうに聞こえたけど。 <br /><br />朝食を適当に食い部屋に戻って、「これが日本人の退房じゃ!」と、いつもように整理整頓、準備をし部屋を出る。フロントで押金(保証金)¥500元を受け取りリュックを預け、いざ出発だ。 <br /><br />(注)<br />連泊する時、あまり部屋を綺麗に整理しておくと、掃除が終わったのかと服務員が勘違いしてしまうことがあるので、その辺は適当に・・・。 <br /><br />今日は哈爾濱站、夜の7時54分(発)のN91次に乗って満洲里に向かう。それまでたっぷり丸一日を哈爾濱で過ごす。満洲時代を訪ねて地図を見ながら歩き回ろうと思う。 <br /> <br /><br />](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/10/24/85/650x_10248505.jpg?updated_at=1228891894)
2008/05/13 - 2008/05/24
34104位(同エリア45624件中)
明石DSさん
部屋からソフィスカヤ寺院広場を写す
今朝も早くから行進訓練をしてるようだ
23日にこの曼哈頓商務酒店で戻ってくるぞ
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3日目:哈爾濱〜満洲里へ:5月15日(木)晴れ
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2008.平成20年5月15日(木)
■7時57分:曼哈頓商務酒店を退房
まずい朝飯を食いに行く。この安ホテルにもロシア人が泊まっておりロシア人男女7,8人が揃って朝食を食べていた。中年女性はみんな太っている。オバハンになったら太らないとシベリア流刑になるそうだ?
ロシア人女性の携帯が鳴ってなって話しをしていた。まず「ダー」と言い、最後は「ハラショー」と言って電話を切っていたふうに聞こえたけど。
朝食を適当に食い部屋に戻って、「これが日本人の退房じゃ!」と、いつもように整理整頓、準備をし部屋を出る。フロントで押金(保証金)¥500元を受け取りリュックを預け、いざ出発だ。
(注)
連泊する時、あまり部屋を綺麗に整理しておくと、掃除が終わったのかと服務員が勘違いしてしまうことがあるので、その辺は適当に・・・。
今日は哈爾濱站、夜の7時54分(発)のN91次に乗って満洲里に向かう。それまでたっぷり丸一日を哈爾濱で過ごす。満洲時代を訪ねて地図を見ながら歩き回ろうと思う。
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靖宇公園
ホテルからここまでタクシーで来て
ここから西に向かって路地をさ迷いながら歩く
この辺りから西には多くの日本人が住んでいたはずだ
昔の哈爾濱の地図にはこの一角を「傅家甸」としている
他は中央大街の方を「埠頭区」とし、駅の南側区域は「新市街」となっている
我まず「傅家甸」を散策す
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■8時39分:靖宇公園からスタート
まずホテル前からタクシーに乗り、濱江站から北北東方向の古い建物が残っている地域に行くことにした。地図でその地域の東の端にある靖宇公園まで行った。そこから靖宇街を西方向に向かって路地をジグザクしながら昔の雰囲気を感じながら歩いた。
この時のタクシーの運転手
収入一ヶ月¥2〜3千元(3〜4万5千円)。行った所で一番遠い場所:雲南省、長距離トラックの運転手として、片道一週間、往復半月の仕事、給料は少ない、だからタクシーに転職した。子供は一人4歳(女)、趣味は旅行
昔のロシア風建築の立派な建造物は今も使われているが、何せ、周囲も建物の使い方も汚い。もう少し綺麗に住めないものかと、いつも不思議に思う。昔の建物も使い方しだいでは綺麗なままの建物として残っていて当然だが、住む住人によって建物もろとも薄汚い下町に変貌にしてしまっているのだ。
南十五道街近くには回教寺院もあった。この辺りにもバロック形式か何形式か知らないけれど、ロシア風の彫刻を施した建物が病院であったり店や会社であったりと、そのままの街並みを残していた。薄汚いけれど・・・・。日本人が居住していたころは綺麗な街並みだったと思う。 -
昔の街並みを思い起こさせる建物が彼方此方に残る
写真で写せば綺麗に見える街並みも
実際はとても綺麗とは言い難い -
靖宇街を西に歩く
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イスラム教会なのか
原色の鮮やかな建物出現に驚く
周囲との調和と言う感覚はないものか?
日本の街も似たようなものかも -
この辺りが古い建物が多く残っている地域
南、北七道街〜南頭道街の付近
右手の建物は病院 -
このアーチはいかにも骨董的雰囲気をかもしだしている
でもそれだけがいかにも突出し、ちぐはぐでもある
東方のモスクワ・東方の小パリ
そのきらびやかさは今いずこ
当時の物はあっても周囲が汚い -
「傅家甸」の裏通り
-
この三輪車に乗って松花江へ
車道を車に揉まれて走ると中々スリルあり
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■9時38分:輪タクに乗って松花江に向かう
1時間ほど旧日本人居住区の街並みを散策し、又松花江に輪タク(4元:60円)に乗って行った。松花江に架かる鉄橋があり、これも昔のままの姿をとどめていると、いろんな手記に書いてある。
この鉄橋には左右に歩道橋が併設されており誰でも対岸まで歩いて渡れる。鉄橋への階段を上りながら写真を撮っていると、いきなり上から武装警官か?橋を警備する若い兵隊が降りてきて「写真は駄目だ、今写した写真を削除しろ」と言われた。何も知らずに登っていた私は驚き、シマッタと思った。
そして私はその時、写真を一枚選んで削除する方法を知らなかったからホンマ焦った。「削除できない。すれば全部無くなる」と、若い兵隊に頼んだ。一、二度互いに「削除しろ」「駄目だ、全部無くなる」と言い合ったあと、若い兵隊は許してくれた。この時は、ホンマ焦った。13,14日と今日の今までの写真が全部パーになってしまうのだから。
9時57分:鉄橋沿いの歩道橋を歩く
見れば橋の上に警備室が設けられ兵隊二人が常駐している。カメラをポケットに入れてそのまま前を通り過ぎ鉄橋に沿って川の上を対岸目指して歩いた。結構人は歩いている、一人のおっちゃんを追い越すと、そのおっちゃんがなにやら私に声を掛けてきた。どんな話をしたのか覚えてないが、この“おっちゃん”は良く往復するそうだ。片道20分掛かるとのこと。
とうとう向こう岸まで来たが行く当ても無く又引き返す。その間何度も横を音を立てながら列車が通過した。警備の前を通る時に、「やっぱりさっきの写真を削除しろ」と言われないかと心配だったが、知らん顔して階段を下りれた。
その後、今回の件に懲りてデジカメ写真を一枚だけを選択して削除する仕方を覚えた。
橋の下に降りてきたら形は長方形の大福餅のような物を売っていたので買う。1元(15円)で四個。味はまあまあだった。おっちゃんは「日本人か、日本人は良い」と満面笑顔で日本人を嘘か誠か誉めてくれた。
「これ、自分で作っているの?」と聞くと得意げな表情で「自分で作る」と言っていた。そして又昨日王文亮と歩いた場所をゆっくり散歩した。 -
松花江に掛かる鉄橋
満洲時代を暮らした人も昔のままだと言っている
この風景が紛れもなくここにあった -
このおっちゃん手作りの長方形大福餅
まあ食える、旨い、安い
この“おっちゃん”も何故か?私に向かって
「日本人マ?日本人挺好:日本人か?日本人は良い」
二、三度繰り返して言っていた
こっちでは「韓国人か?」とあまり聞かれませんでした -
1元=15円で四個もあります
これだけで腹膨れます
全部食いました -
あの赤い屋根が橋の警備所です
鉄橋を警備する必要がこの国にはあるのでしょう
それとも人が有り余っているのか? -
遊覧船に乗って向こう岸の太陽島公園へ
満員になるまで出航せず
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■10時49分:太陽島公園行きの船に乗る
松花江に浮かぶ遊覧船のようなものに乗った。結構な大きさで100人くらいは乗れるようだ。河川敷のそこらじゅうに切符売りの“おばちゃん”たちがいて客引きをしている。切符を買う時は直ぐに出航すると言うが、やはり満員になるまで船は停まったままだった。
11時15分:やっと船は動き出した。
「直ぐ出航する」と言ったが、乗って25分後にやっと出航す。平日、木曜日なのに太陽島公園に遊びに行くのだろう、アベックやグループ、家族連れ、孫連れ、様々な人たちで一杯である。冬にはこの川も厚い氷が張ってトラックでも通行できるそうだ。
11時31分:対岸に船は到着
太陽島公園に来るつもりは無かったけど、そしてこの船から降りなければそのまま戻ることも可能なようだった。何人かが降りずに乗っていたように思う。まあせっかくだからと降りて公園に向かって歩く。ロシア人ダンサーたちのショーもあるようだけど時間も分からず又その辺を散歩して直ぐに向こうに戻ることにした。今度はロープウェーで・・・。
11時50分(発)〜12時1分:到着:ゴンドラに乗る
このロープウェーはハーブ園に行く新神戸ロープウェーと同じ常時ゴンドラが動いている。結構な高さなので下から見ていると人が乗っているのか?いないのか?良く分からなかったけど、駅に行くとそこは驚くぐらい寂れていた。係員も昼時なのか食事中。建物はボロボロ、エスカレータも停止し階段を登る。幽霊屋敷に近い。
おまけに料金(30元)が高いのか乗る人は私一人。昨日の王文亮によれば自分が日本に行っている間に出来たようだから、8年前にはなかった代物だ。こんな有様では大赤字経営だろうに、それにゴンドラは終始動かしている。それだけも莫大な電力料金が掛かると思うけれど。
高いところから哈爾濱の街が一望できて30元の価値は私には大いにあった。つまらぬ紀念館の高い入場料よりも。結局二人のアベックが一台のゴンドラに乗って向こう側に行くのとすれ違っただけだった。
こんな赤字垂れ流し事業が山ほど今の中国にはあるのだろう。もっとも人件費は安いから・・・。
12時28分
ロープウェーを降り中央大街に戻った。そしてこの通りにあるマクドナルドで昼食を食う。27元のセットを頼んだ。一般の中国人から見れば高いのだろうけど今や誰もが気楽に入って食べているように思う。こんなところにも中国の成長を伺えるのかも。
普通の小吃店なら腹いっぱい食っても10元もあれば食える。普通に食べている普通そうに見える老若男女と、もうちょっと下層の人たちとの間の格差が開いているのかも・・・。数年前の雰囲気とは確かに変わって来ている。 -
どこから来るんだろうか?
この船に乗っている人たちは -
太陽公園に向かって歩く
ロシア女性のダンスショーは見たかったけど -
ロープウェー乗り場の惨状
幽霊屋敷の如く
職員も飯を食っていて勝手に乗ってくれという感じ
勝手に乗ったが・・・
メンテナンスが行き届いているとは思えない
そのスリルを味わえるのが中国だ -
扉は自動で開きます
勝手に乗って行きました -
後ろを振り返って太陽島公園を写す
落ちたら死ぬなと思いつつ -
空のゴンドラと次々すれ違う
空中からの景色を楽しむ、恐いけど -
哈爾濱市街を写す
-
到着が近づき初めて人が乗ったゴンドラが来た
今日の客はこれだけかも -
ケンタッキーではなくマクドナルドで昼食を
こんな所こそ、中国の今と昔の比較が出来るのかも
今では普通の店になったような感じ、
昔は中国のマクドナルド店に高級感を感じたが -
マクドはマクドでこれでええけど
ケンタッキーもこんなんやから何でか?おかしくなる
といっても日本でも最近入らないからどうなっているのやら分からん -
哈爾濱駅近くで
乞食に金を恵む女性
乞食はあちこちにいるがこれも商売なのかと思う
されどその正味は分からない
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■1時29分〜2時28分:東北烈士紀念館を探して歩く
昼食を終え、ホテルに戻り預けていたリュックを受け取り哈尓濱の駅に行った。そして駅横の寄存(荷物預かり所)にリュックを預け(10元)、東北烈士紀念館を探して歩いた。
磁石と地図を片手に探すも手こずり、何度も途中聞きながら歩く。聞いてもなかなか難しく、駅傍なのに1時間もうろついた挙句、閉館時間だからとあっさり入場を断られた。粘れば入れただろうけど内容は想像できるし、この建物を見つけるのが主目的だったからあっさり退散す。
1933年〜1945年まで満州国時代に関東軍の憲兵司令部だったようだ。実際の建物に貼ってあったプレートの中国語での説明書きには、日偽時代、警察庁が占有していたと書いてある。
旅の行動の時間経過はデジカメ写真を撮っていれば、時間が詳細に分かるので便利だ。だからパチパチとやたらに取り捲っている。あとからこうやって旅行記を書く場合にはホンマ便利で間違うこともない。
確かに探しまわり、迷ったけど1時間もうろついていたのか・・・。
途中、80歳のかくしゃくとした男性老人に出会い強烈な印象を持った。
2時4分のことである。リュックを担ぎキョロキョロ歩いていた時、この老人と何故か目が合った。すると向こうからいきなり「日本人か?」と声を掛けて来た。私が「日本人だ」と答えると、私の手をとり「家に入れ・・・」というようなジェスチャーをした。
何が何か分からず私が戸惑っていると「日本人は良い=日本好!中国人は悪い=中国人不好!」と2、3度同じことを私に言ってきた。そして年を聞いたら「80歳だ」と言う。工具を手にし何かをしていたが、体も80歳とは思えない頑強な体つきで目付きもしっかりしていた。
何で?この老人にそう言わせたのか知らないが、80歳と言うのが本当なら、日本敗戦の時は17歳くらいで日本の満洲統治時代のことも何もかも承知している中国人であるはずだ。
そんな老人に、はっきりし過ぎるくらいの声と態度でそう言われてホントに驚くと共に感激した。中国東北地域の旅を始めて薄々ながらも感じるのは日本に対しての反感よりも敬意や好感情を持ってくれている“高齢者”が多いというのが率直な私の感想だ。
日本の満洲統治を知り、又は戦争当事者であるはずの高齢者ほど満州の地ではそんな感じがする。きっときっと日本が統治する満洲時代は満洲に暮らしていた中国人、いや五族(日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人)のみんなにとって、今より良かったのだと信じる。
日本に対しての反感は、実際の満洲時代の暮らしも知らず日本との戦争も知らない若者ほど強いような気がする。それこそが江沢民が成した愛国教育の結果であり双方にとって不幸をもたらすしかない。
あの老人の小屋のような家に入って話をもっと聞きたかったが、老人も私を二度と引き止めることなく、私もとっさのことで瞬時の立ち話と一枚の写真でその場を後にしてしまった。途中、もう一回引き返そうとチラッと思ったけど・・・。何であの老人が日本に対して好意的な感情を持っているのか知りたかった・・・今も。 -
哈爾濱駅の周辺を歩く
大都会であり車も人も多い -
このおっちゃんに呼び止められた
80歳と言っていたが
歩いていたら突然「日本人か?」と声を掛けられた -
東北烈士紀念館
-
東北烈士紀念館
満洲時代の哈爾濱警察庁 -
年老いた老婆を寝かし左右に娘らしき女性が二人坐って恵みを乞う
この赤いセーターの女性が米突きバッタの如く
休むことなく頭を上げ下げしていた
その速度の速さに驚くが、目が回ったり貧血を起こさないのか?
これは乞食というより路上パフォーマンスと言うべきものだろう
彼女の腹筋はきっと鉄の如し
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■旧東清鉄道の職員社宅
次に「05〜06:地球の歩き方」に載っている東清鉄道のアールヌーボー様式の職員社宅が残っているという場所を目指して歩いた。
東北烈士紀念館から吉林街(2時52分)を南東に歩き、東大直街(2時59分)を西南方向に真っ直ぐ歩く。途中、ロシア人が経営していた旧秋林百貨店(チューリン百貨店):秋林公司の建物(3時11分)が道路北側にある。
そして紅軍街を真っ直ぐそのまま横切り、今度は西大直街と東から西に名前が変わった同じ道をそのまま真っ直ぐに行くと、直ぐに北京街が交差する。東・西大直街は東北・西南に真っ直ぐ延び、北京街はその西大直街に北東〜西南に伸び交差する。西大真街の方が大きな幹線道路だ。
4時40分
この北京街を左に南東方向に曲がれば、そして、それから南西方向に掛けての一帯に、見たら直ぐに分かるアールヌーボー様式の職員社宅が残っていた。沢山並んでいた。惜しむらくは使い方が汚く、折角の建物群が寂れ果てて見える。こんなに素晴らしい建物をもっと綺麗に使えないものか・・・と、いつも感じる。
そして北京街と連発街(Lian fa jie)の交わる角に、1904年に建てられた東清鉄道副局長邸が有った。今は幼稚園として使われている。日露戦争勃発の年に建てられたものだからロシア人が建てその後日本の職員が住んだのだろう。この辺は紛れも無く多くの日本人が暮らしていた地域だと思う。
結構探し当てるのに時間が掛かり足が棒になった。秋林百貨店の前を通り過ぎてから1時間半・・・とは。その間もいろんな面白い物を見掛けたが。四川地震の募金活動をやっているところにも出くわした。こっちに来てからテレビでもニュース番組は地震ニュースをやっているみたいだけどその他のチャネルは地震の放送も無く、情報もない。
その時はまったく地震なんて、私のような旅行者から見れば何処吹く風なのか状態だった。そしてこの辺の人の関心も全く感じれなかった。募金活動こそしていたけど金を入れている人はいなく、学生らしき集団が赤い度派手なたすきをかけて突っ立っているだけという感じである。
「馬家溝河」にも突き当たり、その辺の古いというより貧弱な家並みを見ながら歩いたり、又学校の迎えに遭遇したり。知らない所を、歩くことこそ旅を実感する。 -
東北烈士紀念館から吉林街を歩き
東直街を右に曲がって真っ直ぐ歩いた -
旧秋林百貨店(現在:秋林公司)
-
四川地震の街頭募金
あんたら何でこんな人通りの少ない所で突っ立ってるの?
中央大街でするべきちゃうか・・・
よう分からんけど、ホンマ -
で、でぇたーと思ったら、懐かしの毛ちゃんだった
こんなとこに未だに立ってたのか
いつかは過去の遺物になるんだろうけど
一日も早くその日の到来を待ちます
為了中国老百姓而幸福。 -
学校前の露店に群がる子供たち
ここも親たちのお迎えで溢れていた
一人の孫が、四人の祖父母に期待され -
馬家溝河
川沿いは表通りと一転し、汚い
ゴミ収拾はどうなってんの? -
やっと見つけた
東清鉄道のアールヌーボー様式の職員社宅
こんな素敵な住居が整然と並んでいる一角があった -
だがその面影残れども・・・今は
この有様なり -
沢山の旧職員住宅が残っていた・・・けど
-
沢山の旧職員住宅が残っていた・・・けど
-
1904年建築:東清鉄道副局長邸
ならば局長邸はどこにあるのやら -
今は幼稚園として使われている
-
西大直街から北京街を南東に行ったところに
旧職員住宅が沢山あった -
モヤシがソバに見えた
酢が利いた野菜の山盛り
こんな物食えるかっ・・と、最初思ったが少しは食えた
何故?写真で量は写らないのか?
両方ともめっちゃくっちゃ多いのに -
ここで食べました
ここが哈爾濱の何処だか分かる人は哈爾濱通と言えます -
N91次、この寝台車に乗って満洲里まで行きました
哈爾濱〜満洲里:944km
走行時間:13時間58分
とのことです
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■7時38分:開始検票、N91次、満洲里へ
中国では飛行機に搭乗するのと同じように、検票時間が来るまでホームに入れない。長途汽車(長距離バス)も同じ。凄い荷物を持ってみんなホームに向かう。汽車が交通機関として一番料金が安いしバスなどに比べて事故も少ない。どんな人たちと同じ部屋になるのだろうか?と、思いながら7号車:25号に入った。
すでに二人が居た。おっちゃんと若い青年だった。このおっちゃんに哈爾濱最後の日(23日)に食事をご馳走になることになった。UHさん1949年生まれ59歳の人である。もう一人の青年は29歳の会社員。四人部屋だが、もう一人荷物を置きに来たのに結局最後まで姿を見せず、きっと何処かの空き部屋に行ったのだろうと思う。
勿論、最初はUHさんの素性も何も知らなかった。私より一つ年上で同世代であり、仕事は改房子:すなわちリフォームの仕事のようだった。すでに退休(退職)し、今は時々頼まれてアルバイト的に行っているようだった。奥さんと娘さんは海南島(中国のハワイ)に住み、UHさんも冬はそっちに行くそうだ。それなりの実力者と言う感じはした。
このUHさんが話し好きで、三人で盛り上がった。
日本vs中国の話である。そして歴史認識の話になった。最初は多分取り止めのない話から始まったと思うが、UHさんが「日本はこの中国の東北三省を侵略した侵略国家です」と言う事から話に熱を帯びることに成った。
その言葉に対して私は即座に「そうは思っていない。」と言うと、二人の顔色が変わった。そんなことを即座に言い返す日本人と相対したことが無いのかもしれない。ようするに私の返事が彼らにとって予期しない返事だったのだろう。
私は、以下のようなことを述べた・・・。
「日本は資源が無く当時は白人列強国家が覇権を争い、日本もその列強に伍して独立を保つ為には資源を求めて進出するのは当時として当たり前だった」「アジアの有色人種国家は当時日本とタイ以外のほとんどの国が植民地化されていた」
「中国と言う国は長い歴史の中で王朝も変わり、統治した民族も違う。」「国土も大きくなったり小さくなったりだ」「私たちは漢族の国境は万里の長城だと思っている」「今の中国といっても新しい国家だ」「当時日本は強かった」「世界中どこでも隣国とは仲良くない」
等など私の持論を、この時ばかりは日本人みんなそう思っているという感じで言った。無論、こんな話が中国語ですらすら出来る実力も無く、単語を並べ、文字で書き伝えようとした・・・と、言うことだ。こんな時こそ中国語の実力の無さに悔しい思いをする。
そして「中国こそ侵略国家だと思っている。チベット・新疆ウィグル・内蒙古と侵略している」と言うと、又二人とも顔色を変えて反発し、「歴史的にもとより中国だ」と言うようなことを言っていた。
そんなことには聞く耳持たず、「日本人の見解では侵略だ。それぞれの国にそれぞれの歴史があり、考え方がある。同じは有り得ない。日本人はそう思っているということだ」と言ったら、相手も頷くしかないようだった。UHさんに「貴方は共産主義が好きですか?」と聞いたら、言葉無く首を横に振っていた。「毛沢東は好きですか?」と聞いたら「好きだ」と即座に返事があった。
私は続いて
「共産主義の理想はみんなが平等と言うことだと思うが、日本に研修で来た中国人が“日本こそ共産主義が理想とする平等な国家ですね。日本に来てから九州や各地に行きましたが、どこでもみんな車を持ち家を持っている”そう言ってました。中国は貧富の差があり過ぎますね」・・・と、二人に話した。
途中、私たちの議論が外に聞かれるとまずいのかUHさんが部屋のドアを閉めた。若い青年は満洲里にロシアとの貿易の仕事で行くようだった。会社員である。婚約者がおり、もうすぐ結婚すると言っていた。その他、なんやかんや話しあっという間に午後10時過ぎくらいになりUHさんも上のベッドに上がって行き三人は就寝体制に入った・・・。
でも私はいつものように中々寝れないというより、ほとんど寝れない夜を過ごし満洲里へと向かう。
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