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佃島(つくだじま)は1590年に徳川家康(とくがわいえやす1542−1616年)が豊臣秀吉(1537−1598年)の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7カ国に移封され関東下降の折、摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁民34名を呼び寄せたことにさかのぼる歴史を持っている。漁民たちは1644年に現在地を埋め立て移住、故郷にちなんで佃島と名づけた。北海道には移住した人たちの街「広島」があったが、東京の街に地方の名前が着けられているのは珍しいのではないだろうか。<br />佃村民と家康の出会いは1586年、住吉大社(大阪市住吉区)参拝の後、多田神社(兵庫県川西市)へ向かう家康一行の神崎川船渡しを佃村、大和田村漁民が協力したことが最初だと言われる。その際家康は「漁業も大事だが、人はまず田で働け」と言ったことから、にんべんに田をつけた「佃」に村の名前をあらためたという言い伝えがあるそうだが定かではない。<br />1586年は豊臣秀吉が臣従を拒む家康に妹の朝日姫を正室として差し出し、さらに生母・大政所まで人質として岡崎城に差し出し、ようやく家康を大坂城に出仕させ無理やり臣従を誓わせた年だ。大坂を歩いたしたたかな家康は秀吉の支配下であったはずの漁民まで懐柔したのだろうか。家康は表面では秀吉の忠臣を誓いながら、豊臣側の武士も大衆も自分の味方につける努力を常にしていたのだろう。<br />この縁で佃、大和田漁民は家康を信奉し、1590年に34名が江戸に移住して海・川での漁業権を与えられ江戸城に魚を納めた。秀吉の死後、家康が秀頼(1593−1615年)を攻め豊臣家を滅亡に追い込んだ大坂の役(おおざかのえき1614−1615年の大坂冬の陣と大坂夏の陣)では佃漁民は徳川方に味方し、武器運搬、船や食料の調達支援も行っている。<br />江戸に移住した佃、大和田漁民は当初、安藤対馬守(あんどう・つしまのかみ)の屋敷内で暮らしていたが1644年には幕府から与えられた隅田川河口の干潟を埋め立て移り住み、ふるさとの村にちなんで佃島と名付けた。佃の漁民は漁業のかたわら魚と昆布を醤油で煮こんだ佃煮を生み出し、現在も日本全国で重宝されている。<br />佃島一帯では近年中南米・ハワイなどに移住して苦労された人たちと同様に、大坂から移住して苦労したであろう人たちの子孫が、ふるさと・大阪とは全く違う江戸下町情緒を創りだしてたくましく生きていた。<br />(写真は佃島の光景、後方はリバーシティ21)<br />

日本の旅 東京を歩く 大坂からの移住漁民が築いた街・佃島

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2007/11/14 - 2007/11/17

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さすらいおじさん

さすらいおじさんさん

佃島(つくだじま)は1590年に徳川家康(とくがわいえやす1542−1616年)が豊臣秀吉(1537−1598年)の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7カ国に移封され関東下降の折、摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁民34名を呼び寄せたことにさかのぼる歴史を持っている。漁民たちは1644年に現在地を埋め立て移住、故郷にちなんで佃島と名づけた。北海道には移住した人たちの街「広島」があったが、東京の街に地方の名前が着けられているのは珍しいのではないだろうか。
佃村民と家康の出会いは1586年、住吉大社(大阪市住吉区)参拝の後、多田神社(兵庫県川西市)へ向かう家康一行の神崎川船渡しを佃村、大和田村漁民が協力したことが最初だと言われる。その際家康は「漁業も大事だが、人はまず田で働け」と言ったことから、にんべんに田をつけた「佃」に村の名前をあらためたという言い伝えがあるそうだが定かではない。
1586年は豊臣秀吉が臣従を拒む家康に妹の朝日姫を正室として差し出し、さらに生母・大政所まで人質として岡崎城に差し出し、ようやく家康を大坂城に出仕させ無理やり臣従を誓わせた年だ。大坂を歩いたしたたかな家康は秀吉の支配下であったはずの漁民まで懐柔したのだろうか。家康は表面では秀吉の忠臣を誓いながら、豊臣側の武士も大衆も自分の味方につける努力を常にしていたのだろう。
この縁で佃、大和田漁民は家康を信奉し、1590年に34名が江戸に移住して海・川での漁業権を与えられ江戸城に魚を納めた。秀吉の死後、家康が秀頼(1593−1615年)を攻め豊臣家を滅亡に追い込んだ大坂の役(おおざかのえき1614−1615年の大坂冬の陣と大坂夏の陣)では佃漁民は徳川方に味方し、武器運搬、船や食料の調達支援も行っている。
江戸に移住した佃、大和田漁民は当初、安藤対馬守(あんどう・つしまのかみ)の屋敷内で暮らしていたが1644年には幕府から与えられた隅田川河口の干潟を埋め立て移り住み、ふるさとの村にちなんで佃島と名付けた。佃の漁民は漁業のかたわら魚と昆布を醤油で煮こんだ佃煮を生み出し、現在も日本全国で重宝されている。
佃島一帯では近年中南米・ハワイなどに移住して苦労された人たちと同様に、大坂から移住して苦労したであろう人たちの子孫が、ふるさと・大阪とは全く違う江戸下町情緒を創りだしてたくましく生きていた。
(写真は佃島の光景、後方はリバーシティ21)

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  • 佃橋。<br />

    佃橋。

  • 佃島の光景。<br />

    佃島の光景。

  • 佃島の光景。<br />

    佃島の光景。

  • 佃島の光景。<br />

    佃島の光景。

  • 1798年の埋め立て時の柱が残る佃住吉講。<br />

    1798年の埋め立て時の柱が残る佃住吉講。

  • 佃公園の光景。<br />

    佃公園の光景。

  • 佃公園の光景。<br />

    佃公園の光景。

  • 佃公園の光景。<br />

    佃公園の光景。

  • 佃公園の光景。<br />

    佃公園の光景。

  • 佃公園から見る隅田川沿いの光景。<br />

    佃公園から見る隅田川沿いの光景。

  • 下町らしい佃島の街並み。<br />

    下町らしい佃島の街並み。

  • 下町らしい佃島の街並み。<br />

    下町らしい佃島の街並み。

  • 下町らしい佃島の街並み。<br />

    下町らしい佃島の街並み。

  • 軒を連ねる佃煮の老舗。<br />

    軒を連ねる佃煮の老舗。

  • 佃大橋から見る光景。<br />佃公園にある「石川島の灯台」がビルの間にちいさく見える。江戸時代に佃公園近くには無宿人の更正を目的とした施設・人足寄場が火付盗賊改方長官・長谷川平蔵(1746−1795年)の松平定信(1759−1829年)への提唱のもとに設置されていた。「石川島の灯台」は、1866年に石川島人足寄場奉行清水純畸(しみずじゅんき)が隅田川や品川沖航行の船舶のために築かせたものを佃公園にモニュメントとして再建したそうだ。<br /><br /><br />

    佃大橋から見る光景。
    佃公園にある「石川島の灯台」がビルの間にちいさく見える。江戸時代に佃公園近くには無宿人の更正を目的とした施設・人足寄場が火付盗賊改方長官・長谷川平蔵(1746−1795年)の松平定信(1759−1829年)への提唱のもとに設置されていた。「石川島の灯台」は、1866年に石川島人足寄場奉行清水純畸(しみずじゅんき)が隅田川や品川沖航行の船舶のために築かせたものを佃公園にモニュメントとして再建したそうだ。


  • 佃大橋から見る光景。<br /><br />

    佃大橋から見る光景。

  • 佃大橋から見る光景。<br /><br />

    佃大橋から見る光景。

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