2008/03/09 - 2008/03/12
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MechaGodzillaⅢ&703さん
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<<九州縦断2200Kmの車旅>>
■中津城天守閣
中津城は1587(天正15)年、九州を平定した豊臣秀吉に豊前六郡を与えられた黒田官兵衛(如水)が、その本拠として築城を開始したのが始まり。
周防灘と山国川の河口デルタを利用した天然の要害を目指しますが、在地勢力の反発や文禄・慶長の役などによって築城工事は進まず、関ヶ原の戦いで功績が評価された黒田官兵衛・長政親子は筑前52万石に大抜擢され、中津の地を去りました。
続いて中津を領有したのは細川忠興でしたが、翌年に小倉城を本拠とします。
そのため、嫡男の忠利が中津城主となり中津城の工事を開始。もっとも、1604(慶長9)年に忠興は隠居し、中津城へ戻ってきたため、中津城は忠興の手によって三の丸増築など、中津城の大改修工事を実施されました。
これによって、22基の櫓を備える壮大な規模となりましたが、天守閣は築城されませんでした。
その後、細川忠利が肥後熊本へ転封となったことから、中津はしばらく小笠原氏の領有が続いた後、1717(享保2)年に奥平昌成が入封すると、以後は明治維新まで奥平氏によって領有されます。
城内には、衣装、刀剣、陣道具、古絵図、古文書など興味深い資料が展示され、一般に公開されています。
【巡航県経路】
広島→山口→福岡→大分→宮崎→熊本→鹿児島→宮崎→熊本→大分→福岡→山口→広島
3月9日:早朝5時20分旅立。
3月12日:深夜11時20分帰宅。
3泊4日:車中泊2日・Bホテル1泊。
総走行距離数:車移動2197Km。
今回の訪問観光地:40箇所くらいでしょうか。
写真枚数:1207枚。
「手記」
55歳、かってのように平気で長距離走…って訳にはいかなくなっております。
1日500キロ走行の運転疲れのみならず、行った先々で歩く歩くの連続、ほんとチカレました。
古いアルバムを捲って…おもいで探しのひとり旅です。
※旅行記を仕上げるのも相当疲れそうです・・・σ(^_^;)アセアセ...
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 自家用車
-
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
<中津城本丸>
http://4travel.jp/traveler/godzilla/album/10224882/
●天守閣
天正15年(1587)豊臣秀吉による九州征伐の軍功により豊前16万石を与えられた黒田官兵衛孝高(如水)は、翌天正16年(1588)に中津城の築城に着手した。
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大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦での黒田長政(黒田孝高の嫡子)の軍功により、黒田孝高父子は筑前52万3千石の太守となる。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
替わって、同じく関ケ原の合戦の軍功により、丹後田辺から細川忠興が豊前一国と豊後二郡32万石を与えられて中津城主となると、城の大修築を行なった。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
しかし、細川忠興は中津城では領国支配に不便なため、慶長7年(1602)から小倉城の築城にとりかかり、小倉城の完成とともに小倉城に居城を移すが、その後、細川忠興は隠居して三斉と号し、嫡男の忠利に家督を継がせ、自らは中津城を隠居城とした。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
寛永9年(1632)熊本城主の加藤忠広(加藤清正の子)が改易になると、細川忠利が肥後熊本へ転封となり、それにともなって隠居の身であった細川忠興も肥後八代城に移った。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
同年、細川氏に替わって播州龍野から小笠原長次が8万石で中津城主となるが、享保2年(1717)小笠原氏五代藩主長邑(ながさと)が9歳の若さで亡くなったため、小笠原氏は断絶。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
小笠原氏の後、丹後宮津から奥平昌成が10万石で入封。以後、中津城は奥平氏9代の居城として明治維新を迎える。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
中津城は加藤清正、藤堂高虎とともに築城の名手といわれた黒田官兵衛孝高が心血を注いで築いた城である。
山国川を天然の水堀とし、デルタ状の三角形の地域を城地として築かれた要害堅固な城であった。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
「双葉山」
双葉山(1912年2月9日−1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現在の宇佐市下庄)出身の力士。 第35代横綱。身長179cm、体重130kg。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
「双葉山」
本場所での通算69連勝、優勝12回、全勝8回などを記録。年2場所の時代の力士であるがその数々の大記録は未だに破られていないものも多い。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
中津市内の寺町や鷹匠町などの界隈には土塀や白壁、格子戸など江戸時代の城下町の名残りを留める町並みが一部残っている。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
黒田孝高が築いた中津城は方形の縄張りであったが、細川忠興が山国川河口に向かって扇形に拡張したため、別名「扇城」とも呼ばれるようになった。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
「長篠の戦い絵図」
長篠の戦いは、1575年6月29日、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万5,000と武田勝頼軍1万5,000との間で行われた戦い。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
「長篠の戦い絵図」
徳川氏に属する奥三河の長篠城が武田軍に包囲され陥落寸前となったため、家康が織田軍の援軍を要請。
長篠城西方の設楽原(したらがはら)にて野戦が行われ、織田・徳川連合軍側の勝利に終わった。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
「長篠の戦い絵図」
戦国時代初期の奥平貞昌は同名の曽祖父。)は父・貞能と共に、武田信玄存命中は武田氏に属していた。
だが、1573年の信玄病死に確信を深め、同年内に家康の誘いを受けて徳川方に寝返った。
そればかりか、家康は手に入れたばかりの長篠城に貞昌を配し、武田軍への矢面に立たせていた。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
「長篠城攻城戦」
これに激怒した勝頼は2年後の1575年4月、1万5,000と号する大軍を率いて長篠城に押し寄せた。
長篠城を守るのは貞昌以下の500余りでしかなかったが、貞昌以下の城兵はよく戦い、武田軍を苦しめた。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
「前野 良沢」
前野 良沢(まえのりょうたく1723年-1803年)は、豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者。『解体新書』の主幹翻訳者の一人。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
留学中に手に入れた西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』を杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周ら盟友と3年5ヶ月で翻訳し『解体新書』を編纂した。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
しかし、解体新書発行当時、その業績は知られておらず(発行時に名を出したのは杉田玄白他数名)その存在が知られるのは解体新書の翻訳作業の困難を記した杉田玄白の『蘭東事始(蘭学事始)』を待たねばならなかった。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
良沢が解体新書に自らの名を出さなかったのは、その翻訳の不備(当時の日本の語学水準からすれば、その翻訳は奇跡に近い完成度を誇っていた)を自らがよく解っており、これを恥として許すことができなかったためと言われている、 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
また一説としては、蘭学に対する幕府の対応が微妙でもあったため、万が一の際に、最も蘭語に通ずる良沢に咎が及ぶのを避けるためと、前説の訳の不備に対する良沢の気持ちを杉田が酌み取ったためともされている。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
その後、蘭学に対する真摯な姿勢より、藩主奥平昌鹿より「蘭学の化け物」と賞賛され、これを誉とし「蘭化」と号する。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
城内には、衣装、刀剣、陣道具、古絵図、古文書など興味深い資料が展示され、一般に公開されています。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
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大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
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大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
かつて城下町として栄えた名残が、随所に残っています。
中津市内の金谷町や仲間町、寺町、そして鷹匠町などに土塀や白壁、格子戸などが残り、往時の様子をほのかにうかがわせています。 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
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大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
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大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
山国川 -
大分県中津市<中津城天守閣〜その2>
山国川
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