2008/05/13 - 2008/05/24
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明石DSさん
6日目:満洲里からノモンハンへ行く:5月18日(日)晴れ
満洲里→新巴爾虎右旗(西旗)→甘珠爾廟→新巴爾虎左旗(東旗:阿木古朗)→ノモンハン村→国境監視塔→ノモンハン村→東旗→海拉爾
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2008.平成20年5月18日(日)
■諾門罕(Nuo men han)へ行く
7時前に起きてシャワーを浴び準備をする。今日はいよいよ今回の旅行のメーンでもあるノモンハンの戦場に向かう。そこには一体どんな風景が広がり何を感じるのだろう?旅の前からノモンハン関係の本を読み、そこから辻政信にも興味を持った。そして敗戦時の満洲の様子、瀬島龍三や残留孤児、満洲からの苦難の引揚げ体験談の本も読んだ。
1932年:昭和6年、満洲国が建国された。そして1937年・昭和12年の盧溝橋事件、同年8月の第二次上海事変、12月南京攻略、そして昭和14年5月、ノモンハン事件と戦争は拡大していった。ノモンハンの2年後、昭和16年に大東亜戦争が勃発、昭和20年の8月9日ソ連の侵攻、15日の敗戦。
そこからシベリア、モンゴル抑留と中国に抑留された留用日本人、満洲からの苦難の引揚げ。残留日本人孤児。そんなドラマが満洲の各地で起こった。
-
長年世話になった傷だらけの電子辞書
蝶番のところで断線し、万事窮す
満洲里に置いてゆく
サラバ電子辞書よ、サラバ満洲里
礼を言う
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7時過ぎに部屋に電話がかかり、「今頃誰かな?」と思ったら成吉思だった。約束は8時半にロビーだったはずなのにと思ったら、「朝食券二枚あるでしょう、一緒に食べましょう」ということだった。二枚の券を持って食堂に行くと、もうここにも連絡を入れているのか?姑娘が二枚を黙って受け取った。成吉思はここの朝食が良いのを知ってるから来たのだろう。
私が食堂に入ってすぐに運転手と二人でやって来た。計3名、券は二枚だがホテルには顔が効くようでお構い無しって感じである。食べ終わって一旦部屋に戻ってリョックを背負いこのホテルともお別れである。そして長年使い慣れ何度も海外旅行に共に行き、家でもテーブルの上で常駐し家内も私もよくお世話になった電子辞書をゴミとしてこの部屋のゴミ箱に捨てた。合掌。
因みに今日のこのホテルの宿泊費は
割り引き価格で
最上部屋が一泊¥2716元(40,740円)
最低の部屋が私が泊まっていた別棟¥182元(2,730円)也。 -
この満洲里も工事だらけだった
これが中国発展の証なのか?
それとも崩壊への序章なのか?
100年後の当地は如何に?
サラバ満洲里よ、また来るまでは -
馬の群れにさっそく出会う
大草原と馬は絵になる風景だ
野生馬の如し
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■8時26分:出発
満洲里から諾門罕へ:諾門汗ではなく、当地の漢字表記は諾門罕だった。もっとも成吉思曰く「どっちでも良い、音を表すだけだの当て字だから・・・」と言うことである。ちなみに阿木古朗(アムグロ)も阿穆古朗と書かれていることもあるが、当地では阿木古朗だった。そしてアムグロよりアムグランの方が音としては近い。
海拉爾から行くよりも距離は遠いので一日の走行距離は大分長くなるのだろう。この時の予定では、まだ当初の予定通り阿木古朗で一泊して19日に海拉爾に行く予定だった。
でも行く途中で、成吉思の希望もあって今日の予定が変わり、満洲里〜甘珠爾廟〜阿木古朗〜諾門罕〜海拉爾となった。成吉思も漠河さんも海拉爾に住んでいるのだから、自宅で寝るのが一番良いのだろうし・・・その代わり、私の海拉爾でのホテルを少し良い所に変更するという条件だった。
そりゃあガイドの宿泊代として一泊50元請求しているのだから・・・。私としても十分今日中に予定通り行けると言われれば、事情が詳しくないだけに・・・「まあ、それならええか」となってしまう。それに今日の天気がまあまあ良かったこともあり
車は満洲里を出るとすぐにホロンバイル大草原の中をひた走った。見えないが呼倫湖を左方向に新巴爾虎右旗に向かう。
大草原で馬が集団で走り回っている姿はホンマ絵になる。馬は放牧と言うより烙印を押して持ち主は特定できるが野生に近い状況で勝手に生きているようだ。
モンゴル馬の値段は一頭5万円くらいとのこと。牛は朝、囲いから放つと勝手に餌を食べ歩きまた適当な時間に戻ってくる習性があるようだ。羊は始終牧童が追って付いていないと駄目らしい、たまに馬に乗って羊の群れを追っている姿も目にしたが、今は草原の中をオートバイで羊を追う姿も多かった。3月の終わりから10月くらいまで外で放牧し、冬季は室内で飼う。50年後の大草原の姿は如何に?
今走っている大草原に、舗装した道は昔はなく、2002年に完成したようなことを言っていた。でも、すぐに出来るけれど粗雑だからすぐに壊れるようで、あちこちで補修の為に寸断され草原を普通の乗用車で迂回する羽目になった。それでも舗装道路はやはりありがたい。そうでなければ4WDで速度は三分の一も出せないだろう。今は常時100k〜120km/時でぶっ飛ばしている。 -
まだ草原の草の色は枯草色
見えないが左手方向に呼倫湖がある
西旗(新巴爾虎右旗)に向けてひた走る
100〜120km/時速・・・で -
白布仁曰く
出来るのも早いが
壊れるのも早い
それが、MADE IN CHINA道路の特徴だと・・・。
しばし草原に迂回す -
車が不調になり点検す
別段異常も見つからず
行き違う車も時折あり -
ちっこいデジカメの撮影限度
ワイドでは写せない
我の脳裏に刻み込んでいるだけ
将来は脳に取り込んだ映像を復元できるようになるやも?
なら世界はどう変わる? -
西旗に到着
8時半ごろ出発して2時間弱・・・か
新巴爾虎右旗というより西旗の方が
一般的に使われている様子
バスの行き先も「西旗」としか書いていない
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■10時13分:新巴爾虎右旗(=西旗)に到着
この街の看板にも漢字が真ん中で、モンゴル語と共にロシア語が併記されているのが多いようだった。街はここも表通りはピカピカの様相を呈していた。どこもかしこも道路や不動産で地元共産党幹部とその一味が儲ける構図になっているのだろう。何処に行っても同じような公園であり、道路も建物も同様である。地域の特色なんて無いに等しい。
草原の景色は6月10日〜7月15日が一番綺麗そうだ。今はまだ緑の草原ではなく枯れた色の草原が広がっている。でも気温や雨量の違いによって、この時期でも色が付いた美しい緑の大草原もあれば、砂状の砂漠のような大地もある。温暖化で雨量も減りますます砂漠化が顕著で近い将来ゴビ砂漠と一体化するのではないか・・・と、成吉思は心配していた。
大草原の中で何ヶ所か平屋の集落があったが、昔の「人民公社」だと説明してくれた。集団放牧でもやっていたんだろうか?働き者が損をし、働かざる者が得をする、それが人民公社の集団農場だろう。 -
西旗市内を走る
あっという間に街郊外へ -
ホロンバイルの大草原をひた走る
緑色の草原も場所によってはある
降水量や気温が若干ちがうようだ -
大草原の中に時折、昔の人民公社跡の集落がある
今も人々は暮らすが、公社と言うのはないそうだ
働く者も働かない者もさして差がつかないなら
誰しも働きが悪くなる:「楽は苦の種」とは公社のことなり -
大草原の道路脇でお休み中のトラック
邪魔だからもう少し草原内に入ってオヤスミを -
馬も真横になって寝ていた
モンゴル人はあまり馬肉を食わないらしいけど
この馬たちの将来は如何に?
幸多かれと祈る・・・何がよくも偽善者め、ハイ -
西旗から甘珠爾廟に向かう
戦場に近づいた
1939年・昭和14年:前方に広がる大草原で戦ったのだ -
西旗から阿木古朗方向に近づいたら
こんな塔が建っていた
これが甘珠爾廟への道しるべだ
この塔を左折すれば、甘珠爾廟に一直線
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■11時30分:甘珠爾廟へ着く(前線基地)
ノモンハンの戦場にとうとうやって来た。
中国の甘珠爾廟紹介のHPには、阿木古郎から西北20km、海拉爾から186km、満洲里から200km、交通便利と書いてある。
ならば↑私たちは200kmを満洲里から出発後3時間で甘珠爾廟に到着したことになる。大体道のまともな所は100〜120k/時で走っていた。信号無く3時間で200kを走破出来るのだろう。白布仁の言う距離では満洲里から此処まで230キロだった。
新巴爾虎左旗(西旗)〜新巴爾虎左(東旗)とを結ぶ道路を走っていたら三重の塔のようなものが見えてきた。(11時22分) そこを左折して少し走ったら「甘珠爾廟景区」と書いてある真新しい道路をまたぐ門が見えてきた。その門をくぐれば遠く正面に甘珠爾廟があった。
呼倫貝爾最大のラマ教寺院で、ノモンハンの戦いの時にソ連軍の爆撃により、また文化大革命で全てを破壊されたようだ。それを2001年から再建を始め2003年7月完成した。まだ築5年の寺である。でも以前の寺を忠実に再現したようだ。「ここに当時司令部が置かれていた」と白布仁は説明してくれた。
半藤一利(著)ノモンハンの夏、94頁一部抜粋↓
・・・・・・・・・
カンジュル廟は、ハイラルから南西方向約180キロの、牛車で約四日間もかかるラマ教の総本山のあるところである。文字通り一望千里の平原の中にあり、八月の大祭時には市が立つと言う。ところが、山県支隊長はこのカンジュル廟で、小松原から「決心の一部変更を受ける。
・・・・・・・・・以上
やはりここは前線基地、司令部であり第23師団師団長:小松原道太郎中将がいたのだ。
当時、ここに居た僧侶は別の寺院に避難させ、この廟の周辺各所にソ連機による空爆に対向するための要塞を作っている。それが今も11ヶ所くらい残っているとのこと。すぐ傍にも何ヶ所も有った。戦後は地元民が倉庫や物置に使ったりしていたそうだ。今後は遺跡として保存するようである。
でもまだ整備も出来ていなくてそのままで放置の状態だった。中に入って日本人の書いた文字が残っていないか、何ヶ所か確かめたけど見つけることは出来なかった。この各要塞の上に高射砲が備えられていた。そしてこの近くに飛行場もあったらしい。
とうとう戦場に着いた。
ここではソ連機の爆撃を受け、そしてこの要塞の高射砲でソ連機を撃ち落しもしただろう。若い坊さんが日本軍の要塞跡の前でオートバイに乗っていた。何を知り何思うこのラマ教の若い坊さんたちは・・・。
しばし佇み次に向かう -
甘珠爾廟への門
こんなものばかり作っている
往時のままで良いのに
それとも昔も有ったのかも? -
ノモンハンの戦場に到着だ
69年前、ここには日本軍人が駐屯していた
近くにカンジュル廟飛行場もあったそうだ
「愚かな戦争だった」なんて露も思わぬ
今の無様な日本人どもにそんなことを言う資格が有るとは思えない
「戦うことすら出来ない臆病国家」・・・そんな今こそが愚かなのだ
恥を知れ -
いまだ遠い歳月を感じさせずに残る要塞
69年以上前に作ったとは思えない・・・けど
中国人よ、折角残してくれるなら・・・。
触らず、そのままそっと置いとってくれ -
ここは中には入れなかったが、窓から見てもやたら綺麗
展示物が飾ってあるようだけど・・・。
また整備して遺跡として公開するのだろう
愛国主義教育基地として・・・か.。ふざけんなよ -
これらの要塞の上には
ソ連の空軍機撃墜の為の高射(機関砲)砲が備えられていたようだ -
塞内部から甘珠爾廟を見る
こんな風景が当時も間違いなくあったのだ
69年前に日本軍兵士が目にしたであろう同じ風景を
平成20年にやって来た日本人が見ているんや -
日本軍要塞越しに甘珠爾廟を撮る
2003年に破壊前の姿を忠実に再現した甘珠爾廟
ここに関東軍の司令部があった。
このコンクリートは日本軍の対空砲火用の要塞
この写真右前方にも小さな要塞が写っている -
このラマ寺を関東軍は司令部として一時期使ったのだ
この地で戦死した皇軍兵士たちのご冥福を祈る -
日本軍要塞の前でオートバイに乗って遊ぶ
若いラマ僧
あんたら知ってるか?そら知ってるやろなあ
どんな風に教えられているんや? -
あの右手の三重の塔を左折したら、
車なら30分もせずに阿木古朗に着く -
遠くに阿木古朗が見えてきた
甘珠爾廟から舗装道路を車で走れば
あっけなく着くけど
銃を担ぎ40キロの背嚢を背負って歩けば・・・。
我、想像も及ばず -
昔の面影今いずこ
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■11時54分:阿木古朗(阿穆古朗とも書く)に到着
「新巴爾虎左旗」「東旗」:後方基地
何度も書いているが上記、三つの名前は同じ場所と思えば良い。阿木古朗は新巴爾虎左旗の中の一地域。バスの駅名は「東旗」。新巴爾虎右旗は「西旗」と表示している。ノモンハン事件の時は野戦病院・弾薬食料供給基地であり、そして爆撃も受けたそうだ。この街も戦場だったのだ。
甘珠爾廟に11時30分に着き、要塞を見てブラブラし24分後には阿木古朗に着いているなんて・・・。それ程近く、又ゆっくり甘珠爾廟に居なかったということか、フムフム。
朝日新聞特派員入江徳朗(著)『ホロンバイルの荒鷲』によれば当時は『阿木古朗は蒙古人包(パオ)が並ぶだけの村落で・・・』と書いてある。
時間も昼時でここで昼食をすることになった。それも今日私が泊まる予定のホテルだった「甘珠爾賓館」で食うことになった。メーンの通りに面して甘珠爾賓館は建っていた。こじんまりとして綺麗なホテルである。この地にも今は普通に泊まれるホテルは沢山あるようだ。実は、この二日後にもまた一人でこの地を海拉爾からバスに乗って再度訪れた。
何を食ったのか記憶なく写真に一枚だけ写しているのは肉と野菜の炒め物、もっと有ったけど。ただどれも美味かったことだけは覚えている。そして三人で100元以内の料金だったことも確かだ・・・。 -
1939年、当時は
『蒙古人パオ並ぶだけの村落』が
今では漢人も多く住む町になっている -
右斜め真ん中の建物が「甘珠爾賓館」
私が今夜泊まる予定のホテルだったけど
この近くに「東旗」バス乗り場もあり、街の中心だ -
甘珠爾賓館
成吉思が私の宿泊をキャンセルし
ついでに、ここで昼食を食べる -
この他にもイロイロ
腹一杯食う
全部旨かった
日本語ガイドと一緒なら食うものは困らない -
阿木古朗を出たらすぐにこんな風景が広がっている
ノモンハンの戦場までずっと360度
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■12時49分:阿木古朗よりノモンハンに出発。
ここから60キロ先が戦場真っ只中ノモンハンの草原が広がる地だ。この草原を鉄砲担いで3、40kgの重さの背嚢担いで歩いた。今その360度大草原広がる中、地平線に向かって真っ直ぐに伸びる一本の舗装道路を車はあっけなく走る。
これだけ平原が広がると、どうにも距離感が掴めない、車の速度も関係あるのかも知れないが、放牧されている羊の群れや牛、馬の群れがその大きさだけでは分かりにくい。それと牛や馬の背景がどの程度向こうまで続いているのか???
草原も阿木古朗から車で10分ほど走った所は緑の色も結構鮮やかで7月の草原を想像できるくらい美しかった。
こんな真っ平らな草原を列を成してひたすら歩いていたのだ。時は1939年、昭和14年5月、今から69年前の日本軍兵士たちである。その時20歳なら今89歳か・・・。当時の兵士たちの写真はみんな体が頑健そうだ。そうでないと戦う前にみんなぶっ倒れてしまうだけだろう。それだけでも昔と今の違いを思う。
体がそれだけ頑健で強ければ、きっと人生観も違い精神性も異なるに違いない。虚弱と頑健、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」。それも一理はあるはずだ。この草原を黙々と耐えて歩き、戦い死んだ我が先人たちを犬死だと評したり、間違った戦いに参加させられた悲劇の日本人だと言う今の日本人に問う。貴様の人生はどれほどのものなのか?
子孫に感動を与え、良き影響を残せる人生を送っているというのか?・・・と。現に私は彼らの戦いぶりに感動し、感謝し哀悼の意を表すためにこの地を訪れている。きっとこの先、100年、200年後にも私と同じような気持ちを抱いてこの地を訪ねる日本人がいると私は信じる。国の為に戦い死んだ英霊は、死に方は如何にあれど「犬死」はない。ここは故国日本から遥か遠い遠い大草原だ。
このノモンハンに向かう大草原で目にするものは、馬や牛、そして羊の群れの他に、対向車も時折行き違う。そして、移動通信(携帯)の塔も点々と目に付く。この草原からも日本にメールが確かに送れた。
Web頁参照↓元兵士の証言
・・・・・・・・
6月27日
前線まで各歩兵部隊は36kgの背のうを背負って250kmを歩きました。ハイラル市全域から徴発した自動車やトラックは砲や弾薬、補給品などの移動に使われ歩兵の輸送には回せませんでした。この時期のモンゴルの草原は、灼熱の地獄で水一滴無く、ほとんど休みもとらずに6日間歩き続けました。
・・・・・・・・ -
草原に馬はいいなあ
ノモンハンに向かう途中
何故だか・・・。
馬との出会いは心安らぐ -
海拉爾から兵隊は250km離れた戦場に歩いたそうだ
阿木古朗を経て、ノモンハンへと
36kgの背嚢を背負い、灼熱地獄をひたすらに
その先には地獄の戦場が待っていた
それでも果敢に向かっていった
全てに今の日本との圧倒的違いを思う
どちらの日本が後世の歴史で評価されるのか?
私なら、69年前の日本を評価する -
ホロンバイル大草原
最前線で戦った将校・兵士たちは勇敢で立派だった
そして今の日本人にこき下ろされている上級幹部たちも
今の高級官僚・知識人・評論家・小説家の類と比較して
どっちがどうだか?
今の日本に私が敬意を持って期待する人材など極僅かであり
ノモンハンを書いた作家、ノモンハンを只批判する輩は
司馬遼太郎しかり・・・全員が、つまらん奴ばかりだ -
国境近くの草原の中にある小さな集落
それが諾門罕村だ
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■1時25分:諾門罕(Nou men han)村に到着
白布仁と阿木古朗の地元のタクシーの運転手は、この村は当時何も無く草原だったと言っていたが、小さな集落があったというノモンハン関係の文章もある。今も小さな村だ。ここに立ち寄ったのは、ノモンハン村を見るためと、この近くにノモンハン戦争遺跡陳列館があり、そこを見に来た。ここから成吉思が代わって運転をした。
それにハルハ河を見るために国境に近づくには、国境警備の許可が要るのだ。その為にノモンハンのガイドというか、役所勤めの山丹さんという若い女性を同伴して行く事になっていたので国境警備の基地を通り過ぎて先にこっちに来た。
この陳列館なるの物が、日本で調べていたのと場所も変わり、今、その建物を大体建設し終わり内装及び展示をしているところで、まだオープンしていなかった。取りあえず先に旧陳列館に行ってみたが作業員は何人かいたが展示物は全部引越し済みだった。次いでオープン前の巨大戦争遺跡陳列館に向かった。
ノモンハン村が程近い所だけど、大草原に何かしら巨大なモニュメントのように突っ立っていた。近づくにつれて、これも愛国教育の一環として中国全土に愚かしくもやたら作っている箱物の一つだと分かった。規模もその館に行く道も含めて巨額の金を掛けているように見える。近々オープンのようだがこれも中国人の抗日賛美の象徴にでもしようと言うのか。一体、漢人の誰が戦ったと言うのか?
さすがに成吉思のお蔭で、無理やりトビラを開けてもらって一階の展示物だけ見ることが出来た。写真もOK、入場料不要である。でも、残念ながらデジカメ不調でピンボケが多い。貴重な興味ある資料も多かった。当時の兵士が持っていた雑誌の焼き焦げた頁だとか、敵戦車に投げた火炎瓶、何人もの命が亡くなったであろう錆び付き弾丸のアナの残った鉄兜の数々。ノモンハンの戦場写真もあった。スキャナー代わりにと写しておいたがピンボケなのが多い。
そこから又ノモンハン村に戻って、前に戦争陳列館だった小学校を見に行った。彼女の家のすぐ傍に建っているのだが、この小学校というのが聞いて面白かった。あの日中友好協会の平山郁夫が寄贈した小学校だった。それも1999年に建てて2003年には廃校になっていると言う。たった4年間しか使っていないとは・・・。
子供が少なく阿木古朗で寄宿しながら小学校に通っている。そんなこと作る前から分かっているだろうに。平山はこのことを知ってるのか?以前はこの建物に平山の名前が入った看板のようなものがあったようだが今はそれも外され、空き家になっている。 平山郁夫は媚中の筆頭であり、すなわち反日日本人の一人であり、歴史に断罪されるだろう。偽善の証がたった四年で廃校になったこの建物だ。つまらぬ中共政府に敬意を払ってもらえるのが、つまらぬ日本人の証明でもある。 -
白布仁も、阿木古朗のタクシーの運転手も
当時は何もなく草原だったと言っていたが
ノモンハン戦記に「小さな集落」と書いてあるのもあった
ここで生まれ育った山丹に聞いておけば良かった -
諾門罕村
-
諾門罕戦争遺跡陳列館
-
(旧)諾門罕戦争遺跡陳列館
最近近くに大きな陳列館が作られて
もうすぐオープンする予定 -
何で?諾門罕の戦場遺跡に
中国戦車が??
ノモンハン村から少し離れた場所に旧諾門罕戦争遺跡陳列館がある
また今草原に巨大な博物館を建てているが・・・。
旧陳列館に展示物がまだ置いてあるかも知れないので
先に行って見る事にした
引越し済みだった -
また、しょうもないモニュメントを建てていた
そのままの状態こそ価値があるとは思えないのか?
何といってもこれが金蔓なのでどうしようもない
共産党の腐り切った体質は自ら治しようがないだろう
崩壊を待つ -
巨大な陳列館がもうすぐオープンするのだろう
これも愛国主義教育基地の事業の一つだ
あきれて開いた口が塞がらない -
-
日本vsソ連の戦いで、日本の負け戦を強調したいってこと?
ホンマ情けない根性には笑うしかないけど -
日本軍兵士の遺品
この一つ一つに物語あり
故国の土を生きて踏めずも魂は未来永劫日本人の心に宿り
将来、日本の国が危急存亡の時には、日本人足るれば必ず後に続く
それは諾門罕で戦い散った先人たちがいたという歴史があるからだ -
戦場に残った鉄兜
合掌す -
戦場に焼け焦げた雑誌
-
これで戦車に立ち向かった
そして敵戦車を炎上させた
そんな日本軍人が数多くいたのは事実であり
その事実こそが子々孫々への何にも換え難い宝なのだ -
諾門罕の戦場を見る
前に並んでいるのは砲弾
兵どもの戦跡 -
これよりハルハ河、ホルステン河を見るため国境に近づく
その前に、地元ガイドに国境警備隊の許可を取ってもらう
その地元ガイドを迎えに来た -
媚中恥知らずな「平山郁夫」が寄贈したという小学校跡
1999年〜2003年、わずか4年で廃校になり
その後、戦争陳列館として一時期使われたが今は廃屋である
つまらぬ奴のつまらぬ偽善の成れの果てには相応しいのかも
右の方に停まっている車は私が乗っている専用車と同行の三人 -
以前は「平山郁夫」という名前の書いた看板もあったそうだが
今は何もなく、当の平山は廃校を知っているのか?
媚中は勝手だが先人を辱め貶めることは万死に値する -
国境警備隊基地
車で近づいたら軍用犬がデカイ声で並走しながら吼えて威嚇してきた
思わずドアロックを確かめる、めちゃ迫力ある
こんな犬に追いかけれたら恐怖だなあ
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■2時16分:ハルハ河を確認する
いよいよ国境警備の基地へ
こんなにも延々と広がり続く大草原の一角に、こんな駐屯地だけで警備して足りるのだろうか?望遠鏡のようなもので監視が可能なのか?良く分からないが、草原だけに遥か遠くまで一望が可能なのかも・・・・。
その場所に近づいたら一匹のドデカイ軍用犬が車に沿って腹の底からの大きな声で吼えながら並走してきた。思わずドアの取っ手に手をやり閉まっていることを確認する。ビビッてしまう。犬の種類は分からないけど迫力はある。
並走する写真を写したかったけどガイドの成吉思も気を使うのか?ホントに厳しいのか?近づいてから「写真は駄目ですよ」と念を押されてしまった。駐屯地の玄関附近に行った時に一人の兵士が向こうから寄って来た。山丹も犬が吼えるので車から出られず、ドアを半分開けて体を乗り出し要件を言っていた。
そしてその兵士がまた建物の中に入り数分間待った。そして上司のOKが出たようで、私たちは基地の前を通り過ぎ国境方向に走った。そんなに遠くないところに監視塔があった。それは星亮一(著)「遥かなるノモンハン」の中にあった写真と同じ監視塔だった。
2時33分:ハルハ河を見る
高所恐怖症である私だが、一目散に登って行った。白布仁もここは初めてのようで「こんな所から見えないでしょう・・・」と言っていたが二段ほど昇ったところで「あっ見えましたね」と驚いていた。私も本の中に「三段目から見えた」と書いてあったので取りあえず三段目まで昇った。
確かにモンゴルとの国境方向に河らしきものの流れが見えた。でも、それが案外近いように見えたので、ハルハ河なのか確信するには至らない。凄い蛇行している河なのか?それに小さなデジカメのズームで撮ったし、距離感も分からない。
そして成吉思が監視塔に登ることにビビッており、「向こうから監視されていますから、早く降りてくださいよ」と言うので落ち着いておれず、もっと上にも上がれなかった。仕方なくおりて行った。二段目ぐらいに鳥が巣を作っていたので跨いで降りる。もう玉子もなく鳥の姿はないが、巣がそのままあるということは国境警備の兵隊もここは使って居ないのだろう。
一番上まで上がるのは恐い高さだが、せっかくそこまで行ったのに、しっかり確認できなかったことが今も悔いが残る。その場所では河に見えたし、方向からもハルハ河だと思った。成吉思も迷わず「見えました」と言った。でも写真で見ると・・・写真写りが悪いので今一自信がなくなったしまったのだ。
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2008.平成20年6月20日(金)
■ハルハ河ではなかった
ノモンハンで国境監視塔に登ってハルハ河だと思って見たのは、蛇行するハルハ河でなく国境手前の湖だった。
Google Earthで国境警備隊基地も監視塔も確認できた。そしてハルハ河方向にあった水は河ではなく湖のようなものだと言うのも確認できた。
監視塔の上まで登っていればきっと遠くを流れるハルハ河を見つけることが出来たと思う。今となっては仕方がないが、間違いが分かって良かった。Google Earthのお蔭だ。その向こうに、ちゃんとハルハ河は流れていた。
干上がったホルステン河も、ノモンハン村、アブダラ湖も、衛星画像で確認できた。凄いとしか言いようがない。 -
国境監視塔
国境に近づく許可を得て、監視塔方向に向かう
この塔の三段目まで駆け上がった -
蒙古国境近くの監視塔
三段目踊り場まで駆け上がった -
監視塔踊り場三段目からハルハ河を撮影す
デジカメのちゃちなズームでの写真である
こだわりのハルハ河だったけど
私としては、これがハルハ河だと言い切れぬ
この監視塔は国境まじかに立っていると思うけど
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2008.平成20年6月20日(金)
■ハルハ河ではなかった
ノモンハンで国境監視塔に登ってハルハ河だと思って見たのは、蛇行するハルハ河でなく国境手前の湖だった。
Google Earthで国境警備隊基地も監視塔も確認できた。そしてハルハ河方向にあった水は河ではなく湖のようなものだと言うのも確認できた。 -
午後2時33分、国境監視塔3階より撮影する
国境附近を蛇行して流れるハルハ河
監視塔に登って現場で見た時は迷いなくハルハ河だと思った
ハルハ河を知っているガイドの成吉思も一緒に上り
「あっ見えましたね・・・」と言った
でも帰国後写真を見て不安になった
もっと上に上って蛇行の先を見とけば良かったと悔いる
私はハルハ河を知らず。
残念だが世にこれがハルハ河だと言い切る確証を有しない。
遠望小高い丘陵は「ハラ高地」「コマツ台」の方だと思う
塔の上で見た時、迷いはなかったのは確かだ・・・けど、今は自信がない
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2008.平成20年6月20日(金)
■ハルハ河ではなかった
ノモンハンで国境監視塔に登ってハルハ河だと思って見たのは、蛇行するハルハ河でなく国境手前の湖だった。
Google Earthで国境警備隊基地も監視塔も確認できた。そしてハルハ河方向にあった水は河ではなく湖のようなものだと言うのも確認できた。
監視塔の上まで登っていればきっと遠くを流れるハルハ河を見つけることが出来たと思う。今となっては仕方がないが、間違いが分かって良かった。Google Earthのお蔭だ。その向こうに、ちゃんとハルハ河は流れていた。
干上がったホルステン河も、ノモンハン村、アブダラ湖も、衛星画像で確認できた。凄いとしか言いようがない。 -
塔の上から乗ってきた車を写す
遠望に諾門罕村、そして右側にアブダラ湖が見える -
監視塔二段目附近に鳥の巣があった
玉子もヒナもなく、巣立った後か?
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