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 忠臣蔵(ちゅうしんぐら)は、元禄赤穂事件を題材にした創作作品で歌舞伎・人形浄瑠璃・演劇・映画など幅広い分野で演じられている、日本人の心に最もアピールする作品のひとつだろう。<br />江戸時代・元禄14年2月4日(1701年3月3日)、江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ ながのり1667−1701年)が高家肝煎・吉良上野介義央(こうけきもいり・きらこうずけのすけよしひさ1641−1703年)に切りつけた刃傷沙汰に対し、5代将軍徳川綱吉(とくがわ つなよし、1646−1709年)は激怒し浅野は即日切腹、赤穂浅野家は断絶、吉良は一切おとがめなしとの沙汰を下した。幕府が事件の背景を良く調べることも無く、喧嘩両成敗の武家の定法を守らなかったことを不満とする大石内蔵助・良雄(おおいしくらのすけ・よしお1659−1703年)以下赤穂藩の旧藩士47人は元禄15年12月14日(1703年1月30日)に本所・吉良邸へ討ち入り、主君のあだを討って本懐を遂げた。幕府は吉良を討ち取ったことを国もとの関係者らに連絡するために隊を離れた寺坂吉右衛門信行 (てらさかきちえもんのぶゆき)を除く46人の赤穂浪士を主君の菩提寺・泉岳寺から仙石伯耆守(せんごくほうきのかみひさなお)の屋敷に移したのち、細川越中守(ほそかわえっちゅうのかみ、17名).、松平隠岐守(まつだいらおきのかみ、10名)、毛利甲斐守(もうりかいのかみ、10名)、水野監物(みずのけんもつ、9名)、の4大名家に預けた。<br />世間は赤穂浪士を忠義の士として賞賛、学界でも儒学者・林 鳳岡(はやし ほうこう1645−1732年)や室鳩巣(むろきゅうそう1658−1734年)は義挙として助命を主張したが荻生徂徠(おぎゅう そらい、1666−1728年)は、江戸時代は天下の法を曲げる事はできないとして、武士の体面を重んじた切腹を主張。<br />悩んだ将軍徳川綱吉(とくがわ つなよし、1646−1709年)は後西天皇(ごさい てんのう、1638−1685年)の第6皇子で天台宗座主の公辨法親王(こうべんほっしんのう、1669−1716年)に恩赦を出すことをそれとなく促すが「赤穂浪士を助命して堕落者がでたら義挙が暴挙に成り下がる。死を与えれば、後世まで義挙として語り継がれる。死を与える事も情けだ。」と返答され綱吉は赤穂浪士へ切腹を命じたと言われている。<br />元禄16年2月4日(1704年3月20日)、46人は4大名家で切腹、遺骸は主君浅野内匠頭長矩と同じ泉岳寺に埋葬された。<br />同時に幕府評定所の仙石伯耆守久尚は吉良家当主の吉良義周きら よしちか)に吉良家改易と義周の信州諏訪藩高島への配流の処分を下しようやく喧嘩両成敗の武家の定法を守った。<br />宝永6年1月(1709年2月)には将軍家宣は恩赦が出し赤穂浪士の遺子たちは放免、浅野大学は赦免、500石の旗本となり、正徳3年(1713年)には内蔵助の三男・大三郎が広島の浅野宗家に1500石で召抱えられ地位を回復している。<br />時代とともに赤穂浪士の評価は高まり義士の名を不動のものとした。もし赤穂浪士が助命されていたなら、300年以上の期間これほど賞賛されることは無かっただろうし、公弁法親王の「赤穂浪士を助命して堕落者がでたら義挙が暴挙に成り下がる。死を与えれば、後世まで義挙として語り継がれる。死を与える事も情けだ」との言葉は的確なものだったと言える。<br />元禄赤穂事件は主君(日本国、天皇、家、企業、社会など)に殉ずること、責任を取った死(自殺、辞任など)は潔い、喧嘩両成敗にしないと遺恨を残す、などの日本人独特の教訓・思想を今に伝える歴史上重要な出来事のひとつだ。<br />東京には 元禄赤穂事件にまつわる場所が多いが、今回は刃傷事件の皇居東御苑の松の廊下跡、赤穂浪士が討ち入った両国の吉良邸跡、主君浅野内匠頭長矩とともに赤穂浪士46人が葬られている品川の泉岳寺を訪ね、世紀の大事件を考えてみた。<br />(写真は泉岳寺山門)<br /> 	<br />

日本の旅 東京を歩く 忠臣蔵ゆかりの地を訪ねる

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2007/11/14 - 2007/11/17

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さすらいおじさん

さすらいおじさんさん

忠臣蔵(ちゅうしんぐら)は、元禄赤穂事件を題材にした創作作品で歌舞伎・人形浄瑠璃・演劇・映画など幅広い分野で演じられている、日本人の心に最もアピールする作品のひとつだろう。
江戸時代・元禄14年2月4日(1701年3月3日)、江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ ながのり1667−1701年)が高家肝煎・吉良上野介義央(こうけきもいり・きらこうずけのすけよしひさ1641−1703年)に切りつけた刃傷沙汰に対し、5代将軍徳川綱吉(とくがわ つなよし、1646−1709年)は激怒し浅野は即日切腹、赤穂浅野家は断絶、吉良は一切おとがめなしとの沙汰を下した。幕府が事件の背景を良く調べることも無く、喧嘩両成敗の武家の定法を守らなかったことを不満とする大石内蔵助・良雄(おおいしくらのすけ・よしお1659−1703年)以下赤穂藩の旧藩士47人は元禄15年12月14日(1703年1月30日)に本所・吉良邸へ討ち入り、主君のあだを討って本懐を遂げた。幕府は吉良を討ち取ったことを国もとの関係者らに連絡するために隊を離れた寺坂吉右衛門信行 (てらさかきちえもんのぶゆき)を除く46人の赤穂浪士を主君の菩提寺・泉岳寺から仙石伯耆守(せんごくほうきのかみひさなお)の屋敷に移したのち、細川越中守(ほそかわえっちゅうのかみ、17名).、松平隠岐守(まつだいらおきのかみ、10名)、毛利甲斐守(もうりかいのかみ、10名)、水野監物(みずのけんもつ、9名)、の4大名家に預けた。
世間は赤穂浪士を忠義の士として賞賛、学界でも儒学者・林 鳳岡(はやし ほうこう1645−1732年)や室鳩巣(むろきゅうそう1658−1734年)は義挙として助命を主張したが荻生徂徠(おぎゅう そらい、1666−1728年)は、江戸時代は天下の法を曲げる事はできないとして、武士の体面を重んじた切腹を主張。
悩んだ将軍徳川綱吉(とくがわ つなよし、1646−1709年)は後西天皇(ごさい てんのう、1638−1685年)の第6皇子で天台宗座主の公辨法親王(こうべんほっしんのう、1669−1716年)に恩赦を出すことをそれとなく促すが「赤穂浪士を助命して堕落者がでたら義挙が暴挙に成り下がる。死を与えれば、後世まで義挙として語り継がれる。死を与える事も情けだ。」と返答され綱吉は赤穂浪士へ切腹を命じたと言われている。
元禄16年2月4日(1704年3月20日)、46人は4大名家で切腹、遺骸は主君浅野内匠頭長矩と同じ泉岳寺に埋葬された。
同時に幕府評定所の仙石伯耆守久尚は吉良家当主の吉良義周きら よしちか)に吉良家改易と義周の信州諏訪藩高島への配流の処分を下しようやく喧嘩両成敗の武家の定法を守った。
宝永6年1月(1709年2月)には将軍家宣は恩赦が出し赤穂浪士の遺子たちは放免、浅野大学は赦免、500石の旗本となり、正徳3年(1713年)には内蔵助の三男・大三郎が広島の浅野宗家に1500石で召抱えられ地位を回復している。
時代とともに赤穂浪士の評価は高まり義士の名を不動のものとした。もし赤穂浪士が助命されていたなら、300年以上の期間これほど賞賛されることは無かっただろうし、公弁法親王の「赤穂浪士を助命して堕落者がでたら義挙が暴挙に成り下がる。死を与えれば、後世まで義挙として語り継がれる。死を与える事も情けだ」との言葉は的確なものだったと言える。
元禄赤穂事件は主君(日本国、天皇、家、企業、社会など)に殉ずること、責任を取った死(自殺、辞任など)は潔い、喧嘩両成敗にしないと遺恨を残す、などの日本人独特の教訓・思想を今に伝える歴史上重要な出来事のひとつだ。
東京には 元禄赤穂事件にまつわる場所が多いが、今回は刃傷事件の皇居東御苑の松の廊下跡、赤穂浪士が討ち入った両国の吉良邸跡、主君浅野内匠頭長矩とともに赤穂浪士46人が葬られている品川の泉岳寺を訪ね、世紀の大事件を考えてみた。
(写真は泉岳寺山門)

  • 刃傷事件があった皇居東御苑の松の廊下跡。<br />

    刃傷事件があった皇居東御苑の松の廊下跡。

  • 刃傷事件があった皇居東御苑の松の廊下跡。<br />

    刃傷事件があった皇居東御苑の松の廊下跡。

  • 松の廊下跡の説明板。<br />

    松の廊下跡の説明板。

  • 522、 松の廊下跡の場所を示す説明板。<br />

    522、 松の廊下跡の場所を示す説明板。

  • 江戸城天主台跡。<br />

    江戸城天主台跡。

  • 本所松坂町跡の碑。<br />

    本所松坂町跡の碑。

  • 吉良邸跡の碑。<br />

    吉良邸跡の碑。

  • 吉良邸跡。<br />

    吉良邸跡。

  • 吉良邸跡。<br />

    吉良邸跡。

  • 吉良邸跡にある刃傷事件の松の廊下の絵。<br /><br />

    吉良邸跡にある刃傷事件の松の廊下の絵。

  • 泉岳寺の大石内蔵助像。<br />

    泉岳寺の大石内蔵助像。

  • 泉岳寺。<br />

    泉岳寺。

  • 吉良上野介の首を洗ったと言われる井戸。<br />

    吉良上野介の首を洗ったと言われる井戸。

  • 浅野内匠頭長矩が田村邸で切腹したときの血染めの石。<br />

    浅野内匠頭長矩が田村邸で切腹したときの血染めの石。

  • 吉良上野介の首を洗ったと言われる井戸。<br />

    吉良上野介の首を洗ったと言われる井戸。

  • 赤穂義士の墓所の碑。<br />

    赤穂義士の墓所の碑。

  • 赤穂義士の墓の場所の説明板。<br />

    赤穂義士の墓の場所の説明板。

  • 浅野内匠頭長矩の墓。<br />

    浅野内匠頭長矩の墓。

  • 大石内蔵助の墓。<br />

    大石内蔵助の墓。

  • 義士の墓。<br />

    義士の墓。

  • 堀部安兵衛の墓。<br />

    堀部安兵衛の墓。

  • 赤穂義士墓所門。<br />

    赤穂義士墓所門。

  • 地下鉄泉岳寺駅にある赤穂浪士の名板。<br />

    地下鉄泉岳寺駅にある赤穂浪士の名板。

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